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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
22/70

16

 じゃぶじゃぶという音が、夜の静寂をかき乱していた。そろそろ東の山々の峰の向こうから白い光が見えてこようかという頃合いに、川へ入り着物を洗う男がいた。


 ぱっと見ると行商人風の衣装に身を包んだ男が、渋い色合いの着物を川の水でもみ洗いしている。着物からうっすらとにじむ赤の色は血であろうか。


「兄貴は川へ洗濯に、オレ達も川へ弔いに」

 茶化す声に流石に震え声が返ってきた。

「やめてくれ、そろそろ感覚が怪しいんだ」

 歯の根を震わせながらの声であった。


 冬の寒さの残る中、まして日も昇らぬ時刻の川の水など、文字通り身を切るような冷たさである。そんな中で衣類の返り血を落とせばそれは当然凍えよう。


 もっとも、男の連れらしい女達もただそれを眺めているだけでは無かった。周辺に倒れている十を越えるならず者どもの骸を集め、川へと流す支度をしていた。


 まだ体が強張らないうちに手を組ませ足を伸ばし目を閉じ、せめて衣服の襟くらいは正し、その上で一人一人に対して手を合わせた上で川の流れに任せた。


 いかに自分たちに害をなそうとして返り討ちにした相手であっても、これだけの数を弔えば肉体的にもそうだがそれ以上に精神にも

疲労がたまる。


 事をなし終えた女達が荷物からおやつを取り出しならず者どもの返り血で汚れた着物を洗う男を肴に夜明け前の休憩としゃれ込むのも無理なからぬ事ではあった。 


「いや本当に食べてるし」

 土手に並んで敷物をしいて腰を下ろし、おやつを頬張る女達を見て男は目を見開いた。目頭が熱く感じられるのはきっと気のせいだ。

 もう色々とどうでもよくなって来た男は、血落としもこのくらいで良かろうと適当なところで切り上げ川から上がった。冬の川は芯まで体を冷えさせていた。


 そんな男を見るや童女姿の梅子はとてとてと歩み寄り男の手を取ると息を吐きかけその小さな手でごしごしとこすった後包み込んだ。先程と別の理由で男の目頭が熱くなった。


「梅子はなんか、あざといよな」

 不平を口にする牛若に出遅れた、と唇を噛む静、扇で口元を隠しにこやかにしている玉藻と、三人三様の反応であった。


 広げた荷物をしまい直すと、一行は再び歩み始めた。領主の居城への侵入に失敗した身とあっては、確かめてはいないがお尋ね者だろうから急ぐ必要があった。


「で、もう夜も明けるけどどうするの」

 牛若の問いかけには東、との答えであった。街道の関所には手が回っているであろうから、山越えで国境を突破すると言うことだ。


「んじゃあさ、雪姉はどうすんの」

 そもそもそのために昨晩強行突入したのである。

「牛若、まかせた」


 使役する鴉で居場所と安否の確認をしておいてくれ、という意味である。面倒事を振られた牛若は当然のように口をとがらせた。なんで自分ばっかり、と。


 漫才の様な会話をしている二人をよそに、他の三人、特に年長組の二人は周囲への警戒を怠らなかった。既に一度ならず者と遭遇している。警戒のしすぎと言うことは無かった。

 鳥の視点で見れば地形は盆地、東の峰から西にかけて緩やかに傾斜している。西の端はまた山になって盛り上がるがその少し手前の川沿いを現在東進中である。


 南北に流れていた川が上流で曲がり東西の流れへと変わったあたりで東南東へと向きを変えた。そのまま進み山を越えればひとまず追っ手は撒けるだろう。


 とはいえ、現状追っ手らしき者などは無く、朝日も昇りそのまぶしさに額に手をかざし影を作りながらの道行きともなれば、周囲の景色へも目が行った。


 川を渡ってすぐ東側は牧場で、馬が飼育されていた。そういえば信州は名産地だったなと男は自らの記憶を掘り返していた。しかしそれを除けば寂しい光景であった。


