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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
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幕間01

「貴様らそれでも当家の一員か、恥を知れ」 曇天の下、武家屋敷の建ち並ぶ閑静な一角に響いたのは、そんな一喝であった。声の調子からすると老人であろう。


 中庭に面した屋敷の縁側では、立ち上がり押さえきれぬとばかりに拳を振り回す老人と、その前で地に膝を付き顔を伏せる男達。こちらは壮年から青年であろうか。


 なぜこんなことになっているのか。原因は昨晩へと遡る。夜廻りを任された一同は不審な物音を探りに行ったが、そこで元凶と思われる二人組に返り討ちに遭ったのだった。


 数で勝り、しかも女を含む相手に後れを取ったとあって先代当主は大激怒。こうして一同は傷の手当てもそこそこに庭先にてお叱りを頂戴することと相成った。


 そして演説は続く、そもそも日頃の鍛錬が足りないからいざという時に不覚を負うのだ、その場においても覚悟が無いから手柄をたてる事ができぬのだ、と。


 老人は自分の言葉に興奮したのか、常々の行いにまで言及しはじめた。そもそもお家への忠節を尽くす気持ちが足りないからこうなるのだ、と。


 そこで中央の男が面を上げた。

「お言葉ではございますが先代、手傷を負った者もおりました。それをかばい一時引くことは、卑怯未練とは別でありましょう」


 思わぬ反論に老人は一瞬言葉に詰まり、顔を真っ赤にすると更に怒鳴り声を上げた。もうよい、散れと。全員は更に平伏し大きな足音を立てて老人が立ち去るまでそうしていた。


 平伏しながら男は考えていた。あの男女は一体何だったのだろうかと。一見すれば薬売りと女武者だが、そうで無いことはあの立ち回りから明らかだった。


 見慣れぬと言うより得体の知れぬ連中だったが、仕込み杖の男も女の方も並の腕では無かった。どこぞの道場の娘と婿と言われれば納得できる程だった。


 そこでふと思い出す。連中の名乗りを確かーー紀州の徳川藩ーーだったか、はん、聞き慣れぬ言葉だ。血縁集団の党や、地縁集団の衆ならともかく、はんとは何か。


 班、判、版と頭の中で文字をあてて行きふと思いつく。幇、ではあるまいかと。ならば

あの奇妙な言動にも説明が付く。異国の者であるのだから。


 しかしそこで次の疑問が湧いてくる。なぜ紀州なのか、と。これにはすぐ答えが見つかった。紀州には熊野水軍があり、堺の近くだ。異国との交流もあろう。


 ならばなぜ信濃へ来たのか。紀州からならば大和伊賀近江美濃と、かなりの距離だ。普通なら隣国の和泉河内、あるいは対岸の四国あたりに目を付ける筈では無いか。


 それでもなお、と言うことであれば情勢偵察かあるいはなにがしか紀州には居られぬ事情が出来たか、もしくは他の理由か、現状では何とも言えなかった。


 少なくとも確実なことが一つ。この諏訪の地に素性の知れぬ他国者が潜伏しているのは確実と言うことだ。治安を守る者の一人として、男は拳を握りしめた。


 そして残る全員を見渡し声を上げた。

「次はこうはいかぬ。相手は二人。見つけ次第我ら全員でかかれば十分勝てる。」

 そうして一人一人の肩を叩いて回った。


 皆の顔に生気が戻るのをその目で確かめた後踵を返した。

 今回の一件を報告しもう一度今度は上役からお叱りを頂戴しなければならなかった。


 お褒めいただく場なら良いが、そういった場に他の者を連れて行く訳にはいかぬと一人進み始めた。他の者はそれを察し、男の姿が見えなくなるまで礼をしていた。




 ううむ、と唸るような悩むような何とも言えない声が帳場に響いた。手代の一人から番頭さん、どうなさいました、と気遣うような声をかけられる。


 その声に応えて原因となった品を相手にも見せた。ああ、と納得した顔を見せて自分の仕事に戻った弟分と、ついでに店の中を見回し常の通りであることを確認した。


