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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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18

 ざくざく、という音は旅の足音としてはいささか不似合いだろうか。しかし、この場の足下から響いてくる音はまさにそれであった。五人分ともなれば合唱だ。


 もっとも五人中四人は女性、中には子供も交じっているともなれば、合唱団員扱いされるのには抵抗があるだろう。一人だけいる男が主犯と反論されるかも知れない。


 もっとも、当の男自身はその様なことを気にする余裕はなさそうであった。漂わせる雰囲気、頬の強ばり具合、足下に広がる原野の雑草を把握できていないところがその理由だ。

 今も手首ほどの直径で生えている雑草をまともに踏みつけてよろめきかけて女性陣から心配そうな視線を受けていることにも気づけていなかった。


 心労の原因は現在の状況だった。突然の戦国時代、はぐれた仲間、発見された場所は大名の居城奥、奪還を期して突入するも失敗し逃走中。これで余裕綽々であったら問題だ。


 とはいえ、希望もあるにはあった。仲間の安否は確認できたし、追っ手も今のところはうまく撒けているようだ。今後の方針もおおよそ決まっている。


「そういえば、オレ達何だと思われたんだろう」

 昨夜の突入はどう解釈されたのかと、もっともな質問を女性陣の一人牛若がした。


「まあ、近隣の大名家の刺客ぐらいに思われたんじゃないか」

 どことなく自信なさげに男が答えた。追っ手と遭遇すれば答え合わせができるだろうか。

「それでも、ここ数日あれだけ目立っていたのですから、目星は付けられているでしょう。あまり油断しないで下さいまし」

 緩みかけた緊張を玉藻が締め直した。


 本来こういった正論を述べるのは静の役割だが、今回はしんがりで後方警戒に当たっていることと気分転換のため、玉藻がその役割を買って出たらしかった。

 

