25 静対原美濃守
ずん、とその者が一歩足を進めるごとに周囲の者達に変化が生まれた。うつむき加減の背筋は伸び、劣勢に濁った目は輝きを取り戻し覇気がはらわたから溢れてきた。
取るに足らぬ足下の雑草さえも、しおれかけていた物が勢いを取り戻し天を突くかのようであった。その者の名を原美濃守虎胤と言った。
「すまぬな。我らにも立場という物がある。女一人相手に五人抜きされたとあっては武田家のの面目が立たぬ。悪いが手段は選べぬ。勝たせて貰うぞ」
静は澄んだ目で迷いなく告げる原の様に唾を飲み込んだ。一廉の武士が覚悟を決めて臨んできたと知れたからであった。桜が咲いてはいても、空気はまだ肌寒かった。
ほとんどごぼう抜きの様に四人立て続けに突破されて飲まれかけていた周囲の武士達も落ち着きを取り戻していた。口々に原美濃守への声援を送りだした。
いや、原様がお出ましになられたならばもう安心じゃ。あとはお頼み申しました、美濃守様。原殿の手を煩わせることになるとは、若い者はたるんでおる。
立ち会いの相手に名乗りを上げようともしなかった者達の無責任な物言いに静は眉をひそめた。彼女からすれば負けを承知で挑戦してきた者の方が百倍好感が持てた。
ふと気になってとある人物に目をやれば任せた、と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべていた。こういう時は男は何も考えていないことを、静はよく知っていた。
小さなため息一つ、それが静にとって気持ちを切り替えるのに必要な動作だった。それより相手の獲物、槍をどう攻略するかを考えなければならなかった。
一般に、剣で槍に勝つには相手の三倍の段数が必要と言われている。俗に言う三倍段である。それを突破するための手立てを、静は即興で用意しなければならなかった。
何より警戒すべきは、もちろんそれを承知の上で勝負を仕掛けてきた原美濃守の覚悟である。女相手に槍を使うとは卑怯千万。その悪評を受けてでも、の勝利への執念である。
腹を括った者の強さを、静は経験からよく知っていた。窮鼠猫を噛むのことわざもある。そして、今回の相手は猫どころか虎や獅子の類いであった。
とはいえ、静にはここで一旦退いて装備を整える、もしくは仲間を集めて再挑戦する、などといった選択肢はなかった。手持ちの木刀一振りで勝利を収めなければならなかった。
もっとも、内心の焦りは原美濃守の方が遙かに上であった。口髭顎髭頬髭と、顔の下半分をうっすらと覆う髭が無ければ周囲にも青くなった顔色が見て取れただろう。
一人ならば油断、二人ならば幸運、といったこともあるだろう。だが四人抜きともなればそれはもはや実力だ。それは先の立ち合いを自分の目で見ることで確信に変わった。
普通にやれば勝ち目は無い。ならばこそ、刀を相手に槍を持ち出すなどと卑怯千万の振る舞いをした。それでもなお、分は自分の方が悪いだろうとも冷静に考えていた。
若さに任せた勢いだけの剣では無い、数多の経験としっかりとした技術に裏打ちされた、武人ならばある種の理想として考えるだろうものが、その女にはあった。
それほどの高みにある者と刃を交えることの出来る幸運と、自分はそこに至れなかった後悔と嫉妬を内心でない交ぜにしながら、相対して腰を落とし石突きを前に槍を構えた。
流石に今回は審判役の侍も緊張の度合いが違った。それでも役目を果たすべく、息を一つ吸うと手を上げ、下ろすと同時に始め、の声を上げた。
静の行動は今まで同様の直進だった。まずは相手を自分の間合いに捉えなければ話にならない。まして相手が自分より間合いの長い槍使いとなればなおさらだ。
対して原美濃守はこちらもまっすぐに間合いを詰めながら槍を繰り出した。まだ遠い間合いは相手が勝手に詰めてくれると言わんばかりの気の早さであった。
