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武田見聞録  作者: 塩宮克己
1章 天文11年(1542年) 諏訪高遠編
10/70

05

霧の中を男女が歩む。二人の絆を示すように女は男の腕をその胸に抱き、女の肩には鴉が載る。

 男女はお互いに無言で歩みを進める。だがそれは双方の不信を示す物では無かった。否、双方が信頼し合っているからこそ、言葉は不要であった。

 そうしているうちに鴉が何かに気がついたように顔を上げると、一声鳴いて女の肩から飛び立った。するとそこで男女は霧が薄れ始め、前方に光が差していることに気がついた。 ようやく戻って来ることができた、その安堵とともに男の歩みが少し早くなる。女の歩みも合わせて早くなり、やがて霧を抜け慣れ親しんだ拠点へと戻ってきた。留守を任せた面々へと帰還の挨拶をしようとしてしかし、男は違和感に戸惑った。

 玉藻は扇子を取り落とし呆然とした表情を浮かべ、牛若はにやにやと悪戯っぽい笑いを顔に貼り付け、梅子はあたふたとしている。

何かあったのか、と問いかける直前、左腕の感触がすべてを教えてくれた。

 静が左腕に密着したままだったのだ。慌てて離れようとすると抱きしめる力が強まり男はたたらを踏んだ。

 その際に静と目が合った。蕩けた瞳。上気した頬。濡れた唇。普段は見せないぞくり、とするほどの「女」を感じ一瞬我を忘れるも、咳払いによって現実へと戻された。

 「旦那様。正座」

 右手は腰に、左手は口元に当てた玉藻が通告してきた。桟橋の上であったが男は即座に実行した。静も即座に離れた。氷のような怒りをたたえる女性に逆らってはいけなかった。

 「旦那様。結果報告」

 「雪の発見にはつながらず。現地の様子は山中の湖畔だけれど場所の特定には至らず。こちらのスキルやアイテムは現地でも使用可能。現地住民との接触はなし。帰還用のゲートは湖にかかった霧、それと……」

 男は懐を漁ると懐中時計を取り出し、同様に玉藻も取り出したそれと双方を見比べ

 「時間経過はこちらもそちらもかわらず」

 「はい、結構です」

 「じゃあ、引き続き調査続行してきます。何かあれば牛若の鴉に警報出させて下さい」

 立ち上がりでは、と手を上げてそそくさと立ち去ろうとする男に対して玉藻は一言、

 「言い訳は後ほど」

 「はい」

 見るも無惨に伸ばした背を猫背へと変化させながら男は再び霧の中へと消えていった。今度も静はそれに付き添ってゆく。一度留守番組の方へと振り返り拝む仕草をしてきた。詫びのつもりらしかった。

 

 「姐さん、いいの?」

 「あの短時間で旦那様があれこれできるはずもなし」

 「兄貴にそんな甲斐性あったら年長組はとっくに傷物だもんねえ」

 「ととさま、かわいそう」

 全てを承知の留守番組であった。

 

 再び霧の中を行く男女二人。今度は手をつないだ状態で足早に進んでゆく。

 「今度は現地の人に接触する。ただしできる限り穏便に。物陰からそっと伺う感じで。人家の方へ行くからそのつもりでいてくれ」

 「ええ、ですがもめ事になった際は?」

 「極力避ける。最悪霧の中に逃げ込もう」

 言いつつ男は顔をしかめた。本当に時代劇、つまりは戦国期や江戸期であった場合、それがいかに甘い絵空事か、自覚していたからであった。

 男はここで目を逸らしていたことと向き合うことになった。

 万一殺人に手を染めなければならない場合、どうするか。自分はともかく仲間達、特に梅子の手を血で汚して良いのか。

 答えの出ない男を見かね、静は気分転換に別の話題を出した。

 「現地の人と出会うのは良いとして、何と名乗るのです?旅の冒険者ですとでも?」

 「それもいいけれど、まあ手は考えてあるよ。あの時代で夜中に活動しているのはあまりまっとうな人種では無いからね」

 苦笑しながら返す男に若干の不審は感じつつも、静はそれ以上の問いかけをやめた。実際の所、臨機応変出たとこ勝負になるのは目に見えていたからであった。

 そうこうしているといつの間にか霧が薄くなって来ていた。再度の訪れを控え男と女は互いの顔を見合わせると一つうなずき合った。そしてーー


 「何やつ、貴様らこのような夜更けにここで何をしている」

 二人を出迎えたのは殺気だった複数の男達の誰何であった。

 

