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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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幕間03 諏訪頼重

 天文十五年(一五四二)年六月十一日、この日諏訪は喜びと安堵に包まれていた。この地の領主諏訪頼重の嫡男寅王丸が初めて諏訪大社上社に参詣したのだ。


 諏訪大社と言えば信濃どころか全国でも有数の大神社である。流石に三種の神器をそれぞれ祀る伊勢神宮や熱田神宮には劣るが、それでも相応の格を誇る。


 日本最古の神社の一つと言われ、『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謳われているのは伊達では無い。同時に、この地の者は諏訪大社に縛られもする。

 それが証拠に、諏訪の惣領に就任するにはは大きく四つの条件がある。そのうち三つは諏訪大社に関わることだ。どれだけ根付いているか分かろうというものだ。


 当代の惣領諏訪頼重は表面は穏やかな笑みを浮かべ、内心では天を仰ぎ安堵の吐息をついていた。まだ二十代でありながら諏訪の地を統べる領主の懊悩は深かった。


 確かに表面は信濃四大将の一人ともてはやされてはいる。しかし川中島周辺を領有し最大の動員兵力を誇る村上、代々信濃守護に任じられている名門小笠原。


 更にはかの義仲公を排出した木曾に比べれば諏訪は当主では無く神社で持っている、などと口さがないことを言われるのも道理だ。実際領地は三万石。兵は千程度なのだ。


 そんな諏訪に転機が訪れた。武田先代信虎は北の佐久、東の北条、南の今川に西の諏訪と四方に敵を抱えることの無理を悟り、外交方針を転換したのだ。


 今川諏訪と婚姻を結び北条と和睦し北の佐久へ注力する。実に合理的な判断だった。結果として現当主頼重の正室として信虎の息女禰々が嫁いできた。


 そして懐妊。今年の四月には出産、それも男子。嫡男である。次代は諏訪と武田の血を継いだ者。それは二国の友好の証として数十年の安定を約束する筈だった。


 しかし、それに影を差すような出来事も立て続けに起こっていたのだ。まずは正月に行われる蛙狩りにてそれは現れた。毎年元旦に行われるその年の吉凶を占う行事である。


 本宮境内を流れる御手洗川にて蛙を採取し神前に捧げるのであるが、その採取された数が今年は異常に多かったのだ。諏訪ではこれは凶兆とされている。


 次は四月だ。嫡男の誕生。本来ならば国を挙げて喜びに沸き立つ筈だが、城内では大騒ぎになっていた。無事に出産を終えた姫が叫び声を発し大暴れを始めたのだ。


 我が子を抱くどころか投げ捨てようとさえしたその有様に、武田領から付いてきた侍女達は顔色を無くした。その場は産後の動転であろうとお茶を濁された。


 しかし、その症状は一向に改善せずむしろ悪化の一途を辿った。そして事あるごとに兄に会いたい、兄に会いたい、と漏らすようになった。


 これには甲斐から付いてきた者達も途方に暮れた。武家での婚姻は民百姓のそれとは重みが違う。家と家とのつながりなのだ。いざとなれば運命を共にする覚悟が求められる。


 事実、関ヶ原の折にも真田家では兄弟がそれぞれ豊臣側と徳川方双方から嫁を貰っていたが、どちらも嫁の実家側へと参戦している。それほどの物なのだ。


 もっとも、当の姫に関して弁護の余地はあった。何だかんだ言っても、まだ十五にもならないような小娘なのだ。それが家を背負い他家へ嫁ぐ重圧、誰に理解できよう。


 加えて実家では兄が父を追放し、新たに当主の座に付いたという。無論、諏訪に嫁いでいた禰々には一言の相談も無かった。情報漏洩を考えれば当然だが。 


 そして懐妊、出産しそれは待望の男児であった。大きな山を一つ越えたのだ。どこかで緊張が限界に達してしまったとして、誰に責められようか。


 そう結論に達した周囲の家臣等の手によって、産後の気疲れとその静養の名目で城内の奥まった一室に事実上の幽閉の形が取られたのも、仕方の無いことではあった。


 無論、夫婦の有り様としては歪である。しかし、政略結婚というある種同盟関係の契約書ならぬ証人なのだ。ある種外交官としての役割さえある。

 

