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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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47 裁定と再査定

 非交戦地域に軍隊をとどめておくとロクな事にならない。まして軍隊は存在しているだけで毎日莫大な物資を消耗する金食い虫である。


 よって戦争終了後は速やかに本国へ帰還ののち動員解除するのが定石だ。諏訪頼重等を甲府へ送り、高遠諏訪頼継との領土線引きが妥結した後竜胆等も甲府へ帰還した。


 帰り道では大抵の将兵は上機嫌であった。勝ち戦による新領土獲得、それは自分たちへの恩賞という形で還ってくる筈だからだ。戦争は国全体での投資行為なのだ。


 そんな中で他とは違い、どこか追い詰められた表情をした男女がいた。竜胆と静である。ようやく再開した仲間を目の前でやり過ごさざるを得なかったからだ。


 それにしても、と竜胆は内心疑問に思っていた。本来の雪の能力が使えないのは何故だろうと。自分も、他の面々も人外の能力を発揮できるのに何故雪だけ出来ないのだろうか。

 そもそもこちらの世界へ転移した際に一人だけはぐれて拠点の湖畔都市とは違う場所に現れていたこと自体がおかしいのだ。この点も確認が必要だった。


 だがそれよりもまず重要なことがあった。雪の安全の確保である。常人程度の能力しか無い様子である以上、いざという時には即座に駆けつける必要があった。


 牛若の鴉で確認してはいるものの、万一の際には静と二人で武田軍五千の中から雪を連れて脱出する覚悟だった。そしてそれは異様な雰囲気として周囲に漏れていた。


 それに顔をしかめたのは竜胆の寄親、つまりは上司である教来石とその郎党であった。得体の知れない若造の世話を体よく押しつけられたのだかた当然だった。


 ただでさえ仕官の際には満座の中へ警備の囲みを堂々破って押し入った前科持ちである。それが諏訪で武田の姫を相手に騒ぎを起こしかけたのだ。


 その際は周囲に取り押さえられ未遂で済んだが、二度あることは三度あるとも言う。それが張り詰めた表情をし続けていれば警戒するなと言う方が無理な話だった。


 郎党と違い竜胆の事情を聞いた教来石の内心は更に複雑だった。竜胆の行動を理解できてしまうからだ。そして同時に、それは武田の臣としては許してはならないことだった。


 結果として教来石は配下に竜胆等から目を離すなと命じた。裁定の前には双方の言い分を聞く必要がある。まずはもう片方からも事情を聞く必要があった。


 これがそこらの町娘ならば話は簡単だった。年配の郎党を遣わして報告を聞けば良いだけだ。しかし今回の相手には身分という物がある。しかるべき手順が必要とされた。


 まずは甲府へと到着し躑躅ヶ崎館の一室で相応の地位にいる人物が面談した上で、上層部の判断待ちとなる。手順には時間がかかるのがつきものだった。


 結果としてその判断が出るまで竜胆に迂闊な真似はさせられなかった。本人にもそれとなく伝えはしたが、油断できる筈も無し。教来石は服の上からそっと腹を押さえた。


 甲府へ帰還してからの竜胆は表面上は大人しくしていた。積翠寺での書写。定宿の裏庭での鍛錬。これに戦利品の馬二頭の世話が加わった。


 郊外への散策と山賊退治が無くなったのは謹慎処分を受けてのものか。これはこれで、甲府の町民への噂話の種を提供することとなった。


 そんなある日、玉藻と二人で書写していると来客があった。書写もはや三冊目、論語孟子に続いて大学の半ばへと移っている時の事であった。


