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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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幕間 ある武士の話

 唐突だが、ある武士の話をしよう。

 その男は諏訪地方の大名に代々仕える中級武士の三男としてこの世に生を受け、すくすくと成長した。


 長男次男も順調に成長する中、文武に励み努力にふさわしい結果も出し、将来を嘱望されあの子が長男ならば、と言う人さえもいるほどだった。


 しかし、現実は無情である。この時代、長男は家を継ぐ嫡男、次男は長男に何かあった時の予備、三男以下は良くて部屋住みという名の部下、寺へ出される事もあった。


 それでも、その武士はめげることも腐ることもしなかった。長男次男に生まれてさえいればなどと世を嘆くことも無く、与えられた環境の元で努力を怠らなかった。


 当然、周囲の冷やかしはあった。当主になれる訳で無し、何のために頑張るのだ。

 長男次男の嫉妬さえあった。三男のおまえが何を出しゃばるか。分をわきまえよ、と。


 それでも武士は折れなかった。家の外ではやっかみに耐え、内では嫡男を立て、その上で文武に励んだ。それが武士の有り様だと教わり、自身もそう思ったからだった。


 当然、それは異端と扱われた。物わかりが良いにも程があるだろう、と。実際、自身でもそう思うところもあったが、それ以外の生き方を出来なかった。不器用だったのだ。


 ただの不器用ならばある程度の所で才能や環境の壁に当たり諦めるだろう。だが、この武士は諦める事さえできなかった。筋金入りの不器用だったのだ。


 そして異端は目立つ。例えば十人の内訳がちょんまげ九人と坊主頭一人ならば、坊主頭の一人はそれはそれは目立つことになろう。それが人の世だ。


 そして目立つと言うことは注目を浴びる、人との縁を持つ機会が増える、という事でもある。ある日、戦で子を亡くした叔父から呼び出しがかかった。


 何事かと訝しみながらも、父親に言われた通りに衣服を改めその方を家を訪問した。叔父と奥方に出迎えられ、武芸や学問、日々の過ごし方など、あれこれと聞かれた。


 特に武芸は刀や槍、乗馬を実際にやって見せよと乞われ、腕前を披露し、刀などは木剣で手合わせする事にさえなった。そして帰り際に娘と引き合わされた。


 流石に鈍い武士でもここまでされれば自分の身に何が起ころうとしているのか検討が付いた。しかしまさか、との思いの方が強かった。そんなうまい話あるはずが無い、と。


 その思いは良い意味で裏切られた。数日後、三男を婿養子として迎え入れたい、戦で無くした息子の代わりに家を継いで欲しい、と正式な申し入れがあったのだ。


 無論、家族は諸手を挙げて賛成した。良い話であったからだ。弟の家の断絶を避けられる上に、三男にとっては栄転でもある。断る理由が無い。


 実際、親としては才能ある子を部屋住みの一郎党としてその生涯を終わらせるよりは他の家の当主になって存分に羽ばたいて欲しいと思うものなのだ。


 そして武士は祝言を挙げ叔父家の跡継ぎとなった。そして今まで以上に文武とさらに主君への奉公に励んだ。四人の『両親』の期待に応えよう、との一心からだった。


 登城しては例え年下であろうと先達には教えを請い、戦では率先して先に立ち槍働きをした。家中の者達にもできるだけ声をかけ馴染めるよう努力した。


 一月二月では変わらないだが半年一年も経てば、周りの見る目も変わってきた。運良く婿養子に転がり込んだ輩から、次代を担う期待の男へと。


 例え一時は不遇の期間があっても、努力すれば報われる。見ている人は自分の事を見てきちんと評価してくれる。武士は体験を通し、その思いを強くした。


