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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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39 潜入偵察

 小康状態にある敵国に潜入し地形をさぐってこいと言う任務は、当たり前の話ではあるが難題な様に見えて実は相当数発せられる命令の一つである。 


 敵地に侵攻する前にその地形を調べないような馬鹿はいない。天の時地の利人の和と、戦争の勝敗を決するとされた三要素の一つなのだ。まともな指揮官なら詳細に調べる。


 しかしそれは命令を出す側の話である。命令を出される側にとってはそれは何を意味するのか。手探りな上に怪しまれぬ為軽装備、支援も見込めず、失敗すれば死である。


 つまりは試金石にはもってこいの任務である。ホームではなくアウェーにて、一体何処までの戦果を期待できるのか、という類いの。そして竜胆もそれは十分承知していた。


「さて、牛若くん。今回の鍵は君なのだが」

 瞬間、牛若の背に悪寒が走り鳥肌が立った。竜胆が猫なで声を上げるときは厄介事の知らせだからだ。


「で、俺は何をさせられるのさ兄貴」

 半眼で軽く睨みつつ牛若は先を促した。

「何、地図を書いて貰うだけさ」

 実にあっけからんとした答えだった。


「冗談じゃない、超過勤務だ」

 牛若は両手を振り上げうがー、と抗議の声を上げるも竜胆にあっはっはと流されさらに機嫌を悪くした。


 一枚二枚ならまだしも、各種取りそろえ数十枚を一人で描き上げろと言われれば抗議の一つもあげたくなるのが人情という物だ。竜胆もそれは十分承知の上での事だ。


 ならばなぜ、そう疑問に思ったのは静であった。そして何かを問う前に竜胆が懐から出した紙切れをちらりと見てその口を閉じた。玉藻もあらまあ、と声をあげた。


 背伸びして手元をのぞき込もうとしている梅子に気付いた竜胆は膝をかがめるとその手の紙を差し出した。それを見て梅子もあー、と呻きとも嘆きともつかぬ声を上げた。


 三人にここまでの反応をさせる物は何かと怪訝な顔をした牛若もそれを目にし、そして今度は怒りの叫びを発した。

「何なのさ、それ。おかしいでしょ」


 牛若は目にしたものは地図であった。但し、この時代の。絵図面と言えば聞こえは良いが、山や川、人家や田の描かれた子供の風景画とも昔話の背景とも取れるような代物であった。


 牛若は考え無しである。考え無しであるが一行の情報担当である。情報の取扱には人一倍うるさかった。それゆえ、いい加減な仕事には怒りさえ覚えた。 

  

 等高線も地図記号もない地図。子供の落書きのような地図。何か事情があって時間が無い中での結果ならばまだ理解できる。我慢もしよう。


 だが、これが本来の形とはどういうことだ。いいだろう。よく見ていろ。地図の書き方を教えてやる。牛若の純粋故に無慈悲な心に火が付いた。


 考え無しだからと言って、感情がないわけではない。むしろ何かあった際に即座に沸点を超えるという意味で、下手に屁理屈をこね回されるより余程厄介である。


 もっとも、火を付けた当の竜胆は牛若のその有様に笑みを浮かべると左の拳を腰だめで握りしめていた。それを見て静は苦笑を浮かべた。素直に頼めば良いのにと。


 そんな竜胆の方へ牛若は姿勢をそのままに首だけぐるりと回して視線を向けた。半眼の上に圧を込めて睨んでおり、敵地でもないのに空気が張り詰めた。


「兄貴、こんな事しなくても仕事するから」

 その言葉に竜胆は自分の小細工が全て牛若に見透かされ、その上で乗って貰った事を知った。子供だましでは、子供もだませない。


 竜胆は天を仰ぐと姿勢を正すと頭を下げ済まない、と一言絞り出した。

 梅子がとことこと歩み寄りその頭をペちりと叩いた。それで仕舞いとなった。


 所変わってその頃甲府の一角にある武家宅では教来石が庭先で郎党を相手に剣術の稽古を付けていた。武家ではいざという時に備え日頃の訓練も必要となる。


 そこで稽古の合間に郎党の一人がこんな質問をした。

「旦那様、あの白樺とかいう子供はどうなさるおつもりで」

  

