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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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45 経緯と邂逅

 甲斐武田家による隣国信濃の諏訪攻め、これは晴信の代になって唐突に発生した事態では無い。元々は、先代信虎の代にその始まりはあった。親子二代に渡る征服であった。


 事の始まりは大永五(一五二五)年四月、一人の人物が甲府を訪れた事による。その人物の名は金刺諏訪遠江守昌春という。元は諏訪大社下社大祝の地位にあった人物である。


 この諏訪昌春は永正十五(一五一八)年、諏訪大社上社大祝で諏訪氏惣領の諏訪頼満と戦って敗れ、所領を失い没落しており、本領復帰のため信虎を頼ってきたのだった。


 ここで諏訪昌春に庇護を与えた信虎だったが、これは冷徹な損得勘定によるものだった。諏訪昌春の本領復帰を諏訪侵攻の大義名分に掲げようとしたのだ。


 そもそも、諏訪と武田の間の対立は信虎の先代信縄の代に遡る。当時関東には現北条家の先代伊勢宗瑞と扇谷、山内の両上杉氏が激しく対立していた。


 そして伊勢氏は駿河今川氏と、上杉氏は甲斐武田氏とそれぞれ同盟を結び相手を牽制し合っていた。ここで伊勢氏は武田氏を牽制する一手を打った。


 信濃諏訪氏との連携である。これで武田氏は東の伊勢氏南の今川氏西の諏訪氏と、三方向を包囲され、対して武田は諏訪の西方、府中小笠原氏と結びこれに対抗しようとした。


 ここまでならば遠交近攻が絡み合った牽制合戦の果てで済んだ。だがここで一つの不幸が武田を襲う。当主信縄の病死である。後を継いだ信虎は当時十歳だったという。


 三方を敵に囲まれ、本来ならば頼るべき父親は既に亡く、自身は十歳のまだ子供。甲斐一国の統一もままならず、家臣にも反逆する者さえ出る始末である。


 そんな中、諏訪とは攻守入れ替わりつつ双方多大な犠牲を出す血みどろの合戦を繰り返すも決定打は得られない、じりじりとした状況が続いていた。


 事態が動いたのは天文四(一五三五)年である。北条今川との対立が激しさを増していた信虎は諏訪との和睦を決断し、頼重の祖父頼満と対面した。


 結果として和睦の話はまとまり、その誓いとして諏訪大社上社の宝鈴を鳴らし賽銭として黄金七両を贈った。翌年十六才になった嫡男晴信が元服している。


 しかし、数年と経たずこの和睦には暗雲が立ちこめる。信虎追放の混乱を狙い、信濃佐久を追われた領主が関東管領上杉憲政を頼ったのだ。


 これに応え上杉氏は三千騎を越す大軍を佐久へと派遣してきた。政変による混乱で身動きの取れなかった武田氏は佐久方面の領土のほとんどを喪失した。


 しかし、上杉氏に対抗した勢力があった。諏訪氏である。単独へ佐久へ出兵し偶然の味方もあり上杉氏と和睦し領土線を確定し直したのだ。


 だが、これは武田にとって二つの裏切りと認識された。一つは上杉氏。元々武田上杉は同盟関係にあった。晴信の前妻は上杉の姫である。それが武田の領土へ兵を出した。


 それは、事実上の同盟破棄と敵対関係を意味した。これが一つ。そしてもう一つは諏訪氏である。敵と勝手に和睦し、更に自分たちの領地を勝手に線引きするとは何事か。


 表だって敵対を表明したわけでは無い以上行動できなかった側があまりとやかく言うのは筋違いであるため口を噤んだが、腹に溜まった鬱憤は出口を失った。


 元々諏訪とは父や兄の世代では敵対した間柄である。血で血を洗うような激戦を繰り広げたと言うことは身内には諏訪との合戦での犠牲者を抱える者も多かった。


 行き場を失った憤りは、身内を喪った悲しみと結びつき、熱量を得てうねり始めた。それはあたかも、火山の噴火前の地震にも似た様相を呈していた。