 ならばそこに愛など不要である。むしろ邪魔者。冷厳たる損得勘定があれば良い。それは無情と言われるかも知れない。そのために寵愛を受ける側室が存在するのだ。


 そして城内の不穏の種は一つでは無かった。諏訪大社上社神長官の守矢頼重との間でも衝突が発生し、またそれ以外の問題も発生していたのだった。


 まず諏訪大社上社が御柱祭の費用として用意していた銭の一部を戦費として徴収した。毎年合戦はするも領土が増えないため財源不足に陥っていたのだ。


 続いて神長官の守矢頼重と禰宜太夫の矢島満清との対立が続き頼重は守矢の肩を持った。このため矢島とその派閥である諏訪西方衆との間にしこりが発生した。


 加えて頼重の近習衆と諏訪西方衆の喧嘩に介入し近習衆に有利な裁定を下したため、西方衆との間には明確な亀裂が発生することとなってしまった。


 加えて諏訪惣領の座を狙う上伊那の高遠頼継の蠢動に近年の飢饉による領内の疲弊もある。諏訪には暗雲が重く立ちこめ、明日の身の振り方を考える者さえ出始めていた。

  

 主立った物だけでもこれだけある。加えて諏訪湖にて他国の忍びが発見されたの、その数日後には夜半居城に賊の侵入を許した挙げ句捕縛に失敗、数名が死傷した。


 その直後から日中やたらと鴉が居館周辺に飛来するようになり、またそれと同時に正室の精神も安定の兆しを見せるようになったため、家中では不穏な噂も聞かれた。


 また先年来の事案としては佐久の領土問題もある。上野の上杉氏が佐久へと攻め寄せた際に武田は代替わりの混乱で動けまいと一肌脱ぎ和睦にこじつけたのだ。


 しかしこれも家中にはやれ武田に対して事前の通告が無かった、やれ線引きし直した領土では武田が損をしているがその事に了解を取っていない、との批判を浴びた。


 総じて内憂外患ならぬ、内憂内訌の状態であった。それでも諏訪頼重は事態をどこか楽観視していた。武田が諏訪の後ろ盾になってくれるからだ。


 確かに諏訪家は武士の道徳観からすれば正妻の実家に義理立てする義務を負う。しかし同時に武田家も、先代の娘、当代の妹の嫁ぎ先を支援する義務を負う。


 諏訪は石高三万石程度の小国に過ぎない。しかし武田ならば石高は二十万石を越える。さらには領内に金山を複数保有している。ならば実質石高はいかほどか。


 嫁の実家は自国の十倍の戦力を誇る。それがいざという時には支援してくれる。これが三十前の当主としては経験不足といわれかねない頼重の気を大きくさせていた。


 それに先に挙げた領内の摩擦の数々も、頼重は然程重要事とは思っていなかった。今の苦境は一時的な物であり、戦に勝利さえすれば熨斗を付けて返せると思っていたからだ。


 確かに、諏訪大社の祭礼の資金を一部無心はした。しかし新たな領土を獲得すればその一部を寄進、ないし税収から補填すれば良かろうと考えていた。


 守矢と矢島の対立においては、御柱祭りの

費用に守矢の反対意見を押しのけて手を付けだのだ。その上更に矢島の肩を持っては釣り合いが取れなかったのだ。


 近習と西方衆の喧嘩も依怙贔屓などしたつもりは無かった。双方の言い分をそれぞれ聞いて判断した結果、西方衆には不満の残る結果となっただけだ。


 上伊那の高遠頼継の件は同族だけに頭の痛いところだが、上伊那全体で石高は五万国程度である。武田の後ろ盾さえあればどうとでもなるはずだった。


 それに頼継も単身で上伊那を領有しているわけでは無い。ならば今後諏訪が領土を広げることに成功すれば大きな顔はもう出来なくなるであろう。


 それでも賊の侵入の件は頼重の心に影を落としていた。結局配下を数名失い、賊にはまんまと逃げおおせられたからだ。しかもその賊は数名の女子供であったという。


 これは流石におとがめ無しとは行かず当日の警備担当者の蟄居騒ぎにまでなった。頼重は次の合戦での手柄にてその失態と相殺する心づもりであった。


