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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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50 それぞれの戦禍

 諏訪頼継、逆心。

 矢島満清他の諏訪衆もこれに同心。

 衝撃は瞬く間に甲斐に激震をもたらした。

 先の戦勝が水泡に帰す情報だったからだ。


 先代信虎の時代には度々佐久へと出兵していた。しかし勝ったその年は良いものの、数年すると山向こうの相手に従えるかと反乱を起こされるのが常だった。


 今、それと同じ事が今度は諏訪で、しかも二ヶ月かそこらで起きようとしているのか。それは事実を遙かに超えて甲斐に衝撃と混乱をもたらした。

 

 先の勝利と恩賞に浮かれ、家人に景気よく祝いを振る舞って軍事動員を解除していたこともあった。武田は、まず平時から戦時へと体制を戻すことから始めねばならなかった。


 戦国時代といえど、戦闘要員の武士より生産に従事する百姓の方が圧倒的に数は多い。それゆえ合戦時には補助戦力ないし後方要員として百姓も動員される。


 しかし今の季節は田畑に秋の実りを約束させるために手入れの欠かせぬ夏である。ここでの軍事動員は秋の収穫低下となって確実に跳ね返ってくる。


 しかしそれでも、武田は動員に踏み切った。折角手に入れた領土を守らなければならないこともある。しかしそれ以上に代替わりにより悪循環を断ち切ったと示す必要があった。


 戦国大名といえども民心を無視しては政治は出来ない。いや、むしろ民の心が離れては戦の出来ない戦国時代こそ、支配階級が民心に注意を払った時代とも言える。


 動員に手間取る武田側であったが、首脳陣はそれを逆手にとって一計を案じた。人の城を攻めるは下策、人の心を攻めるは上策という。


 心を攻める策、諏訪の民衆へ武田方の大義名分を示す鬼手を講じようとしていた。一旦帰郷した兵どもが集まるまでの時間をその準備に当てていた。


 一方、諏訪を制圧した頼継は流石に自身と諏訪西方衆だけでは分が悪いと察したか、同じく上伊那に勢力を張る福与城の藤沢頼親の支援を得ることに成功していた。


 藤沢頼親は諏訪氏の分流でその妻は筑摩郡を領有する信濃守護小笠原長時の妹である。頼継には親戚筋に当たり、妻の実家から更なる援軍も期待できる相手である。


 万一頼継が上伊那に筑摩と諏訪の勢力を結集させるとその石高は十五万石に届こうとする。二十万石の武田に比肩しうる一大勢力の誕生となる。


 ならばこそ、小火の内にこの反乱の火種を消し止める為にも、武田はその連合が足並みを揃える前に傍目にも明らかな勝利を手にする必要があった。


 正面からぶつかり、がっぷり四つに組んで寄り切って勝つのでは無い。大人と子供ほどの力の差を示して勝たなければならないのであった。


 一度勝利者の側に回った者は、その評判と評価を守るために勝利者の側に居続けなければならない。戦に勝つことが、却ってその手足を縛ることにもなっていた。


 そして躑躅ヶ崎館の奥まった一室では、武田家が勝利者の側で居続けるための談合が行われていた。周囲を何重にも厳重に警護された中での事だ。


 参加している面々は内外に名の知れた名実共に武田の柱石たる顔ぶれである。板垣駿河守、甘利備前守、飯富兵部少輔、小山田出羽守、穴山伊豆守など。


 誰しも単独で百を超える兵を擁する大身の古強者である。動員兵力は保有軍事力であり、権力であり存在感であり発言力でもある。それゆえ領地の大小は死活問題である。


 この場に右筆として存在を許された駒井高白斎は冷や汗をかいていた。吏僚としても武将としても一廉の人物であり当主側近でもあったが、この場では黒子に過ぎなかった。


