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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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38 再び国境へ

 遠征から帰還し旅の垢を落としたと思った束の間、竜胆たちには命令が下っていた。

 それは竜胆にとっては武田家からの最初の命令であった。


 そして同時に、その技量の程や不測の事態への対処能力も測る試験でもあった。

 それは双方共に暗黙の了解にて行われる、通過儀礼としての試験であった。


「でもさ兄貴、試験は良いけどこれ落っこちたらどうなるのさ」

 聞きづらいことも遠慮なく聞けてしまうのが考え無しの美点ではある。


「ん?戦闘だけの猪武者と認定されて、仕事の幅と将来が狭まるだけだな」

 はぐれた仲間を迎え入れる「場」を作っておくには都合が悪いと言うことだ。


 それでなくとも竜胆が民衆がならず者へとならずに済むよう「まっとうな領主」などという物を目指しているのだ。ここできちんと結果を出す以外の選択肢は無かった。  


 遠征の疲れを癒す間もなく、そう後世の軍記物ならば記述される所だろうか。だが当の本人達に取っては消化試合程度の感覚である。疲れらしき疲れはなかった。


 もっとも別の意味で問題はあった。それも二つも。一つは自由時間が削れること。家族同士の時間が削れることは確かに問題である。まして足下の定まらない時期であるならば。


 もう一つはより現実的かつ切実であった。風呂に入る機会が減ることである。女所帯である白樺家にとってはのきさしならない一大事であった。


 この時代は一家に一間風呂場がある訳では無い。そういったのは一部の階層だ。一般庶民はそれこそ六畳一間の長屋暮らしである。風呂といえば公衆浴場である。


 実はこれが竜胆一行の弱点でもあった。遠征に行く事自体は問題ない。だが野宿風呂無しなどとなると不平不満が尋常ではなくなるのだった。


 かと言って使用ルートを街道宿場町に限定すると言うことも出来ない。宿で風呂は使えるだろうが、自分たちの行動の幅を極端に狭めることになるからだ。


 結果として竜胆は全員を個別に拝み倒してでも遠征に行くことになる。勿論、その後の埋め合わせを約束させられた上での事であるのは言うまでも無い。


 では竜胆自身がそれに不自由を感じているかというと、そんなこともなかった。結局、双方互いに我が儘を言い合うためのダシに使っていたからだ。


 女性陣にしてみれば風呂に入れないのは確かに冗談事では済まされない一大事である。しかし、だからといって一人宿屋で留守番などという選択肢などあるはずもない。


 竜胆自身も不透明な状況の中女達の助力を得て手探りで進んでいる現在、家族に無理を強いているという負い目は常にあった。その代償として我が儘の一つなど安い物だった。


 結局の所、しゃんしゃんなのだ。竜胆は負い目の返済を求め、静を始めとした女達は自らの要望の受け入れを願った。下知やら何やらは、その切っ掛けに過ぎなかった。


 もっとも行くと決まれば白樺一党の動きは速かった。準備に手を抜かないのが竜胆流だ。竜胆自身の言葉を借りれば「あらかじめ用意しておいて取り出すだけ」であるが。


 まず動くのは牛若である。使い魔の鴉を放ち目標までの進路とその周辺状況を視察させる。協力者のいない状況では事前情報はほぼこれ頼りになる。


 続いて牛若は地図作成に入る。この時ばかりは普段の考え無しは鳴りを潜め、無表情で黙々と作業に没頭する。知らぬ人物が見れば別人と見まごうほどだ。


 その間に他の者は必要物資を調達、購入する。軽く見積もっても現金水筒保存食予備の草鞋に着替え毛布とござそして手拭い、鉈と鋤にそれらを入れる葛籠ときりが無い。


 加えて今回は地図作成が求められているから大量の紙に筆記用具、墨も現地で悠長に作る暇があるか分からないため、事前に作成し容器に封入し持ち歩く必要がある。


 それらを用意し終わってようやく第一段階だ。次の準備がもっとも重要なことになる。すなわち、行動予定を策定する作戦会議である。


 おなじみの宿の部屋で全員で車座になり、牛若謹製の地図を広げまずは命令内容を確認する。目的地が明確になれば、越えるべき壁と手札から採るべき選択肢が逆算される。 


 現状、越えるべき壁は三つである。

 一つ、国境の関所

 一つ、警戒しているであろう相手方の忍者 一つ、現地住民による監視、密告


 国境の関所が壁である理由は明白だ。不審者の自国内へ侵入を警戒しない国など無い。荷物検査も当然あるだろう。地図やら絵図面やらを発見されればことだろう。


 そして国境を越えて侵入してくる他国の密偵を警戒する任に当たっているのは正規兵ではなく、そういった経験のある忍者の類いであろう。


 最後に、そして最も厄介なのは現地住民の監視網と密告である。国境の村々は半手といって敵対する双方の大名に年貢を半分ずつ収めている場合がある。


 どちらの支配下にもあり、どちらの支配下でもない、いわば緩衝地帯のような村の事である。こういった場所では時と場合に応じ事態がどちらへ転ぶか分からないのだ。


 このうち関所を突破する方法は簡単だ。山越えをしてしまえば良い。実際、諏訪から甲斐へ移動する際も竜胆一行は山越えを行っている。


 警戒する忍者への対処も然程の問題は無い。脅威度に関しては先だっての山賊連合の方が一度に投入される数の分高いほどだ。あとは食事と飲み物に気をつけさえすれば良い。


