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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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17

 諏訪地方を北東から南西へと流れ諏訪湖に注ぐ上川沿いを流れを遡る形で北上する一団があった。騎乗の身なりの良い侍が一人と徒歩で供をする者が数名の郎党である。


 それが殺気立ちながら街道を早足で進んで行く。徒歩の者の中には弓や槍を持った者もおり、ある種の事態が進行中であることを見る者に教えていた。


「殿、如何ほどで追い着けましょうや」

 問いを発したのは徒歩の者達の中でも年嵩の者だった。主従の緊張を和らげようとしたのであろうか。


「先の死体に手を下したのが夜中のこととして、連中は女が多いと聞く。そう遠くへは行ってはおるまい」

 主のその言葉に一行は表情を引き締めた。


「されど、相手は手練れと聞きまする。我らだけで仕留められましょうか」

 不安げに問いを発したのは一行の中でも若さの目立つ者だった。


 だがそれも一概に惰弱の表れとは言い切れまい。この一行は今回追っ手いるであろう者どもと一度相まみえ、敗れている。しかも今度はその時よりも人数が多いという。


 なればこそ、戦力を一人割いて恥を忍んで加勢を乞う使者を城へと走らせたのだ。それが吉と出るか、凶と出るかは、諏訪大明神のみぞ知ると言ったところか。


 知らず口元に苦笑を浮かべながら、馬上の武士は武者震いをした。経緯はともあれ、強敵と相まみえることができるのだ。これぞ武士の本懐であろう、と。


 そうした会話を続けながらも、一行の歩みは淀みなく進んで行く。それは全員に確固たる目的があるからだ。ここまで虚仮にされて黙って引き下がるわけにはいかなかった。


 主君の居城の奥まった場所にまでに侵入を許し、警備の兵を数名殺害しそのまま逃げおおせるなど許される筈が無かった。ましてそれが自分たちが取り逃した相手となれば。


 一行にとってこれは他の者達と違いただ上役に命じられた不届き者の追跡と言うだけでは無かった。自分たちの失態を取り返す、名誉挽回のためのお役目であった。


 失態を演じていたが故に当初本命とされた西の小笠原領方面から東の武田村上方面へと回されたことが幸いし、足取りを掴むことができた。全員の士気は高かった。


 そうして街道を進んでいる内にいつの間にか分かれ道へと差し掛かった。すぐ北の高原を越えれば村上領、東に見える山を越えれば武田領になる。


 できればこの前に捕まえたかったのだが、と馬上で内心ほぞを噛んだ。ここで件の輩が村上か武田、どちらの手の者かの判断をしなければならないからだ。


 一瞬思案した後口を口を開こうとしたその時、年嵩の者が辺りを見回した。

「殿、騎馬の集団が近づいておりまする」

 耳を澄ませば馬蹄の音が響いてきた。


「お役目ご苦労。我らは北へ向かうゆえ、貴殿らは東を探られよ」

 騎馬の集団は一行に目もくれず街道を北上し、その中の一人が下馬もせず告げてきた。


 無礼な、とはやりかけた若い侍を手で制し、馬上の侍は一旦下馬すると

「承りました。我らはこれより東へと向かいます。」


 その返答を聞き終えるよりも先に伝言した武者は馬に駆けさせて行った。

 下馬した侍はそれをただ一礼して見送り、年嵩の者が苦虫を噛み潰した顔をした。


「殿、これはどういうことですか」

 たまらず先程激発しかけた若い侍が主君へと食って掛かった。今までの興奮と理解の追いつかぬ不安とが焦りをかき立てていた。


 身なりの良い侍がため息一つついて口を開こうとすると、年嵩の者がそれに先んじた。

「上は村上が本命と判じたのであろう。われらはそこから外されたということだ」


