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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
34/70

27 白樺竜胆

ふーっやっと主人公の名前を出せました。

当初の予定ではこれが4話か5話の筈だったと言ったら、

誰か信じてくれるでしょうか。

ざわり、と境内がざわめいた。

 ただしかし、先程までと違いその対象は闖入者の男では無く、名乗りを上げた少年の面影を残す者に対してであった。


ーーまだ若い、元服したてでは無いのかーー

ーーそもそも誰じゃ、あれはーー

ーー秋山新左衛門殿の跡取りよーー

ーー名は聞く、武芸の腕は確かと言うがーー


 それはどちらかと言えば賞賛では無く困惑の声であった。今までの立ち合いから問題の男の腕は武芸者としても一廉の物である。多少腕が立つ程度では歯が立つまい、と。


 主君の眼前で何故わざわざ黒星が決まったような勝負に挑むのか、周囲の者達は戸惑っていた。

 だがしかし、彼には十分な理由があった。


 ぎり、と奥歯を噛みしめる。いまその身を

焦がしているのは紛れもない憤怒の炎であった。それは、視線の先の男や、周囲の侍達や、自分自身に対する物であった。


 本来ならばまだ少々肌寒いはずの春先の甲斐の空気も、いまは火照った体に丁度良いほどだ。先程から腹の底より溢れてくる怒りは

収まる気配を見せなかった。


 客人を招いての席に侵入者を許した。

 女相手に五人連続で敗北を喫した。

 更に男にさえ二人抜かれた。

 果ては負けを怖れ年長者は尻込みする。


 只の内輪の席では無いのだ。京よりの公家もこの行く末を見つめているのだ。過程も結果も他家や他国に知れ渡ろう。もはや個人の面目の問題では無い。何故わからない。


 そう歯がみして闘志をたぎらせる若者の姿を、目を細めてまぶしそうに見つめる者の姿が観戦者達にちらほらと見受けられた。それは髪の半ば以上が白くなった者達だった。


 彼らは一様に、若さゆえの情熱と理想をその身に宿し、困難へと立ち向かう者の姿を見て満足そうに微笑んだ。次の世代も育っている。これならば武田家も安泰だ、と。


 同時にただ成り行きに一喜一憂し腰を動かさぬ者達への視線は厳しかった。我らの若い頃にはこの程度の危地には喜び勇んで飛び込んだものだが、と。


 まったく、最近の若い者はなっておらん。ならば我ら年長者が侍の、甲州武士の有り様という者を示してやらねばなるまい、全くもっててのかかることだ、と。


 男と秋山は境内の中央である程度の距離を置いて対峙した。男の目は飄々とし捉えどころが無く、秋山の目は相手をしっかと睨み付けていた。


 片や自然体、片や緊張と闘志に身を強張らせる、というまるで正反対の印象を与える立ち姿のまま、共に正眼木刀を構えた。両者の呼吸を見て開始の声がかかった。

 