 そうして再び視線を手元の黄金へと戻す。小石ほどの大きさのものだが、色艶といい輝きといい、隣国甲斐の黄金と比べ勝るとも劣らぬ良品であった。


 それを相場の三分の二程で買い叩けたのは良かったが、素性を詳しく聞かずに持ち込んだ者を帰してしまったことに一抹の後悔を抱いていた。


 これほどの品を所持し、安値にも関わらず手放したと言うことは、何か急にカネが入り用だったか、まだ黄金の在庫があるか。恐らくは後者であろう。


 ならば、まだ黄金を買い取り更なる儲けを得ることが出来たのではないか、商人の常で頭の中で算盤を弾いてしまう。逃した魚は大きかったかも知れない、と。


 だがまてよ、とも思う。持ち込んだ相手を思い出す。浪人風の格好はともかく編み笠は顔と若さを隠すためか。怪しげな男の持ち込んだ素性の知れぬ黄金。厄介事の匂いがする。


 只でさえ今の諏訪はきな臭い。怪しげな案件に手を出して火傷をしては元も子も無い。この件には深入りせずに、念のためしかるべき所に話を通しておけばよかろう。


 


 宿屋という場所は噂話の集まる場所だ。国から国へと移動する者達が交差する場所なのだから、客同士で情報交換の花も咲く。噂の十など、すぐに提供してくれることだろう。

 

 とはいえ、今回の旅人は格別だった。貴族の娘の一行を装ってはいるが、その偽装は明らかだった。駄馬も下男下女もおらず、長持ち一つ携えぬ貴族があるものか、と。


 しかし、話題はそれだけでは無い。むしろここからが本題だ。一行の面々はほとんどが女ばかり。あげく一人だけの男は体格は良くてもまだ髷も結っていない子供と来ている。


 そんな噂話に興じる店の者を女将がたしなめる。客の素性の詮索は御法度ではないか、宿代を前払いしてくれるならばむしろ上客ではないか、と。


 そんな女将の表情も話す内容とは裏腹にさえなかった。件の客一行と相対すればおのずとその異常さも見て取れたからだ。厄介事の匂いしかしなかった。


 まず男からして怪しい。下手な大人よりも良い体格をしている癖に、髷も結わず月代も剃らず、それでいて本人は侍のつもりらしい。あんな侍がいるものか。


 では何者か、と問われればこれが難しかった。武芸も芸能も、医術やその他の技術を売り物にしている様にも見えない。しかし、カネは持っているようだ。


 田舎は刺激が少ない。いつもと変わらぬ面子でいつもと変わらぬ事を繰り返すのだから当たり前だ。そんな中に現れた風変わりな一団。噂にならぬ筈がなかった。




 薄日の差す曇り空の下、街を行き交う人々の顔は一様に明るい。着物は古び、顔色も肉付きも良いとは言えないが、目に宿る輝きは初夏の太陽を思わせた。


 通行人の井戸端ならぬ路地端会議にも花が咲く。世直しですな、昨年は代替わりでしたから本番は今年でしょうな、話をしながら北の領主館へと期待の表情を向けた。


 この時代、飢饉などで行き詰まった時、世直しと称し大名家の当主が代替わりし仕切り直しをすることがあった。例えば北条家でも氏康の隠居の理由はそれであった。


 逆に言えばそこまで追い詰められている状態であったと言うことである。領民の先代への失望と今代への期待の大きさは共に一国を覆っていた。


 領主館の内部でも、新領主への期待は大きかった。いや、先代の追放と今代の擁立に関わっている分、民と比べ更に思いを寄せる部分さえあった。


 そしてその期待に応えるにはどうすればよいか。答えは簡単。戦争に勝ち、領土を戦利品を領民に家臣にもたらすことである。勝利こそが家門繁栄の鍵である。


 その意味で今日は重大極まる日であった。

ほぼ全ての家老が集まっているのである。何のためかは公には知らされてはいないが、この時期ならば議題は明らかだった。


 その空気を察してか、出入りの商人達も何事かを察して要件もそこそこに切り上げ立ち去っていた。館詰めの侍達も息を潜めて事の行く末を案じていた。


 館の奥まった一室では今まさに談合の最中であった。議題はどこを攻めるか、である。室内は緊張で張り詰め、しわぶき一つ聞こえない。

 