 夜の湖畔にて対峙した現地の者どもへの対応に相手の様子を見定めていたため一瞬対応の遅れた静の機先を制して男が声を上げた。

 「待たれよ。我らは紀州徳川藩の者。貴殿らこそどこの御家中か」

 頬をひくつかせつつ静は目を左右へと走らせた。相手の人数は六人。内松明を持っている者が二人、棒を持っている者が一人、他は腰の刀に手が伸びている。

 中央の身なりの良い者を中心に左右に広がり、こちらを包囲しようとしている。さて進むか退くか、と男に確認を取ろうとしたところ相手方から返答があった。

 「とくがわ?紀州なら雑賀党の一派か。その様な者がこの諏訪に何用か」

 相手からの問いかけに一瞬思案すると男は返答した。

 「見ての通り諸国を巡り見聞を広めるための行商と武者修行にござる。重ねて問うがどちらの御家中か。諏訪の地ならば武田か、織田か」

 その返答に相手は一瞬戸惑うような顔を見せると次の瞬間には失笑し次第に哄笑に変わり、それは周りの者どもへと伝播した。

 意味が分からず顔を見合わせる男女をよそに、中央の身なりの良い武士が喝破した。

 「たわけめ。どこの手の者か知らぬがよほど程度の低い忍びと見える。大方紀州の出というのも嘘偽りであろう。武田は先年姫がお館様に嫁いできた同盟国。織田など山向こうの尾張ではないか。さては先の物音も貴様らの仕業か。者ども。捕らえよ。二人おる。片方は殺しても構わん」

 瞬間二人の武士が刀を抜き棒を持った者はかけ声とともに打ちかかって来た。男は杖を刀の代わりに逆さに持ち替え、女は腰を落とし拳を構えた。

 「すまん。俺の落ち度だ。殺さないようにして切り抜けるぞ」

 言うなり男は刀を抜いた武士の内片方へと挑みかかった。相手は男の獲物を杖と見て取ると余裕の笑みを浮かべ抜いた刀を一度振り上げ唐竹に斬りかかってきた。そのまま振り下ろせば男は斬られ、杖で受けても獲物は断たれ男は丸腰になるであろう。

 武士は勝利の予感に口元を歪めたままその刀を振り下ろした。しかしその口元はすぐさま別の理由で歪むこととなった。

 挑みかかってきた男の杖によって、刀を振り下ろす途中の右腕をしたたかに打ち据えられたからだ。苦悶に顔を歪めうめき声を発しながらも、刀を落とさなかったのは流石である。しかし右手は本来の用をなさず、逆手の左手のみでは本来の太刀筋を振るうことは無理であろう。そこへ水月への一突きが追い打ちをかけた。武士の膝が崩れ落ちた。


 予想外の苦戦を強いられていたのはもう片方の武士も同様である。

 静は男から声をかけられるやいなや、棒を持った者へと突撃。力任せに棒を奪い取るやそれを頭上で回し周囲を牽制した。ぶおんぶおん、という風切り音が女が只の素人では無いことを告げていた。

 周囲の者どもが一瞬ひるむとその隙を逃さず抜刀した武士へと横薙ぎに棒を振るった。日本刀は「曲がるが折れにくくよく切れる」、受けてしまえば刀は曲がってしまうだろうと躊躇った武士の横腹へと情け容赦なく棒がめり込んだ。