 今回の議題は勿論諏訪頼継への対策である。だがその風向きは甲斐の町中のそれとは随分と違う物だった。

「頼継は餌に食いついたか」


「うむ、まずは読み通り」

「大人しく諏訪西半分で満足しておれば当面は安泰であったものを」

「だが、これで攻める口実が出来た」


 武田家中では中堅の上位に入る駒井の背筋を冷や汗が伝う。これではまるでーー 

「こちらから攻めるとなれば相応の大義名分が要るが、向こうから来たのだ」


「うむ、存分に返り討ちにしてやり、諏訪の西半分と上伊那も頂くとするか」

「その意味では藤沢頼親を引き込んでくれたのは大手柄じゃな」 


 震えそうになる手を意思の力で押さえつけ談合の内容を紙にとどめる。それが駒井のこの場にいる意味だった。駒井の内心を余所に会話は続けられる。


「しかし、人の欲とは怖ろしい物よ。領土が五割増え事実上の惣領になったというのにまだ満足できず破滅を呼び込むとは」

 会話の流れが変わり、駒井の身も強張った。

「何を言う。諏訪惣領と諏訪大社大祝の地位を敢えて空席にしておけば、名誉欲に駆られた頼継は辛抱できぬだろうとの策を立てたは、お主では無いか」


「さて、どうだったかの」

 とぼけた声に茶を啜る音が続いた。

 駒井は一瞬、この会話を市中に喧伝したらどうなるかと益体も無いことを考えた。


 無論、出来るはずも無い。同時に万一妻子を人質に取られてもそうしたことをしないとの信用があるからこそこの場に存在を許されていると知っていた。


 しかし、と駒井は内心舌を巻く。知ってはいたが改めて耳にするとその策の凄まじさがよく分かる。圧勝に終わった先の諏訪攻め、それは本命の前段階に過ぎなかったのだ。


 単独でも勝てる相手であるにも関わらずわざわざ諏訪西半分を条件に頼継を味方に引き込んだのは、敢えて裏切らせてその領土へ攻め込む口実を得るためだったのだ。


 それは諏訪の完全制圧からその南の上伊那への進軍を可能にし、あるいは塩尻峠を越え北上し筑摩までその手を伸ばす契機になり得る、誠に遠大な策だった。


 そして、場面は再び変わる。戦争が始まり、双方の指導者が今後の方針を定め行動に移っていても、人としての営みは相変わらず続いている。


 宿を引き払い官舎暮らしになった白樺家もそれは例外ではない。三食食べるし睡眠も取る。それにその他色々と入り用の物もある。そこは自分たちで何とかする必要があった。


 玉藻は牛若と梅子を連れ買い出しに出ていた。米ではなく麦に粟や稗を加え、芋や野菜の葉でかさ増しした雑穀雑炊も材料の購入から始めねばならない。


 しかもこの時代は店舗では無く市での販売が主体となる。今日買い忘れたから明日買う、は通用しない。次の市は五日後か十日後、場合によっては一月後だ。


 今に伝わる三日市や廿日市などの地名は、市の開催頻度と、往事の繁栄の度合いをおぼろげながら今日の我々に教えてくれているのだ。


 そして、市が開けば人は集まる。その中には農民もいれば職人もいる。侍もいれば町人もいる。善人もいれば悪人もいる。白樺の名に含む所のある者も。


「あらあら、あれに見えるは今をときめく白樺殿のご内儀ですかしら」

 声をかけられたわけでは無いが、明らかに自分たちのことを話題にする一団があった。


 年は三十前だろうか、髪の結い方とそこそこ身ぎれいにしてそれぞれ供の者を従えていることから、どこぞの下級武士の奥方集団なのであろう。 


 中級ならば自分で買い物などしない。上級ならばそもそも市まで足を運ぶことさえ無い。横目でそれを確認すると、玉藻は会釈だけして通り過ぎようとした。


 集団はそれに何ら返すわけでも無く通りの真ん中で声高に会話を続けた。  

「宿暮らしに飽きたのか、最近は炊事にご興味が移られたようでしてよ」


 市の参加者の呼び込みの声にも負けない大きな声が通りに響いた。