 山賊退治をしてまわっている新人など物珍しく噂の種になる。ましてそれが女子供の集団とならば尚更だ。じっさい、他の者も耳をそばだてていた。


「うむ、寄子として配された以上は次の戦の折には相応の指南をしてやらねばなるまい」

 つまりは配属された新人に鞄持ちをさせて指導すると言うことだ。


 無難な模範解答であったが郎党が知りたいのはそれではなかった。無論、教石自身もそれには気付いていた。しかし、物事には機というものがある。


 情報一つにせよ出すには慎重さと判断力が求められる。教来石は言外にそう答えたつもりだった。もっともそれに気づけた者は半数もいなかった。


 あの白樺ならば気づいたやも知れぬな、と数度会話した反応から得た感想を抱いていた。もっとも、あの貴族風の女なら確実に気づいたであろうなと感慨を付け加えた。


 敢えて先触れを伝えずに訪問した際に竜胆不在時にはあの女が応対してきた。その際言葉を交わしたが裏の意味を平然と察し、そして返してきた。


 女でなければ謀臣として自分の配下に欲しいくらいだ、とその際に感じたことを思い出していた。武辺者の多い家中にあっては頭脳労働担当は育成中で引く手あまたであった。


 もっとも、と教来石は思い直した。あれは白樺の手下の者。他家なら兎も角、家中同士での引き抜きは厳禁事項である。また、白樺手下ならば間接的には自分の配下でもある。


 そして今白樺らが居るであろう北の方角へと顔を向けた。冬の寒さから春の暖かさへと季節が変わったことを示すように、数羽の鳥が鳴き声を上げながら飛んでいた。


 そして場は再び竜胆一行の所へと舞い戻る。当初想定していた障害は三つ。国境の関所、敵方の忍び、向背定かならぬ民衆。その一つ、国境の関所が近づいて来ていた。

 

