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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
25/70

19

 荒い息づかいが男の耳朶を打っていた。それが自分の物であると分かるまで、数分の時を要した。ふうと一つ息をついて背筋を伸ばし皆の顔を見回す。ともかく勝ったのだ。


 男が落ち着くのを待っていたかの様にわっと歓声を上げ仲間達が駆け寄ってくる。刀を素早く血走らせ鞘に収めると、微笑みを浮かべて迎えた。


「まあ、今回は取り乱さなかっただけ及第点じゃないでしょうか」

 敢えて問題提起するような物言いで緊張感を持続させるのは静である。


「ああ、一番槍への報償は望みのままでお願い致します」

 さらりと自分の欲望を主張する玉藻もいつものことか。


「みんな、怪我は無い……」

 全員の状況確認という辺りまで重要なことをきちんとこなす梅子が、末っ子ながら一番大人なのかも知れなかった。 


 この場にあるべき声が一人分足りないぞと思い男が首を巡らすと、遺体の懐を漁るなどと、飛んでも無いことをしている牛若がいた。慌てて全員で引き剥がす。


「なにすんだよ、勝ったから戦利品だろう」

「まずは手を合わせてから」

 何かが吹っ切れたのか、どこかずれた会話をする男を見、ほっとした空気が漂った。


 これが昨夜は初めて人を斬ったことに動転し恐慌をきたしたのと同一人物であると、誰が信じようか。だが男のその変化を女達は吉と判じた。


 兎にも角にも、まずは生き延びねばならないのである。このまま一生拠点に閉じこもると言うわけにもいかない。現在の現実に対応する必要があった。


 まずは自衛である。自力救済と言えば聞こえは良いが、要は自分の身は自分で守らなければならない。大名同士の盟約とて、相手に守らせるだけの自前の戦力が必要だ。


 そんな戦国時代の価値観に、つい先日まで平穏な現代社会に生きていた者が急に対応できるはずも無い。だが、やらねばならなかった。


 それが心身に負担を掛けることを承知してはいても、狼狽えているだけでは駄目なのだ。突き放すようだが、生きていくには時に厳しさも必要だ。


 改めて、乱戦の結果あちこちに横たわる死体を二人一組で移動させ一所に集めて目を閉じ手を組ませ、全員で黙祷した後に戦利品の収集と相成った。 


 結果としてする事は変わらないが、それまでに一件無駄に見えるある種の儀式を挟む。それはともすれば軋みを上げる心への緩衝材となる、大切な儀式であった。


 戦利品と言っても相手もおっとり刀で駆けつけた一団である。そうは期待できない。それでも弓槍刀に若干の現金程度は手に入った。特に射程のある弓はありがたかった。


 そうなると武器と陣形の問題が出てくる。

結局男が弓と槍を、静が槍をもらい、あとはそのままとなった。流石に貴族の娘や童女が弓や槍を構えるのは無理があった。


 横一列に並べた七体の遺体に近くで摘んできた名も知れぬ花を手向け改めて手を合わせた後一行は旅路を再開した。まだ日中とは言え、野宿の準備の時間も必要であった。


 戦利品として若干の現金を懐に、新たな武器を手に道行きを再開する。正直、武器の性能品質は自分たちが拠点から持ち出した物に対して比べるべくもない。


 しかし、破損しても無くしても、最悪盗まれたとしても惜しくない武器というのはありがたかった。いくら道具は使われてナンボとは言え、消耗を望んでいる訳では無いのだ。


