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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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幕間02 宴の後で

「このたびの冷泉卿の咄嗟の機転、お見事と言うほかありませぬ」

 そう言うと武田晴信は体の向きを変え車座の一人へと頭を下げた。


「なんのなんの。この老骨の一言で場が収まるなら安い物、お気になされますな」

 軽く流すと老貴族は手にした扇を軽くくゆらせた。


 敢えて砕けた作法とすることで、相手の重荷と思わぬように気遣う、これも老練な貴族の手練手管である。

 されどそれでは済まぬ者もいた。


「いやいや、我らの不始末に目を瞑って下さったばかりか自ら泥までかぶって下さる。我らとしても頭が上がりませぬ」

 歌会の場での一件を言っていた。


 紹介状の一つも持たぬ者が公の場へと土足で上がり込んできたのだ。普通ならば成敗されて然るべきである。もしそうしなければ武田家の鼎の軽重が問われる。

 

 それを客人の気まぐれという形で座興として場を収めたのだ。そうなれば、武田家としても客人へ配慮したということで面目が立ち

一歩譲る事も出来る。


 ただ、昔気質の侍の中にはそれを自らの力量不足として捉える者もいる。そういった者達にとっては、今回の一件はもてなす側が気遣いをさせてしまったと悔恨を残していた。


 すると必然、アレは何者だったのか。そもそも目的は何なのか。背後には誰がいるのか。そういった事にも思いを巡らすことになった。果たして自分たちの手に負えるのか。 


 車座に沈黙が垂れ込めた。

 この場に座する面々は武田家中の中枢とも言える面々。それが即座に答えを出せぬほど、これは厄介な案件だった。


 室内の影は八つ。まずは当主晴信。弟の信繁。続いて筆頭家老板垣信方に次席家老甘利虎泰、宿老飯富虎昌と続く。更には有力国衆小山田信有に吏僚の駒井高白斎と冷泉である。

 まさしく枢要の面々である。この場での世間話が今年度の出陣先の選定となりかねない、他国ならば万難を排し忍びの者を潜り込ませ腹の内を探りたい所である。


 それがたった一人の牢人の存在について云々している。それがまず異常事態であった。それがまだ元服前、つまりは成人前の子供に関することなのだから尚更だった。


「……うむ、ではあやつが何者かも話し合っておこうか」

 流石に先延ばしには出来ぬとして、当主晴信は咳払い一つすると話題を切り替えた。


「は、では寄親とした教来石よりの報告でございますがーー」

 後を続けたのは弟の信繁である。配下の武川衆の一人を指南役としたからである。


 新参の指導役に中堅を宛がう。それ自体はどこでも見られることであるし、ごく一般的な事でもある。だが、今回はそれだけでは済まなかった。  


「まず生国は南蛮を称しました」

「今何と」

 聞き返したのは甘利虎泰だ。額に青筋が立っていた。


「生国は南蛮と申したそうにございます」

 先程とは別の意味で場に沈黙が降りた。誰もそれを真実とは思わなかった。同時にあけすけの嘘をつく理由を考えた。


「順当に考えれば勘当、ないし所払いでしょうな」

「何があった。酒の席で失態でもしたか」

「穴山殿でもありますまいに」


 そう続けたのは小山田だ。この人物、父に続いて実名信有を名乗り、跡継ぎも信有を名乗る。三代続けて同じ実名の戦国でも珍しい家である。


 同じ一郡を治める地方領主として、穴山の酒癖の悪さには平素から含むところがあったらしい。

「それでは実家はどんな所じゃ」


「それも要領を得ぬ説明でした」

「それでは何がわかったのです」

「男の名は白樺竜胆、女の方は静とか」

「それはーー」


 一同は絶句した。名前まで明らかな偽名だったからだ。あの白拍子衣装はかの義経公の愛妾静御前の物真似だったのか、と。生まれも家業も名前さえ明かせぬとは何事か。


「いっそひと思いに成敗してしまうのも手ではありますが」

「落ち着かれよ飯富殿」

 逸る飯富を板垣が窘めた。


「それが出来ぬからこうして額を寄せ合っているのでは無いか。二人、木刀であの警固を突破したのじゃ。まともに討ち取ろうとすれば何人犠牲になることか」


 それが最大の問題であった。当主ほかの要人が集うとなればそれ相応の警備体制が敷かれる。それをたった二人で正面突破したことの意味を考えずにはいられなかった。


 後から調べれば全員打撲程度の軽傷のみ。骨折等の重傷者は皆無。つまりは手加減されたのだ。もし最初からその気だったならば数十を越える屍山血河が築かれたであろう。