「知行も頂けていない身で女を四人も五人も囲ってはそれは物入りでしょうから」


 牛若はむっと睨み、玉藻は素知らぬ顔で買い出しを続け、梅子はおろおろと二人を見た。「それでは足らず諏訪でも姫君に粉をかけようとしたとか、とんだ色狂いですこと」


 こちらをみて大声を上げ続ける集団に何か言い返そうと牛若が口を開きかけたその時、「さ、帰りますわよ牛若さん」

 そう言って玉藻は荷物を持たせ歩き出した。

 俺は不満です、と顔中に書きながらも渋々と牛若は背負った駕籠に荷物を入れ梅子と手を繋ぎ歩き出した。草履と下駄がすたすた、からころ、と規則正しい音を立てた。


 その日の夕食では牛若が大荒れであった。悪口を言われっぱなしで玉藻は一言も言い返さなかったと。それを聞き竜胆はよく耐えたなと玉藻を褒めた。


 いぶかしがる牛若に下手に喧嘩を買えば、それを口実に罰せられる場合もある。今は何が大事か考えて見ろ、と竜胆は諭し牛若はむすっと黙った。


 不満げな牛若に竜胆は更なる説明の必要を感じた。そいつらは多分諏訪攻めで手柄を立てられなかった連中の奥様方だろう、と。新参の女子供が手柄を立てて自分は手ぶらだ。


 上司、実家等の周囲から何と言われているか想像に難くない。つまりは逆恨みと嫉妬だ。そんな連中を一々相手にしていたらいつまで経ってもきりが無いぞ、と続けた。


 それに、と前置きして重々しく告げた。下手にそんな連中を相手にしたら、自分たちまで同程度の手合いと誤解されかねない。一度付いた悪評は取り返すのが大変なのだ。


 だから今回は玉藻の大人な対応が正解だったんだ、と締めくくった。牛若は面倒くさいなあ、とぼやきながら表情を緩め食事を再開した。


 そして竜胆は今度は玉藻の方へ向き直ると

「悪かった。少し待っててくれ。手柄を立てて出世したらそんな連中同じ空気も吸えなくなるからな。それで我慢してくれ」


 そう告げられた玉藻は細い目を薄く開いて「はい、かしこまりました。旦那様」

 と言い、その様に静は玉藻が内心相当に怒り狂っていたことを知った。


「そんな事より……」

 竜胆はおもむろに呟くと箸を置き、他の全員は居住まいを正した。

「何度も聞くが、雪に異常はないな」 


「毎日鴉で確認してるよ、兄貴も心配性だなあ」

 どこか呆れた牛若の物言い。そこにはあと一歩で奪還できるとの安堵があった。


 それを見て顔をしかめた竜胆は数度逡巡してから重苦しく口を開いた。

「史実だとな、禰々姫は心労その他で来年しぬんだが」


 一瞬、沈黙が場を支配した。そして、竜胆を覗く全員が、梅子や玉藻さえもも含め腹を抱え大爆笑した。それを見て流石の竜胆も気を悪くした。

 

「……俺は真面目に言っているんだが」

 目の端に涙さえ浮かべながら、玉藻が代表するように弁明した。

「考えてみてくださいまし、旦那様」


「あの雪さんが、旦那様との逢瀬を前にして亡くなる?死病でも自力で退けてくれるでしょうに」

「力を使えなくてもか?」

 

 これには一同が黙った。万が一もあり得ると、頭のどこかが警告を発してきたからだ。

「油断は禁物、急がないとな」

 そう締めくくった。


 翌日、竜胆の元へも陣触れ、つまりは動員がかかった。静と二人で参陣せよとの事であった。しかし教来石家の家人に伝えられた一言に頭を悩ませることとなった。


「此度の合戦では皆と歩調を揃えるように」 身体能力その他で常人と隔絶している竜胆と静にとってそれは、手枷足枷を嵌められるに等しい通達だった。


 周囲に味方はおらず、行動に制限はかけられ、時間制限もある中で相応の手柄を立て対価として雪の身柄を奪還する。中々の無理難題が、立ちはだかっていた。 

 暑いです。

梅雨の降水量から逆算すると、今年は渇水でしょうか。

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