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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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49 日常と火種

 八月の夏の風が首筋を撫でる。もっとも、そんな物で甲府盆地の暑苦しさはとても解消できるものでは無かったが。竜胆は苦笑しながら束ねられたうなじの髪を触った。


「随分伸びてきましたわね、旦那様」

 隣からくすりと笑いと共に声がかけられた。夕暮れも近い時刻、玉藻と二人写経からの帰り道を歩いていた。


 そして竜胆は先の玉藻の言葉を胸中で反芻していた。額面通り受け取るのは好手では無い。会話に裏の意味の一つや二つ隠すことでじゃれてくるのが玉藻だった。


 まずは自分たちがこちらの世界に来てからそれなりの時間が経っているという確認。続いて一定の生活基盤を手に入れる事に成功したとの評価、そこまでは良い。


 しかしはぐれた仲間である雪を発見は出来たものの合流には未だ至っていない事への非難、そしてこのままこちらの生活に染まりはしないかという懸念、こんな所だろうか。


 答え合わせをしようかと首を回すと目が合った。同時にあらあらと感心したような声を上げた。口元を隠さずに笑うのは本当に機嫌が良いときだ。竜胆は肩の力を抜いた。


「これで何冊書き写したんだったか」

「論語孟子に大学、いま中庸ですから今月中に四書は終わるでしょう。次は五経ですか」

「ん、その次も考えないとな」


 印刷技術の未発達なこの時代、書籍を手に入れる方法は借りて書き写す、が主な手段となる。どうしても手間暇がかかるため、本は高価な貴重品でもある。


 竜胆が本を手に入れようとする理由はいくつかある。定番本を読むことでこの時代の価値観に早く馴れるため。いずれ家臣を迎え入れた際の教育に使うため。


 加えて寺院という知識階級に顔を繋ぐため。文武両道の評判を手に入れるため。それになにより竜胆自身が活字中毒であるためと言う理由が大きい。


 最初は竜胆の思いつきだった写経に、玉藻はこう言って他の面々を説得し、副産物として写経当番の日は行き帰りに二人きりの時間を手に入れることに成功していた。


 それに説得中に気付いた静は礼儀正しくその言葉を受け入れ、後で気付いた牛若はずるいずるいと駄々をこね、梅子はただ黙って頷いた。竜胆は眠たげな目でそれを見ていた。


 三者三様の反応を示す中、玉藻はこの二人だけの時間を独占せず全員の輪番制とした。それは玉藻の優しさでもあり、また計算高さでもあった。


 一番信用できるのは共犯者である。利害関係の一致こそが確かな信頼を生む。生臭い話ではあるが、これも人の世の真実である。そしてそれが玉藻の役目であった。


 それ故、竜胆はこの玉藻との二人きり羽を伸ばす時間を貴重に思っていた。いくら役目でも、人の心の影の部分を意識し計算に組み込むのは自身の心も削れていくからだ。


 穏やかな目で玉藻を見つめながら竜胆は再び自身のうなじへと手をやった。伸ばしている髪が髷を結えるほどの長さになれば、元服式だ。夏の空に二羽の鶯が羽ばたいた。


 夕飯は例によって雑穀麦粥だ。この時代は寒冷化に伴う食糧難と、それが引き起こす食料争奪の戦乱の連鎖で荒廃していた。結果、食糧不足に拍車がかかり物価も上がる。


 特に山国甲斐は海が無いため生活必需品の塩を他国からの輸入に頼らなければならない。海辺で一升十文もしない塩が甲斐では百文近い時もあると言えば程度が伝わるか。


 結果として普段の食事は薄味な上に量も少ない二重の意味で物足りなくなる。牛若などは声高に不満を漏らし、静や時には玉藻や梅子さえも物足りなげな顔をするほどだ。 


 それでもまだ毎日食べられるだけましな方である。貧しい者は木の皮を剥いで雑草と煮込んで食べる事さえある。江戸時代の飢饉時には砂粥というものさえあったほどだ。