 これで男が勝てば三人抜きを達成してしまい、武田家はこの男の仕官を認めねばならなくなる。周囲が固唾を呑んで見守る中、まず仕掛けたのは秋山だ。


 戦いには機、物事には勢いという物がある。断じて行えば鬼神もこれを避く、ではないが相手に主導権を渡す愚を秋山は選ばなかった。開始と同時に果敢に攻めた。


 元より地力では男の方が上回っていると見て良い。後手に回ればそれは敗北への扉を開く行為だと、誰よりも秋山自身がそう自覚していた。


 故に攻め手は苛烈を極めた。唐竹、胴薙ぎ、突き、そこからの切り上げ、足払い、と思う限りの手を、体力が続く限りの力と速さで繰り出し続けた。


 これにはさしもの男も守りだけで手一杯となった。頭上からの一撃は後ろへ下がり、横の一撃は武器で受け、あるいはそらし、一度も攻めを行えないでいた。


 防御一辺倒となった男の有様に周囲の侍達はわっと歓声をあげ秋山への声援を送った。だがしかし、それとは逆に顔をしかめる者達もいた。先程の老人達だった。


 この時代の老人はおとな、とも呼ばれる経験豊富な者の事である。情報の共有化が進んでいない時代では、師弟制度の一子相伝やこの道何年といった事が蓄積の主体となる。


 その、戦乱の時代を駆け抜け数多の死線をくぐり抜け命のやり取りを制してきた練達の勇士の経験が告げていた。何かがおかしい。この状況は危険だ、と。


 最初に気が付いたのは年の功か経験か、やはり観戦者達の中でも年経た者達であった。秋山の太刀筋がだんだんと大振りに、かつ荒削りになっていった。


 それもそのはず、開始からずっと秋山は息もつかせぬ攻め一辺倒である。当然、動きも多く、体力も消費する。対する男の動きはその半分もない。何が起きるかは明白だった。


 ぜえぜえと、肩で荒い息をしながら秋山は一度距離を取り相手を睨み付けた。流れる汗で衣服が肌にべっとりと貼り付いて動きづらささえ感じていた。


 いつの間にか燃えるような熱さと鉛でも埋め込まれたような疲労を感じる様になっていた体に活を入れながら、唇を噛みしめながら木刀を構え直した。


 確かに、攻めているのは自分だ。相手は攻撃の手を打つことさえ出来ない。だが、手応えがまるで無い。水中でもがいているように、何をしてもまるで効いた気がしない。


 幾ばくか崩れてきた構えで攻める隙を見つけようとしたが、中断させられた。男がついに動き、木刀を頭上に掲げたのだ。唐竹だ。咄嗟に受け流しの構えをとった。


 がん、と衝撃が腕に響いた。受ける瞬間に痺れが走った様な感触がしたのは相手の腕力がそれなりの者である事を意味していた。休む間もなく袈裟切りが襲ってきた。


 剣の訓練という物は素振りなどの攻めの為の訓練が重視されていると思われがちだが、守りの訓練も重視される。戦場では手柄よりもまず生き延びることが求められるからだ。


 積み重ねてきた修練が、意識よりも思考よりも早く秋山の体を動かした。がん、と音を立てつつ相手の一撃を受けきった。続いて右薙ぎ、木刀を立て左手を峰に当てて受ける。


 そこで観戦者の一部にうむ、と疑問の声が上がった。ここまで上、右上、右、と男の一撃が打ち込まれた。まさか、の思いがわき上がる中、右斬上つまり右下から打ち込んだ。


 ざわり、と声と共に場の空気の質が変わった。これは、と今まで静観してきた者達の中にさえ、左腰に手を当てる者が出始めた。どういうつもりか、と。


 腕に覚えのある者が仕官を望むのは理解できる。実際にその技を披露したいというのもわかる。だから非礼も座興で有耶無耶にすることも我慢した。だが、これは違うだろう。


 そうしている間にも男は逆風、左斬上と続け下、左下からの一撃を放った。上から順に時計回りに一撃を放ち続けている。最後は突きでも繰り出すつもりか。


 これが稽古で技を他者に見せているならばわかる。だが、この様な場でその振る舞いは相手への侮辱と取られかねない、大変に危険な行為だった。 


 これに誰より憤慨していたのは、男と相対している当の秋山だった。上から右回りに円を描くように順番に打ち込んでくる。これが自分に対する侮りで無くて何なのか。


 これが練習ならばわかる。「今から袈裟斬りを放つゆえ見事防いで見せよ」そんな会話ならよくある光景だ。だが、だがしかしそれを自分の仕官のかかった場で行うとは。


 貴様、一体どういう了見だ。そう叫びたいのは山々だったがそうできなかった。男の一撃一撃を防ぐので手一杯だったからだ。読めている攻撃をぎりぎりで凌いでいた。