 長老格、と言った貫禄を漂わせる老人が口を開いた。北はどうか、と。先年攻めてまだ荒れておりましょう、とやんわりと否定の意見が出された。


 では東はどうか、北条は大剛、先の和睦も破られてはおりませぬ。しかし南は今川、まさか攻める訳にもいくまい。様々な声でひとしきり意見が出され最初の声が取り纏めた。

 

 ならばやはり、西しかあるまい。室内の男達は互いに目配せし頷き合うと、居住まいを正しこれまで沈黙を守っていた上座へと向き直り結論を伝えた。


「やはり西、諏訪にござます、お館様」 

「皆の存念相分かった。異論は無い」

 未だ少年の面影さえ残す青年の言葉に室内の一同は平伏をもって答えた。


 そんな家臣を眺めながら、上座の青年武田晴信は内心嘆息した。諏訪には妹が嫁いでいる。されど領民のためにはそこへ攻め入らねばならない。戦国の習いであった。


 そもそも、領主の交代劇などそうそう起きることではない。まして、次代が若年で背景となる権力軍事経済の基盤を確立していないのであればなおさらだ。


 にも関わらず発生したのであれば、それは周囲の家臣団の意向による所が大きい。独断に走りがちな老公を廃し、周囲の意見をよく聞く若者を盛り立てたのだ。

 

 それでは果たして、その様な状況で新当主の発言権はあるのであろうか。答えは否である。いまはまだ、功臣老臣達の意見を承認する操り人形に甘んじるしかなかった。


 つまりは妹へ危急を知らせる、におわせる事さえも出来ない無力な兄である。内心で無事を祈り、詫びるしかなかった。それが君主の現実であった。




 諏訪の城内は沈痛な気配に満たされていた。外は陽光を隠す曇天だが、城内の雰囲気は更に暗く蝋燭を灯してもその明かりさえも覆いそうな勢いであった。


 廊下を行き交う侍女も背中は丸まり表情は歳を十も余計に取ったほどの皺で歪み、見ている方がつらくなるほどであった。ある者がその原因のある方へと顔を向けた。


 本来であれば当主の世継ぎの誕生、しかも政略結婚で他家から嫁いできた正室の子となれば、その家との結びつきを強くするかすがいとして家を上げての慶事である。

  

 しかし殊勲を上げたはずの正室に異常を来したとなれば、それは一転外周辺国との力関係をも含む外交問題へと発展しかねない急所と化す。


 はじめは順調そのものだった。数え年十五かそこらの娘がお家のために他国へと嫁ぐ。武門の習いではあるが、お家の都合に翻弄される女の哀しさがあった。


 それでも自分を殺し、初めて会った男の寵を得て懐妊し、伽の勤めを立派に果たした。周囲は世継ぎとなる男児の誕生を望み見事その期待に応えた。


 しかし、良かったのはそこまでであった。

産後頬は幾分こけてはいたものの、落ち着きを取り戻したかと周囲が息をついたとき、それは起きた。


 我が子と対面した後奇声を上げて放り出そうとする、夫と対面すればこれは自分の夫ではないと叫び出す、挙げ句毎夜兄に会いたいと涙をこぼす。


 人が変わってしまったとの噂が立つのは必然であった。居室には限られた者しか出入りできなくはなったが、人の口に戸は立てられぬもの。静かに広まっていった。


 甲府から付き従ってきた幼少期から姫君を知る侍女の中にはそれでも出産の直後は気が動転するもの、とかばう者もいたがそれにも限度があった。


 元々戦争をしていた間柄である。先祖肉親の仇と言う者も少なくない。口さがない者の中には狂を発したのではないか、と口走る輩さえいた。


 心を痛めたのは領主その人である。禍福はあざなえる縄のごとしとは言うが、これはあまりであろうと。当年は正月に諏訪大明神へ特にこの地の平穏を祈願したというのに。


 ともあれ、隣国武田との同盟で東の脅威は無くなり周辺国へも有事の際の牽制になっていることは事実。一度妻を連れて躑躅が崎館を訪れるのも手かと考えていた。


 時に天文十一(一五四二)年四月、時折冬の寒さも顔をのぞかせる季節の出来事であった。

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