42 軍旅にて
列を作って歩いていると、追い抜きざまに誰かが脇腹を小突いていった。何事かと立ち止まれば罵声が飛んでくる。新入り、足を止めるな。そんな事も教えてもらえんのか。
六月も下旬となれば相応の暑さになってくる。数日前の雨のため湿度も高く、不快指数はうなぎ登りだ。そんな中で鎧兜を着けての行軍だ。慣れぬ者には相当に辛い。
これがそれなりの身分の侍であったならば荷物持ちも引き連れて来れるのだろうが家臣の一人もいない身分では自分の荷物は着替えや食料も含め自分で持たねばならない。
結果、背に夜逃げか引っ越しほどの荷物を背負いながらなるほど軍隊に行李部隊が必要になるわけだといささか場違いな事を考え気を紛らわせた。
天正十一(一五四二)年六月二十四日、甲斐国主武田晴信は隣国信濃諏訪群を治める諏訪頼重に対して軍事行動を起こす。目標は諏訪家、目的は諏訪郡の領有である。
この四月に仕官を許された白樺竜胆は教来石民部少輔景政の寄子、つまりは部下として参陣を命じられた。これが、竜胆にとっての初陣となる。
竜胆は仲間の中から最も武勇に優れた静と二人ではせ参じた。もっとも侍の着用する具足を用意できなかったため、胴丸に練革兜、槍一本弓一張といささか見劣りしていた。
しかも兜は所持していないと聞いた教来石からの貸与品、槍や弓矢、胴丸に至っては討伐した山賊からの戦利品である。それを知った周囲はここぞとばかりに揚げ足を取った。
元々、他国者で甲斐に血縁者や知人がいるわけでも無い根無し草。それが前例の無い仕官を許され、その後山賊退治だなんだと分不相応に話題になっていたのだ。
それが正式に下知を受けた途端馬脚を現したのだ。敵情偵察の命を受け事もあろうに味方の城を物見して帰ってきたという。評価は反転し嫉妬が溢れ出た。
その一つが先程の小突きと罵声だ。下手に反論すれば教来石の監督不足と上司の落ち度にされる。それ故今は耐え忍ぶしか無かった。しかし泣き寝入りするつもりも無かった。
竜胆も静も周囲に接近する者は感知できる。それ故手を出してきた犯人は分かっていた。しかし反撃の一手を打つために必要な武功は、今少し待たねばならなかった。
そもそもその様な些事に心を割く余裕など竜胆には無かった。今回の合戦には初陣以上に重要な意味が竜胆にはあった。そして静もそれを重々承知していた。
それははぐれた仲間である雪の身柄の確保である。居場所は分かっている。諏訪の城中、その奥だ。移動している様子が無いから捕らえられているのかも知れない。
牢にでも入れられているならば落城のどさくさに救出すれば良い。敵方の女も言い方は悪いが戦利品になる。だがそれ以外の場合、手柄を立てて褒美の形を取る必要があった。
ならば誰の目からも明らかな、相応の手柄首が求められる。最上は質、次点で量だ。前途の多難さに曇り空を見上げため息をつきながら、ふと甲府に残した者達を思い出した。
竜胆と静が出陣したと言うことは居残り組は玉藻牛若梅子の三人となる。本来なら行動指針などを出すところであるが、竜胆は敢えてそれをしなかった。
理由は単純。玉藻を信頼していたこと。そして自分が現場にいないなら、いっそ思い切って権限を渡してしまった方が良い結果に繋がる事が多いからである。
そして玉藻は言われずともその事を重々承知していた。そしてならばこそ竜胆帰還時に只何もありませんでした、といった報告をする事はその矜持が許さない。
と言うことは無かった。というのも玉藻自身が作戦担当ということもあり、不確定要素を非常に嫌ったからだ。前提として竜胆と静が手柄を立ててくるのは確定である。
そこで自信の行動が原因で予期せぬ波紋が広がり、万一その手柄にけちが付いてしまったら。玉藻が恐れたのはそこであった。さらには、まだ二つの不安要素があったのである。
