02
「できる事なら、このままずっと続けたかったのですが。」
この数週間というもの、すっかり合言葉のようになってしまった、未練のたっぷりと含まれた台詞が耳へと囁き込まれた。
それも今日限りかと思えば一抹どころではない寂しさを胸に感じる。そして男は座敷で胡坐をかいている自分にしなだれかかって来た女の頭をいつもより幾分の感情を籠めて撫で、もはや何度目かもわからなくなった自らの内心を吐露した。
「できる事なら俺もずっと続けたいよ。でも、どうしようもないことだって世の中にはあるだろう?」
知らず、撫で続ける手に力が籠もる。それは真実なのだと言う様に。手放したくないのは自分も同じなのだと言い聞かせるように。
映画ならば周囲が暗転し二人にスポットライトがあたる所であったが、周囲がそれを許さなかった。
「あーっ、雪姉が兄貴といい雰囲気になってるーっ」
幻想的な場面を一気に現実へと引き戻すように、少女の元気な叫び声が上がった。
片手に抱えた漆塗りの四足膳に盛られた焼き菓子を頬張りながら、口に手も当てずに大声を出したせいで、周囲に屑が飛び散るのにも気づいていないのがなんともらしい。
「あらあら、この期に及んでまだ点数稼ぎとは、雪さんのあざとさもいい加減にして下さいまし。」
「私たちが梅子をあやしている隙にこれとは、最後の最後まで油断も何もあったものではないわね。」
叫びに応えるように、二つの声が上がる。
されどその声に責める響きは無く、何度注意しても悪戯を止めない妹を義務的に窘めるような調子であった。
「まあ、だったら私一人残ってもいいのですよ。消えるのならあなた達だけにして下さい。」
最初の女は視線をあくまで男から離さずに答えた。
「雪。」
そこで男が口を開いた。いつの間にか頭を撫でていた手は己が腹の前で組まれている。穏やかながらもとがめだてる響きをともなって紡がれたその言葉に、最初の女は慌てて弁明した。
「いいえ、兄上様違うのです。これはあくまで言葉の綾で、私はこうなればいいとは少しも……」
「雪」
再び放たれた言葉に、さしもの女も姿勢を正し白旗を揚げた。
「ごめんなさい、二人とも。言い過ぎました。」
しなだれかかった状態から流れるように立ち上がり、背筋を伸ばし、両手を腰の前で重ねて一礼する。しかもその際視線を向けていないにも関わらず畳の縁は一切踏んでいない。
一体今までにどれほどの回数をこなしてきたのか。手馴れている、という言葉では生ぬるいほどの熟練がそこにはあった。
「雪さんの失言もこれで聞き納めかと思うと、何やら寂しくなってきますねえ。」
「そもそも調子に乗って言い過ぎなければいいだけの話でしょう、まったく。」
謝罪する方が熟練を見せれば、される方も気怠ささえ感じさせる慣れを見せながらこれに応じ、謝罪を受け入れた。
男はそれを確認すると手招きして女を座らせると、再び頭を撫ではじめた。女もそれに対して喉を鳴らす猫のように身を任せている。
「旦那様が雪さんに甘いのが最大の原因だと思うのですけれど、どうかしら。」
「そもそも、なぜ主殿は梅子の世話を私たちに任せて二人でくつろいでいるのですか。少しは自分でも働いてください。」
矛先が遂に自分へと向けられたのを察し、さてどうしたものかと男は思案したが、結局妙案も思い浮かばずいつものように煙に巻くことにした。
「適材適所ということで。」
途端に左頬に痛みが走った。つねられている。
「痛いんだけど。」
「痛くしているんです。」
口では剣もほろろを地で行く対応をしながらなおかつ手では頬を抓ることも忘れない。空いている方の手は人差し指一本立ててお説教アピールをする徹底ぶりだ。
このままではらちが明かないと判断した男は、素直に救援要請を出すことにした。
「笑って見ていないで助けておくれ、玉藻。」
「あらあら旦那様、しっかりして下さいまし。梅子が戻ってくるまでにこの位軽くさばけないようでは先が思いやられますよ。」
扇子で口元を隠しながら目を細めて鈴を鳴らすような笑い声にて躱された。
素直になればいいというものでも無いようだ。
雪は今謝ってもらったばかりだしここで助け船を求めるのも虫が良すぎるだろう、と痛み続ける頬を極力気にしないようにしながら脱出方法を考えていると、意外なところから救いの手が差し伸べられた。
「ととさま、かかさま、けんかしているの?」
声相応に幼い子供が心配そうに顔を曇らせ近づいてきた。
おかっぱ頭に緑の四つ身、それはよい、それはよいが、衣服のみならず肌も緑、おまけに背には亀の如き甲羅を背負っている。
異様である。
しかし、この場において異様なのは一人だけでは無かった。
まずは最初にもたれかかっていた女。その印象は白である。髪、肌、着物、朱染めの帯締めを除けばすべて白く、その女がいる場所だけ世界を白く染め抜いたかの様であった。