 そこに自分とこの目の前の男の力量の差をまざまざと見せつけられ、秋山は最早、怒りを抱いているのは自分に対してか相手に対してかわからなくなっていた。


 だが、そうしている間にも時は過ぎ男は攻め手を繰り出してくる。左薙ぎを防ぎ、次は逆袈裟が来る。ならば最後は突きで締めるきだろう。そこで勝負をかける。


 突きの勝負ならば純粋に速さのみの勝負になる。ならば一撃を繰り出した後に構え直しの時間を要する男の方が不利だろう。女の背に隠れていた様な者に負けるものか。


 そう思い秋山は逆袈裟に備え右肩で受ける体勢を取った。しかし予期していた衝撃は腕に伝わってこず、代わりに目の前に木刀を突きつけられた。ぽかんと口が開いた。


 一瞬で事の次第を理解した秋山は先程までとは別の理由で顔を真っ赤にした。策に嵌められた、と気付いたからだ。怒りと恥辱に体が震えるのを止められなかった。


 そもそも、男は一言も順番に打ち込むぞ、などと口にしてはいないのだ。そう勝手に思い込んでいた自分が駆け引きに敗れた。未熟であった。それだけのことなのだ。


 それだけの事なのだが、そう簡単に納得出来ない事でもあった。まだ十五十六の少年なのだ。まして面目を重んじる武士なのだ。正々堂々の勝負にこだわるのは当然だった。


 境内のざわめきは先程までとは比べものにならない大きさとなってきていた。それは秋山への賞賛、同情と男への非難で出来ていた。そこへ審判役から裁定の声がかかった。


 ぴたりと、水を打ったように場が静まった。口を開くべき時と開くべきで無い時、その区別もつかぬような未熟者はこの場にはいなかった。


「ただいまの勝負、この男の勝ちとする」

 途端に方々から悲嘆や落胆のため息が漏れた。斯様な場で小細工を弄するとは不届き千万の裁定を期待していたのだ。


 無論、それがそう簡単に発せられないことは全員重々承知していた。しかしそれでも、と心のどこかで期待していたのだ。だがそれも露と消えた。


 そしてあることを誰かが思い出した。それは捨て置けぬ事だった。三人抜きを達成した暁には、この男は何を許されていた?火の粉は自分たちへと降りかかるのではないか。


 当家はこんな男を召し抱える事になった上、いざ戦の折には、自分たちはこの男に脇や背を預けるのか、冗談ではないぞ。場には異様な空気が立ちこめた。


「一同静まれ、これよりお館様よりのお言葉がある」 

 見届け役の侍から声がかかると、境内の侍達は一斉に膝を突き男も慌てて倣った。


「皆の者、まずは役目ご苦労。お陰でこうして冷泉殿を招いての歌会を催せた」

 平伏していた侍達は更に頭を下げた。

「仕合に臨んだ者達もご苦労であった」


 御簾の向こうから聞こえてくる声は決して大声や叫び声ではない。だが、しんと静まりかえった場と相まって皆の心に沁みた。

「さて、問題の者達だが」


 一同が心持ち視線を上げた。隣の者と目立たぬよう顔を見合わせている者もいる。

「それぞれ五人抜き、三人抜きを達成したゆえ仕官は許す」


 境内は声にならぬため息に包まれた。わかってはいたが、矢張りかと言わんばかりに。「しかし作法がなっておらぬ故誰ぞの所へ預け修行を積ませることにする」


 おお、と今度は声に出た。おとがめ無しには出来ないため、行儀見習いの形で体よくしごかれてこい、という沙汰を理解したからだった。


「ついては弟の典厩の配下、武川衆に預ける事とする。誰ぞおるか」

 誰しも厄介毎には関わりたくは無い。武川衆は視線を交差させると結論を出した。


「教来石殿はどうであろうかな」

「おお、あの御仁ならば間違いなかろう」

「異論は無いようですな」

「うむうむ」


 この場にいない者に押しつけられた。この辺り、甲州武士も人の子である。同時に持ち場を離れた事を叱責されていることにも気付いた。そしてお開きとなった。  


 当の教来石に取っては良い迷惑である。子細を告げられ天を仰いだが、下知には従い問題の者達と対面した。背の高い浪人風の若造と白拍子の格好をした女。

 

「それでお主、名は何という」

 問われた男ははたと考え視線をさ迷わせた。寺の庫裏からでは目に映るのは木々くらいである。紅葉、杉、白樺、松、流石に多彩だ。


 ふと、故郷の県木を思い出した。そして県花も。悪戯っぽい表情を一瞬浮かべ一礼すると口を開いた。

「白樺竜胆でございます」


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