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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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45 攻城と開城

 翌朝、一晩明けても未だ所々くすぶり赤い舌の舐めている上原城下を横目に見つつ武田軍は進軍した。目指す先は桑原城。眼下に諏訪湖の広がる諏訪勢最後の拠点である。


 勝ち戦は兵から疲れを忘れさせる。甲府からの進軍も疲労を溜めぬようゆっくりとしたものであったこともあり、武田勢の足取りは軽かった。竜胆等な中程に位置していた。


 陣を引き払い進軍中に別の軍勢と出会った。自軍でも諏訪勢でもない第三勢力。ならばこれが伊那の高遠勢かと当たりをつければ果たしてその通りであった。


 不躾な視線にならないように注意しながら、竜胆は高遠勢の様子を観察した。史実を知る者として、この後どうなるか分かっているだけに情報収集は必須であった。


 まず数は、当たり前だが武田軍よりも少ない。甲斐一国で二十万石であるのに対し、高遠は上伊那一郡で五万石、それも藤沢頼親と分け合っているのだ。多くて兵数は千か。


 次に装備。杖突峠を越えてきたからか足軽は所々に衣服の破れやほつれが目立つ。弓の数も全体の一割に程度か。槍の長さも武田に比べれば短いか。


 そう思いつつ竜胆は武田軍の長柄槍をちらと見た。三間(約5.4メートル)と余りの長さに足軽どもは引きずりながら移動している。昨夜は物干し竿にさえ使われていた。


 兵の顔つきも武田勢は連年の戦闘で鍛えられ場慣れし古参兵の風格を漂わせる者までいるが高遠勢のそれは発展途上からせいぜい中堅と言ったあたりか。


 これならば「戦後処理」も大きな問題なく済みそうだとほっとしていると隣を歩く静が抑えた声をかけてきた。主殿、と。こういう時は厄介事が多い。


 どうした、と返せば案の定だった。

「風呂には何時は入れましょうか。流石にもう限界です」

 六月末に出陣して以来ご無沙汰だった。


 男ばかりの軍隊で女が一人丸腰になって湯を浴びればそれはもう襲ってくれと言っているようなものである。竜胆はそう言って静を止めた。


 静も竜胆以外の男に肌を見せるつもりは無かったので不承不承承知はした。しかし静も乙女だ。我慢にも限度というものがあった。一週間になれば反逆の覚悟さえあった。


 表情からそれを読み取った竜胆は静の耳元に顔を近づけるとささやき声を発した。総武が代わり昨日と違い兜の横に広がる吹返し同士がぶつかり耳障りな音を立てた。

 