 実際、周囲を見渡せば時折見える木々と粗末な民家、せいぜい腰ほどの背丈の雑草と見晴らしは良かった。これは逃げる方ではなく追う方に取って都合の良いことだった。


 実際、隣国との間に火種を抱えていない戦国大名など存在しない。ある程度、緊急時の即応体制は整えられていると思った方が良かった。


 もっとも、だからこそその裏をかいて敢えて移動速度を犠牲にして街道から外れた原野を突っ切り山越えを狙っているのである。吉とでるか、凶とでるか。


 今は吉と出ているが、今晩を山の麓で過ごし明日山越えして諏訪領から武田領へと越境するまでは決して油断できないのもまた事実であった。


 脱出後から今までに出会ったのは昨晩の夜盗の一団と本日通り過ぎた寒村の住民程度。ならば痕跡は消せているとまではいかないものの少ないと言って良いのではないか。


 そんな安心感が一行の胸に芽生えかけたとき、周囲に偵察機代わりに使い魔の鴉を放っていた牛若から警報が出された。

「何人かこっちに近づいてきている」


 一瞬、旅人か行商の集団かとの淡い望みが頭の片隅に湧き出たが、男は自らそれを打ち消した。この時機にこの様な何もないところを移動中など、目的は明らかではないか。


 ならば焦点は質疑で済むか、拘束までいくか、である。だが既に結論は出ている事に気が付いた。侵入者とここまで容姿面子が似ていれば犯人確定ではないか。


 実際自分たちが犯人なのだ。ここまで特徴的な一行ならば言い逃れはできないだろう。ならばどうするか。いや、どこまでするか、が問題になる。


 天を仰ぐ。深呼吸をする。

 それで腹を決めた。振り向いて一人一人と目を合わせた上で指示を出す。

 全員、迷うことなく頷いてくれた。


 馬に乗っているからか、一人だけ先に顔の見えた追っ手から声がかけられる。おおい、そこの者達、聞きたいことがある、止まれ、止まれ、と。


 その声を聞き、歩みを止めて振り向いた一行に追いついて来た面々の顔が確かになるにつれ、双方共に体と表情が強張るのが分かった。見覚えのある顔だったからだ。


 呼吸を整えるためか、いや、気持ちを落ち着かせる意味もあるのだろう。先程までの軽い駆け足から徐々に勢いを緩め普通の歩きの速度で追っ手は男達に近づいてきた。


「牢人の方とお見受けするが、どこかでお会いしたことがありましたかな」

 十名にも満たない数の集団の内、ただ一人馬上の侍から声をかけられた。


「さてさて、どうでしたかな」 

 その場にいた全員は白々しさを感じていた。そしてそれがある種の儀式であることに気付いてもいた。


 双方が頃合いを見計らっていた。その機が満ちるまでの「間」をとりとめのない会話で

持たせていた。双方とも、知らず獲物を握る手に力がこもり、じっとりと汗ばんだ。


「それがしの見間違いでなければ男女のお二方とは先日の夜にお会いしたような」

 馬上で獲物を狙う蛇の様に槍の穂先をくゆらせながら侍が舌戦の間合いを詰めてきた。


「そのようなこともありましたかな」

 ゆっくりとした動作で男は深編み笠を脱いで顔を晒すことでそれに応じた。双方とも、機は満ちたと判断した。


「矢張り貴様らであったかこの忍びくずれめが、生かしては帰さぬ、覚悟せよ」

 馬上の侍が大音声で啖呵を切り、槍を右脇に構え馬を走らせてきた。

  

 十歩以上開いていた互いの距離がみるみる縮まる中、男も抜刀し迎え撃った。その前に左右の女達と一瞬視線を交差させた。女達はその後さらに顔を見合わせ一つ頷き合った。


 侍の騎乗突撃と共に従者達も陣形を組んだ。槍持ちの二名が突撃に続き一名のみの弓持ちは後方で矢をつがえ引き絞り始めた。残りは左右に散って抜刀した。中々の連携である。


 侍と男、双方を率いる者同士が槍と刀で最初の火花を散らそうかというその時、後段に位置する弓持ちが苦悶の声を上げて膝を折った。その胸に深々と直刀が刺さっていた。


 男達の武装は仕込みを含め刀三名錫杖一名薬包一名、対して侍達は馬上含め槍三名弓一名に刀四名である。人数間合い組み合わせ、全てにおいて侍達が勝っていた。


 勝敗を決する要素で圧倒的に有利であろうと、侍は決して油断しなかった。目の前の連中の内たった二人相手にさえ遅れを取ったのだ。それが五人ともなればどうなるか。


「相手を女子供と思うな。見た目通りではなく、わざを修めた手練れと心得よ」

 しかし侍のその警告に応と返した従者の一人は、それが最後の言葉となった。


 貴族の娘に扮しているのか壺装束の女が侍が馬を駆けさせると同時に動いた。市女笠を投げ上げるや仕込み杖を抜刀し従者の一人へと投げつけたのだ。


 これに虚を突かれたのは侍達ではなくむしろ女達の方であった。ある者は刀を抜き、ある者は錫杖を構え、ある者は袖から薬包を出した姿勢のまま、一様に目を見開いていた。 

 彼女らの顔に異者同心に書いてあるのはしてやられた、の一念であった。元が物の怪の一同である。男の気にした殺人の禁忌など、仲間の安全の前には些事であった。


 なればこそ、いざという時にはいの一番に自らの手を汚すことでその忠を示し、主からは賞賛を、仲間達には優位を得るつもりだったのだが…… 


 ここまでこの問題にさしたる発言をしなかった事で関心は無いものと誤解させ、周囲からの警戒を薄れさせることで決定的な戦果を狙っていたのだと女達はようやく知った。


「愛する旦那様の行かれる道ならば、最後の泥沼までお付き合いするのが女の矜持。ご存じ下さいまし」

 扇子を広げ口元を隠して見栄が切られた。


 そこまでされて火の付かぬ女はここにはいなかった。三者はそれぞれ相手を見定めると躍りかかった。対する玉藻は既に我関せずとばかりに高見の見物を決め込んでいた。 


 馬上の侍は対する男と交差する直前に起きたこの変化に一瞬意識を逸らされた。それがその後の明暗を分けることとなった。一瞬の後侍は落馬し土の味を噛みしめる事となった。

 素人は馬上で槍を構える時、前傾姿勢を取るのが良いと誤解している。しかしそれは間違いだ。正しい姿勢は背筋を伸ばした状態だ。その方が馬の体重と速さが乗った一撃になる。