 それにこの時代この地域で実際に使われていた代物である。見慣れぬ武器を扱う怪しい奴ら、などと不審の目で見られる可能性は、わずかでも減らしておきたかった。


 そうして相変わらずざくざくと原野を進む。現代なら登山靴等の装備もあろうが、大抵草鞋で挑むのだ。それは消耗品で一日に複数履き潰すのも無理は無いだろう。


 ろくに整地もされていない、草ぼうぼうででこぼこの荒れ地を歩むのだ。草鞋の消耗も激しいが、同時に道中の民家で購入する口実にもなった。


 無論、ただ消耗品を補充するだけでは無い。買値に少々色を付けて「世間話」に付き合ってもらうのだ。百姓だからこそ、見えるものもある。


 年貢が厳しい、合戦が実益に繋がっていない、領地が狭く家臣も少ない。少しの銭で実に口が良く回る。この土地の政治はうまくいっていないようだった。


 そうこうしているうちに山の麓までたどり着いた。山越えは明日と決めているので今日はここで夜を明かさなければならない。宿営地の選定に入った。


 テントがあるのだからキャンプだ、と叫び声を上げて適当に設置するのは素人以下だ。テントを張るにもそれ相応の注意点を確認する必要がある。


 まずは平坦な地面が必要だが、周囲に何も無い吹きさらしではいけない。突風の際にテントが倒れる危険があるし、にわか雨なども一切防ぐことができない。


 では雨対策で寄らば大樹の陰とばかりに設置するのはどうか。これもいけない。落雷の際には返って危険な選地となってしまうからだ。勿論水はけも重要だ。


 そうなると、平坦な地面に周囲にさほど背は高くないがそれなりの木立があり、そこそこ水はけも良い場所、と言うことになる。これに水利と周辺の視界が条件に加わる。


 随分と我が儘、むしろ難題に属する。それ故に早めの現地入りを望んでいたのだった。空を仰げば現在は太陽がやや傾いたころである。時間はありそうだった。


 時間には余裕を持っているとはいってもそれは経験者ならばの話、素人はどこに重点を置きどこを流して良いか、それがわからない。結果として必要以上の時間と労力がかかる。


 それでも何とか夕暮れには場所の選定を終えてテントの設置まで完了することができた。ほっと一息つく間もなく、男はそのまま夕飯の支度へとかり出された。

 

 夕暮れ時だというのに温かいスープを望まれ、慌てて近場からそれなりの大きさの石と薪を拾い集めかまどを作り火を熾し、荷物の中から鍋を取り出す。


 更に荷物から水を取り出し、保存食の干し肉と乾燥野菜を鍋に投入し、好みで隠さない味として生姜を、それから塩を適量。本来ならそこまでの時間もかからないのだが……


 そうこうする最中に他の四人の誰かが常に傍にいてあれやこれやの注文を付けてくる。却下するわけにもいかず都度対応しているとこれまた時間を取られる。


 そんなこんなで完成時には日も暮れ、たき火に加えランプの灯りも必要とされていた。気疲れを吐き出すように息をつけば髪を下ろし手拭いを櫛のように扱う静と目が合った。


 珍しく、本当に珍しく静の方が気まずげに目をそらす。それを見ていた牛若が舌を少し出して顔をそむける。それで男は状況を確信した。


「いやまあ、そりゃ風呂も入りたいのは分かるけど、少し信用がなさ過ぎじゃ無いか」

 覗きに行くなどと馬鹿なまねをするはずがないだろう、そう抗議の声を上げた。


「ああいえ、主殿。これは信用していないとかそういう問題では無くてですね」

 いつものキビキビとした応対はどこへやら、静も今回は妙に煮え切らない。

 