「精が出ておるようだな」

 そう声をかけつつ供の者を連れ入室してきたのは誰であろう駒井であった。竜胆は即座に平伏し玉藻もそれに続いた。


 供の者を両脇に控えさせ上座に着席すると駒井は楽にせよ、と告げた。それを受け竜胆は顔を上げた。用件が分かっているだけに内心は強張るどころでは無かったが。


 それを見て駒井は問いを発した。今後当家はどう動くのが良いか、存念を述べてみよと。竜胆は少し考えた後ここではいささか、と答え場所を変えることを提案した。


 連れてこられた場所に駒井は眩暈を覚えた。武田家の将来に関する密談ゆえてっきり人気の無い庫裏かと思っていたが真逆も真逆、境内の中程だったからだ。


 流石に苦情を言おうとした供の者に竜胆は「庫裏にでも行くと思われましたか?まさか、今から密談をします、聞き耳を立ててくれと吹聴しているようなものではありませんか」


 そしてこう続けた。

「この見晴らしの良いところならば、不心得者が聞き耳を立てようとしても隠れる物陰などありはしませんでしょう」


 言われて駒井ははっとした。寺の修行僧どもも雰囲気を察してか掃除の場所を変えた。今この場にいるのは自分たちのみ、潜んでいる忍びの者などあろう筈も無かった。


 駒井が納得したのを見て取った竜胆は小石を一つ拾うと地面にあれこれと書き始めた。

「まず甲斐が二十万石」

 そう言って甲斐、二十と書いた。


「続いて諏訪三万石、上伊那下伊那に佐久小県、筑摩に安曇それぞれざっと四万石で最後に川中島四郡で十五万石と言ったところですか」


 言葉に続いて信濃の各郡と石高が地面に書き加えられてゆく。そこで竜胆は一息置いた。「まず諏訪の半分を獲りました」

 甲斐の二十の下に数字が書き加えられた。


「しかし上伊那の高遠諏訪は満足しますまい。藤沢頼親と二人で攻めてきてくれれば諏訪の残り半分と上伊那を逆に攻め取れましょう」

 駒井の供の者が唾を飲み込む音が響いた。


「それに下伊那の国衆が反応してくれれば攻める口実になるでしょう。さらに藤沢頼親は筑摩の小笠原と縁があります。向こうから手を出してくれれば大義名分は要りますまい」


 こちらから攻めるならば相応の口実が必要となるが、向こうから攻めてきたので反撃して滅ぼすのであればそんな面倒事は不要だと竜胆は告げていた。


「そうすれば石高は三十万を越えます。兵も五千どころか七千を揃えられるでしょう。その数で佐久小県へと攻め入り、国衆が裏切らぬよう然るべきご家老に在番頂けば……」


 そこで竜胆は一旦言葉を区切った。いつも間にか供の者ばかりか駒井自身まで身を乗り出して聞いていた。夏の暑さの為では無い汗が、駒井の頬に流れた。


「四十万石、万の兵を編成できましょう。まずはこの辺りを目指しましょうか」

 そう言うと竜胆は顔をようやく上げ地面から駒井へと視線を移した。


「お主、その話を何処で」

 駒井は威厳を保つのに努力しながら言葉を絞り出した。話の内容もさることながら、どこでそれを聞いたのかの方が重要だった。


 その問いに竜胆はきょとんとした顔で

「現状を見れば普通に思いつくでしょう」

 誰に聞いたわけでも無い、自分の頭で考えついたのだと答えた。

   

 これに駒井はその日一番の衝撃を受けた。それが事実ならば軍師として召し抱えるべき存在になる。同時に決して他国へ逃すわけには行かなくなった。


 万一他国に走られてその牙が甲斐へと向けられた場合、被る被害は尋常ならざるものとなるだろうからだ。駒井は早急な対応の必要を感じた。


 同時に武芸達者な忍びの者くずれ、程度の認識しか持っていない上層部の認識も改める必要があった。大きすぎる才は、時として周囲には厄介毎にもなる。

  

