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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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 盆地の朝は遅い。周囲を山で囲まれている関係上、日の出は遅く、暮れは早い。それは同時に、平地より日中の時間が短く活動時間も短いと言うことである。


 すなわち、一日の中でもそれだけ農作業その他に費やせる時間が平地よりも少なく、生産力経済力で遅れを取るということでもある。山間に座する事はそれだけで不利だ。


 男は目を覚ました後その体も起こすためのびをしながら、眉間に皺を寄せて目の前の赤岳を見つめながらそんな事を考えていた。山は、二重の意味で山であった。


 この様な山間地を拠点とする大名は、それだけで平地の大名に対して不利を抱える事になる。そこに仕官することの意味を考えながら、仲間を取り戻す覚悟を新たにした。


 そうこうしている内に他の面々も起き出してきた。むしろ起きてはいたが今まで気を使って顔を出さなかったが正解であろうか。男は口元に小さく笑みを浮かべた。


 それを何事も無かったように流すのがこの女達の魅力であり器である。このような女達を伴侶とできた幸運を男は噛みしめた。朝日がその顔を照らしていた。


 さりとて、何をするにもまずは腹ごしらえである。一行は朝食の準備をすることにした。今回の当番は牛若と梅子の年少組だ。必然、簡素なものとなる。


「うん、健康食」

 男の言葉が全てを現していた。携帯用の乾燥食材を水と共に鍋に放り込み適当に煮立たせる。栄養たっぷりのお粥の出来上がりだ。


 食事をしながら本日の予定を確認し合う。まずは目の前の山を越えて国境を越えて追っ手をかわす。全てはそれからだ。流石に公権力に追われては身動きが取れない。


 全員の同意を確認したところで何気なく山へと視線を向けた男はうめき声を上げた。何事かと不審がる皆に対して谷間から白く立ち上る霧のようなものを指して言った。


「雲が出てきてる。雨が降るかも知れない」

 その言葉に年長組の顔色が変わった。

 西の空へと顔を向ければぽつぽつと浮かぶ白い雲に加え、黒雲も混じり始めていた。


 おおよそ、雲は色と高さで雨雲かどうか分かる。高度を保つ白い雲か、低空へと降りてきてそこが平たくなって色も煤のように黒ずんでいるならば雨雲だ。


 そして、山の谷筋から霧がで出る、つまりは雲が作られている様な場合、高確率でその後の天候は崩れる。山の田舎育ちならば子供の頃に覚えることだ。


 それを知っている男と、その反応から状況を察した年長組は前途の困難さに思いを巡らせた。前方は雨天での山越え、後方は諏訪領からの追っ手、時間は敵だ。

 

 加えてはぐれた雪は昨日は無事のようだったが、今日も無事である保証はどこにも無い。その意味でも時間は敵だった。現在どうしようもできない焦りがそこにはあった。


 幸い、男は趣味が高じてこの時代の歴史の流れをある程度把握している。盛衰興亡に当たりが付いているという事は特にこの戦乱の時代に合って決定的な優位である。


 ならばどこへ行き、何をするのがこの状況で一番確率が高いのか。炊煙は行くべき方向を指し示すように、天へと昇りながら東へと流れていった。


 朝食の片付けを手早く済ませると、全員は直ちに荷物をまとめて腰を上げた。雨中の山越えなど、何が起こるか知れたものでは無いからだ。


 狭くなった視界、ぬかるみ不安定となった足下、加えて地形も不案内とくれば、これはもう不確定要素の数え役満だ。何が起きても不思議は無い。


 加えてこの時代は治安が悪い。昨日も夜半に賊の類いに遭遇しこれを退けた。勿論負けるはずも無いが、不確定要素が重なれば手傷を負うことはあるかも知れない。


 必然、天気の保っている内にできるだけ距離を稼ぎ危険との遭遇確率を少しでも落とそうという思考になった。顔を上げれば、越えるべき山はすぐそこだった。


「ひゃほう、楽しいねえ、みんな」

 枝から枝へと飛び移り、悪路も谷間もものともせず、先頭を行く牛若は順調に距離を稼いでいた。

 

