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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
40/70

32 布石

 その日、甲府の町は噂で持ちきりであった。歌会に乱入し臨席していた貴族の気まぐれで仕官を果たした若造が、今度は山賊の一味を召し捕ったという。


 山犬の甚五郎を名乗っていたその一味は奉行所へ連行され、詮議の後磔になった。乱暴狼藉、抵抗した者は殺し、女子供は売り飛ばしていた者どもには当然の結末だった。


 必然、人々の興味はそれを為したのはどんな者か、に集まる。甲府内のとある宿に逗留している、との話を聞きつけ幾人か押しかけたが留守であった。


 そしてその当の本人は、積翠寺の一室にて女連れで本を書き写していた。まだ冬の寒さは残るものの、日差しは徐々に温かみをましている、そんな日の出来事であった。


 そも、事の発端は前日の夕刻に遡る。夕食を風呂を済ませ就寝前の肩の力の抜けた雑談会での事であった。

「明日からはどうすんのさ」 

 

 当初の予定通り山賊を召し捕り甲府の奉行所へ突き出し、幾ばくかの手柄と若干の資金を手に入れた。ならば次はどうするのか、の質問であった。


 数日休んで鋭気を養うか、はたまた間を置かず次の遠征へ繰り出すかどちらだろうと待ち構える牛若に返されたのは

「お寺で勉強かなあ」


 予想外の答えであった。流石に毒気を抜かれた静や玉藻の年長組も加わり、どういうことかと竜胆に質問し、そして納得した。もっとも牛若は顔をしかめたが。


 結果として竜胆と玉藻は連れだって積翠寺へ、残りの面々は郊外へ散策に出かけた。廃屋の如き役宅も、にわか雨の避難所としてみれば使えないことも無い。


 そして寺への道中で白紙の本に筆、硯とこの時代の筆記用具一式を自分と玉藻の二人分揃えた竜胆は寺に着くと、境内を掃除中の僧の一人に声をかけた。


「論語を書写させて頂きたいのですが」

 印刷技術のない時代においては本は一字一句人の手による書き写しである。その依頼自体は珍しいものでは無かった。


 もっとも相手が相手であった。先日の大立ち回りの記憶も新しく、声をかけられた僧は総髪で髷も結っていない得体の知れない自称異国生まれの若者の顔を覚えていた。


 粟を喰った修行僧は大慌てで先程まで自分が掃き清めていた道を奥へと走り去った。そうして出てきたのはその先輩だろうか、やや落ち着きのある僧であった。


 改めて用向きを伝えれば何と言うことはない。素読や注釈の講義の依頼でも無ければ供養や読経の依頼でも無い。蔵書を書き写しに来た、ということで狭い部屋へ通された。


 書籍は貴重品故くれぐれも丁重に扱うようにの一言で許可は下りた。実際この時代の書籍の価値は現代のそれとは比べものにならない。


 蔵書を書き写すため都の大寺院、現代で言えば有名大学の門を叩く、が至極当然にまかり通った時代である。京の下級貴族は寺での経典筆写を副業にしていたくらいだ。


「宿に誰か置いてきた方がよろしかったのではありませんか」

 筆を止めぬまま玉藻は竜胆へ質問した。時折寺の者が廊下を通るのはご愛敬だ。


「玉藻。娯楽に飢えた地方人を甘く見てはいけない。今頃宿は物見高い連中の相手でてんやわんやだ」

 竜胆も筆を止めぬまま答える。