次に話しかけてきた二人組のうち男の頬を抓っている方。こちらの印象は赤朱である。緊張感のある顔も筋肉の陰影を浮き上がらせた腕も赤く、またその深みたるや辰砂を用いてもこうはなるまいという気品を漂わせている。そして更に目につくのはその額である。
白い2本の角が黒髪の生え際から突き出ている。さらに白い爪は丸みを帯びず槍の穂先の如き鋭さを見せている。その手で頬を抓りながら相手に傷一つつけないのはその器用さの証か。そしてその身を白と黒の袴で包んでおり、素朴な衣服と引き締まった肉体の調和を見せていた。
また二人組のもう片方はこちらの印象は黒と金である。黒を基調とし、ところどころに金で強調を施している。そして目を凝らすべきは頭部と背中である。その髪は黄金の輝きと艶やかさを持っているが、加えて一対の獣の耳が頭頂に突き出ている。また背中へと目をやれば、髪と同質の体毛に包まれた尾がこれはひとつふたつと、合わせて九本生えている。それらをあわせ持つ本人は、やや下がった眼を細め、口元に扇を当てて隠している。ともすればこの人物は感情表現を左目の泣き黒子に任せているのかもしれない。
最後に威勢のいい叫び声を上げた少女である。こちらもまた特徴的な外見である。梵天つきの結袈裟に篠懸、百衣とまるで山伏の如き格好である。見れば傍らには箱笈と錫杖も置いてある。しかし当然この少女もそれだけでは済まない。背中に一対の羽根を持ち、夜空のきらめきを見せている。
もはや半妖の巣窟と化しているそんな中において、純粋な人間の外観を持っている男もまた、自己主張には余念が無い様であった。バンカラスタイルである。擦り切れた学生服と傍らに置かれた学生帽、さらには肩からマントを羽織り、弊衣破帽を地で行っている。
その男は胡坐から立ち上がり自分たちを喧嘩かと心配し、今も涙目を浮かべる童女に歩み寄るとその両脇に手を入れ己の目線の上に持ち上げた。たかいたかいである。
「最後の日だっていうのに喧嘩なんて、するわけないだろう?『いつも通りの日を送りたい』ってわがままをかなえてくれているんだよ。」
言い含めるように男は言葉を発した。
「そう、主殿がものぐさで私にお仕置きされるのもいつも通り。牛若がおやつを食べてばっかりで肝心な時以外は手伝ってくれないのもいつも通り。」
角の生えた女は童女に向かって慈しみの眼差しを向けた後、男と少女に対して抗議の一瞥をくれた。
「そして傷つき疲れた旦那様を私が癒して差し上げるのもいつも通り。」
いつも間にか耳の生えた女が男の背後に忍びよりそっと体を預けている。
「玉藻さんがちゃっかりおいしいところを持っていくところまでいつも通りですね。」
白い着物の女は半眼になりながら恨み節を口にした。
そのやり取りを目にして童女はようやく涙を引込め、それを確認した男は座敷へとゆっくり下ろした。
「もうおわりなんてまだしんじられない。」
差し迫った現実を拒否するように童女が嘆く。それに対してぽんぽんと頭に軽く手をやりながら、もはや家族同僚友人達よりも近しい存在となっている彼女たちを意識して、男はある種の納得さえしていた。
仮想現実
21世紀に入り現実味を帯びたこの技術は生活のあらゆるところ、政治経済軍事、職場学校家庭、当然娯楽分野にも進出していた。
そんな中数多あるVRゲームの一つとして男が選んだものが『もんすたー☆パラダイス』である。妖怪や魔物幻想種の擬人化キャラに自分好みの仮想人格を設定可能、という触れ込みでサービス開始されたこのゲームは触れ込み通りの高性能AIによる仮想人格により大ヒットを遂げていた。
だが同時に、大きな陥穽をも発生させていた。
仮想人格が優秀過ぎたのである。
元々は現実世界に対するひと時の癒しとして仮想現実が設定され、ユーザーもそれをわきまえた上で楽しんでいた。
だが、いつしかその主と従が逆転した。
生身の人間ならば機嫌の良い日もあれば悪い日もある。取引関係や社内の派閥が絡めば腹の探り合いや化かし合いなど日常茶飯事、友人同士であろうとも牽制し合うことだってあるだろう。
そういった対人関係への疲れと渇きを覚えていたユーザーに対して、自分の思い通りに性格設定可能で機嫌を取るといっても自分で十二分に対応可能なレベルに抑え込まれている仮想人格はあっという間に浸透した。
報われない努力、心を砕いても改善されない人間関係、その他様々な理不尽かつ不条理な現実に対し、努力や工夫に対して一定のリターンを得られ、なおかつ自分好みに設定された人物に囲まれて過ごすことのできる仮想空間にこそ意味を見出すプレイヤーが増えすぎたのだ。
それが一定の数に達すれば後はあっけなかった。
「ゲーム依存による対人障害」
「ゲーム常習者による職場崩壊」
「行き過ぎた仮想熱狂」
いわゆるマスコミ知識人らからなる「良識派」の面々からの突き上げを受け国会にて1日の仮想空間への没入上限法令が制定され、火種となったゲームはサービス停止を余儀なくされた。
今日はその最終日である。
プレーヤーの一人である男も名残を惜しみながら終末の時を迎えることになった。