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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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 武器を振るって敵を倒す。それは今まで数限り無くこなされてきた事の一つだった。相手の動きに合わせて、攻撃ないし防御する。最早脊椎反射の域に達していた。


 その筈だった。別段今回の相手は強い訳では無かった。目の前の警備の兵は一騎当千の強敵の類いではなく、むしろ十把一絡げの類いであった。


 だがそれ故に、突き出されかけた槍に先んじて放たれた機械的な一振りは、破滅的な結果をもたらした。それは、男には刀を握る両手への感触として伝わった。


 その瞬間、両手に伝わったのはまごう事なき断絶だった。取り返しの付かない、大切な物を奪ってしまった。何かが胸の中から自分を責め立てた。


 どうと言うことも無い戦闘の筈だった。こちらを発見し、戦闘態勢を取り攻撃してくる敵。力量の差か、随分と遅いそれを躱し、同時に一撃を入れる。それだけだった。


 だがそれは決定的な結果をもたらした。左肩から腹にかけての深い太刀傷。噴水の如き血飛沫と鉄の匂いをまき散らし、声一つあげぬまま目の前の『敵』は倒れた。


 目の前で起きたことを、男は自身が成した事ながら理解できずにいた。今までならば倒した敵は素材か丘の様な骸になっていた。だが、だが今目の前にあるこれは……


 人の死体では無いのか?

 自分は人を殺してしまったのでは無いか?