一つは戦国の世の価値観である。自力救済。武士道。そういった物に玉藻はまだ慣れていなかった。竜胆の現代価値観の影響もあるし、階層ごとの差もあったからだ。
もう一つ。こちらは慣れ親しんだ物だった。嫉妬と怨恨だ。嫉妬は予想していた。出る杭は打たれる。ぽっと出の余所者が目立ったことをしたのだから当然だ。
もう一つ。怨恨。こちらの方も厄介だった。竜胆と静が武芸を披露した際に大恥をかかされた。つまりは敗北したと言うことだが、これを根にもつ輩がいたのである。
原美濃守の様に出来た人間ばかりでは無いと承知してはいた。しかし、買い物に行けば供の者一人いないのかと聞こえよがしに嫌みを言われる。
寺へ書写へ赴けば道中で今まで書の一冊も読んだこともない無学者と後ろ指を差される。着物一つ取っても都気取りのお下りさんよ、と噂を流される。
その対象が梅子にまで及んだ際に牛若があいつ等皆殺しにしてやろうか、と呟いたのは決して冗談では無かった。むしろ当の梅子が牛若をなだめたのだ。
竜胆の資産を軍資金に使えば不逞の輩の領地を買い占めてやることも、人というか忍びの者を雇って相応の教訓を与えてやることも十分可能だったが、玉藻はこらえた。
それでも何も発散せずにため込めばそれは心の淀みになる。淀んだ心は腐臭を放ち心身を腐らせる毒になる。玉藻はなにがしかの形で気晴らしを考えた。
結果、三冊の白紙の冊子を買い込んできた。顔に疑問を浮かべる牛若と梅子に、この日記に嫌なことは全部吐き出して忘れてしまおうと提案した。
嫌なこと、我慢できないことため込まずには心の中から日記帳の中へと吐き出してしまえと言うことだ。以外にもいつもは引っ込み思案な梅子がこれにまず飛びついた。
続いて牛若もそれに習い、最後に残った一冊を持ち玉藻は文机に向かった。硯に墨を作り絵になるような美しい姿勢でさらさらと筆を走らせていった。
場面は再び諏訪への軍旅へと戻る。竜胆は静と今回の合戦での手柄目標を確認し合っていた。近くで聞いている教来石の郎党の顔には戦を知らぬ素人の夢物語と書いてあった。
「お互い馬は欲しいな」
周囲を見回せば相応の者は皆騎乗だ。
「ええ、主殿と私で二頭ですね」
「戦利品を運ぶ用もいるから最低三頭かな」
「鎧もそれなりの物を手に入れましょう」
出陣時に見た色とりどりの具足を見ても肩を守る袖、下腕には小手、太ももには佩楯、脛にはすね当てなど、胴体以外も重装備だ。
これに加えて兜の前立、矢を容れる空穂、家紋入りの旗に喉輪など装備だけでも足軽に毛の生えた程度の自分たちとそれなりの身分の方々とは隔絶した差があった。
装備だけでもその差。加えて領地を有する事で手に入る旗下の兵達。地縁血縁義理や貸し借りからもたらされる有形無形の助力や助言などなど。竜胆たちの前途は多難だった。
上を見れば切りは無いが、横も相応の物があった。やはり竜胆等が前例破りな上に悪目立ちしたこともあり、若手、特に今回が初陣の者達は鬼気迫るものがあった。
恐らくは父親や兄、上役等から
「余所者に大きな顔をさせるな」
「甲州武士の心意気を見せてやれ」
「断じてあのような者どもに遅れは取るな」
とでも言われているのだろう。竜胆はその様が手に取るように想像できた。そう言ったところは現代日本とあまり変わらないのだな、とある種の安堵を抱きつつ苦笑いをした。
実際、譜代家臣らの子弟にしてみれば面目というものがある。新参に武功を立てられ大きな顔をされては面目が立たない。この時代の面目は時に命よりも重いのだ。
一部の今年元服を済ませ初陣を迎えるものは尋常ならざるぎらついた目つきで時折竜胆等を見ていた。いや、それは最早睨み付けるといっても過言ではなかった。
