表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
41/70

33 それぞれの思い

 それは、ある晩甲府のとある宿屋の一室におけるやりとりであった。

「でもさ、こんなことしてて本当に雪姉を助けられるの」


 何気なく放たれた牛若の疑問。それは場の空気を凍りつかせた。他の面々は心の片隅で思うにとどめておいたそれを、口に出したのだ。返答の方が怖い質問であった。


「ああ、そうか、言っていなかったな。」

 あっけからんと言う竜胆に、次の言葉を松一同は生唾を飲み込みを乗り出した。そして告げられた言葉は


「評判が欲しいんだよ。前途有望な新人という。山賊退治で武を、寺での書写で文を、そして郊外に出かけて地形の把握にいそしんでいるとアピールだ」


 なるほど、と静は一つ頷き先を促した。

「で、見所のある若者には多少我が儘を聞いても気持ち良く働いて貰おうと考えるのが経営者なんだな」


 玉藻は瞳に理解の色を浮かべた。

「戦場で手柄を立てた若武者に、望み通り敵国の美姫を与えるのも君主の度量だよ」

 そう締めくくった。


 理解はしたが納得はしていない、そう牛若は表情と態度で主張した。

「俺達だけで攫ってくるのに失敗したんだ、なら人の手も借りないとな」


 梅子はとてとてと竜胆に近寄るとぽんぽんとその頭を撫でた。途端に

「あー、また梅子が自分だけ良い子してる」

 大騒ぎになった。


「つまり、旦那様は諏訪の大名を攻め滅ぼす武田家に取り入って、戦功の褒美として雪さんを取り戻そうとしていると考えれば宜しいのですね」


 騒ぎが一段落したところで、玉藻がそう取り纏めた。もっとも、一部は納得のいかない顔だ。その先鋒たる牛若がまどろっこしいとばかりに口を開いた。


「そんな事しなくてもさ、今から俺達であの城へ行ってみんなやっつけちゃえばいいじゃんか」

 清々しい程に単純明快であった。


「お城の侍連中を皆殺しにして、雪を取り戻して。で、そのあとどうする」

 眩しいものを見た、というような表情で、どこか気怠げに竜胆が問うた。


 何をいっているのか、と牛若はぽかんとした顔を浮かべた。

 同時に静と玉藻は顔を強張らせた。窓の外でごう、と風が鳴った。


「城一つ皆殺しにして雪を取り戻して、で、そのあとどうする」

 竜胆は再び問うた。その目に、ほの暗い何かが灯っていた。


「数百人を平然と殺せる殺戮集団が、一般社会に溶け込めると思うか。英雄ならば祭り上げれるが、怪物なんぞは排除されて殺されるだけだ」

  

 そして牛若の目を見つめながら竜胆は無言で続けた。双方受け入れ可能な落としどころというものがあるのだ、と。

 牛若が生唾を飲み込み、喉が大きく動いた。

 翌日、朝食を摂ると直ぐに竜胆は静と二人連れだって宿を後にし積翠寺への道を歩んでいた。その手の風呂敷には筆や硯の他に書写中の書物が入っていた。

 

「牛若や梅子は昨日のあれでわかってくれたかな」

 寒さに手に息を吐きかけたり肩を抱いたり出来ないのが有名人である。


 評判、外聞を守るために払わなければならない犠牲は以外と多いことを、竜胆はこちらに来てから肌身で知った。武士は食わねど高楊枝とはよく言ったものだと。


「あの二人だってきちんと分かっておりますよ。ただ、主殿の言葉としてきちんと聞いておきたいだけなのです」

 半歩後ろを歩きながら静はそう告げた。

  