 そして竜胆の言葉には知識としてだけでは得られない、実体験を経た者特有の重みがあった。別の地域とは言え、地方出身者の言には説得力があった。


 同時に、それは宿には迷惑をかけるためなにがしかの形で義理を果たさねばならない事も意味していた。

「土産は何を買って帰ろうか」


 玉藻はぷいと顔を少しそらした。自分や家族へならば兎も角、宿の、言ってみれば業者への義理に神経をとがらせるとは、といった不満を見せていた。


 竜胆は竜胆で普段は年長組として場をまとめる側の玉藻のそういった振る舞いが二人きり故の甘えから生じる物だと十二分に理解していた。


「寺で写経デートなんてレアな事してるんだから、あまりわがまま言わないの」

 玉藻が咳き込み、筆が止まった。筆跡が乱れなかったのは流石である。


「だ、旦那様。からかうのも時と場合を考えて下さいまし」

「からかうって何が」

「ああもう、これだから殿方は」


 昼下がりの山寺。室内には互いを想い合う男女二人。ささいな言い合いから始まり、それはふとした弾みで二人の間にある種の空気を作り上げる。


 玉藻は思った。紆余曲折あったものの、そもそも現状結婚後一ヶ月も経たない所謂新婚さんという物では無いだろうか。二人きりなのだし、少しくらい羽目を外しても。


 そっと筆を置き、玉藻は竜胆の机へとにじり寄ろうとし、唐突に響いた咳払いに慌てて元いた場所へと戻り居住まいを正した。何事も無かったかのように筆を運び始めた。


「寺内では不謹慎な行いは厳に慎まれますよう」

 おごそかに告げる修行僧に対し、無言で頭を下げる男女がいた。


 その後は何事も無かったように二人してそれぞれ論語を筆写する。竜胆はよく言えば豪快な筆致、玉藻は小綺麗にまとまった流麗な筆致である。

 

 時折様子を見に来る寺の僧もそれを見て多少驚いたような顔をして帰って行った。鳥のさえずり、木々の葉擦れ、僧達の読経を耳に二人は作業を進めていった。


 夕暮れまでまだ間のある時間に二人は寺を辞した。一日で片付ける事でも無いし、帰り道にするべき事もあったからだ。二人して山門への石段を降りていった。


 帰り道で宿の女将へ土産を物色する竜胆を見て、玉藻は気の使いすぎではないかと内心不満を募らせていた。しかし、今回に限っては竜胆が正しかった。


 その日、竜胆たちの逗留している宿は常ならぬ来客にごった返していた。

 それが宿泊客ならば店側も嬉しい悲鳴を上げながら諸手を挙げて歓迎するところだ。


 しかし、残念ながらそうでは無かった。宿にやってきた者達は異口同音に要求したのだ。噂の連中に合わせてくれ、と。それを聞き宿の者達は女将を始め閉口した。


 得体は知れないが金払いの良い上客を売る店が何処にあるのか、と。

 そもそも全員朝から出かけて不在なのだ。出そうにも出せないのだ。


 とは言え宿としても地元の住民と揉めるのは宜しくない。本来ならば泊まっている部屋へ赴き事情を話して対応して貰うところなのだがいないものはどうしようも無い。


 まさか朝から全員出かけたのはこれを見越しての事だったか。ぼんやりしているようで存外に逃げ足は速い、と竜胆の人物像を女将は修正した。


 さりとて目の前の問題には対応しなければならない。そもそも客は件のお騒がせな連中ばかりではないのだから。本当に外出して不在と告げれば野次馬は散り散りになった。 

    

