07
夜明け前の冷たい薄明かりの廊下を、とぼとぼと歩く影があった。常ならばぴんと伸ばされている背はどことなく丸まり、廊下の冷たさは骨まで伝わるかのようだった。
白い夜着に身を包み、どこか余裕の無い表情で歩を進める影の主は静であった。先程思い通りに進まない現状から口論になってしまった事を詫びるつもりであった。
そして相手の私室の扉を視界に入れた時、同時に異常も発見した。扉の隙間から中をのぞき込もうとしているのか、身をかがめて顔を扉に近づけている不審者が目に入った。
静はため息を一つつくと気配を殺し足の運びを早め問題の不審者へと近づき、手を伸ばすとその頬をつまみ上げた。
「何をしているんです、玉藻」
不審者の正体は玉藻であった。あきれ顔で問いを発した静はしかし、すぐに顔をしかめることとなった。身元は不審では無かったが、その格好は不審に過ぎた。
白い夜着、それは良いがその寸法に問題があり過ぎた。下を見れば丈は短く、太ももがあらわどころか尻が見えそうなほどであった。これでは後続がいては階段を上れまい。
かといって上に目をやれば採寸を間違えたとしか思えない程の窮屈さであり、合わせの紐がいつ内側からの圧力に耐えきれなくなるか見ているだけで不安になった。
見かねた静は玉藻を更に問い詰めた。
「そんな格好で何を考えているのです」
玉藻は頬を染め目線を逸らし
「夜這いならぬ、朝這いですかしら」
「ひ、ひたいです。ひずかさん」
静はふざけた回答に対し頬のつねりにもう片方の手を加えることで応えた。玉藻は涙目になって苦情申し立てをした。
「で、実際の所はどうなのです」
手を離し腰に手を当てて再度問う静に対し 「朝這いしようとしたところ年少組に先を越されて、中の様子を伺っていた所です」
本来ならば非難されるべき行動を何ら恥じること無く堂々と述べる玉藻に一瞬のまれかけ、そんなものかと思いそうになった静だが、すんでの所で理性を取り戻した。
「いい加減になさい。まったく。諸々含めてお説教です」
そう言って頬から離した手で相手の腕をつかみ自室へと引っ張り始めた。
流石に年少組が眠っている部屋の前では自粛したが、小言自体は遠慮するつもりは無かった。そんな静に対し、どこか楽しげに連行されている玉藻が一言声をかけた。
「そう気にせずとも、旦那様は一晩眠れば元通りですよ。今までだってそうだったでしょう?しっかりして下さいまし」
瞬間、静の歩みが止まった。
ぎりぎりと、油の切れたカラクリの様にぎこちなく静は振り向いた。目が合うと玉藻はにこにことした微笑みを浮かべ、更に言葉を紡いだ。
「旦那様に余計な一言を言って傷つけてしまったのではと思い、部屋を訪れ謝ろうなどとまあなんて静さんは可愛らしい。その想いは旦那様にきっと届くことでしょう」
頬に手を添えてうっとりとした表情で口にされた言葉に、静は瞬時に耳まで赤く染まった。付き合いが長ければ内心を見透かされても良いという訳では、決して無い。
表情を隠すように慌てて前へ向き直った静は今までよりも大きな歩幅で廊下を進んだ。恥ずかしさのせいか、先程まで足裏から伝わっていた冷たさは感じられなくなっていた。
そして男の室内ではいびつな「山」の字に盛り上がった布団の輪郭の一部が動き、忍び笑いが聞こえてきた。
「あらら、兄貴振られちゃった?」
声は牛若のものであった。声を抑えていたとはいえ、先程の廊下で静と玉藻の間で何らかのやりとりがあったことは知れていた。どうなるかと布団の中で待ち構えていたのだ。
「オトナをからかうものじゃありません。さ、もう寝た寝た」
男は梅子が寝ている事もあり小声で牛若をたしなめ、自分もまぶたを閉じた。
翌朝、朝と言うよりは昼に近い時間帯であったが男は目を覚ました。両脇を見れば牛若と梅子はまだ寝息を立てている。二人を起こさぬようそっと布団を出ると着替え始めた。
着替え終わった男はそのまま台所へと向かった。途中から胃袋を刺激する香りが漂ってきたため出遅れたか、と顔をしかめた。案の定、静が割烹着姿で食事の用意をしていた。
「すまん、遅れた。手伝う」