もっとも、そういった事とは無関係は者どももいる。大多数を占める招集された農民兵だ。専業の侍や兼業の軍役衆に加え、武具を貸し出されて参陣する農民達だ。
彼らは手柄を立てても領地をもらえる訳では無い。むしろ怪我でもすれば自己責任、手傷を負うほど良く勇猛さを発揮したなどと感状をもらえる武士とは違うのだ。
では彼らはなんのために合戦に参加するのか。領主の命令。無論それもある。戦働きの見返りの年貢の減免は相応に魅力的だ。断っての村八分も相応に怖いが。
それよりも魅力的なのは現地での略奪だ。米は食料にも年貢の支払いにも使える。家具当の財産も嵩張らないものは小遣いにはなる。そして人間。これがカネになる。
親戚縁者が身代金を払って買い戻すならよし。それでなければ人買いに売り払ってしまえば良い。一人二貫から十貫文程度になるだろう。
普段鍬を握って田畑を耕し、血など見ない一般人を戦争へと駆り立てるには相応の理由が必要になる。近代以降は国家への帰属心が、戦国では即物的な欲がその任にあった。
一方の諏訪でも流石にこの頃には大騒ぎになっていた。隣国甲斐が数千の軍勢を集め馬を並べて諏訪へと西進しているのだ。何をするつもりか馬鹿でも分かる。
加えて南方高遠諏訪家の頼継も兵馬を集め杖突峠を越えようと進軍中という。ここへ来てさしもの楽観主義の頼重も急ぎ上原上に兵の招集を命じた。
しかし、その動きは鈍かった。誰しも乗るなら勝ち馬に乗りたい。負け戦の泥船に付き合うなどまっぴら御免だ。騎馬武者三百五十、徒士八百の数字がそれを物語っていた。
騎馬武者の比率が高いのはこの地に根を張り一所懸命の価値観を武士が持っているからであろう。そも、敗戦すればその領地も知行し続けられるか分からないのだ。
徒士が少ないのは逆の理由だ。特に専業では無い農民達に取っては連年戦続きの重税に加え領地も増えず飢饉の対策も取れない徳の無い領主に尽くす義理などないからだ。
そんな領主が東と南から挟み撃ちにされているという。諏訪は三万石の一郡、武田は二十万石の一国だ。これに高遠が加われば最早勝ち目など無い。
この時代の農民は葦に例えられることもある。どちら側と決めること無く、その時その時で自分たちにとって都合の良い方に付くという意味だ。
不義理と言う無かれ。これが彼らなりの処世術なのだ。しかしそれ故、勝ち馬を嗅ぎ分ける嗅覚は発達している。それが今回の勝者を教えていた。
諏訪勢はそういった浮き足だった状況にも関わらず大慌てで合戦の準備をしていた。米や矢などの必需品は日頃から城に備蓄してあるからまだ良い。
しかし問題は政務を執り行う麓の館から、籠城用の山頂の城へと引っ越しをしなければならなかった。平時は麓、戦時は山上、これは戦国の常識である。
甲斐では麓の躑躅ヶ崎館と山上の要害山城。山上は防御力は高いが政務を執り行うには不便だ。家臣に毎日出仕のために山登り指せるわけにも行かない。
そこで平時と戦時で城の機能を分ける事でこの問題に対応したのだ。これは六角氏の観音寺城などでも同様の処置がなされている。ごく一般的なことだ。
そして甲斐の軍勢を迎え撃つ上原城は甲斐から諏訪へと至る街道を見下ろす形で、丁度諏訪の町への関所の様な位置に築城されている。
そしてその位置に城が築かれているという事実こそが、かつての甲斐と諏訪の戦続きの関係性をこれ以上無く雄弁に今の世にて物語っていた。
今、その城はかつての威容とはほど遠い軍勢と、招集に応じない兵さえ出ているという地に落ちた士気の元で、かつての役目を果たそうとしていた。
そこへ更に凶報が飛び込んできた。諏訪大社下社の金刺氏が離反したというのだ。正に内憂外患。諏訪の地の命運は、誰の目にも明らかになりつつあった。
花粉の季節になりました。ツライ。
藤の花も咲いて来たのでそろそろ落ち着くハズなんですけどね。