 そんな怪物が仕官したいなどと門を叩いてきたのだ。断れば他国の門を叩き、その武力が武田へと向けられるかも知れぬ。断るという選択肢は無かった。


 上に立つ方は指示を出すだけで気楽で良い、等と下の者は言うがとんでもない。上に行けば行くほど背負う物が増える。自分の誤判断を下の者の命で支払う事もあるのだ。


「ともかく、生まれ育ちどころか名も明かせぬ訳ありの牢人であることは間違いなかろう。御せるかどうかはその教来石次第。典厩、頼んだぞ」


 弟を敢えて名で呼ばず官職名で呼んだところに、兄と弟では無く当主と一門としての発言であることを示して、晴信は締めくくった。実際、すでに事態は動き出しているのだ。


「しかし、勘当か所払いか、何をしたのか確かめる必要はございますまいか」

 いかにも官僚らしい懸念を駒井が口にした。そしてそれは必要なことでもあった。


 共同体を追放されるほどの何かをしたのか、あまりの武才を周囲が持て余したか、それとも槍一本で道を切り開く覚悟をしたのか、はたまた。想像は広がる一方だった。


「それも教来石殿がおいおい解き明かしてくれるでしょう。まずは様子を見てはいかがですかな」

 落ち着いた声が場を震わせた。


 これまで聞き役に回っていた老貴族冷泉為和が口を開いた。直ぐに結論の出ない案件は一旦棚上げするのも有効な手である。年の功であった。


「それもそうですな。ああ、茶が冷めてしまった様だ。駒井、新しい物を頼んでくれ」

 晴信の言葉には一つ頷き駒井が腰を上げ、場の空気が変わった。 


「改めて冷泉卿にはお礼申し上げます。お陰で無用の血を流さずに済みました」

 晴信は頭を軽く下げた。

 例のきまぐれの件である。


 白樺竜胆の為したことは社会通念からすれば確実に罰せられる事である。だがもしあの場で捕縛ないし成敗しようとして反発されればどうなっていたか。


 手にしていたのは木刀だったが腰には真剣を帯びていた。相当の確率で流血沙汰になっていた。本人達がその気になればこの中の何人かは討ち取られていたかも知れない。


 それを客人の気まぐれによる座興ということで有耶無耶にし、腕前を示せと言うことで仕合を行わせることで周囲へも隔絶した実力を教えた。


 お陰で癖のある掘り出し物に仕官を許すことが出来、首輪を付ける機会を手に入れた。先程も指摘されたが、ここからは武田家の腕の見せ所だ。


 そこで一部の者は気が付いた。今回の一件、冷泉卿に借りを作ることになった。また、この顛末は冷泉卿自身で見聞し、他国での話題になりかねないと。


 そも、冷泉為和とは何者か。大納言までの昇進を許される羽林家の家格を持つ冷泉家の現当主にして自身も正二位権大納言の位を持つ歴とした上級貴族である。


 この時代、地方に下向する貴族は都と現地有力者とのパイプ役を務める。戦国大名といえども軽んじるわけにはいかない存在であった。


 また、この冷泉卿自身は駿河能登近江など各地へ足を運んでいるが、最も滞在しているのは自身の荘園がある関係か駿河である。つまりは今川家とも関係がある。

 

 つまり、歌会を催せる文化の伝達者にして朝廷との繋ぎ役、さらには今川家との非公式外交官の役目さえこなせる人材なのである。断じて粗略に扱えない存在であった。


 事実、歓待した貴族が都に戻りお礼として宮中工作を行い官位昇進という形で報いる、という事例もある。ならば逆のことも起こりうると言うことだ。


 ならばこそ、気まぐれの座興などという離れ業を使うことも許された。そしてそれを知る故に冷泉卿は白樺の扱いに関しては口を差し挟まなかった。


 中央貴族と言えば聞こえは良いが、戦国の世に有っては収入源たる荘園は現地勢力に接収され、かつての栄華は今いずこ、の存在でもある。


 権謀術数渦巻く宮中での世渡りを知ってはいても、単純な暴力には無力。そもそも武力は武士という集団に外部委託してきたのが日本貴族である。


 なればこそ、貴族は生き残りをかけて動かねばならなかった。事実、中下級貴族には借金で首の回らない者など珍しくもない。上級貴族とて例外ではない。


 否、広大な屋敷に数多の使用人を抱え、貴顕の義務として寺社への寄進を求められる上級機族の方がその内情は火の車かも知れなかった。

  

 そのため、かつての所領と収入源を回復し自家の生き残りを計る為にも、関係地の有力者、とくに大名との接点は死活問題なのであった。


 つまりは持ちつ持たれつの相互依存関係。それがこの時代の戦国大名と貴族の関係であった。時代のうねりは、武士だけでなく貴族のありようにも影響を与えていた。

 冷泉為和さんは知ってる人あまりいなのではないかしら

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