「ご飯と味噌汁はありますから何かもう一品か二品お願いします」
「ならししゃもとほうれん草にするか」
会話しながら双方調理場をするすると動き回る。片やほうれん草を刻み始めれば片や器を用意する。息の合った共同作業であった。
「まるで熟年夫婦ですわね」
盤外からの一声がリズムを狂わせた。結果は男の指の怪我だった。
男は指を押さえ血が落ちぬ様にしながら恨めしげに声の主に目をやった。
声をかけるまでも無く下手人は音も無く男のそばへと近寄り指を手に取った。そのまま咥えようというのか口を開け、男がその生々しい赤にどぎまぎしたところで邪魔が入った。
「静さん、邪魔をしないで下さいまし」
頬をつねられていてもなお端正な顔のまま、背後へと抗議の声を上げた。
「あなたは何をしたいのですか」
「いいえ?昨日のすれ違いなど微塵も感じさせない熟練の共同作業ぶりに焼き餅を焼いたなどと、まさかこの私に限ってあるわけがないでしょう?」
言われた瞬間、静は頬を赤くし思わず相手の頬をつねっていた手を離してしまった。相手らしからぬあまりにもあけすけな物言いに驚いたこともある。だがそれ以上にーー
「あらあら、図星を指されて赤くなるだなんて、旦那様こんな素直な娘を無碍にしたら罰が当たりますよ」
口ではとても敵わないからである。
「あー、仲良く喧嘩しているところ済まんが二人とも、年少組が起きてくる前にご飯の準備をしておいてやろう。今日も大変だし、まずは腹ごしらえからな」
二人の掛け合いの間に傷の処置を終えた男が場をまとめた。それが常の役回りであったし、そもそも火にかかったままの鍋があるならなおさらだった。
「良い匂いがするー、兄貴-、飯ー」
「まず手洗い」
そうこうしているうちに支度が整い、ばたばたと年少組が駆け込んできた。
こうなると一気に騒がしくなってくるのだが、男はその前に全員に対し挨拶、と声を上げおはようと続けた。そしてめいめいがようやく朝の挨拶を交わし食卓に着いた。
「相変わらずウチの味噌汁は具沢山だね」
牛若の言葉には原因があった。男は豆腐、静は胡麻、玉藻は油揚げに梅子はワカメと、全員こだわりの具材が違うからである。
結果としてそのしわ寄せは調理担当の静へ行く。ちなみに朝食当番は静、軽食甘味担当が現在不在の雪、夕食宴会担当が玉藻となり、年少組は片付け、男は助手全般である。
「で、今日の夜だけど」
食事の手を休めずに男が口を開く。全員が手を止め顔を上げて次の言葉を待った。
「みんなで行こう。遠征だ」
瞬間、全員が息を吐きそれまで緊張気味であった空気が一気に穏やかなものへと変わった。驚いたのは男の方である。
「そんなにほっとすることか?」
「また誰かと二人きりで行ってお留守番ではたまりませんもの。察して下さいまし」
「……悪かった。すまん」
素直に謝る男に対して
「うんうん、兄貴が悪い。だからオレにそのししゃもを、あいたた」
「牛若ふざけない。で、どうされます?」
頬をつねり軌道修正してくれた静に目礼し、 「流石に昨日と同じ薬売りと若武者はむりだからなあ、となると玉藻を軸に……都から下ってきた貴族の娘とその一行とかかな?」
「大変結構でございます、旦那様」
喜色満面を地で行ったのは当然玉藻である。 自分の役目は何かと身を乗り出す牛若には
「梅子の護衛兼遊び相手」
「なんでだよ」
口をとがらせる牛若であったが、実際のところそんなものだろうな、との思いもあった。 自分の役回りは承知しているからである。
「じゃあご飯が終わったら片付けして、その後遠征の準備でいいかな?」
男が全員の顔を見回すと頷きが帰って来た。それが打ち合わせ終了の合図となった。
「連日倉庫あさりも大変だな」
額に汗をかき、着替えた作業着を埃にまみれさせながら男は愚痴をこぼした。遠征となれば準備も多い。旅先での衣服などだ。
「こんな時のための男手です」
愚痴をばっさりと切り捨て、自身も手を動かしながら注意するのは静である。他の者はいない。男には用意させられない物もある。
「そう言うけれど、そもそも戦国時代でも大丈夫な衣装なんて、そうないぞ?」