 それでも竜胆等が質量共に不十分とは言え三食きちんと食べられるのには理由がある。その答えはずばり、カネと暴力だ。身も蓋もないと言う無かれ。


 地獄の沙汰もカネ次第の言葉にもある通り、カネさえ積めばある程度の事は何とかなるのが人の世だ。そして竜胆は拠点から相当の金を持ち出し銭へと変えていた。


 そして仕官からこの方、竜胆と静の武力は武田家中で一定の評価を得た。不安定な時代ならばこそ、いざという時に備え腕っ節の強い者との縁を結びたがるものだ。


 そしてそれは同時に、財力と武芸の二つを常に一定以上の水準に保たねばならないという足枷にもなっていた。表裏一体。長所も短所も状況次第である。


 その解決策として一行は二重生活に活路を見いだしていた。財力の補填も武力の訓練も、それぞれに事情があり白昼堂々と言うわけにはいかなかったからである。


 まず資金の調達、これからして問題だった。実際竜胆の拠点には日本をまるごと買い取れるほどの金貨が眠っている。だが使うためにはまず手元まで持ってこなければならない。


 そしてそれが問題だった。竜胆等の拠点は諏訪湖の裏側にある。甲府から直線距離でさえ約六十キロの距離にある諏訪湖まで直接足を運ばなければならないのだ。


 加えて時間制限もある。拠点と行き来できるのは丑三つ時の約二時間程度である。その間に到着し、拠点から出てきて甲府まで帰らなければならない。


 加えて大人しくしていろとの実質的な謹慎処分を受けている今、白昼堂々移動も出来ず、人目の無い夜中にこそこそと事を終えなければならなかった。


 夜中に起き出し片道六十キロを徒歩で踏破し、銭という嵩張る上に重い荷物を背負ってまた六十キロを戻ってくる。しかも朝が白み始める前にだ。


 勿論こんな事は女性陣にはさせされない。竜胆は一度実施して、即座に「週に一度だけ、翌日は休日」の二つの条件を提示し、承認して貰っていた。


 結果として白樺宅の床下には大きな瓶が数個埋められ、その中身には銭と黄金という先立つものと、拠点から持ち出したいくつかの武具が入ることとなった。 


 諏訪の半分を手に入れ恩賞を与えられたと言っても、家中全てを納得させることはできない。それは武田家もそうだが、高遠諏訪家でも同様だった。


 上伊那五万石の有力領主であることを考えればその所領は二万からせいぜい三万石である。諏訪一郡三万石の半分を手に入れたのだから所領五割増しである。


 最初は高遠諏訪家の諏訪頼継もそう考えていた。加えて諏訪惣領と諏訪大社大祝という二つの役目も空席となった。前途は洋々たるものの筈であった。


 そう、筈であった。だが、いつの世も計画は計画通りに行かないものである。それが自分の主導したもので無いのならば尚更のことだ。


 諏訪の西半分を領有したと言っても元々そこを領有していた者達がいなくなった訳では無い。となれば五割増しの所領も、額面のみの話である。


 実質的には諏訪の西半分を社員ごと吸収合併したようなものだ。元々高遠に所属していた者達の給与までが五割増しになる訳では無い。


 加えて武田は空席となった二つの役職をそのままにしていた。ならばいっそ自称してくれようかとも考えたが、流石にそれは武田からの介入口実となるため自重した。


 兵を出しただけで所領が手に入ったにも関わらず、諏訪頼継は不満を募らせ名誉が足らぬ実入りも少ないと日々酒量を増やし続けていた。


 そんな中、頼継の元へ一つの知らせがもたらされる。諏訪大社上社禰宜太夫矢島満清も今回の一件に不満を持ち、諏訪郡から武田を駆逐したいと考えているというのだ。


 もともと矢島満清という人物は切腹となった前領主諏訪頼重の時代に同じ諏訪大社上社の神長官の守矢頼真と対立し敗退した人物である。


 加えて別件でも頼重から自身とその派閥である諏訪西方衆に不利な裁定を下された事に不満を持ち、前回の合戦では武田と内通していたのである。