だが、そこから先はある種の武人にとっては眉をひそめる様な展開が繰り広げられた。腰を落として槍を突き出す。それは基本ではあるがこの場合、どこに当たるかである。
下腹部である。しかも女の。上半身ならば身をひねるなりかがむなりすれば避けることだけは出来るだろう。だが下腹部、特にへその下を狙われるとどうなるか。
素人は足を外側へ踏み出せば避けられるだろうと考えがちだが、実際に武器を構えて直進している場合、進路変更は驚くほど融通が利かない。
結果として、一流の武人が女の腹を狙って手加減無しで槍を突き出すという、えげつない構図が出来上がった。しかもそれには避けにくくするための一手さえ加わっていた。
原は半身になって左手を前に、右手を腰の横の基本の構えを取って前進しながら、右手を小さく回転させた。それは当然槍にも波及し、石突きも回転し当たり部分を大きくした。
この時代、足軽の長柄と違い侍の持つ槍の長さは九尺(2.7m)以下が大半であった。それでも手元での振れは獲物を逃さぬ渦潮の態をなし静へと襲いかかった。
接近しながらそれを見て一瞬で相手の意図を悟った静は、奥歯を噛みしめると対応する一手を放った。そうしている間にも、槍の先端は手に取れそうなほど近づいていた。
静は文字通りうねりながら自分へとへと迫ってくる石突きにとぐろを巻く蛇を幻視した。されど気圧される事は無い。静は蛙では無い。鬼なのだ。鬼が気圧される道理は無い。
そもそも、身の丈が三倍もある巨人や、五倍もある巨竜、ないしは文字通り一騎当千の魔将などと渡り合ってきた静にとって、只人相手ならば本来の姿を取るまでも無い。
軽く右前に一歩踏み出した後、次の一歩は思い切り左へと進路変更した。脇腹の横を石突きが通過していく気配を感じながら静は相手の目を見据えた。
動転したのは原美濃の方である。槍は刀と違い穂先の部分にしか刃の無い、殺傷範囲の
狭い武器である。片鎌などはそれを補うための物だ。
つまり、槍は初手の穂先さえ躱してしまえば後に残るのは刃の無い柄の部分。押すにせよ引くにせよ、懐に入られてしまった脆さの現れる、歪な部分のある武器なのだ。
とはいえ、それを出来るかとなればまた別の問題だ。原美濃とてそれを狙った者達を数多戦場で返り討ちにしてきた。だが今回ばかりは勝手が違った。
自分の突き出した槍は見切られ躱され、相手はそのまま刀の間合いへと踏み込もうとしていた。並の侍ならばここで詰みである。だが武人の本能はそれを許さなかった。
左手の握りを更に強め引くことで槍の行き足に待ったをかける。掌から摩擦による熱と傷みが伝わってくるが、そんな物は些末なことだ。
同時に体を捻り右手を外側へと押し出す。すると槍を風車の様に回転させる事が出来る。そしてそれは相手に本来ならばあり得ぬ二撃目を加える事が出来るということだった。
相手に本来ならばあり得ぬ二撃目を加える事が出来る。筈だった。しかし静の行動は原美濃の対応の上を行った。躱した槍の柄を左手で掴むと、ぐいと力任せに押したのだ。
ここで静が槍を自分の方へ引いていた場合、相反する方向への力が加えられたことで綱引きならぬ槍引きが行われていたことだろう。だが、同じ方向ならばどうななるか。
動転したのは原美濃だ。只でさえ無理矢理な攻撃をなそうとしているのだ。そこへ予定外の力が加わればどうなるか。当然の結果として、喊声を上げる静の前で姿勢を崩した。
瞬間、原美濃は己の負けを悟った。元より薄氷を踏むが如き勝ち目の薄い勝負である。そこで姿勢を崩すなどという決定的な隙を晒せばどうなるか、分からぬ筈は無かった。
それでも、次の瞬間に起こった事はその頭を真っ白にさせた。唐突に、比喩では無く足下の地面の感触が消えたのだ。ふ、と体の浮く感覚。槍を支えに持ち上げられたのだ。