 そしてそれは、槍の強者が馬上で悠然とした姿勢を取っている理由の一つでもある。経験か伝授か、彼らは自然体こそが最適解であると知っているのだ。


 この侍もそれを知っていた。剛の者ではなかったかも知れないが、少なくともその階に手をかけていた者ではあった。だが、今回は相手が悪すぎた。


 侍は目標と定めた男が自分の左手を目指して懸けだしたのを見て冷や汗を流した。自分は槍を右手に持っている。左側に回り込まれれば一方的に攻撃を受けてしまう。


 何とかそれを避けようと馬首を巡らせようとするもその時間は残されていなかった。そもそも徒歩で馬の速力に対応できる目の前の男が常軌を逸した存在であった。


 せめて負傷は避けねばと無理な姿勢となるのを承知で槍を左手側に持ってこようと腕と手首を返したが、その隙間をくぐって腿を盛大に切られ、爆発したような熱さを感じた。


 一瞬で視界が赤く染まり、傷みよりも燃えるような熱さが左足から発し全身を駆け巡る中、無理な姿勢と動作が祟り落馬の憂き目に遭い、左肩から地面に突っ込む事となった。


 騎馬突撃の勢いがそのまま自らを傷つける刃となり肩に骨が折れたのではないかと思うほどの衝撃を受け、受け身も取れなかったため顔も土にまみれ口にも入って来た。


 武芸稽古も含め土の味を確かめる機会などいつ以来かと一瞬埒もないことを侍は考えてしまった。挙げ句今回は草の味まで知ることとなっていた。


 ましな方の右腕を使い身を半身を起こし顔の土も拭わず振り返ってみれば、その目に写ったのは破局であった。立っている影に自らの従者は一人としていなかったからだ。


 馬鹿な、との思いが胸中に湧き上がる。自分に武芸のいろはを叩き込んでくれた先代からの臣も、将来に期待していた元服直後の若者も、全てほんの数瞬で討たれたのか。


 ぎり、と血を失いつつある身で奥歯を噛む。確かに初手で弓を失ったのは痛手だった。だが、だがしかし、他の六名までこうもあっさりとやられてしまったというのか。


 部下を失い、愛馬も失い、今まさに傷口から血と共に命が流れ落ちている今、自分に何ができるのか。何をなすべきか。悩むよりも先に体が動いた。


 油断から警戒を怠り、結果として自分が手にするはずだった一番乗りと見せ場を奪われた。三人の女の胸中に共通した思いは、理不尽な八つ当たりとなって牙を剥いた。 

  

 それを真っ向から受ける羽目となった従者達こそ災難であった。形を取った暴虐が相手となったのだ。飢えた熊を相手にした方がまだしもましであっただろう。

 

 中央の侍の突撃に合わせ、静は中央の二人の槍の左側へと斬りかかった。正面から右の危険範囲、中距離武器への対処、両翼への援護を視野に入れる一石三鳥の手であった。


 その長女らしい一手見た牛若は右翼へと飛び込み、右側の刀二名とあわよくば中央右側の槍を狙う動きをした。わかりやすく撃墜数一位を狙う、まことらしい行動であった。


 更に梅子は左翼へと駆けだした。同時に右手を左袖の中へと入れそこから小さな四角に折りたたまれた薬包を取り出すと最左翼の少年の様な年の者へと投げつけた。


 まさか童女から物を投げつけられるとは思っていなかった若者は一瞬面くらい、開いた紙包みから飛び出した粉をいくらか吸い込んでしまった。するとそこで意識が途絶えた。


 若者が薬の効果で意識を失ったのを確認した梅子は更に別の薬包を袖口から取り出すと相手の口に含ませ、その脅威を永久に除外した。


 その間に静は二名、牛若は三名の敵を排除し、ここに侍の主従は邂逅から息を百する程度の時間も持ちこたえること無く全滅することとなった。


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