 牛若からの報告でそれを察した竜胆は、一つ頷くとそのまま真っ直ぐに歩み出した。街道を外れて、眼前にそびえる山へと真っ直ぐに。途端に他の面々が顔をしかめた。


「うへえ。またやるの、兄貴」

 声色と態度で嫌だ嫌だと抗議しながら牛若が一縷の望みをかけて聞いた。

「もちろんじゃないか」


 何を当然の事を、と言わんばかりに即答した竜胆に一行はそれぞれ顔を見合わせることで答えた。内心、やるだろうなと思ってはいたのだった。


 もっとも竜胆の行動にも一理はあった。貴族風武家風腕白な子供に童女と竜胆以外は女ばかりの一行である。訳ありだと幟を掲げているような集団だ。


 それが今回は現地の地勢調査と言うことで大量の筆記具を持参している。見るものが見れば、何を目的としているかは一目瞭然だろう。芸人などに化ける事も難しい。


 ならばいっそ、そう考えた竜胆を安直、芸が無いなどと責めるほど無粋な者はこの中には居なかった。小細工を弄するより、力業で突破する方が有効な場合もある。


 実際問題として、関所で見とがめられ役人が自分たちを女と見て下心などを抱いた場合、殺さずに済ます自信はなかった。自分ならまだしも、仲間なら我慢は出来ない。


 数度の目配せでそれを確認すると全員表面上は苦情もなく山へと分け入っていった。

「そもそも昨日その話したよね」

 竜胆の声がむなしく響いた。


 この時代は山道と行っても舗装された登山道があるわけではない。獣道どころか道無き道を行く風情である。先頭の竜胆は鉈を振るって小枝や藪を切り払いながらである。


 当然、速度はがくりと落ちる。まさか野宿はあるまいが、の懸念が頭をよぎった瞬間に牛若は動いていた。よっと一声挙げると手近な木の枝に飛び乗っていた。


「こっちのが早いよ、みんな競争」

 言い終わるより先に次の枝へと飛び移っていた。方向は分かっている。道に迷う心配も無かった。


 ああもう、と竜胆が嘆くよりも先に静と玉藻もそれぞれ地を蹴って飛び出していた。折角の冒険者気分が台無しだ、と呟くと竜胆も梅子を両手で抱えると枝へと飛び移った。


 もとより身体能力は人外の境地にある一行である。おとぎ話の忍者の真似事など造作も無い。むしろ牛若が郊外でごっこ遊びのお題していたぐらいである。


 結果、猿の如くどころか猪を置き去りにする勢いで怒濤の山越えが敢行された。人目を気にして街道をてくてく歩いていたのが馬鹿らしくなるほどの速度であった。


 実際静と玉藻は着物の裾を枝葉に引っかけぬよう気をつけながら今後の遠征は山越えで時間短縮をして余った時間をどう使うべきか、などと相談する始末であった。


 ここで一番苦戦していたのはやはり竜胆であった。二人分の荷物と体重である。枝ではなく木の幹を蹴っての移動である。道筋の選定一つとっても難儀していた。


「はい、ここらで休憩休憩」

 開けた沢を見つけると付近に着地し、そう牛若が宣言すると静と玉藻もそれに続いた。竜胆は最後である。


 梅子を立たせると自分は腰を下ろし竹筒の水筒から水を呷った。筒の上の穴からちょろちょろと水が出る形になるので、慣れない内は授業料として顔や胸元を濡らす事もあった。

 そうして休憩している間にも牛若は鴉を四方に放ち情報収集と警戒に当たっていた。現在地は甲斐から信濃へ少々入った辺り。西の八ヶ岳を越えれば諏訪へと至る。


 ここまでは問題なくたどり着けた。ならば次はどこまで進むか、が問題となってくる。そこで受けた指示の「国境から少々進んで」が問題となった。


 普通なら村を二つ三つ偵察すればそれでお役目は果たしたことになるだろう。しかし自分たちの実力、言い換えれば利用価値を売り込もうとする時にそれで良いのかとなった。


 少々などと曖昧な表現をされているのだから、及第点からさらに「少々」足を伸ばしても良いだろうという意見だ。これに全員が賛成した。ならばどこまでいくか、の問いには城一つ、で一致した。 


 これには流石の竜胆も口元をひくつかせた。道中の村を少々偵察するついでに、勢いで敵城も物見し、見取り図くらいは作ってしまえと言うことだと理解したからだ。 


 喉元まで出た声を、竜胆はすんでの所で飲み込んだ。理由は二つ。自分たちならば可能であること。竜胆の将来を考えての意見であったことであった。

「ええ、ようございます。それでこそ旦那様でございます」

 笠の下で表情は見えないながらも、その声色は玉藻の忍び笑いを雄弁に物語っていた。


 内心の葛藤まで筒抜けになっているのは、時に人を羞恥の底なし沼へと突き落とす。今の竜胆が正にそれであった。顔を背け荒々しく立ち上がると歩き始めた。


 女達は顔を見合わせるとくすくすと笑い声を上げそれに続いた。今度は牛若が梅子の手を取った。姉貴風を吹かし共に木々を飛び回るつもりらしい。 


 玉藻がそれに続き静が殿を務める。今度は山の中腹辺りの森を進もうとしていた。そうすれば眼下に麓の街道集落の様子を確認でき、なおかつこちらの姿は木々に紛れるのだ。


 竜胆は半ばふて腐れながらも頭の中には地図を広げていた。甲斐から信濃へと抜けた際に手頃な偵察対象となる城は何処があっただろうか、と。


 時代劇好きとしてはこの辺りの歴史や地理もある程度は知っている。今こそ芸ならぬ趣味に身を助けて貰うその時であった。竜胆は記憶を漁り続けていた。


 長窪城は駄目だ。あまりに奥地過ぎる。

 志賀城、内山城も同様の理由で駄目だ。

 戸石城?先走りすぎだ。

 ならばどうする。どこを目標にする。


 そこで天恵の如くひらめきが降りてきた。あるじゃないか。武田に因縁が有り、ここ数年で攻城戦を繰り広げた城が。

「行くぞ。目標は海ノ口城だ」

 砥石崩れあたりまでは大まかな流れはできました。

でもそこに至るまでに書かないといけないことが……

あうう。

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