ばかな、ともありえぬ、とも思った。だが現実として静はいつの間にか木刀を左脇に挟み両手で槍の柄を持ち、力任せに天へと振るったのだ。
いくら何でも女の細腕で大の男を持ち上げるのは無理があるだろう、その場のほとんどの者はそう思った。だが目の前の現実はその考えを打ち砕いていた。
あの歴戦の勇士原美濃守が立ち合いで槍を掴まれ為す術も無く無様に空中に持ち上げられている。悪夢のような光景が積翠寺の境内に現れていた。
空中に持ち上げられながらも槍をしっかりと掴んで放さなかったのは日頃の鍛錬の賜物か。もし半端な位置で放していれば地面に落下し骨折していたかも知れぬ。
しんと水を打ったかのように静まりかえった場の中、一言参った、の声が場を震わせた。同時に皆が思い出したかのように口を開き始めた。
それを聞くと静はゆっくりと槍を傾け相手を地上へと戻した。そして脇に挟んだ木刀を手に持ち直すと相手に対して一礼し、すたすたと男の元へと戻ってきた。
相手の原美濃はいまだ心ここにあらずといった風で地に足を着け直したまま呆然と立ち尽くしていた。相手に応じて礼を返すことさえも忘れていた。
しばらく呆然としていた観衆の侍達も、やがて言葉を思い出したようにざわつき始めた。数多の戦場で武功を上げてきた、一廉の武士に土が付いたのだ。
同時に別の事実にも目を向けざるを得なかった。これで静は五人抜きを達成したことになる。確か事前の申し出では、無事達成した暁には……
気が付いた者から慌てたように周りの者と騒ぎ始めた。
ーーまさかあれが同輩になるのか
ーーだが見ての通り武勇は確かだ
ーーしかし事実として五人抜きしたのだ
ーーだからといってこれで良いのか
ーーあの原美濃守殿を下すほどの猛者だぞ
ーー女はともかく、男の腕はわかるまい
ーーお館様はどうなさるおつもりか
ーー仕官を許すと約束されたのだ
ーーだがあやつ元服前ではないか
ーーしかし反故にもできまい
先程までの静寂と打って変わり、境内は最早蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっていた。立ち合いのその後に、皆の興味が移っていた。
歌会の席に乱入してきた得体の知れない男女。腕に覚えがあるゆえ仕官する許しが欲しいという。五人抜きすれば良かろうとの言を得た。
そこまでだったならば、各人が今日の勤めの後に晩酌の肴に昼間とんでもないことがああってなあ、などと語り居合わせなかった者に胡散臭がられればよい話だった。
だが、それが達成されてしまったらどうなるか。一国の主が条件が達成されたならば仕官を許す、と言質を与えてしまったのだ。不本意でも言葉通りするしか無かった。
仮にここで先の約束は無しだ。などと反故にすれば最後、今後武田家の言は平然と反故にされる物との評判が世間に立つだろう。その損失は一城を失うにあまりある。
更に質の悪いことにはこれは牢人の仕官話に絡んでいるということだ。これが他国に伝われば我こそは、と思うものは武田家の門を叩かなくなることだろう。
まったく厄介な事をしてくれたものだ。数多の視線に込められたその意に気付いてか気付かずか、静はすまし顔で男の正面まで歩いてくると立ち止まった。
そして男から自分の刀を受け取り腰に差し直すと、代わりに今まで自分が使っていた木刀を男の目の前にずい、と差し出した。怪訝な顔をする男に対し言い放った。
「私の武芸は見せました。次は主殿の武芸を皆様に見せる番です、さあ」
男は棒を飲んだような顔になり、周囲の侍達は目を剥きざわめきを一層大きくした。
予約投稿したつもりだったのですが、確認したらアレ?となってました。
申し訳ございません。