「あと二、三日で諏訪軍は降伏する。そうしたら宿の風呂場でも借りて存分に入れば良いさ」

 これを聞いて静は目を剥いた。


「限界と言っているのに更に二三日我慢しろとは何事ですか主殿」

 すとんと表情から感情が抜け落ち平坦な声で一息に言われ竜胆は青ざめ後じさった。


「いやそうは言っても仕方ないだろう。俺達だけでやっている訳でも無し」

「白樺、少し静かにせよ」

 結局、教来石に馬上よりお叱りを受けた。


 新しい配下に注意を与えながらも教来石は果たしてあれで良かったのかと自問していた。初めて配属された部下。挙げ句年も一回り以上離れている。


 加えて元服前にも関わらず四人も女を囲っているような男である。これで武芸の腕が無ければ色狂いと村八分にされてもおかしくは無い、まこと扱いに悩む部下である。


 さりとて、上に立つ者として逡巡や狼狽は見せられない。迷い無く果断な判断を下す寄親としての演技を己に課していた。これも武士の面目の一つであった。


 山の麓をぐるりと回り込む進軍経路を現在武田軍は取っていた。今向かっている桑原城も既に視界に入っていた。遠目にも斜めに傾いた旗があり士気の低下が見て取れた。


 この時代、城は地形、主に山の尾根を利用した山城である。自落した上原城も向かっている桑原城も同じ山の尾根を利用したいわば隣同士の城であった。


 既に先発した隊は既に桑原城の麓に到着し手際よく陣を設営しながら城攻めの準備に入っているようだった。木の杭を打ち付ける音等が夏の空に良く響いた。


 城攻めと言っても手順はおおよそ確立されている。まずは城兵の弓矢から身を守る木楯を用意し横一列に並べる。それを持つ兵の後ろに弓兵を配置し、侍衆がそれに続く。


 弓兵が矢を放ち城方の弓兵を牽制しながらじりじりと木楯の横列が前進し城へと近づく。一定の距離まで近づいたら侍衆が吶喊。堀を越え斜面をよじ登り城壁へ取り付く。


 そして城壁をよじ登り内部へ侵入。門を確保し内部から開け主力を迎え入れその曲輪を占領し残敵を掃討する。これが一連の流れとなる。


 問題は、それを数回繰り返さなければならない点だ。最終目的地は大名無いし城主がいるであろう最高点にある本丸である。しかし、その前に一段下がった二の丸がある。


 更に三の丸があることなどざらだ。場合によっては棚田の様に重層的に郭が重なっている場合もある。加えて麓から一気に攻め上れないよう途中に腰曲輪を設ける場合もある。

    

 これを一つ一つ突破しようとすると攻め手は相当な損害を覚悟しなければならない。城攻めには守備側の三倍の兵力が必要となるとの目安は決して誇張では無い。


 余談ではあるが戦国期は城には三千の守備兵を入れておく、というのが一つの目安であった。攻略には一万近い軍勢が必要となり、長期の対陣は負担が大きくなるからだ。


 今回攻め手の武田は四千を越す兵を動員し高遠も援軍として加わり攻め手は五千を下らない。大して守備側の諏訪は元々千程度から逃亡兵が発生し更に減っていた。


 攻め手の数は目安となる守備側のそれの三倍を越え五倍へさえ手が届いていた。武田高遠両軍の間では、これならば力攻めでもいけるのではとの観測が生まれ始めた。


 それを見た本陣では軍議の場が持たれある提案がされた。それは内密かつ慎重に討議され、最終的には諾を得た。そして武田から桑原城へと使者が出された。


 その日は城攻めは準備だけで実行には移されずに終わった。陣のそこかしこでは損害を出さなかった安堵と手柄を立て損ねた鬱憤がない交ぜとなった。


 翌日の朝には陣中に不穏な噂が流れ始めた。昨日桑原城へと籠もる諏訪頼重へと出された使者は降伏を勧告するものだったというのだ。武田の陣内一部に不穏な空気が流れ始めた。