 そうか、と軽く微笑むと竜胆は心持ちしっかりとした歩みになった。四書五経、論語孟子大学中庸、詩経易経書経礼記春秋、これだけ書写するだけでも一苦労では済まない。


 やるべき事と現在位置を頭の中で再確認しつつ、その上でさて今日はここまでは進もうと予定を組み立てながら二人して石段を登っていった。


 流石に一月も経てば顔なじみも出来る。修行僧の一人に会釈して風呂敷を見せれば、向こうも心得た物でいつもの小部屋へと案内してもらえた。


 目当ての書籍を借り受け、硯に墨を作り筆に含ませる。二人それぞれに前回終了したところから書き写し始めた。内心、写経とはよく言ったものと感慨を抱いていた。


 書写中に時折修行僧が見廻りに来るのはいつものことだが、その日は様子が少し違っていた。ある時、僧では無く代わりに侍がやってきたのだ。


 普段と違う気配に、まず反応したのは静であった。筆を書から離すと、居住まいはそのままにじっと集中し、視線の先ははここではないどこかへと向かっていた。


 そこへ顔を出したのはどこか柔らかい印象を与える侍であった。そしてその顔を見て二人はあ、と声を上げた。仕官の切っ掛けとなった仕合の立会人だったからだ。


 慌てて立ち上がり礼をする二人をまあまあ、とその侍は手で制すると腰を下ろし、机を挟んで竜胆と向かい合った。山に響く鳥の鳴き声は、その時不思議と止んでいた。


「元気にやっているようで結構。私の所にまで貴殿の噂が届いてくるぞ、白樺殿」 

 そう、気さくに話しかけられたが竜胆は内心の警戒を解くわけにはいかなかった。


「ああ、申し遅れた。拙者駒井と申す。恐れながらお館様の御家来の末席を汚しておる」

 名乗りと同時に竜胆は平伏した。駒井高白斎か、と内心冷や汗がだらだらと出ている。


 駒井高白斎といえば、武田信玄の側近兼吏

僚として辣腕を振るい、『甲陽日記』の作者とも言われる大物である。秀吉に対する三成のような存在と言えば分かりやすいか。


 歴史に名を残す大物が直々にお出ましとは、評判を少々高めすぎたかとも後悔したが、むしろ好機と気を取り直し、顔を上げた。

「白樺竜胆にございます」


 挨拶を返しつつ竜胆は頭を猛烈に回転させていた。さて、少々薬が効きすぎたようだが一体どこまで踏み込んでくるか。こちらもどこまで踏み込むべきか。


 これほど上層の人間が向こうから接触してくる機会などそうない。機会の女神は前髪しか無い、の格言を内心に竜胆は気を引き締めながら相手と目を合わせた。


「甲斐は山国に加えまだ春も本格的な訪れとはいかん。寒さには難儀しておるのでは」

 まずは無難な時候の挨拶から入ってきたか。多少時間はあるようだと竜胆は判断した。

 

