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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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41 帰還して

 甲府帰還後の竜胆一行を待ち受けていたのは、失笑であった。敵地の潜入偵察を命じられておきながら、間違えてお味方の城を偵察してきた間抜け者。


 人の口に戸は立てられないとはよく言ったもの。竜胆が報告した翌日には噂は甲府を駆け巡っていた。今まで応援してきた人が掌を返したように嘲りの笑みを浮かべてくる。


 静や牛若はその様に憤慨していたが、竜胆はそんなものだと流し、梅子は常の通り平然とし、玉藻はころころと亀裂のような笑みを

浮かべていた。


 もっとも、全員が全員掌を返したわけではない。宿の女将、積翠寺の一部の修行僧、寄親たる教来石とその郎党、ほかにも幾ばくか態度を変えぬ者達がいた。


 結果として竜胆の付き合いはかつての四半程度にまでなってしまったが、本人達に残念そうな気配はまるで無く、むしろ選別が出来たと晴れ晴れとさえしていた。


 もっとも、それはあくまで当人とその周辺での話である。それ以外では竜胆の今回の失態は歌会乱入以後の溜飲を下げるものとして格好の話題になっていた。


 ーーあの新参、やらかしたそうじゃの

 ーーお味方の城を物見してくるとは

 ーー敵味方の区別もつかぬ素人ではな

 ーーそもそもが氏素性定かならぬ他国者よ


 それは、歌会の警固にあたっていた者どもよりも、むしろその場に居合わせず伝聞でしか竜胆らの事を知らぬ手合いの内でより聞くに耐えぬものとなっていた。


 ーー役宅に住まず宿にて豪遊三昧とか

 ーー元服前に妾を四人も囲う色狂いよ

 ーー髪結いも済まぬ童女も囲っておるとか

 ーーあれが侍であるものか


 悪人の害意より、善人の嫉妬は表だって排除しにくい分数倍たちが悪い。むしろ対処されないのを良いことに増長し尾ひれ背びれを付けた噂を流すものである。


 得体の知れぬ他国者が横紙破りな形で仕官を許され、隣国への余計な挑発になりかねないため表だって兵を動かしにくい国境周辺での治安活動で実績を上げた。


 それがつましい生活をしている武芸者求道者のたぐいならまだ納得も得られたであろうが若い女を複数侍らせて優雅に旅籠暮らしとなれば、陰口の一つも叩かれよう。


 それは侍衆の間だけではなく、町人の間でも広まり始めた。否、むしろ町人連中の方が本人を遠目に見るだけでその技量を伝聞でしか知らぬ為想像で物を言う傾向が強い。


 ーーいや始めから難しいと思っていたよ

 ーー余所者では甲斐の流儀がわからぬか

 ーーそもそも流れ者だしなあ

 ーー婆娑羅気取りの子供だもの


 さらに付け加えるならば悪い噂は良い噂の十倍の速度で広まるもの。甲府の町中を竜胆等が歩くとひそひそと小声で後ろ指を指してくるものも出始めた。 


 それに何も対処せぬどころかむしろ歓迎する節さえあった玉藻と竜胆に他の者は不審の目を向けたが、ある晩宿の一室にて解説を聞き苦笑いと共に納得したのだった。

 **********

 春の暖かさから夏の暑さへと季節の移りつつある甲府、躑躅ヶ崎館の一室で、教来石は平伏し視界に広がる畳みの目も気にならないほどに緊張していた。


 白樺が帰還した後はその首尾を報告しに来るように。字面だけならば、部下の仕事の結果を上司の前で披露する中間管理職だ。しかしその相手が想像を超えていた。


 誰が仕官間もない若造の報告を武川衆を率いる、武田典厩に報告する事になろうと思おうか。その兄君は武田家当主武田晴信公その人である。


 その場には取り次ぎ役として駒井高白斎、武田家にその人ありと名高い武人原美濃守も同席している。何か裏があるのではと、勘ぐらなかったと言えば嘘になる。


 今ならば冷や汗も夏の訪れのにより汗ばんでいるからと判断さるやもと一瞬考え、教来石は己の内心のその弱腰を叱咤した。それが侍たる者の心構えかと。


「苦しゅうない。面を上げよ」