 只でさえ高原の諏訪地方の、更に高原地方と言うことで寒さが厳しいのだろう、田は少なく細々と畑がある程度の、原野が広がっていた。


「兄貴の好きな小説とかだとさ、こういう所を領地にして発展させたりするよね」

 牛若の軽口には実際やると大変なんだぞ、とぞんざいな返答がされた。


 他の連中は微笑みながらそのやりとりを見ていた。何せよ、今回ならず者相手の殺人で男が動揺していないのであれば、それだけで良かった。 


 牛若に言われた男は改めて周囲の光景を見回した。草ぼうぼうの荒れ地、たまに人家と畑らしき物はあるが、そう規模も大きくなく、生活も決して楽ではなさそうだ。


 自分が開発するなら、と考えてみる。まず区画整理は必要だろう。住居と共同施設を中央に、そして周囲を田んぼ、畑、森の順で囲い村の境界線にするだろう。


 十キロ以上先の山を越える時間のかかる歩き道だ、と道中の暇つぶしに男は他の皆にも意見を求めた。気を使ってくれたのか、出るわ出るわ、男は荷物から筆記具を出した。


 まず住人の確保が必要だ、治安の確保のため巡回警備も必要だろう、特産品と街道整備にも予算が、そもそも統治権をもらわないといけないだろう。


 三人寄れば文殊の知恵、とも言うが五人もいれば相応にいろいろな切り口から意見が出てくる物だ、と男は感心した。同時に場の雰囲気が明るくなった事に感謝した。


 もはや完全に姿を現した太陽に目を細めながら、昨晩からきちんとした食事を取っていなかった事に気付いた男は木陰での朝食を提案した。何か無性に腹が減ってきていた。


 木陰に敷物を敷き、荷物を下ろし車座になって食事を取る。当たり前の事だが、それさえも満足にできていなかったと気が付いた。心が落ち着けば余裕も出てくる。


 余裕が出れば冷静に状況を判断することもできる。次の行動も改めて考え直す事もできる。食後の会話は絶えず、その様を白い雷鳥が見ていた。


 諏訪の城下は朝から、いや夜明け前から喧噪に包まれていた。夜間領主の居城に進入を果たした不届き者が現れたのだから当然だ。しかもそれは女どもの集団だという。


 逃げおおせたのか、あるいは裏をかいてこの城下に潜伏しているのか、家臣には非常招集がかけられ血眼になってその者どもの行方を追っていた。


 城下の聞き込みを割り当てられた者達もいた。最近怪しい輩はいなかったかの問いかけをした彼らは、証言の海に驚くこととなった。なんだこれはと。


 曰く、両替屋に他国者が現れた。

 曰く、宿屋に料金を残し消えた者がいる。 曰く、茶屋で人捜ししていた牢人がいる。

 曰く、人買屋に変わり種を聞いた者がいる。

 こういった行いをするのは忍びの者どもと相場が決まっている。そしてそういった手合いは敵地では目立たぬようにするのが定石である。で、あるのになんだこれは、と。


 まるで自分たちがここにいると大声で触れ回っているようでは無いか。一部の者達は陽動を疑い追跡から城中警固へと配置転換がなされたほどだ。


 そして今回の一件、何より問題とされたのは件の者どもの発見された場所である。城中の奥まった、当主の正室の居室付近である。一体何をしようとしていたのか。


 隣国武田との架け橋である当主夫人、ならびに嫡男に害をなそうとしたのか。武田との間に楔を打ち込もうとしたのか。当日の警備の者を成敗して幕になどできなかった。  


 そんな中、付近の農民から届け出が出された。川岸に夜盗のような風体の男達の死体が流れついている、その数は十を越えただ事では無いと。


 普段なら与太話と一笑に付され、この非常時ならば後にしろと言われるところだが、それに興味を示した者がいた。ならばおまえが行け、と担当を任された。


 その侍は馬に乗り弓や槍で武装させた手下の中間を引き連れ現場へと向かった。人だかりを押しのけ見てみれば、言われた通り見るからに夜盗の死体だった。


 馬を下り野次馬を散らせ、配下の者達と死体を検分すれば、その異様さは際立っていた。死体の様子から昨晩であろうが一刀で片が付いている。自分でもできるかどうか。