 上杉との和睦の件もそうだ。もともとは武田諏訪村上の連合軍に追い払われた佐久群国衆滋野一族を復帰させようと関東管領山内上杉憲政が碓氷峠を越えてきたのだ。


 武田は代替わりの混乱で動けず、村上も出兵しなかった。結局諏訪単独での出陣となり上杉勢と相対することになってしまったのだった。


 本来ならば敵地で倍数以上の敵と対陣したのだ。一敗地にまみれてもおかしくは無かった。しかしここで上杉家家臣団の間で内紛が勃発したのだ。


 加えてそれを見た相模北条氏が北上を開始、扇谷上杉氏を攻撃し始めたのだ。こうなってはまず足下の火消しをしなければ取り返しの付かないことになる。


 慌てて山内上杉氏は諏訪と和睦し引き返していった。この件で一兵も出せなかった武田に対して諏訪は貸しを作ったのだと、頼重はそう考えていた。


 この件で武田が問題視するとすれば、佐久地域の武田領に手を出したことで武田と山内上杉が断交したことであろうと考えていた。佐久制圧には今後山内上杉が立ち塞がる。


 そもそも、山内上杉と武田は晴信の前妻が山内上杉氏の出身と言うこともあり良好な関係だったはずだ。しかし、それは先代信虎の代での話。


 その信虎を一言の相談も無く追放したため晴信は山内上杉家からは不審の目を向けられ、結果として友好国を一つ失い敵国を一つ抱える事となってしまった。


 それでも、諏訪頼重は自国の将来を楽観視していた。今年恐らく武田は失った領土を取り戻すため佐久に出兵するだろう。それに与力し諏訪も領土を広げるのだ。


 そうすれば、国も潤い民も飢えず家臣たちの不満も和らぐだろう。結局の所、合戦に勝ち領土を広げ国を富ませる。戦国大名はこれができるかどうかなのだ。


 領土が広がれば兵も増える。その兵を使い更なる領土を獲得する。自国の将来が安泰と分かれば家臣も多少の不満は我慢しむしろ同輩の不満を進んでなだめてくれる。


 それが出来る者が生き残り、それが出来ぬ者は滅び去る。それは単純ではあるが、それだけに無情な戦国時代の一面の真実であった。無論、頼重もそれを重々承知していた。


 確かに連年の凶作と出兵で領内は疲弊している。しかし、ここが勝負所だと諏訪頼重は考えていた。ここで相応に出来るところを見せねば諏訪に未来は無いと。


 諏訪の次代は武田の血を引く。そして武田と諏訪の力関係は圧倒的に武田が上なのだ。そしてもし、もし万が一、武田がその力を背景に諏訪へと圧力をかけてきたらどうなるか。


 嫡子寅王丸の元服と同時に頼重殿は隠居されよ。後の事は我ら武田家に任せてごゆるりと余生を過ごされよ。そう言われた時、果たしてはねのけられるのか。答えは否だ。


 弱小国の領主として、頼重は自分の置かれた立場と為さねばならぬ事を承知していた。たとえそれが綱渡りだったとしても、為さねばならぬ事はあるのだ。


 それ故、その日六月二十四日に家臣からもたらされた急報を頼重は信じなかった。御柱祭りの準備を進め上社の遷宮行事が終わったところにその知らせはもたらされた。


 武田、甲府を出陣。諏訪へ向かって西進中。更にこれに高遠諏訪頼継と西方衆らからなる諏訪大社下社の面々も同調する模様。

 あきらかに、諏訪を攻略目標にしていた。


 人間にはある段階を越えると信じたくないことを信じなくなる習性がある。このときもそれが発生した。頼重はこの第一報を誤報と断じ対策を取らなかった。


 軍勢を招集したのは四日後の二十八日になってから、その間に武田は諏訪に接近し高遠勢も杖突峠を越え諏訪に侵入していた。諏訪の地が、戦火に蹂躙されようとしていた。

 年度が改まり、この物語もようやく動き始めます。

 ここまで長かった。テンポは本当に課題です。

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