 一行を暗澹たる雰囲気が覆った。自分たちが失態を犯したのは知っている。だが一度ならず二度までも、自分たちで発見した手がかりまでも奪われるというのか。


 各々が俯き、言葉も無く唇を噛みしめ拳を握りしめた。風は無く、中天にさしかかり始めた太陽の光がじりじりとした暑さを体に与えていた。


「まあ落ち着け、手練れを相手するには鎧を身につけていない我らには荷が重いと判断されたのであろう。手がかりを得たことには変わりない。引き続けお役目を果たすぞ」


 場の空気を切り替えるように、馬に跨がりながら敢えて大きな声と明るい表情で侍は全員に告げた。内心はともかく、演技一つできないようでは部下もまとめられない。


 体を動かしていた方が下手なことを考えずに済む、と言わんばかりに再び馬上の人となった侍は手下の者達を歩かせた。だが先程までの勢いはもう無かった。


 それを仕方あるまい、と黙認すると思索にふけった。

 上はなぜ村上を怪しいと判断したのか。そして武田はなぜ外されたのか。


 村上との間に火種はあるか、と考え昨年にあったでは無いか、と己の不明を恥じた。

 火種はあった。それも特大の物が。諏訪武田村上の三者盟約に罅を入れるほどの物が。


 諏訪家中からでさえ、流石にあれは如何なものか、との諫言の出るような事件があったのだ。あれの遺恨と言うことか。武士の背に冷や汗が流れた。


 事は前年天文十年(1541年)七月の事であった。武田先代信虎と村上そして諏訪の三者で盟約を結び信濃小県(佐久市)を分割した後の事であった。


 上野の上杉憲政が武田代替わりの混乱に乗じ小県へと兵を進めてきたのだった。その際に諏訪家頭領諏訪頼重は独断で上杉と和睦してしまったのだ。


 諏訪単独で上杉に抗しきれぬのはよい。だが上杉と和睦し改めて小県を分割するのであれば武田村上に話を通しておくのが筋だ。しかし、それをしなかった。


 一所懸命との言葉もあるほど侍は土地に執着する。あの一件はしこりとなって三者の間に残っただろう。武田とは政略結婚の縁があるが、村上との間には……侍は天を仰いだ。


「何か最近落ち着かなかったから、こうやってまったりご飯食べるのもいいよね」

 両手に握り飯をそれぞれもちながら皆に同意を求めたのは牛若である。


 もっともその脳天気さに今までも随分と救われてきたのも事実である。ともすれば陰鬱な方向へ転がりそうな雰囲気を無理矢理にでも明るい方へ向ける才能であった。


 それはそれとして、暢気に食事を続けている訳にもいかなかった。そもそもはぐれた一人の生存は確認できたものの、無事かどうかまでは確認できていないのだ。


 加えておそらくは強引に合流を試みて失敗したことでこの土地の領主とは敵対関係になり、自分たちにはおそらくお尋ね者になっているのならばなおさらだ。


「で、この後どうするかだが、まず直近の選択肢。山越えは今日か、明日か」

 唐突に爆弾が投げ込まれた。何気なく言っているが、これ一つで相当に展開が変わる。


 今日の場合は相当な強行軍だ。まだ山の麓まで数時間、そこから山越えとなれば完了するのは夕方か日没後か、山中泊の可能性さえあった。 


「昨日からの疲れもあります。ここは無理をせず安全策を採った方が良いでしょう」

 無難な選択を薦めてきたのはまとめ役の静だ。実は男もそれを内心期待していた。


 じゃあ決まりかな、と男がまとめ全員の顔を見回した。そこで他の全員からも同意を得られたことを確認して本決定となった。本日の歩みは余裕のある物になりそうだった。


 山の麓で一泊、となればそこまでの距離も無いため時間もさほどかからない、普通に歩けば昼前とまでは行かないが、おやつの時間には目標の道のりを消化できそうだった。


 時間に余裕ができれば心も同様となる。すると周りの状況に目を向けることもできるようになる。結果として男は質問攻めに会うこととなった。


 この後どうするのか、はぐれた雪との合流の手段は、この世界での生活基盤はどうするか、この地の領主とは一悶着あったがどう決着をつけるのか、などだ。