 やってきた身なりの良い武士は直感した。これは奴らの仕業に違いないと。数日前の夜の諏訪湖で会った謎の二人組の男女。あれはやはり他家の忍びの者であったのだと。


 知らず唇が噛みしめられる。自分があの時戯れ言に惑わされなければ、と。差し違えてでも討ち果たしておけば、このようなことにはならなかった筈だと悔やまれた。


 だが、最早時は戻らない。やり直すことができないならばせめて、失態の後始末だけは自らの手でつけなければならなかった。それがけじめという物だった。


 顔を上げて視線を検分していた死体から川の流れへと向ける。死体は川の流れに乗って流れ着いた。ならば奴らはこの上流で傷害に及んだと言うことになる。足取りが掴めた。


 部下の一人は子細を伝えさせるため一旦城下へと引き返させ、自らは残りの者達を率いて川沿いに上流、つまりは北へと馬首を巡らせた。逃すわけにはいかなかった。


 諏訪ならば土地勘がある。どこへ向かっているかを考えた。このまま山を左手に川沿いに北上すればじきに山へ突き当たる。もしそのまま北上すれば村上領になる。


 そこに考えが及んだところで背筋がびくりと震えた。村上が忍びの者を使い武田との間に亀裂を生じさせようとしたことになるからだった。


 武士の中で一気に事の次第が大きな物となった。こんなことを判断できるのは家中でも真に中枢にいる、御家老かお館様ぐらいしかいないからだ。


 そこでいやいや、と内心の不安を振り切るように首を振った。例えそうだとしても、否、そうであるならばこそ余計に、ここで仕留めておかなければならなかった。


 なんとなれば、死人に口なし。ここで自分がその者どもを討ち果たしておけば、城内への侵入を目論んだ不届き者を討ち果たしたという、無難な筋書きに収まるからだ。


 万が一にも取り逃がしたならば、諏訪の武士団は面子丸潰れになった挙げ句、城内では近隣諸国と手引きした者の有無を巡り疑心暗鬼がはびこるであろう。


 それは他家に対する決定的な隙となる。武士は表情と内心を引き締め直すと周りを固める郎党を叱咤した。士気は十分、頼もしい返事が返ってきた。


 そのまま川沿いを北上してゆけば、ようやく現場へとたどり着いた。時刻は太陽の傾きから昼前と言ったところか。地面にいくつもの血痕がついていた。


 現場を誤魔化す余裕もなかったのか、地面には多数の赤い染みが残されたままとなっていた。それはそのまま、道中にて遭遇した死体がここで作られた事を意味していた。


 だがしかし、とそこで面々は首をひねる事となった。あれだけの死体が上がったのだから、多数の血痕があるのは分かる。だが、手傷を負った跡が無いのはどういうことだ。


 この規模の戦闘なら一人くらいは手傷を負って点々と続く血の跡が行き先を指し示すものでは無いか。まさか無傷で勝ったのかと顔から血の気を失わせた者さえ出た。


 集団の頭たる武士はそこで改めて考えにふけった。なるほど、確かに連中は並の腕ではなさそうだ。十分に手練れと言ってもいいだろう。それは認めよう。


 だがしかし、我々にも武士としての面目がある。諏訪武士団の末席として、決してこのままでは済まさぬ。首を洗って待っていろ、との決意を新たにした。


 この時代、武士は面目という物を非常に重要視した。例えば『信長公記』などには「面目をほどこした」「面目を失った」など百回以上面目という単語が使われている。


 面目とは、時に人の命よりも重く、時には戦争の引き金にさえなる、大変な物であった。それは、同じ時代を生きる者にしか分からない価値観であった。


恥ずかしながらようやく各話タイトルの重要性に気が付きました。

読者様もさることながら、まず自分に対して

「この回はこういう回なんだ」と説明できる点がとても良いですね。

次章から採用しようかしら。

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