 同時に会話の選択肢からいくつかを消し、またいくつかを候補に加えた。

「は、流石に慣れぬ内は応えますが、それこそ他国からは隙となろうかと」


 相手の意見を肯定しつつ、こちらの意欲もさりげなくアピールする。目上の相手との会談では互いの潤滑剤にはなってくれる。社会人経験も無駄にはならない。


「はは、そう固くならずともよい。たまたま某も所用があった故、ただの世間話よ」 

 それを額面通りに受け取る馬鹿はいない。わざわざ寺に所用を作ってきたのだから。


 そこで竜胆は高白斎の面談の目的は自分が他国の間者かどうかの確認か、と当たりをつける。考えなくても、自分たちは疑わしいだろうという自覚はあった。


 世間話の合間に出身地や階層、他国とのつながりにさりげなく鎌をかけてくるのは流石外交官経験もある辣腕吏僚の駒井である。が、結果は芳しくなかった。


 つながりも何もそもそも何も無いのだ。竜胆は一つ一つ質問に答える傍ら、相手の努力が徒労に終わると察し、どこか申し訳ない気持ちになってきた。


 もっとも傍で聞いている静にとっては気が気では無かった。剣術の流派を聞かれ塵骸流などと済まして答えた時は頬が引きつった。人外流のもじりと知れたからだ。


 仕官前にこういった質問があるであろうと、想定問答の予行演習をしておいて本当に良かったと内心胸をなで下ろしていた。準備してなお稚気を覗かせるのだ。気が気では無い。


 駒井の方も事前に教来石に尋ねておいた経歴と竜胆の口から現在語られる内容に齟齬が無いことを確認し、ある種の納得と安心を得ていた。


 少なくとも他国の間者、とりわけ武田家に良からぬ考えを抱いている訳では無さそうだ。その手応えを得られたからだった。だがしかし、別の問題も発生していた。


 あまりにものを知らなさすぎる。

 始めは他国どころか海の向こうの異国の生まれなど、話を盛るにも程があると思ったがそれもあり得ると思い始めていた。


 風俗、慣習、方言。そういった事にあまりにも疎すぎる。まるで半端に聞きかじったような知識しか持ち合わせていない。その割に戦に関わる一部の事は自分以上かも知れぬ。


 氏素性定かならぬ、地に足の付かぬ、偏った物知りにして凄腕の武芸者。それが駒井の抱いた竜胆への印象であった。得体が知れなくても、手綱が付いていれば今は良い。


 そんなことを駒井が思っていると、寺の表の方からざわめきが聞こえてきた。何事かと意識を向ければ何やら足音が近づいても来るではないか。

 

 一月ほど前にも同じようなことがあったな、とどこか他人事の感慨を駒井は抱いた。ふと気を逸らせばその間にも足音とざわめきは大きくなってきていた。


「しらかばさまでごぜえますか、どうぞわしらのむらをおたすけくだせえ」

 どたどたとした足音と共に泥に汚れた麻着一枚の男が駆け込んできた。


 年の頃は三十前くらいか、騒ぎが聞こえてくる前から索敵で周囲を警戒していた静は実際の人物を目にしてそう判断した。そして鼻に皺を寄せた。血の臭いがする。


 続いて慌ててやってきた寺の僧を少しなだめ、話を聞くことにした。

 それによればその男は甲斐と信濃の佐久との国境あたりの村の者らしい。


 村の周辺では凶悪な賊というか忍びの者が村に嫌がらせをして武田領から両属、つまりは年貢を双方へ半分ずつ収める境界線の村への勢力塗り替えを求めているらしい。


 そこへ飛び込んできたのが近頃近隣の悪党どもを退治して回っている若者一行の噂である。甲府を根城にしていると聞いてはるばるやってきた、とこういうことらしい。


 話を聞き終わると竜胆は静へ確認も取らずそれは大変だ、明日にでも出立して村へ伺おうと安請け合いした。これに静ではなく横で聞いていた駒井が眉をひそめた。


「申し訳ありません駒井様。そういう事でありますので、私共はこれより一旦戻り準備を致さねばなりません。話の途中ではありますが中座させて頂きたく」


 そう告げる竜胆に駒井は一つ頷いた。慣れは油断を産む、道中気を付けるのだぞ、と言い自分も席を立った。そして寺の者に騒がせた詫びを入れた上で書写の片付けに入った。


 片付けは手でするが会話は頭でする。竜胆は男へ明日以降の段取りを尋ねた。すると道案内もしてくれるという。礼を言うと男も一旦帰って行った。  


「主殿、本当に信じておいでですか」

「困っている村人がわざわざ山越えてここまで助けを求めに来たんだぞ」

 懐をごそごそと探りながら竜胆は答えた。


 一方、積翠寺を辞し、供の者に荷物を持たせ躑躅ヶ崎館への道を歩く駒井は先程の一件に不穏な物を感じていた。自身の吏僚では無い部分がある種の訴えを起こしていたのだ。


 一般に事務型は青白い長袖の輩などど揶揄される文弱のイメージがある。だが、駒井は自ら前線にも立つ、文武両道の侍である。その武人としての己がきな臭さを感じていた。 


 なぜ、領主ではなく白樺に訴えた?

 なぜ、あの村人は僧を振り切れた?

 なぜ、お館様の側近たる自分も知らない忍びの暗躍の情報がある?


 考えれば考えるほど、ある種の状況を示していた。駒井は足を止め積翠寺の方を振り向くと呟いた。

「これを越えれば白樺も本物か……」

 

コロナのお陰でインフルエンザがどこかへ行ってしまいましたね。

早く風邪薬のようなコロナ薬ができればよいのに。

製薬会社の皆さん、がんばってー

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