 その葛藤が静まるのを待っていたかのように声がかかった。教来石は声に従い平伏する体の角度をわずかに上げた。 


「役目大義。では白樺の物見の結果を」

 単刀直入に用件が切り出された。戦国大名は優雅な暮らしをしているかのような幻想を持たれているが、そんなことはない。


 立法司法行政の三権の長に加え国軍の最高司令官でもあるのだ。その時間は日照りの雨よりも貴重である。前置きが必要とされるのはそれが慣習として存在する場合だ。


 無論、今回はその場合にはあてはまらない。教来石は速やかに持参した文箱を前へと押し出した。それを駒井が受け取り上座へと運んでゆく。


 晴信の前まで立ち膝で進んでゆき、そこで一度平伏すると文箱の蓋を開け中身を取り出し並べて行く。途端、場にどよめきが走った。あまりに想像とかけ離れていたからだ。


 この時代の絵図面とは簡易な地図を指す。現代から見れば子供のお絵かきにしか見えぬようなそれも、建物の配置や地形、田畑や森の分布が分かれば十分なのだ。


 しかし、牛若の描いたそれはあまりに異質であった。絵図面という報告書でありながら、絵画として美術面での価値も見いだせる代物であったのだ。


 想像してみよう。画用紙に黒の輪郭線を絵の具で描いた上で色を置く水彩画を描いているクラスの中に、一人だけカンバスに見事な油絵の写実絵を描く生徒がいたらどうなるか。

 しかもそれはただ美しいだけでは無かった。偵察の要件を完全に満たしていた。一目見ただけで拠点の規模、防備、施設配置が手に取る様に分かるのだ。


 そして見た者が驚いたのはそれだけでは無かった。道中の街道、村落、それも実際に歩いている時の絵から山中から遠望したらしき物までさまざまだ。


 実はこの報告に先立ち、海ノ口城の守備隊へは伝令が使わされていた。近日不審な出来事は無かったか、と。返ってきた答えは否、であった。


 目立ったことと言えば先日女ばかりの旅の者が麓の村を通過し佐久方面へ向かっているが、特に怪しい動きはしていなかったと報告してきたのだ。


 それが何を意味するか。竜胆一行は白昼堂々城の防備状態を偵察し、しかもそれを守備隊に察知されること無く帰還しているのだ。無論、武田の忍びの警戒網もくぐり抜け。


 一瞬、沈黙が支配した。その後、誰からともなくため息を漏らした。同時にある懸念が生まれた。これだけの技量を持つ者が他国へと流れたらどうなるか、と。


 教来石、と晴信が呼びかけた。身分差を考えれば直答どころか間に一人挟んでのやりとりで十分なはずなのに、だ。教来石は身を強張らせ次の言葉を待った。


「白樺、と言ったか。決して他国へ逃がすでないぞ」

 はは、と平伏したまま答える。その返事を聞くと晴信等は去って行った。


 残ったのは教来石、駒井、原の三名であった。指揮経験のある吏僚、戦場一筋のもののふの二名より具体的な指示が出されると言うことだ。


 それは同時に、もともと今日この場で白樺に対してどういう沙汰が下されるかが決まっていたと言うことでもある。教来石のこめかみの汗は、暑さのせいでは無かった。


「さて、白樺には四人女がいたな」

 駒井が口を開いた。そのまま返事を待たずに言葉を続けた。

「うち二人は常に甲府にあるように」


 聞いた瞬間に教来石の心に走ったのはまさか、の思いであった。出された指示はとりもなおさず妻を人質に取れ、の意であったからだ。そして下知はもう一つあった。


 人質に取る。江戸時代に置いても大名はその妻子を人質として江戸に住まわせる事が義務づけられていた、いわば反乱予防策の一つである。


 しかし、それは国衆などの広大な領地を持ち、単独で数百の兵を編成できる様な「大物」に対して為される措置である。領地も持たぬ若造に対しての措置では無かった。


 それでも、下知は下知である。平伏したまま承諾の意を返しながら、内心ではさてこれをどうやって伝えたものかと頭を悩ませていた。気の早い蝉の声が、やけに耳に付いた。


 元来、教来石は不器用な性質である。史実では今川家を滅ぼした際にこの様な者があるから尚武の気風が廃れるのだ、と戦利品の書画骨董などの重宝を火にくべた程だ。  

 