 その様は背負う荷物の量や重さを感じさせず、鞍馬の山の鴉天狗もかくやと言うほどである。実際、正体はその通りなのだから、当たり前のことではあるのだが。


「う、牛若、ちょっと待ちなさい」

 息を切らせながら流石に音を上げた男が止めに入った。本来の荷物に加え、梅子の荷物と本人も抱きかかえるのは無理があった。


「だから荷物は持つと言ったでしょう」

「甲斐性はしかるべき時、しかるべきに形で発揮して下さいまし」

 年長組は言葉も視線も厳しかった。


「だいじょぶ。ととさま、がんばった」

 それに引き換え言葉と共に頭を撫でてくれる梅子の何とありがたいことか。男は知らず涙腺を緩ませかけた。


 この時代、登山道など整備されておらず山に入っていくのは木こり、修行僧、炭焼きなどごくわずかである。道なき道を行くくらいならばと考えて結果がこれであった。


 木々の枝を飛び伝って行けば、獣道にも悩まされず跳ねた泥の汚れや木々の枝で衣服をほつれさせることもないと考えた末での行動であった。


 当初の目論み通り、雨の降る前に一定の距離は稼げた。稼げたが、反省点も多い内容となった。それでも、体を動かしたことで気分転換とできたことは収穫であった。


 二人分の荷物と梅子を抱えて木々の枝を飛び伝って移動するという、忍者もかくやの所業で乱れた息を整えるために、一行は小休止を取った。


 敷物を広げ腰を下ろし、飲み物を口にして水分を補給する。ついでに地図を広げおおよその現在位置と今日の到達目標を確認する。そして最低到達目標も。


「とりあえず、二日連続での野宿はみんな嫌だろうから、何が何でも日暮れまでには街道の宿場町に出て、宿を取ろう」

「キャンプじゃ無かったっけ」


 気を使った筈が即座に揚げ足を取られ、男は先程とは違う意味で涙腺が緩みかけた。それでも、こういった軽口は機嫌の良いときの証拠と知っていた。


「水浴びじゃなあ。風呂、入りたいだろう」

 この問いに否と返すものは一人もいなかった。そこで、ではどのようなルートで行くか、の話になった。


「実際追ってくるのは諏訪勢であって武田勢じゃない。山さえ、つまり国境の関所さえ越えちゃえば何とかなる筈なんだ」

 ふむふむ、と皆が頷いた。


「だからここらで向きを東から南東へ変えて、山越えをしたら南下して街道へ出て、宿場町に突き当たればそこで宿を取ればいいと思うんだ」


 反対意見は出されず、それで方針は決まった。静が懐から円形の道具を出し少し眺めた後向きを変えると胸に梅子を抱えて太い枝へと飛び移った。


 それを見た男は礼を言った。昔の人は方位磁石も無しにどうやって方角を見定めたのだろうと思いながら。次々に移動を始める仲間の最後に、自分も荷物と共に地を蹴った。


 前回は牛若が突出しすぎたため、今回は静が先頭を切ることとなった。十分な太さを持つ枝を見定め、抱える梅子の負担にならぬよう余裕を持った移動速度だった。


 これが牛若となると敢えて折れそうな枝を度胸試しに足場にする、後続の事など考えず突き進むとやりたい放題であった。こんなことにも、性格が出ていた。


 今回は足場にした枝が折れて慌てて幹を蹴って緊急避難することも無く、置いて行かれる事も無い男は周囲を観察する余裕が出ていた。見上げれば雲はいよいよ黒ずんできた。


 それに最初に気付いたのは玉藻だった。麗しの顔を濡らす天よりの雫。手を上げて合図すると全員は近場で一番大きな木の木陰へと集合した。


 ここまで切り株らしい切り株を見なかったから、人の手も碌に入っていない山林の、さらに一段と年季を感じさせる大木の根元での雨宿りとなった。