 ごく当たり前の事であり、全く非日常である事実が男の心を打ち抜いた。


 唐突に、大声が上がった。自分や味方を奮い立たせる雄叫びでは無く、強敵に遭遇し増援を求める声でも無く、ただただ格好の悪い、それは悲鳴であった。


 それに動揺したのはむしろ防衛側の兵どもである。どこからともなく領主館の奥まった部分まで侵入し、自分たちの同輩を斬り殺したかと思えば、奇声を上げて立ち尽くす。


 呆然としたのは静や他の者達も同じだった。「主殿?」と気遣わしげな声をかけながら近づく中、一人玉藻だけが顔をしかめると男へと駆け寄りその体を細い肩に担いだ。


「撤退します。静さんは殿を」

 鋭く叫ぶと踵を返し、先陣を切って駆けだした。他の者はあっけに取られながらも指示に従い城外へとその進路を変えた。


 荒い息が耳を打つ。地震でも起きたのか腕もがたがたと震えている。視界も妙な角度で

ぐらぐらどぶれて腹から何かこみ上げてくるのはどういうことか。


 そこまで考えて初めて男は自分が誰かに担がれて移動している事に気が付いた。混乱しているにも限度という物があった。そもそも今は戦闘中では無かったか。


「ああ、正気に戻られましたか旦那様。でも今は取り込み中ですからお静かにして下さいまし」

 どこか焦った様子の玉藻の声が聞こえた。


 そこで男は改めて状況を思い出した。牛若の鴉が雪を見つけて、救出しようと夜お城に忍び込んで、それからーーそこでどうしようも無い気持ち悪さが胸を締め付けた。


「お、俺、殺したのか?人を?」

 どこか怯えたような、縋るような声で質問する男に対して玉藻は一刀両断に

「ええ、そうです。少し黙って下さいまし」 

 にべも無い対応をした。目標を目の前にした小競り合いで指揮官が混乱し、急遽撤退ともなれば、そのくらいの扱いはむしろ温情あふれる物であったが。


 最後尾の静が警戒の叫びを発したので何事かと思えば警備の兵達は弓を持ち出してきていた。人数が集まれば弓兵もいるだろうが、今は大問題だった。


 後方から風切り音を立てて矢が幾本か飛んでくる。刀や槍は足で間合いの外に出れば良いが、弓矢が相手となると少々厳しかった。今はお荷物もいる。


 静は最後尾で時折振り返り飛来する矢を腰の刀を抜き放ち切り払った。その様を見た兵からはどよめきの声が上がったが今そんなものはどうでも良い。


 下唇を噛みしめながら前方へ向き直り再び駆けだした。塀の内側に建物がはまばらではあるが、駆け抜けるのには邪魔であることに違いは無い。追っ手との差はさほど無い。


 いっそ屋根に登って派手な逃走劇にした方が良いかとも思ったがそうもいかなかった。侵入者はここだと自分から吹聴して回るような物だからだ。


 とはいえ、指揮官たる男の突然の混乱は予想外、では無かった故に後悔していた。化け物や獣と違い、同じ「人を殺す」と言うことの重みを皆どこか軽く考えていたからだ。


 事前に年長組では話し合いはしていた。現地で揉め事になった場合、最悪命の取り合いになった場合、負けることは無いだろうがその結果に耐えられるのかと。


 その際、しないに越したことは無いが、そういう状況になってしまったのならば仕方が無い、とそこまでの重要度を割り振らなかった過去の自分を静は殴りたくなっていた。


 油断、軽視、浮き足立ち、言い訳はいくつか出てくるが、準備不足であることには代わり無かった。つまり今回は、負けるべくして負けたと言うことだ。


 その結果が現在の戦意喪失に伴う無様な敗退なのだから本当に笑えない。これで警備も厳重になるだろう。もはや今回の様な力業は使えないだろう。


 ならばどうするか。今までならば基本方針を男が出し、対案を玉藻が作る。それらを静が比較検討し、全員での多数決をとる、が定番だった。だが今その手は使えない。


 この場をどう切り抜けるか、どうすれば無事に生還できるか、そんなことを今静は考えていた。こんなことに必死になるなど一体何時以来のことか、と自嘲の笑みがこぼれる。


 ようやく前方に塀が見えてきたが、背後の追っ手は数を増し、前方にも行く手を塞ぐように更に数名の人影が現れた。さてどうするか、と静は奥歯を噛みしめながら思案した。


 と、そこで気合いの声と共に牛若が吶喊した。あらあら、と内心呆れる間もなく錫杖が数度振るわれ、嫌な音を立てて兵士たちの首があらぬ方へ曲がり膝から崩れ落ちた。


 そうだろうな、と静は内心それを当然の事と捉えていた。前回の夜の湖畔での小競り合いで十分分かっていた事だったから、今更の感さえあった。


 自分たちは、この世界の住人に対して強すぎる。それも理不尽なほどに。加減を少し間違えただけで容易に相手を死に至らしめてしまう程度には。


 今回の男が正にそれだった。相手の攻撃に合わせての牽制の一撃。まさかそれが絶命の一撃になろうとは、受けた相手よりも放った本人の方にとって予想外の事だった。


 それでここまで動転するのもどうかと思ったが、碌な気構えも無く人を殺してしまえばこうなってしまうのも仕方ないか、と静は思い直した。玉藻は塀に差し掛かった。


 差し掛かったかと思ったのも束の間、腰を落としばねを溜めると一息で塀の上まで飛び上がり、今度は塀そのものを踏み台にして堀も飛び越え、城外へと脱出した。


 続いて牛若が塀に飛び上がり梅子に手を貸し引き上げてやり、片手で抱くとこちらも堀を飛び越えた。最後に静が周囲に一睨みくれて気勢を削ぐとそれに続いた。


 城内は蜂の巣をひっくり返した様な大騒ぎとなっていた。得体の知れぬ、それも女主体の一団に警備を突破され奥まで乗り込まれ、そのまま城外へと逃げられたのだから。