 損害無しに相手が降伏したのだからそれが一番良いだろうと考えるのは現代人だ。しかしその価値観は戦国時代のそれとは異なるところがあった。


 戦国時代の武人が命を張るのはなぜか。武士としての倫理観、面目もあるだろう。しかし同時に恩賞という即物的かつ現実的な理由も見逃せない。


 そしてその恩賞は奉公、つまりは武功の多寡によって上下する。だがそもそも合戦の場が無くては手柄を立てようも無い。結果として下級武士は合戦を望む傾向がある。


 それに対して武将、家老から大名クラスの身分になると少なくとも今後数年を考える必要がある。今日勝っても損害が多く明日を戦う兵がいないのでは困るのだ。


 つまり小身の武士は合戦を望み、大身では合戦を避ける、とまではいかないが必要以上のものは望まない傾向がある。ここに、今回陣内で発生した齟齬の原因がある。


 とは言っても戦国時代は身分社会である。下克上という言葉がもてはやされたのもそれがめったに成功しないが故に目立つ事態だからだ。


 昼過ぎに桑原城から諏訪方の使者がやってきた時に武田陣地でのざわめきと戸惑いは最高潮に達した。噂が噂では無くなったと感じられたからだ。


 上原城は諏訪の本城ゆえ防備も固い。それに比べ今籠城している桑原城は一段も二段も劣る。少数の士気の低い兵が籠もる防備の甘い城。ここで手柄を上げずして何とする。


 しかし降伏されてはどうしようも無い。本陣から発表が為されたとき、安堵と落胆という二つの相異なる吐息が陣中を満たした。もっとも判で付いたようにはいかなかった。


 下級武士でも死の危険がなくなりほっとするものもいた。上級武士でもここで手柄を立てて隠居の花道にするつもりだった者もいた。千人いれば、千通りの都合がある。


 もっとも一番ほっとしているのは武田家当主武田晴信であった。今回の諏訪攻めはその後へと続く布石の一つである。緒戦でいたずらに兵力を失う訳にはいかなかった。


 ここで城攻めとなればまともに連携を取ったことの無い高遠勢との共同作戦である。どのような問題が発生するか、知れた物では無かった。


 まして、窮鼠猫を噛むの言葉もある。ここまで追い詰められた諏訪勢が死に花を咲かせようと決死の抵抗をし予想外の損害を受けることも十分にあり得ることであった。


 そのため、諏訪頼重の降伏受諾ならびに開城を受け晴信は幔幕の裏で深く息を吐き出し肩を下げた。大名家当主となれば、人前では弱い姿を見せられない。


 そんな中、陣地の中で周囲をはばかるどころか周囲に聞かせるように大声で呵々大笑する者がいた。武田でも諏訪でもない、今合戦における第三の勢力、高遠の陣からだった。


 聞こえてくるその哄笑に、ある者は疲れたような笑みを見せある者は顔を背けまたある者は受け流した。総じて言えることは肯定的な反応では無かったことだ。


 そも、高遠の諏訪頼継とは何者か。諏訪家の分家であり、諏訪郡の南に位置する伊那郡のその北半分にあたる上伊那の高遠に根を張る国人領主である。 


 分家といっても諏訪一郡で三万石、伊那十万石のその半分上伊那五万石を福与城の藤沢頼親と分けているのだ。本家分家と言ってもその軍事力に然程の差は無い。


 それが頼継の心に影を落とした。本家は諏訪当主と諏訪大社大祝つまり世俗と神職双方を手にしている。領地だけならば分家と大差ない本家が。


 頼重の代で領地を増やしたとは言ってもそれは武田村上の二大勢力の佐久侵攻の尻馬に乗っておこぼれに預かっただけではないか。頼重の器量とは認めがたい。


 ならば当主は諏訪本家でも、せめて大祝は高遠諏訪家から出すぐらいの気を使うのが当然では無いのか。名ばかりの本家がいつまで本家と偉そうにしているのか。


 酒を飲んだときにふと思いついたことだったが、考えれば考えるほどにしっくりときた。むしろ何故今までこんな当然の事に気が付かなかったのかが不思議だった。


 相手が聞く耳を持たないのであれば合戦に訴えてでも聞く耳を持たせるのがこの時代の流儀だ。むしろそちらの方を好む家臣や民さえもいた。


 実際、同盟和睦その他の約定を取り交わしてはみても、それを相手に守らせるには自分に相応の武力が無ければならない。武力の裏付けの無い条約など条約では無いのだ。


 だがしかし、いかに名ばかりとは言え本家は本家。それに対しておおっぴらに反旗を翻すのは世間的にも宜しくない。ありえぬことだが万一ということもある。


 そんな中、甲斐から密使が訪れた。何事かと話を聞く内に口の両端がみるみる上がり三日月のような笑みが形作られた。これこそ諏訪大明神の思し召しと小躍りした。


 結果は今の通りだ。頼重は本拠地の上原城を捨てざるを得ず、諏訪の町を他国の軍勢が闊歩している。奴は本家当主の器などでは無い。それゆえ諏訪大明神に見限られたのだ。


 さて、この後はどうなるか。本家当主頼重は当然として、念には念をという言葉もある。その弟の大祝頼高も邪魔くさい。この際両方とも消えて貰わねばなるまい。


 本家当主と大祝の座が両方空くのだ。二重二十そこそこの若造の武田晴信でも、いや若造だからこそ、人生の先輩に対してどういう態度を取るべきか言わずとも分かるだろう。


 天文十一(一五四二)年七月四日、諏訪頼重は桑原城を開城し降伏した。伝えるところではその際でさえも義兄武田晴信を信頼し共に諏訪頼継を討つ心づもりであったという。

 連休みが連休ではありませんでした。

そろそろ生活リズムを元に戻して頑張らないとです。

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