 駒井は色々思う所もあろうが今はくれぐれも大人しくして不要な波風を立てぬように、決して悪いようにはせぬからを念を押すとそそくさと去って行った。


 姿が見えなくなるまでそれを玉藻と立礼して見送ると竜胆は二人して先程まで書写していた部屋へと戻っていった。書写を再開してしばらくしておもむろに竜胆が口を開いた。


「あれでよかったかな」

「上出来です。だからこうして旦那様も文武両道を演じておいででしょう」

 ころころと玉藻の笑顔が部屋に響いた。 


 それを聞き竜胆はそうか、と答えると気を引き締めて書写へと向き直った。雪さえ戻ってくるならば、後のことはそれから考えれば良いと割り切っていた。


 そのころ駒井は大急ぎで躑躅ヶ崎館へと戻ると晴信始め上層部への報告会に顔を出していた。まず口を開いたのは晴信の弟信繁、一般には典厩で通っている人物である。


「禰々とされている者と話をして参りました」

 この言葉が場に染み渡るとある者は目頭を押さえ、またある者は天井を仰いだ。


 その意味するところは一つ。本物の禰々、つまり晴信の妹にして諏訪頼重へと嫁いだ武田の姫はもういないという事だったからだ。誰からともなくため息が漏れた。


「ではあれは白樺めの妄言では無く事実であったと言うことか」

 念を押すような晴信の言葉に信繁はは、と短く答えた。


 妹が他家へと嫁ぐならば世の習いだ。武家の娘として生を受けた以上、家と家とを繋ぐよすがとしての役割を期待され、また果たさねばならない。


 その覚悟は兄弟共に当然のように出来ていた。今回もその妹の嫁ぎ先を攻め滅ぼす決断をした以上報復として諏訪の者に磔にされる

事もありうると考えていた。


 しかし既に死亡し現在いるのは赤の他人である替え玉だとまでは想像していなかった。血の気が無くなるほど握りしめられた拳が兄弟の内心を現していた。


「やはり出産に耐えられなかったか」

 自身も最初の妻を母子共々難産で亡くした晴信は瞳を閉じて眉を寄せながら問いかけた。それに信繁は


「おそらくは。付き添った侍女どもも産後に人が変わった様だと申しておりました」

 深く息を吸い、また吐き出す。その言葉を受けた晴信はそれで気持ちを切り替えた。


「で、白樺の方はどうじゃ」

 自分に番の回って来た駒井は落ち着いて

「今は大人しくしております。しかしできる限り要望は叶えてやった方がよいかと」


 その言葉に場の面々はいきり立った。まさか当主の義弟とせよと言いたいのかと。その誤解を感じ取った駒井は用意してあった説明を述べた。


「あやつは信濃制圧への我らの策をほぼ読んでおりまする。加えてあの武芸。万一他家に走られては後々必ず禍となりましょう。ならば取り込む手を考えねば」


 どうせどこの馬の骨とも知れぬ娘ならば才ある者を甲斐へと結びつける錨にしてしまえばよい。駒井は言外にそう述べ、重臣達もそれを読み解いた。

  

 どうするべきか、と列席の重臣一同の視線は筆頭家老の板垣へと向けられた。

 板垣は駒井に一言だけ質問した。

「それほどか」


「今年元服するような若者です。将来必ずや武田の役に立ちましょう」

 駒井は末席から板垣の顔を確と見て自信を持って答えた。


「しかし今すぐと言うわけにはいかん。皆で良き手立てを考え、後日改めて沙汰致そう」

 実質的な先送り発言である。しかし駒井は反対されなかったことに安堵した。


 そうして議題は次へと移っていった。制圧した諏訪の統治。今回活躍して者への恩賞の内容。今後の周辺国、特に新たに隣接することになった高遠諏訪への方針などだ。


 後日、今回の合戦への恩賞が発表され様々な者が躑躅ヶ崎館へと呼ばれその栄誉に預かることとなった。ある者は新知行を、ある者は武具を、またある者は金銭を賜った。


 そして最後の方に竜胆の番が来た。この日のために新たに礼服を仕立て、失礼があってはけないからと教来石に付き添われての登城となった。


 竜胆には今回の一戦はその方の働きで本意を遂げることが出来たという感状と、元服時の烏帽子親は教来石とするという沙汰が下された。雪は一言も触れられなかった。 


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