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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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24 静、蹂躙

「武芸に自信があると申すか。ならば当家の者を相手にその腕の程を見せてみよ、とお屋形様は仰せです」

 直答が許されぬゆえの伝言である。


 男と伝言役の使者とのやり取りを横で聞きながら静は内心どころでは無く実際に背筋に冷や汗をかいていた。男はこの場の状況が分かっているのか、と。


 自分たちはたったの二人。周囲を取り囲む武士団はざっと見ただけでも百を越える。寺の裏手など、見えていない人数を合わせれば一体どれほどになることか。


 受け答えを一つ間違えれば無礼打ちされても文句は言えないという綱渡りの状況に気付いているのか、こんな事ならばもっと打ち合わせを詰めておくべきだったと後悔した。


 そんな静の内心を知ってか知らずか、男はそれだけ口が回るなら普段からそうしろと言いたくなるほど蕩々と口上を述べていた。正に立て板に水を流すごとしであった。


 自分の生まれは遙か南蛮であり、交易船に紛れ日本へとやってきて、度重なる飢饉と重税の悪政に喘ぐ民のため世直しに立ち上がった主君に仕えるためやってきた、と。


 いくらなんでも盛りすぎだろう、と横で聞いている静は気が気では無かった。確かに下手に日本国内の生まれと言ってあれこれ質問されてぼろが出るよりはましだが、しかし。


 そう思ったのはやはり静だけでは無いようで周囲からはささやき声が風に乗って聞こえてくる。ほら話も大概に……、我らを愚弄する気か……、このまま手打ちに……。


 しかし、この状況に御簾の裏でこれ以上無いほど興奮している人物がいた。本日の歌会の主役の一人、冷泉為和その人である。無論、表面は不躾な侵入者へのそれを保っている。


 だがその内心はこの突発劇に目を輝かせていた。都と違い地方は娯楽や文化が貧弱である。まず今日を生き延びねばならないのだから当然ではあるのだが。


 都の貴族にとって地方へ下向する目的とは、中央の伝手と文化を手土産に現地の支配者層と人脈を形成し、荘園の年貢をはじめとする京への献上品を納めて貰うことにある。


 そうでなければ誰が好き好んで住み慣れた優美な都を離れて戦乱絶えぬ野蛮な地方へなど赴くであろうか。自分たち貴族層の生活がかかっているから致し方なく、なのだ。


 そんな地方での役得など、官位を世話して

の礼金か、自分を含めた郎党の生活費の工面を心配しなくても良い程度のものである。官位叙任権は既得権益と化していた。


 たまの歌会は無聊の慰めにはなる。なるが、やはり相応の技量の持ち主と言っても都の第

一人者に比べれば一枚も二枚も劣る。やはり

地方は地方。都は都。そう思っていた。


 そこへ来て今回の騒ぎはどうだ。歌会のさなかに仕官を望む者がやってきて警固の者どもをものともせず奥まで上がり込んでくる。しかもそれが元服前の子供と女とは。


 地方ならではの荒削りさと、絵巻物の如き非現実さが、老いた貴族の乾いた心に新鮮な興奮をもたらしていた。これは都でもお目にかかれぬ場に居合わせたぞ、と。


 それは男にとっては望外の幸運だった。歌会という文化の場に合っては貴族は主賓、ある意味で当地の大名を凌ぐ発言権をもっている。その意見は無碍には出来なかった。


 それを知ってか知らずか男は絶口調となっていった。こうして御前にお目通り叶ったからには是が非でも腕前を披露して末席に加わりたい、と。


 男が口を閉じると場には沈黙が降りた。この事態に対して当主晴信がどのような裁定を下すのか、侍貴族僧侶、この場の全ての耳目が固唾を飲んでその時を待った。


 伝令役の侍が境内の男と御簾の間を往復した。

「お館様はならば腕を見せよと仰せにございます。五人抜きをして見せよと。」


 おお、とどよめきが場を満たした。寛大な裁きへの驚きでもあり、相手役を務めることでこの不届き者を懲らしめてやろうという意気込みでもあった。


 当の男は伝令役に重ね重ね礼を述べると立ち上がり傍らの静へと向き直りひょうひょうとした顔でとんでもないことを口にした。

「だってさ。静、頼んだよ」


 先程とは別の意味で、そしてより大きなざわめきが場を満たした。

 こやつ、今何と口走ったのだ、と。

 中には鯉口を切ったものさえいた。

  