 それでもなお諦めずに残る者も数名いたが商売の邪魔だ、明日以降出直すように念押しすれば未練がましい顔をしながらも引き下がっていった。


 それを確認しため息一つ付くと、ぱんぱんと手を打ち鳴らし店の者達の気を引き締めた。ここは見世物小屋ではなく、宿屋なのだ。そして本来すべきことはまだまだあった。


 同じ頃、郊外では静に連れられた牛若が野を駆け回り、梅子がそれを眺めていた。廃屋にしか見えない役宅も、万一の雨天時の避難所と思えば、我慢できなくも無い。


 日頃宿にこもって捜索だの、山賊は生け捕りにするため手加減を覚えろだの、枷ばかり嵌められていた牛若は日頃の鬱憤を晴らすかのように存分に羽目を外した。


 具体的には気の向くままに駆け回り、跳ね回った。それはもう、野原だろうと林だろうと丘だろうと関係なく、暴風といってもよい勢いではしゃぎ回った。


 そして一言

「あー、すっきりした」

 そう、晴れ晴れとした表情で宣言した。

 静はくたびれた様子でそれに同意した。


 ある程度ため込んでいるだろうとはおもってはいたが、まさか午前中いっぱい動き回るとは予想外であった。ある程度付き合わされた静の方がへとへとになっていた。


 それを見た梅子に心配されるほど出会ったが、流石に長女の矜持はそれ以上を許さなかった。件の役宅へと場を移し、三人で麦の握り飯の昼食を広げた。


「でもさ、雪姉も毎日お城の中で良く持つよね」

 両手に握り飯を持ち交互に口を付けながら牛若の言った一言に、場の空気は変わった。


「牛若、今何と」

 どこか呆然とした静に牛若は

「兄貴からちゃんと見張れよ、て言われてるじゃん。毎日鴉飛ばしてんだよ」


 胸を張って答える牛若に静は安堵した。やはり雪はあの諏訪の城でそれなりの待遇、お付きの人間がいる程度の立場らしいと分かったからだった。


 確かに家族が傷つけられて黙っていられる牛若では無いし、それはここにいる者いない者含めて全員そうだろう。そう静は思った。

逆にそれは雪の無事を示していた。


 牛若は自分がどれほど重要な情報をもたらしたか理解していない顔であったが、明らかに雰囲気の柔らかくなった静とそれをながめる梅子を見て察した。


 梅子は立ち上がると二人の手を取って言った。

「ひるからは、さんにんであそぶの」

 両者に依存は無かった。


 その後、宿にて全員合流した後に女将さんだけお土産があってずるい、と駄々をこねた牛若により翌日竜胆は全員に好きな物を贈ると約束させられた。


 また牛若はその日殊勲賞と言うことで一番風呂の権利を与えられた。静と玉藻は年少組のお守りと書写の供を一日交替で務めると協定を結んだ。


 竜胆は宿の女将から苦情を受け頭を下げ、土産の酒を差し出した。櫛などにすれば身内からの誤解が怖いと、彼なりに気を使った選択であった。


 結果、明日は野次馬に顔を見せてから出かけることとなり、一緒に遊びに行こうと息巻いていた牛若は機嫌を損ねることと相成った。後始末は当然竜胆である。


 牛若とは甲府滞在中は毎日寺で書写するのでは無く、一日置きに郊外で牛若と梅子の相手をする事で話が付いた。周囲からは尻の下とささやきが聞こえた。


 そうして竜胆一行の甲府での習慣が決まった。遠征し山賊を退治し治安に貢献した後、甲府へ戻り寺で漢籍を書写するか山野で戯れる、というものであった。


 それからというもの竜胆一行のは山賊を狩っては寺で書写し野原を駆け回り、山賊を狩っては寺で書写し野原を駆け回り、山賊を狩っては寺で書写し野原を駆け回った。


 寺へ牛若と梅子を連れて行かなかったのは単純に長時間大人しくさせているとまた不満がたまるだろうとの判断である。そしてそれは正しかった。


 そうしてせわしなく動いている間に時間も過ぎ、気付けば一ヶ月が経過していた。今では甲府の野次馬も落ち着き、宿へ見物に来るようなことも無くなった。


 代わりに道を歩けば時折通行人が袖を引き合いほら、あれが例の噂の、などと声を掛け合うようになってはいたが、それを竜胆は良しとした。


 そんなある日、竜胆が静と二人で積翠寺で恒例となった漢籍の書写も三冊目の大学に入った頃、ふらりと部屋へと入ってきた人物がいた。


 どこか見覚えがあると竜胆が記憶を遡ると、果たして見つかった。かの歌会の余興で武芸の腕を見せた立ち合いの際の、判定をしてくれた人物であった。 

 先週は投稿できず申し訳ありませんでした。

 ううん、書き上がって見直すと一から書き直したくなる症候群が……

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