 そこに目を付けたのが武田の家老衆である。甲斐は未だ混乱の余波が残りまだ本調子とは言えない。そして南の今川は同盟国、東の北条は強国である。


 今までならば北の佐久小県へと進出を試みたところだが国人衆の後ろに関東管領上杉憲政が付いたとなれば話は別だ。上杉の本拠上野は五十万石を越える大国だ。


 その動員兵力は一万を優に超え、武田の倍以上だ。周辺の領主にも声をかければ動員兵力は更に膨れ上がる。とてもではないが、今はそこへ挑む様な博打は打てない。 


 そこへ降って湧いたように発生した西の小国諏訪との亀裂。内心の笑みと裏腹に、沈痛そのものの表情を造り嘆いた。これが数多の血を流した果てに得た和睦なのか。


 そして水面下で諏訪領内外の反惣領派へと接触が図られた。敵を攻める際には、内情を知るために内通者を事前に用意しておくのは鉄則だ。


 諏訪領内では頼重としばしば衝突していた守矢頼真と金刺氏の仲介で縁が持たれた。信虎の代で作られた人脈が、世代を超え晴信に力を貸していた。


 また諏訪領外で使者を派遣したのは高遠の諏訪頼継に対してだ。諏訪家惣領と諏訪大社大祝職に野心を隠さない頼継は一も二も無く

話に飛びついた。


 こうして内と外より諏訪頼重を排除する段取りが着々と進められていった。それはまさしく袋の口を閉じる様だった。同時に武田は戦後をも見据えて行動していた。


 その後の成り行きは先の通りである。腹背を同時に攻められた上に内部に造反者を抱え更に数でも三倍近い差が付いては孔明でもどうにもなるまい。


 小競り合い程度のものはあったが、双方に百人単位の死傷者が発生するような本格的な合戦に発展すること無く、諏訪頼重の降伏、開城という形で幕を閉じた。


 武田方の戦後処理は素早く、七月四日の降伏後翌五日には頼重の身柄を甲府へと送り、十三日にはその弟で現大祝の頼高も甲府へとその身を移された。


 惣領の頼重だけでは無く、神職大祝の頼高までもが甲府へ送られてしまったことに、諏訪の人々は衝撃を受けたと後の世には伝えられている。


 そして続くは国境画定だ。戦国時代の同盟や条約の目的の過半はこれのためと言っても良いほどの重要事項だ。一所懸命なのは侍だけでは無く大名も同じなのだ。


 そしてその交渉の際に重要視されるのは、やはり互いの軍事力だ。軍事力の裏付けがあってこそ、その発言や行動は重視される。無力な者に発言権など無い。


 この国境線の取り決めは方は大きく分けて二つある。一つは事前に取り決めておく方法。もう一つは双方の頑張り次第、俗に言う切り取り次第だ。今回は前者が採用された。


 ここで重要なのは明瞭性だ。誰にでも明らかで、間違えようや変更しようの無いものを選択することが望ましい。後の火種の元となるからだ。


 例えば国境の村甲は武田側、乙は高遠側になったとする。現代のように測量されてはいないため、林の中を境界線が通っていた場合などは特に後に問題となりやすい。


 林の落ち葉は田畑の肥料になるし、木の実や獣は食料になる。自分たちの側で発見した獣を境界線を越えて仕留めた場合は所有権はどちらかという問題も出てくる。


 そこで地形、それも実際に互いの境界線として機能する川が領土境界線の基準として活躍することになる。史実でも武田徳川間の今川領の分割は川を境界線として合意した。


 今回も同様の手法が採られた。諏訪郡のほぼ中央を流れる宮川を境に、東側を武田領、西側を高遠領とすることで合意が為された。これで一旦平和が訪れたかに見えた。


 武田高遠連合軍の前に諏訪惣領家は一戦で滅亡、その後の領土分割も問題なく進み両者の合意にも達した。まさしく順調その物の推移であった。


 しかし、問題が発生するのは得てしてそういう時である。そして残念ながら今回もその例に当てはまってしまった。ここで、場面は一旦高遠城へと移る。


 高遠城内には罵声が響いた。声の主は城主にして領主たる諏訪頼継である。