 その様な男が頭を悩ませたとて小細工など出てくる物では無い。結局の所、正面から真っ正直に伝えることにした。白樺の常宿へと使いの者を走らせた。


 明後日教来石の来訪があるゆえそのつもりでいるように。そう顔見知りの郎党に伝えられた竜胆はついに来るべきものが来たか、と天を仰いだ。


 信賞必罰は組織の基本である。手柄を立てたのに褒美が無くては士気が振るわない。逆に失態を犯しても罰則が無ければ規律が緩む。ならば今回はどうなるか。


 竜胆はまず最悪を予想した。打ち首になることは無いだろう。ではどの程度か。棒叩きや罰金、行動制限、侍身分から中間身分へと格下げされての修行を想像した。


 また、一番ありそうな可能性として普段は農村で百姓をし、いざ合戦時には年貢の減免と引き換えに武具を整え戦力としてはせ参じる軍役衆化を予想していた。


 そして実際に下された措置は二人は甲府に置いておくように、と言う物だった。竜胆は即座にこれが人質を取られたのだと理解した。しかし、即座に受け入れた。


 宿の一室で対面し、それを告げてきた教来石の表情を見たからだった。諦観と覚悟と疑念とその他。内心の葛藤を隠せないそれを見てしまえば、受け入れるしかなかった。


 しかし竜胆はその前に確認しておくべき事があった。

「それでは民部卿様。誰を残しましょうか」

 瞬間、教来石はきょとんとした顔をした。


 最初は何を問われているのか本当に分からなかった。しかし竜胆の説明を聞き深刻な顔つきになっていき眉間に皺まで寄せ始めた。相応の内容だったからだ。


 竜胆の言い分はこうだ。静が武力を、玉藻が策を、牛若は偵察を、梅子は治療をそれぞれ得意としている。ではどの二人をとどめ置くか決めてくれと言うのだ。


 役割分担の決まった部隊から半数近い人員を待機させるのだ。実際の戦力は半減どころか三分の一以下になるだろう。だがそれが命令、ないし失態の代償なのだ。


 教来石も頭を悩ませた。そこで発想を逆転させた。誰を残すか、ではなく誰を連れて行くかに。その瞬間に答えは出た。

「静以外で好きにせよ」


 その言葉を聞いた瞬間の竜胆等の感想は、ああやっぱりか、というものだった。実際、牛若と梅子は外見からして子供である。あまり物騒な所へ連れて行くのははばかられた。


 しかしその二人だけでは万一と言うこともある。引率兼お目付として玉藻も残り、必要があれば静と交代するのだろうと、全員揃ってそう思った。


 雰囲気から竜胆一行に今回の沙汰が受け入れられ、かつおおよその方向性も決まったことを察した教来石は所定の用件は達成できたと判断し席を立った。


 宿の入り口まで見送りに来た竜胆等をこれ以上は無用と手で制すと教来石は竜胆に顔を近づけ二言三言言葉を交わした。瞬間、竜胆の顔が強張った。


 それを見た教来石はではな、と告げ供の者どもと去って行った。見送り無用と言われはしたが、竜胆等は宿の前まで出ると姿が見えなくなるまで頭を下げていた。


「旦那様、何を言われたか教えて下さいまし」 

 見送り後部屋に戻ると竜胆に玉藻がそう問いかけ、他の者も聞き耳を立てた。


「具足の用意はあるかと聞かれた」

 竜胆の建前上の手持ちは足軽の使うような山賊からの戦利品の胴丸である。同時にその質問は、合戦が近いぞとの意でもあった。

 

 そろそろ物語を動かせそうですね

前置きが長すぎなんですよね。

どうやってテンポよくしたものか……

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