 男は顔を上げて周囲を見回し、雷光の点滅もごろごろという遠雷の音も聞こえないことを確認してほっと一息つくと雨宿りに加わった。


「さて、じゃあこれからどうしましょうか」

 今回の議長役は静である。議題も簡潔、行くか留まるかの二択である。問題は主導権を握るのが天候と言うところだった。


「まずは牛若にまわりを確認してもらおう」

 国境を越えたかどうか、街道つまりは宿場町までの距離はどれほどかで判断しようというのが男の意見だった。


「西の空も確認して下さいまし」

 天候は西から東へと移りゆく。ならば西の空の雲が切れていればじき雨もやむだろうし逆もある。その確認も必要、と玉藻は言った。

「おひるもまだだし」

 梅子はまだ昼食前だ。日没まで十分時間はあるし、焦ること無く皆の意見を出し合って一番良い方法を考えよう、と述べた。


「では早めの昼食にしましょう。牛若、鴉を出して下さい」

 静の大岡裁きで決した。まずは状況確認が先決、妥当な判断だった。


 雷の心配が無ければ雨天時は大樹の根元は最適解の一つだ。生い茂る葉が天然の傘となり、濡れ鼠になることを防いでくれる。加えて地面も比較的平坦である事が多い。


 とはいえそれも完璧では無い。結果、天幕と敷物を用意し簡易設営となった。しとしとと降る雨を背景にした山中の昼食会は絵になった。内容が保存食でなければ。


「兄貴、流石に飽きてきたよ」

「何だったら猪か鳥仕留めてこい」

 軽口のつもりだったが本気で牛若が腰を上げたので止めた。実際、それだけの腕もある。

「やっぱり食事の問題もあるし、今日中に宿を取らないとマズいな、雲の様子は?」

 元々怪物退治を本業とした面々である。食事メニューの幅など知れている。


 まして調理器具も限られている。食事は士気の根源だと言うことを、頭では無く現在進行形の実体験として、全員は理解することとなった。


「ううん、まだ続くみたい、どうする?」

 現在昼少し前として、夕方には宿に着いていなければならない。残された時間としては三、四時間と言ったところか。


「よし、設営撤収、山下り用意」

 白く煙る視界の向こうに街道らしき筋はある。しかしそこまで到達して終わりでは無い。余裕はないと考えた方が良かった。


 てきぱきと動く一同。その根底にあるのは流石に今日は風呂に入って屋根の下で布団に入って寝たい、つまりは文化的な生活をしたい、の一念であった。


 流石に戦国時代に化学繊維の雨合羽は無いだろうと、用意してきた雨具は簑と笠。他人事の時代劇ならば雰囲気の出るところだが、自分事となれば話は別だ。


 それでも一度お尋ね者になっている以上、不審な行動や品物をあからさまに出していくのもはばかられた。それぞれ、不満は内心に飲み込んでの出発となった。


「皆さん、足下は気をつけて下さいまし」

 玉藻の注意ももっともだった。今まで空中を跳んでの移動であったため、実際これが初めての山中行軍となる。


 落ちるに任せた葉、道無き山肌、加えて雨水がそれに滑りやすさを加えていた。しかも下り道、荷物の重さと自身の移動速度までもが牙を剥いて襲ってくる。


 男は内心、よくもまあこんな道を選んだものだと昨日の自分に毒づいていた。関所ならば昼間近くに潜伏して夜間に突破してしまえば良かったでは無いか、と。


 さりとて過ぎたことを言っても始まらない。一列縦隊の先頭で前方の安全と後方の仲間、両方に意識を割きながら、急ぎ足での下山であった。


 ようやく麓までたどり付けば近隣の百姓であろうか、自分達と同じように笠と蓑に加え、鍬を持った者がいた。道を尋ねようとーー

「さ、山賊か、おまえら」

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