「なぜだ、なぜ武田は儂を惣領にも大祝にもせん。どういうことだ」


 昼間から酒を呷り、目を血走らせて大声を張り上げていた。諏訪から帰陣してから数日は家臣への報奨として諏訪の新領土の宛行に忙殺されていた。


 しかしそれが終わり落ち着くと、途端に不満と焦りが頼継の内心を覆い始めた。席が二つも空いたのだ。両方は無理でも片方は自分の物になるのが筋ではないか。


 実質頼重の惣領家が滅んだ今、自分の高遠諏訪家こそが新たな諏訪惣領家なのだ。なぜそれを武田は認めようとしないのだ。おかしいではないか。


 当初武田も新領土の統治が、知行の宛行が、と宥めていた家臣も連日の事に嫌気が差し合戦の後始末だ新領土の把握だと適当な理由を並べ側に近寄らなくなっていた。


 残ったのは言い訳の出来ない近習達だ。内心を表情から隠しきれぬまま、彼らは日に日に不平不満の度を増す頼継に辟易しはじめていた。


 そんなある日、近習の一人は頼継の様子がいつもと違うことに気が付いた。杯を干すと大声を出すはずがそのままの姿勢で固まりついにはぶるぶると震えだしたのだ。


 これは流石に声をかけた方が良いかと一番年長の者が勇気を出したとき、唐突に硯を持てと命じられた。これも近習の性か考える頼先に体が動いていた。


 本来、大名ともなれば自分で書状は書かず右筆という書記役が手紙やお触れを代筆する。それをせず自ら書をしたためたと言うことは、よほど知られたく無い内容と言うことだ。


 一通の書状を一通り書き終わると頼継はそれを読み返しにんまりとした笑みを浮かべると次に家臣の某を呼び出しそれを諏訪の上社禰宜太夫矢島満清に届けさせた。


 後日参集のかけられた高遠の家老衆は頼継より内々の話を聞かされ仰天した。しかし相手のあること返事が来てからと、まずはそう自分に言い聞かせ落ち着こうとした。


 その間にも頼継は新たに自分の家臣となった諏訪の西方衆と自分と同じく上伊那の領主である福与城の藤沢頼親へも精力的に書状を送っていた。 


 この行動にまずは諏訪を安定させる事を優先してはどうかとやんわりと釘を刺す家老もいた。しかし頼継は戦には機、物には勢いが必要と一顧だにしなかった。


 頼継の治める伊那は東西を山に挟まれた谷間の盆地である。故に、日の出は遅く日の入りは早い。夏とはいえ幾分早い夕暮れが、大地を血のような朱に染めていた。


 高遠に不穏な動きがあるころ、竜胆ら一行はそれどころでは無かった。はぐれていたもう一人の仲間が遂に発見されたのだ。しかし、新たな問題が発生した。


 事は戦勝後諏訪の頼重頼高兄弟が甲府へと護送された時まで遡る。元々の目的である只一人行方不明の雪を発見するべく上原城や桑原城周辺を歩いていた。


 しかしいざ捜索のため城中に入ろうとすれば戦後処理がある、お前のような新参の若輩が邪魔をするでない、と門前払いにされ早々に行き詰まってしまった。


 ならばと教来石に相談しても、上原城中に仲間が捕らえられているかも知れぬと聞きお前はどこぞの忍びだったのかとあらぬ疑いをかけられる始末である。


 夜間に忍び込もうかとも考えたが流石に合戦直後は残党を警戒してか警備も厳しい。万一発見され前回の様に相手を死傷させでもすれば今回は言い訳がきかない。


 そんな中、諏訪の領主のついでに嫁いでいた晴信の妹の禰々も甲府に送られると耳にした。気分転換にもなるし一行の侍女に紛れているかも知れないと静と二人で見に行った。


 そこで見物客の後ろの方行列待ちをまず静が、すぐに竜胆も固まった。今まさに行列の来る方向から雪の反応があり、それがだんだん近づいてきたのだ。


 知らず掌が汗でじっとりと濡れる中、どこにいるのだと竜胆はせわしなく目を動かした。そして禰々姫の輿が通るその時、雪の反応が目の前を通過していった。

 ようやく発見です。でもここからが大変なんですね。

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