 だが現地住民への対処は困難だった。征服すれば自国民となるのだ。将来に禍根を残す可能性を考えればあまり手荒なことをするわけにもいかない。


 かといって放置するには不確定要素として大きすぎる。結局必要以上に刺激しない、決して自分たちから攻撃しない、基本的に友好姿勢を維持する程度しか対策はなかった。


 そして竜胆たちが顔を突き合わせて対策会議を行っていたその日、甲府の別の場所でも

会議が行われていた。もっともこちらは参加者も議題もまるで違う物だったが。


 躑躅ヶ崎館の奥まった一室。選りすぐられた警固の物以外は近づくことさえ許されぬ場に、その男達は集まっていた。名実共に武田家の中枢を担う人物達だ。


 上座に座るは武田左京大夫晴信。言わずと知れた武田家の当主である。その隣には弟たる左馬助信繁が控える。左馬助の唐名である典厩の方が通りは良いか。


 続いて筆頭家老たる板垣駿河守信方、甘利備前守虎泰、飯富兵部少輔虎昌、小山田備中守虎満の四人が続く。更に穴山信友と小山田信有の有力国衆が顔を揃える。


 この場の面子だけで武田家中の軍事力の過半の指揮権を握っているであろう、戦国大名武田家の武力の中枢を担う錚々たる顔ぶれであった。

 

 ならば議題は勿論、今年度の軍事攻撃目標を何処にするかであった。先年は先代信虎から今代晴信への世界的にも希な無血クーデターのため対外戦争はしていない。


 ならばこそ、周辺国も何より甲斐の民衆がその矛先と結果に関心を持っていた。結果を出さねば晴信もまた「天道」に適わぬと認識され失望されかねない。


 それ故、確実に勝利しその果実を甲斐へともたらす事が本年の目標ではなく絶対条件として課され、その選定は終了し実行への準備段階へと移行していた。


 会議は終了し一同に茶が振る舞われ一息ついた時、ふと思い出したように甘利が口を開いた。あの白樺とかいうのは今どうなっているのかと。


 末席で控えていた駒井は多少は使えそうであるため現在「撒き餌」としてその器を計ろうとしていると答えた。それに飯富が反応した。


「撒き餌の裏には気付こうか」

「気付いて貰わねば本物の猪でございます」

「では、裏の裏はどうか」

「正直気付かぬ方が気が楽でございます」


 さもありなん、と聞いていた一同は笑った。元服前の若造に見透かされるようでは場数を踏んできた老臣の立つ瀬が無い。それに爆弾を内に抱え込むこととなる。


 それきり話題は竜胆から逸れていった。内心駒井はほっとしていた。自身も竜胆を計りかねていたからであるし、実際彼らをどう扱ったものか決めかねていた。


 建前では武川衆に所属する地侍であるところの教来石民部卿の寄騎となってはいるが、相当自由に動いているという評判は駒井の耳にも入ってきていた。


 それに武川衆は典厩信繁の配下である。まかり間違えば信繁の監督問題にも飛び火する危険さえあった。正直に言えば教来石の下で弓馬の稽古でもしていて欲しかった。


 そういえば四書五経の写経はしていたな、と駒井は思い出した。そしてそうなるとあれで自らの目指すべき方向は見えているのか、と少々評価を見直した。


 そしてほとんど帰還補給再出撃といった態で竜胆一行は甲府を後にした。いつもと違い

戦に出る足軽のような大荷物に山賊退治を知るもの達は不審の表情を向けた。


 見送りに来たのは教来石と原だったのは相変わらずだが、今回はそれ以外にも侍の姿があった。竜胆は誰だったかと首を傾げたが静は軽く眉をひそめた。


 その三者を見ていた玉藻は一人壺装束の笠の下で亀裂のような笑みを浮かべた。それは誰に気付かれることもなく、一行はそのまま甲府の町を後にした。


 不審者の出入りに目を引からせる城戸番も何度も通れば顔見知りにもなる。偶には報奨で酒でも差し入れろなどと軽口を叩かれながら街道へとでた。


 いつも通り信濃佐久方面へと足を伸ばすが今回は勝手が違った。何せ実際に現地へと足を踏み入れるのだ。竜胆は内心の緊張を隠せず顔を強張らせていた。


 実際、この時代において国境を越えるのは現代の県境を越えるとはまるで訳が違う。場合によっては交戦中の他国へと足を踏み入れるのだ。武田の法の適用範囲外に行くのだ。


 法はその影響下にある人々の行動に規制をかけ行動を縛る面がある。しかし、それと同時に法の範囲内で生活する民衆を守るという側面もある。


 他国へ行くと言うことは、大げさに言えば法の支配の範囲を出る、という事でもあった。端的に言えば、今までと違い今回は自分対が狩られる側になるのだ。


 そんな竜胆たちの緊張とはまた別の形の緊張が甲府のある武家宅の一室を覆っていた。その場に居るのは片手で数えられる程度の人数だが、表情はどれも剣呑な物を帯びていた。


「奴は甲府を立ったそうだ」

「元服前の若造が好き勝手しおってからに」

「そもそも何処の生まれとも知れぬではないか。南蛮生まれなどと嘘も大概にしろというのだ」


 昼間から酒を片手に陰口で盛り上がる、駄目な大人の見本がそこに居た。しかしその陰口の対象はなんと白樺竜胆であった。ではこの侍達は何者なのか。


 答えは、積翠寺で竜胆や静に敗北を喫した者達である。満座の中で女子供への原美濃守のように割り切れるような者ばかりでは無かった。甲府に、暗雲が姿を見せていた。


 いつもより若干短いですが、自分の中で「今回はここまで」と歯車がかみあったので一晩悩んで投稿です。

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