 しかし、そんな輝かしい日々に唐突に影が差した。切っ掛けは、ある日夜の警邏当番の一人になったことだった。悪党どもから領民を守る、大事な仕事だ。


 警邏は町中さえしていれば良いというものでは無い。むしろ廃屋などを根城や取引の場所にされたりする上領域が広い分、郊外の方に重点を置かねばならないほどだ。


 そんな中、諏訪湖から不審な物音がするとの通報があった。遠雷のような、争うような大きな音だったというのだ。それは自分たちの耳にも届いていた。


 よもやならず者同士の小競り合いか、と他の夜警番の者達に一方を入れ、自分たちはおっとり刀で諏訪湖畔へと急行することにした。万一の事があれば一大事だからだ。


 そこで遭遇したのは全くもって予想外の者どもだった。行商人らしき男と、男装の女侍。だがこんな時間に出歩いている以上、碌な手合いで無いことは確かだった。


 流石に問答無用で捕縛するのは躊躇われた。誰何しようとすればなんと向こうからしてきた。それも随分と頓珍漢な名乗りをしている。驚きよりも呆れが胸を満たした。


 恐らくは忍びの者、密偵の類いだろう。しかも随分と程度の低い。諏訪の事を調べに来たのだろうが、この分だと本命が他にいるのだろう。


 それでも放っておくことは出来なかった。何より背後関係を聞き出さなければならない。幸いにも相手は二人。片方は殺してしまっても、もう片方の口さえきければ事足りる。


 相手は女は刀だが男は杖だ。こちらは一部が松明を持ってはいるが六人で槍や長棒で武装しているものもいる。それでも油断せず左右に広がり包囲する形を取った。


 数で勝り、装備で勝り、なおかつ布陣さえも即興で整えた。これならば勝てる、そう確信し配下の者どもに下知を下した。片方だけ生け捕れば良い、と。


 結果は予想だにしないものだった。配下の者どもは武器を奪われ傷を負い、自分は湖に投げ込まれた挙げ句相手を二人とも取り逃した。完敗の大失態だった。


 それでも武士は恥を忍びその顛末を報告した。手柄も不手際も、あるがままを述べるのが正しき有り様と習ったからだ。しかし、今回はそれが裏目に出た。


 翌日から、周囲の武士を見る目が変わった。六人がかりでたったの二人、しかも片方は女のくせ者を相手にして手傷を負わせる事さえできず良いようにしてやられた、と。


 面目は丸潰れであった。義父さえもこのような不出来な婿を取った覚えは無い、と叱責するほどであり、他の者達からのそれは推して知るべしであった。


 この時代、武士という人種は面目を非常に重要視した。一級史料の『信長公記』にも面目を施した、面目を失った、など「面目」という言葉が百回以上登場するほどだ。


 望外の幸運を得た物は容易に嫉妬の対象になる。それが失態を犯した等と知れれば今まで歯がみしながら見ていた連中はどうなるか。一つの答えが現れた。


 登城すれば聞こえる様に陰口を叩かれる。 油断が過ぎるのでは無いか、いや馬脚を現したのであろう、それにしても何と不甲斐ない、この様な輩が同輩とは。


 町を歩けば袖で口元を隠し同様なひそひそ話の種にされる。

 自分が笑われるのは失態の罰として耐えられた。しかし家中の者に対しては別だった。


 上役に汚名返上の機を与えて頂きたい、と願い出た。このまま家の名誉を汚したままではいられぬ、自分はともかく郎党が不憫でならぬ、と。血を吐くような叫びであった。


 それに対する上役の答えは待て、だった。その機を与えることはやぶさかでは無い。だが今は身を慎み傷を癒し武具を整え、その時に備えることこそが肝要である、と。


 普段の武士ならば、それは遠回しに今自分は冷静さを欠いているから、一旦頭を冷やして仕切り直せ、とやんわりと注意されていたことに気づけただろう。


 だが、予想外の栄達と不運では済まされぬ失態、この二つの出来事とその落差とが、武士から普段の冷静さを奪っていた。そしてそれは周囲も同様だった。


 そこへ飛び込んできた領主館への夜襲事件。 夜半の活動。不慣れな手際。練達の武芸者。その組み合わせが、犯人は因縁の相手だと教えていた。