 男は一つずつ答えていった。この後は東の山を越え、追っ手を振り切ると同時に東の武田領へと進み、そこで仕官して職と生活拠点を得る。


 雪との合流については、史実通りなら今年中に武田の諏訪侵攻があるはずなので、そのどさくさに紛れる、または堂々と合流を果たす予定だ、と。


 今回の一件に関しては大名家が滅ぼされてしまえば一度の侵入者など有耶無耶になってしまうだろう、との見方を示した。質問にはともかく答えを返すことが重要だ。


 そして、史実を知っているからこその対応も考えられる。道楽で蓄えた知識があるとき突然自分の道を指し示す武器になる。本当に人生は何が役に立つか分からない。


 昼食で腰を下ろしたまま話し込んだが、流石に時間を取り過ぎたと思ったのか男は出発を提案した。休息を取った面々に否やはなく一行は腰を上げ歩みを再開した。


 盆地らしく彼方の四方は山に囲まれ、手近な視界には原野と時折見える寒村、血湧き胸躍る展開や手に汗握る冒険譚とは縁遠い世界がそこにはあった。


 てくてく、てくてくと、草ぼうぼうの、時折生えている木が木陰を提供し一時の休息を与えてくれる、そんな地域を五人は歩んでいった。


 元より全員身体能力ではこの世界の住人とは隔絶した物を持っている。その気になりさえすれば、韋駄天の如く野を駆け目的の場所までさほど時をかけずたどりつけるだろう。


 けれども彼らはそれをしない。第一にその様なまねをすれば流石に消耗する。いざという時の危険を少しでも減らそうという用心であった。


 第二に、これが大きな理由なのだが、自分たちの「力」をどこまで解き放って良いものか、本人達自身が決めかねていたからだった。それは、この世界との折り合いにも関わる。


 ひとときの旅人として、文字通り過ぎ去っていく存在としてあるのであれば、遠慮などする必要は無い。天災の如き能力も時と共に風化し忘れ去られるだろう。


 だが、この世界に根を下ろし住人の一人として生きていこうとした場合はどうなるか。

人は異質な物を受け入れにくい。まず対等の存在としては扱われないだろう。


 異質さが正の方向に向けば良い。崇められ守護者として扱われるだろう。だがもし府の方向に働いたらどうなるか。妖怪だ悪鬼だと断じられ狩られるべき存在となる。


 問題は全員の正体が妖怪そのもので人の姿は仮のものに過ぎないと言うことだ。鬼、妖狐、鴉天狗、河童に現在はぐれている雪女を加えれば立派な魔境の出来上がりだ。


 そこらの有象無象を配下に加えれば平安ならぬ戦国の世で百鬼夜行を気取ることさえも十二分に可能であろう。しかし、それこそが問題であった。


 やれあれは妖しのものよ化外のばけものよと言われれば、根も葉もない噂どころかまさにその通りなのである。これほど厄介なこともそうは無かった。


 加えて自分たちの寿命も把握できていなかった。そもそも外見の成長老化はあるのだろうか、一年二年ならともかく十年変化なければ何が起きるか。


 美貌の妖怪の生き肝を喰らえば不老長生の妙薬となるぞ、などと煽り立てる馬鹿者が出るに相違なく、それに同調する慮外者もまた出るだろう。


 怪物を殺すのは英雄では無い。一般民衆の狂気こそが、枠を越えた存在を嫉妬と無理解の刃で殺すのだ。そこでは英雄など物語を彩る舞台装置の一つに過ぎない。


 つまるところ、この世界との距離感をどう取るか、という問題に帰結する。それを今まで一般人として過ごしてきた男が早急に決断を迫られていた。


 簡単に結論を出せることでは無く、またやり直しが効くかどうかすら分からない。悩みは深く、周囲の女達もそれを察し普段より随分重い足取りにも口を挟まなかった。


残暑もまだまだ厳しい中、いかがお過ごしでしょうか。

近所のスーパーではかき氷売り場が盛況です。

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