 怒号か指示か叫んでいる本人も区別がついていないような状態の中、参集の鐘が鳴らされ、警備当番の侍の中の幾名かは馬を駆りまたは徒歩で城外へ追跡に出た。


 玉藻は夜道を駆けながらいつの間にか雲間から月が姿を現していることに気が付いて舌打ちした。今の状況で視界を広げる月明かりは大変不利に働くからだ。


 全員自分に付いてきていることと、追っ手の慌ただしい気配を感じながらさてどちらへ向かったものかと考えていると呻くような男の声が聞こえた。北だ、と。


「旦那様、今は静かにして下さいまし」

 まともな判断を下せる精神状態に無いだろうと思いきや、このまま北の山中に紛れ込めという。確かに、馬は山では使えまい。


 本来の姿になれば並の馬相手に駆け足で負けるとは思えなかったが、いらぬ危険を背負うことも無いであろうと、手振りで後続の全員へ伝え北へと駆けた。男も自分で駆けた。


 えー、また山ぁ、という牛若のおどけたような不満の声で少しばかり和まされながら、

一行は月明かりの下、夜を駆けた。山へ入る前に、まず距離を稼いでおく必要があった。


 確かに山では馬の機動力は使えないが、同時にこちらの足も思うように使えない。そのため、山で追っ手をやり過ごすにしてもまずある程度平地を進んでおく必要があった。


 幸い、追っ手は城脱出の際にこちらを見失ったらしく、松明の動きはあちこちに散って男達を一直線に目指してくるものはいなかった。これ幸いと平地を選んだのだった。


 逃走経路としては山では無く山沿いになってしまったが、いざとなれば五分もかからず山中へと紛れ込める距離である。まずまず順調と言って良い出だしだった。


 左手に山を、右手には湖に注ぎ込んでいるのだろうか、川を意識しながら北上しているといつしか川が東に折れ、二股になっている場所に出た。北か、東か。


 このまま北上して山中へと突っ込むか、または東へと進むかの選択を迫られたと言うことである。どうするか、と駆け足から歩きへと歩調を変えて相談が始まった。


 玉藻は東進派だった。夜明けはまだまだ先であるが、人家での情報収集も必要だろう、と言うのがその根拠だった。それに静も同調し、いつもと逆に男の意見待ちとなった。


 問題の男は一瞬の迷う素振りも見せること無く即答した。東だ、と。常ならば男の意見に対案を出す玉藻だが、今回は質問を返した、その根拠は、と。


 男の口から淀みなく言葉が流れて出てくる。北に行けば村上領、東に行けば武田領となる。今後十年以上この地域では武田が主流となる。ならば武田に付いた方が良いだろう、と。


 続けて爆弾が落とされた。今いた諏訪領は数ヶ月の内に武田に攻め滅ぼされる。雪が領主館の奥に住める状態なら、今は下手に手を出さない方が良いかもしれない、と。


 つまりは現状命に危険が無ければ下手に手を出さず、大名家滅亡のどさくさに紛れて攫ってしまおうと言うことだ。その真意に気付いた静と玉藻は流石に眉をひそめた。


 とはいえ、今回の失敗で向こうの警戒も強くなっているだろう、そんな時は下手に動かず様子を見ることも立派な選択肢の一つだと理解してはいた。納得は難しかったが。


 兎にも角にも同意が得られたと判断した男は一旦休憩を提案した。城内侵入、交戦、脱出と休み無く汗が酷く冷や汗と脂汗が存分に混じったそれを川の水で洗い落とした。


 夜の川辺での談合、と言えば何か特別な雰囲気があるが、実際は準備不足の上に初めての殺人で狼狽えて尻尾を巻いて逃げてきたのだから、とても褒められたものでは無かった。

 それでも、一行の中に男を責める空気は無かった。あの程度の連中が相手ならば雪が遅れを取ることはあるまいと思われたからだ。

只その優しさが、男には辛かった。


 さて、と手を打ち合わせながら静が注目を集めた。まずは現在地を確認しておきましょう、と続けた。早速男は荷物から現代の、牛若は自作の地図を取り出した。


 月明かりの下、蝋燭などは点けずに地図を広げ額を付き合わせる。夜目が利くからこその芸当だ。一行の特殊能力はこんな場面においても役だった。


 諏訪湖の北東に座する霧ヶ峰から南へと伸びる山の南端が道明寺山、その西の麓に今回修行させて頂いた上原城は築かれていた。そこから山と川沿いに北上していた。


 現代地図との摺り合わせも必須だった。日本屈指の知名度を誇る古戦場、桶狭間も海岸線が当時とは違っており、研究者に想像と悩みを提供している。


 今回はそういった地形変動も見受けられず、存外すんなりと現在位置は判明した。諏訪市の北東、茅野市の辺りだ。北は白樺高原、東は蓼科高原である。


 武田領である甲斐(山梨)へと向かうならば針路は東である。蓼科山と八ヶ岳の麓を南下し、甲斐へと入国しよう、と言うことになった。


 川の水で顔を洗い汗を取り、次いで刀の血糊を苦戦しながら落とした男はじゃあ行こうか、と号令をかけ一行は再び足を動かし始めた。冷や汗も脂汗ももう引いていた。


 道すがら牛若が宿代どうしようか、踏み倒すなどととんでも無いことを言い出した。あやすように玉藻が毎日精算しているし、今回も銭を置いて来たことを伝えるた。


 へえ、と感心したような声を聞きながら、これでもし荷物を置いてきていたら目も当てられなかったなと静は内心胸をなで下ろしていた。夜風が道ばたの草を揺らしていた。


 小説なんですが、小説だからこそ、登場人物たちには

今回のような事にはちゃんと向き合って、悩んで欲しいのです。

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