「オンナゴコロの分かんない兄貴だなあ」

 頭の後ろで腕を組みながら公式も覚えてこなかった生徒に対する教師のような態度で牛若が応じた。


 顔いっぱいに訳が分からない、と書いてある男に解答を示したのは意外にも梅子だった。「ととさま、みんな、恥ずかしい」

 自分も恥ずかしそうにしながら告げた。


 化粧する様を他人に見られたくないようなものか、とようやく男は得心した。

 その様子を見た玉藻はこれだから、と肩をすくめた。


「それよりお腹空いた、ごはんごはん」

 牛若によって無理矢理場の空気が変えられ、それに乗った女達がいそいそと食器の用意をし始めた。


 自身の腹の虫も存在を主張し始めたのを察した男はそれ以上の追求を諦め食事の用意に集中した。とは言っても荷物からビスケットを取り出すだけだったが。


「いくら保存食とはいえ、戦国時代というものを旦那様は何だとお考えなのでしょう」

 からかうような声を出したのは玉藻である。その気持ちは分かった。


「何を言う。ビスケットはかの英雄ナポレオンの軍隊も愛用した由緒正しき保存食だぞ。

それとも何か、戦国時代だから兵糧丸の方が良かったか」


 途端に全員が渋い顔をした。こちらではどうだか知らないが、自分たちの知る「兵糧丸」は携帯性保存性栄養価に優れる、食事というより薬剤に近いものだったからだ。


 当然、性能第一、味は二の次。口さがない連中からは食事では無く燃料と呼ばれるほどの酷いものだったからだ。保存食の候補に挙がったが、満場一致で否決されていた。

  

 流石にそんなものを出されては敵わない。全員慌てて自分用のビスケットを確保した。かくして、戦国時代の山の麓でビスケットとスープの夕食と相成った。


「ああ、ちゃんと野菜に肉と、栄養価を考えてくれていますね」

 スープを眺めて一口すすると静が感想を口にした。続いて品評会が始まった。

 

「溶き卵はともかく、次から油揚げは省略しないで下さいまし」

 洋食では無く和食を希望していたか、と誤解されそうな意見が続きーー


「ともかく肉だよ肉。もっとたくさん」

 何ともわかりやすい意見が出されーー

「あったかい。おいしい、でも生姜多すぎ」

 最後に味に条件付きの合格が出された。


「注文多いけど、そんなにあれもこれもみんなの希望は叶えられないぞ」

 苦笑交じりに男が言えば異口同音に

「甲斐性」


 本来の戦力比は五対一、一人減でも現状四対一の圧倒的不利を喫している。反論は行われず男は素直に自らの力量不足を詫びることで終止符を打った。


 その後は特にどうと言うことも無く進み、食事を食べ終わると静が食器洗いを買って出たのだが、男はこれを断った。何か機嫌でも損ねたかと怪訝な表情に対して一言


「食器洗いのついでに俺も体洗いたい」

 これには反対意見は出なかった。但し、体を拭く用と食器を拭く用の手拭いは必ず分けるようにとわざわざ諸々一式用意された。


 いや流石にそこまで信用無いのもどうだろうかと思いながら、男は両手で食器を捧げ持ち、腰に提灯と手拭いをぶら下げながら水場への夜道を歩いた。


 水があれば草も生える。苔もむす。草を踏み潰すがさがさという音と感触、苔を踏んだ瞬間石から剥がれるぬるりとした感触を味わいながらの道行きであった。


 前方から聞こえてくる水音に対し、実際の音はさらさらとは言わないなあ、とどこか的外れな感想を抱きながら男は更に進む。月明かりも足下を照らしてくれた。


 山の麓とはいえ、常に川岸にまで林が広がっている訳でも無い。開けた川岸に食器を置き、一つずつ丁寧に洗っていく。ここで手抜きをして食中毒など冗談ではないからだ。


 履き物を脱ぎくるぶし程度の川底に足を取られないよう注意しながら、川の流れを天然の洗浄機として洗い物を済ませていく。キャンプならば洗い物も娯楽の一環だ。


 洗い終わり水を切ってきちんと拭き終わったものから持たされた風呂敷の上に載せていく。全部終われば包んで手荷物一つに早変わりである。風呂敷の便利さである。


 そうして今度は自身が洗い物となる。水深の浅い川では水浴びどころか体を拭く程度だが、それでも十分効果はあるし、何より気分が違う。


 さっぱりした体と頭で翌日の山越えを考える。順当にいけば良いのだが、初日からこちら物騒な縁に恵まれている。不慮の事故や遭遇も想定しなければならなかった。

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