 直ちに追跡へと名乗りを上げた。四方八方へと放たれる追っ手の内、希望者の少ない北が割り当てられた。それでも具足を付ける間も惜しみ、郎党を引き連れ駆けだした。


 そして武士はやはり自分は件の輩と縁があるのだと確信した。途中の川岸で夜盗であろうならず者の死体を発見した。目を引いたのはその死因だ。


 いかな剣豪によるものか、素人目にさえわかる凄まじき斬撃痕。自分が斬られた事にさえ気付かなかったのではとさえ思えるほどの凄まじき腕前。奴だ、と分かった。


 直ちに健脚の者を城へと走らせ報告を入れ、自分たちはそのまま追跡の途を再開した。この先に目指す相手がいるとなれば気合いが違う。疲れも消し飛んだ。


 あやつ等は追われる身であるにも関わらず愚かにも目立つ街道を北上しているらしい。間道を使わないのは無知か挑発かそれとも自信か。だがそれもここまでだ。


 土埃を蹴立てて街道をひた走る。年配のまとめ役の小頭に注意されなければ手下の者どもを急がせすぎていざという時に足腰立たなくなる程だった。


 気が逸って焦りすぎたか、と反省し小休止を取った後早足で追跡を再開した。同時に脳裏に地図を広げる。このまま北上すれば小県。すると奴らの背後にいるのはーー


 そこまで考えたところで後方から響いてくる騎馬の足音に気が付いた。遠雷にも聞こえるそれは一騎や二騎のそれではない。土埃どころか土煙を蹴立てた一団が見えた。


 慌てて下馬し礼の姿勢を取る。これほどの騎馬集団を率いるとなれば家中でも一廉のおとなであろうからだ。非礼があってはならない相手だ。


「お役目ご苦労。我らはこのまま北を押さえる。貴殿等は東の間道へ向かわれよ」

 挨拶も名乗りも無く、一団の主は自分達に目もくれず供の者がそう告げ駆けていった。


 礼の姿勢を崩さぬまま、知らず体が震える。食いしばった歯が唇を破り血を滲ませる。視界が滲むのは何故か。俯いていなければみっともない顔を見せるところだった。


 そこまでか。そこまで我らは信用されていないのか。本命の探索方向から外され、ようやく手がかりを見つけたかと思えばそこでもつま弾きにされるとは。


 たった一度の失態でこの仕打ちとは。自分が今まで身を粉にして奉公してきたのは一体何だったのか。それとも御家老衆へ手柄を進上する事が忠義とでも言うのか。


 拳を握りしめたまま、動くことさえ出来なかった。それでも小頭は気遣わしげに声をかけてきた。殿、と。

 袖で乱暴に汗を拭うと顔を上げた。


 もはや自分は只の部屋住みでは無いのだ。郎党を抱える一家の主だ。配下の者どもの生活を預かる身なのだ。個人の都合や感情だけで動くわけにはいかないのだ。


 下知に従ったのは吉だったのか凶だったのか。結果として、武士は目標を発見し、因縁の相手と再会することになる。その罪を糺し討ち取ろうとするが返り討ちにあった。


 先代から仕えてくれた小頭も、剣の握り方から教え将来を期待していた若者も、皆殺しにされた。自分も腿を斬られ、血が情け容赦なく流れている有様だ。


 もはや助かるまいと思ったか、相手はとどめを刺さずに去って行った。乗っていた馬さえも走り去り本当に一人になってしまった。そこへ現れたのは数名の百姓だった。


 下卑た笑みを浮かべ手に鍬や鎌を構えており落ち武者狩りのつもりだろうか。同時に腹の底から怒りと力がふつふつとこみ上げてきた。諏訪の百姓が諏訪の侍を狩るのか。


 握るのが精一杯だった槍を持ち直し立ち上がる。そこから先は一方的だった。まともに死合えば、人殺しが本業の武士に群れたとて百姓が敵う道理など無かった。 


 失った血の代わりに殺した相手の血を啜りながら武士は吼えた。このままでは終われぬ。この恨み、晴らさず置くべきか。このままでは終われぬと。その名を茅野春盛と言った。


主人公たちのお陰で人生を狂わされた人もいますよねって話です。

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