 そんな人物が今回の一件に内心納得しかねる部分があり、頼継と協力して諏訪の地から武田方の勢力を一掃したいと言ってきた。頼継は一も二も無くこれに飛びついた。


 そして高遠と諏訪を領有し諏訪家惣領と諏訪大社大祝の地位を手に入れ、その勢いを狩って上伊那の統一を果たすという夢を抱き、精力的な活動を開始した。


 まずは諏訪の西方衆へ書状を配布した。今回の一件の後も所領は安堵するゆえ安心して欲しいという、新領主が征服された者達に対しての定番行動であるここまでは良かった。


 加えて秘密裏にそれを武田側の領有である東側の領主達に対しても行い始めた。加えて武田は余所者だ、先代信虎の時代に何度血で血を洗う抗争を繰り広げたと吹聴した。


 領土欲と名誉欲、二つの欲に突き動かされた領主が何をして、周囲にどんな影響をもたらすか、歴史上何度も繰り返されてきたことが、また起ころうとしていた。


 九月十日、この日諏訪の町は物々しい雰囲気に包まれていた。諏訪中心部を流れる宮川を境に東西で棲み分けをしていたはずが、高遠勢が突如それを踏み越えてきたのだ。


 それが例えば定期訪問や何かの打ち合わせ事項が発生したなどの日常的な目的の訪問ならばよかった。しかしそれならば完全武装の兵など無用であろう。


 武田方の統治拠点である上原城にいた留守兵を殺傷し武力制圧したことで、諏訪の町人達の懸念は現実のものとなった。諏訪は再び戦火に蹂躙されることとなった。


 上原城の奥まった一室、本来ならば城主がいるべき広間に哄笑が響いた。誰であろう、高遠諏訪家当主、諏訪頼継その人である。左右には家臣に加え矢島満清らも控えている。


 自身の兵と矢島以下の諏訪西方衆の兵の力により実力で武田兵の排除に成功した諏訪頼継は得意満面、祝い酒と称し昼間から酒宴を開いていた。


「武田兵は精強と言うが、聞くと見るとは大違い。我らの姿を見るや逃げ出していきおったわ」

 そう頼継が酒杯を傾ければ


「誠に。あのような連中に敗北するとは、やはり頼重など惣領の器にあらず」

 そう満清がかつての主君をけなし頼継に追従する。


 しかし、下座で眉を寄せながら茶を飲む老臣の幾人かは武田兵の逃亡が臆病からでなく冷静な戦力比の計算によるものと察していた。そして、これから何が起こるのかも。


 暗雲漂い始めていたのは諏訪だけでは無い。佐久郡でも同様に戦の気配が立ちこめ始めていた。その中心となっていたのは大井貞隆と貞清の父子である。


 諏訪頼重は武田先代信虎の時代に武田、村上、諏訪の連合軍を組み信濃佐久地方へと侵攻、戦勝の結果としてその一部を自らの領土へと組み込んでいた。


 それが今回の諏訪氏滅亡によって領有者のいない空白地帯になったと判断した大井氏はその諏訪領へと進軍、今度は自らの領土へと組み込んだのである。


 もっとも、大井貞隆の視点になってみれば、もともと長窪大井氏の出身とも言われ岩村田大井氏を相続した経緯を考えれば混乱に乗じ故地を奪回したに過ぎなかった。


 しかし、これは明確な武田氏への敵対行動であることを理解していたのかどうか。諏訪氏を滅亡させその領土や権益を武田氏はおのが手中に収めていた。


 それは当然、佐久地方の諏訪氏の領土も例外ではない。この時代の常識では佐久に諏訪氏が持っていた領土は当然今は武田氏の領土であるという認識である。


 そこを武力制圧したと言うことは、宣戦布告も無しに武田氏を相手に戦争を始めたに等しい。あるいはしばらくは諏訪統治に忙殺され佐久に割く余力は無いと判断したか。


 どちらにせよ、武田氏は佐久地方の国衆大井氏との戦争状態へと突入した。諏訪攻略の一石の余波は、上伊那と佐久へと波及し、信濃を揺るがすうねりとなりつつあった。


 中々、予定通りに執筆投稿できませんね。

やはり書き溜めによる予備が必要ですか。

ううむ。

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