事実であった。在庫の大半は現代風か中世ヨーロッパ風衣装であったからだ。
「それでもこだわるのが女という者です」
そう断言されてしまえば男も黙るしか無かった。現実問題として次の準備も控えており、何より時間は有限だったからだ。
「で、服以外に用意する物は?」
男の問いに静は
「保存食、医療品、通信具それと現地での活動用の小道具類ですか」
その答えに満足したように一つうなずいた男は加えて
「札なんかは現地生産も視野に入れないといけないから、筆硯に紙も追加して」
そこでなるほどと感心した静は試しに
「では次は何を用意しますか」
と聞いてしまい、直ぐに後悔することとなった。男を甘く見過ぎていた。
「武器として刀、弓矢、火縄銃だろう。路銀として複製した銭と換金用の黄金、小さな所で水筒代わりの竹筒も用意しないとなあ」
探索遠征ではなく討伐遠征であろうか。
「主殿、遠征の目的をご理解しておいででしょうね」
あまりな答えに頬が引きつるのを抑えきれぬまま、震える声で質問を発した。
「雪の発見と連れ戻しだろう」
今更何を聞くのだろうかと言わんばかりのきょとんとした顔で返答が成された。
それを聞いて静は今度こそ頭を抱えた。
「武器におカネに水筒と、何を狩りに行くおつもりですか」
「家出娘を甘く見てはいけない。何をするか、何が起きるか分からない」
至極真面目な顔で返してきた男に、静は一瞬考え込みあり得ると結論を出した。
「そもそも、雪がまともに動けるなら向こうは吹雪になっているはずだ」
それもそうだと頷いた。実際、周囲の迷惑などほとんど考えない娘だった。
「それが無い時点で、今回の一件はまともな案件じゃ無い。何かあるぞ」
沈痛な面持ちで警鐘を発する男に反論する言葉を静は持たなかった。それは同時に男の言葉への同意であり、男からのある種の覚悟を求める訴えでもあった。
自分の支度を見直すと一旦下がった静を男は笑顔で見送った後その表情を引き締めた。そして二度目の訪問を思い返した。あの現地での突発的な戦闘を。
確かに前回は双方死者は無く切り抜けることができた。だがそれが只の幸運でしか無いと言うことも、勿論理解していた。次回は覚悟を決める必要があると言うことも。
男の懸念はそこであった。どれほど一般人から隔絶した身体能力や技術を持っていたとしても、それを操るのは人を殺すどころか傷つけたこともろくに無い現代人である。
あの瞬間は自身も動転し、無我夢中で行ったことがたまたまうまくいった。だが次もそういくとは限らない。自分は、人殺しになる覚悟が必要になる。
現代人にとって、それは最大級の禁忌である。自分がそれを犯す事になろうなど、想像もしていなかった。まして、今回の一件は自分一人だけのことでは無い。
現在拠点内にいる四人と、行方不明の一人。そして自分を合わせた六人に関わることである。そして厄介なところは、この問題について悩んでいるのが自分だけという所である。
他の全員は、梅子でさえもおそらくは殺人は禁忌たり得ない。自分や仲間に害意を抱く者を排除し安全を確保する、当然の権利と考えているだろうからだ。
なんだかよく分からない他人よりも、大切な身内を優先する。まして身内を危険にさらしてまで他者の心配をするなど正気の沙汰では無い。正論であり、理解していた。
だが、理性で理解することと、感情で納得することは全く別の問題であった。加えて今回は判断を先延ばしにすれば自分では無く他の者が手を下すであろう事も確実だった。
つまり、今夜の出発までに最低限自分の気持ちはともかく覚悟だけは決めなければ、それが原因で自分以外の者にその手を血で染めさせることになってしまうのである。
震える右手を、同じように震える左手で男は押さえた。そして本当に震えているのは自身の手では無く心だと言うことも理解していた。けれど止めることはできなかった。
決断すべき事柄は重く、準備すべき物資も多く、かけられる時間は少なく、その双肩にかかる責任は重く、男の内心千々に乱れた。けれども、止まることは許されなかった。
ふう、なんとか間に合いました。