 自分は先に立ち上がり、こちらにもそうするよう促してくる男に合わせながら、静は内心動転していた。正気ですか、主殿。その言葉がやまびこの様に繰り返されていた。


 もっとも状況はその逡巡さえ許してはくれなかった。境内にひしめく武士達の中から早くも名乗りを上げた者がいたからだった。つまり、もう後には退けなくなったのだ。


 ああもう、と静は一声上げると頭を振り、そして男の頬を抓り上げた。

「この件については後ほど」

 据わった眼で告げた。


 こくこくと頷く男に腰の刀を預けると静は木剣を抜き待ち構えている相手の方へと歩いて行った。どうしてこんなことに、の呟きがその唇から漏れた。


 恨めしげに男の方へ視線を向ければこちらに気付いたのか先程まで腫れた頬を撫でていた手をひらひらと振ってくる。もはや怒る気力もなかった。女は男で苦労する。


 歩みを進める静の耳にまたしてもざわめきが届く。耳が良いのも時と場合による。まさか女を立たせるとは……、腰抜けかそれとも阿呆か……、成敗する口実ができたわ……。


 相手とは十歩ほど離れてお互いに構えた。先程の伝言役の侍がその真ん中ほどに立ち右手を挙げるとはじめ、の声と共に振り下ろした。双方弾かれたように動いた。


 結果から言えば静の勝ち、それも圧勝だった。開始と同時に素早く踏み込み相手との距離を詰め喉元に切っ先を突きつけた。言うは易しを地で行く大金星である。


 収まりが付かなくなったのは取り囲んでいる武士団の方である。まさか主君の御前で、しかも女相手に黒星を喫しようとは。囲みが一歩、後ろへ下がった。


 しかも次の相手は出さねばならない。復仇に燃える大声が空気を震わせた。目を血走らせ、息も荒げた熊のような大男が踏み出してきていた。おお、と期待の声が上がった。


 先の相手は速さで攻める相手だった、ならば今度は力で攻める相手か、と静は木剣を握る手に力を込めた。まだたった一勝、あと四勝しなければならない。気は抜けなかった。


 再び先程と同様境内の中央付近へと移動し、多少の距離を置いて相手と対峙する。自分が負ける場面など想像したことすら無いのか、

不敵な笑みを浮かべている。


 どちらかと言えば精悍というより野卑、武者というより夜盗の方が近いのではないか、との感想を抱きながら静は木剣を構えた。先程と同様はじめ、の声がかかった。


 今度は前回ほどは踏み込みを素早くせず、むしろゆったりとした足取りで相手の速度に合わせる。そして振り下ろされる木剣に自分のそれを合わせ、弾いた。


 驚愕したのは相手の大男である。並の男より大柄ではあるが、所詮は女。振り下ろす力と重さで押し潰せる、そう踏んでいた。だが、現在のこの状況はどうしたことだ。


 自分の上から振り下ろした剣を、相手がしたから切り上げた剣が弾いている。それは女の細腕に純粋な力で完全に上を行かれたと言うことだ。


 その事実に冷や汗を流す時間さえ与えられず、弾き上げられた自分の腕の下から喉元へ、ぬっと木剣が突きつけられた。歯を食いしばりながら参った、の声を絞り出した。


 周囲のざわめきはもはやどよめきと化していた。二人もやられるとは。最早まぐれでは済まされぬぞ。女相手に五人抜きされたとあっては我らの面子が……


 そんな中ある一角から更なるどよめきが聞こえてきた。おお、貴殿が行かれるか。ならば間違いあるまい。修めたのは何処の流派であったか。


 静がそちらを向くと引き締まった体躯の侍が歩み出てくるところであった。背筋を伸ばしてすり足で進み出てくるその様は隙がなく、先の二人との格の違いが見て取れた。


「すまぬな。女相手にこれ以上遅れを取ったとあっては我らも面目が立たぬ。ここで終わらせてもらおう」

 そう言うとすっと木刀を構えた。


 向き合った両者は手にした武器をそれぞれ正眼に構えた。同時に空気がぴんと張り詰め、それまでのざわめきが波が引くように消えていった。


 静も流石にこの相手は身体能力だけで押し切れないかもしれないぞ、と気を引き締め直し勝利への筋道を幾通りか頭の中で組み立て始めた。


 しかし一番緊張に晒されていたのは相対している侍本人であった。眼前の女に一切の隙を見いだすことが出来なかったのだ。今更ながらの後悔が内心を覆っていた。


 完全に相手の方が格上、構えを見た瞬間にそう悟った瞬間に侍の心をよぎったのは在りし日の思い出であった。若かりし日の、武者修行として各国を渡り歩いた日々。


 手を震わせながら雑巾がけした冬の道場。友と月を肴に酌み交わした秋の酒。兄弟子と実戦稽古と称し他流派へ道場破りに行った夏の晩。道場主から印可状を授与された春の日。


 待て待て、立ち会いを前に何を思い出に浸っている。目の前の相手に意識を集中しなければ。それにこれはよもや走馬灯という物ではあるまいか、なぜこんな時に。


 その時、合図の声と共に手が振り下ろされた。瞬時に意識が切り替わるのは武芸者の本能か。すり足で距離を詰め、獲物を振り下ろしていた。


 静の打ち込みより侍の振り下ろしの方が早い。侍の口元が知らず肉食獣のような笑みを作った。勝った。相手はまだ振り下ろしさえしていない。頭の上に構えているだけだ。


 なんだ、先程のあれは気の迷いだったのかと思った瞬間。ふと、背筋寒気が走った。見れば相手は振り上げた刀を横に寝かせ右手を物打ちの裏に添えている。

 

 しまった、そう思うより早く振り下ろした木剣は弾かれ、その隙に相手の切っ先は侍の首元へ当てられていた。参った、そう声を絞り出すのが精一杯だった。


 開始の合図からほんの数秒。何が起きたのかを理解できている者が何人いることか。大半の者には気付けば侍が降参していたようにしか見えないだろう。


 後の先、相手に敢えて先に打たせ、カウンターで仕留める。言うは易しだが、実際に、しかも実戦で成功させるとは。自分のこれまでの修行は何だったのかと侍は首を落とした。


 驚きよりむしろ困惑の声に包まれて侍は下がっていった。続く四人目は憐れの一言であった。傍目にも腰が退け足が震える状態でありなぜ出てきたのか周囲は首をひねった。


 立ち会いがはじまっても裏返った声をやたら上げて本人は威嚇しているつもりであろうが弱い犬ほどよく吠える、を体現したに過ぎなかった。


 実際、静が一歩踏み込めば自身は二歩下がるといった有様でついには下がった拍子に足をもつれさせ尻をついたところに切っ先を突きつけられ降参する体たらくであった。


 ここで再び場はざわめいた。次は誰が出て行くのか、全員の関心はその一点であった。迂闊に名乗りを上げれば恥をさらす危険が高い。さりとてこのままにもできぬ。


 主君臨席での試合で日頃の研鑽を披露する絶好の機会ではあるが、相手の女も一廉の武芸者であることは疑いなかった。満座で女相手に黒星を喫しては武士の面目に関わる。


 そんな雰囲気を見て取り不甲斐なさに本堂に座す重臣の一人が御簾の向こうから叱咤の声を上げようとしたその時、相手を買って出る者が現れた。


 人垣が割れ、その中央から一人の武者が進み出てきた。周囲が驚きをと共に、まさか原殿が、美濃守様のお手を煩わせるとは、とざわめきを発した。


 息を乱さぬままそれを見つめている静は二つのことに身を強張らせた。一つは歩む姿から三人目の侍よりも腕が立つと見て取れたこと。もう一つは槍を携えていた事にである。

 

 一週間分書き上げたー、と油断して予約投稿し忘れるとは……

まだまだです。

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