 口からよだれとも泡ともつかぬ物をこぼしながら、武士はどうと倒れ伏した。そのまま持ち主へと棒を突きつけ眼に力を込めると、哀れにも相手は悲鳴を上げながら逃げ出した。

 静は素早く状況を確認し直した。相手方六名の内、抜刀した二名は無力化し、更に一人武器を奪い逃走させた。そして残り三名の内二名は照明役の松明持ち、これで退いてくれるかと身なりの良い武士へと目を向けた。


 「おまえ達、けが人を連れて下がっておれ。儂が相手する」

 おそらくは相手方で最も身分が高いであろう武士はそう照明役の二人に声をかけると抜刀し、男へと距離を詰めた。

 

 あわよくば退いてくれるかとの期待を裏切られた形となった静だが、声をかけられた照明役の二人があいている方の手を打ち倒した武士達に貸して後ろへ退いていき場を開けるのを見て覚悟を決めた。

 この場は、自分の主たる男と、この身なりの良い武士の一騎打ちで決着が付く。

 身なりの良い武士は抜刀すると刀を顔の横で垂直に立て、足を大きく開いて腰を落とし、すり足で男の方へと近づいていった。

 男はその武士の姿に身につけられたいないはずの鎧兜を幻視した。武士の構えは介者剣法。鎧兜で完全武装した武者が振るう剣術であることを理解したからであった。さらに、身の丈が五寸以上違うにも関わらず相手と同じような体格に感じられるのは相手の隙が無い故に実物以上に大きく感じられるからであった。

 知らず、男の喉が上下した。そして、湖畔の砂を蹴立てて駆けだした。

 

 相手の武士は先に男が見せた立ち会いを反芻していた。自分達の側が先手を取ったにも関わらずそれを覆しての一撃。普通に斬り合っては先手を取られる、ならばーー


 男は杖を先程と同様刀の代わりに構えると、最後の関門たる武士へと走り出した。自分を迎え撃とうと武士が刀を振り出す動作に入ったことを目で捉えると、右足を大きく踏み出した。

 

 武士は男が向かってくるのに合わせて構えた刀を振り下ろし始めた。すると男は自分から見て左手側へと進路を修正した。人間の体は一般的に心臓のある左側への動作の方が早い。武士も男に会わせ刀の軌道を修正した。すると男はそれを待っていたかの様に今度は右側へとその進路を変更した。それを見た武士の口元が大きく歪んだ。

 

 男は驚愕していた。刀と杖の獲物の差を考慮し罠を仕掛けたつもりだった。まずこれ見よがしに右へと踏み込み、敢えて対応させた上で左へと急旋回する。これで勝利できる筈だった。だがまさか読まれていたとは。内心で小細工はむしろ失礼であったかとの後悔を脇へ押しのけた。武士の振るう刀が「く」の字を描いて自らの方へ向かって来るのを眺めながら、手にした杖を地面を抉るように大きく振るった。


 相手の手を読み切った。武士はそう考えた。先の一戦からこの怪しい男の武器は早さだと当たりを付けた。相手の行動を見定めた後に一手打ち、しかもそれが相手に先んじる。なればこそ、こちらに敢えて先に行動させて裏をかいて来るであろうと逆張りをした。そしてそれは的中した。にもかかわらず、なぜ自分は体勢を崩されているのか。武士は混乱の只中にいた。追い打ちをかけるように刀を握る手に衝撃が伝わってきた。


 男はほっと息をついた。方向転換による罠は見切られたが、次の一手までは予想されていなかったからであった。刀で斬られるより先に、杖で相手の右足を跳ね上げたのだった。予期せぬ体勢変化に動揺した隙を見逃さず、その刀の峰を強打し弾き飛ばすと仕上げに入った。一旦杖を手放すと相手の右足首を左脇に抱え込み、そこを支点に旋回し始めた。


 武士は混乱の極地にあった。剣術の練習で武器を奪われたことはある。組み打ちの練習で投げ飛ばされたこともある。しかし、足首を小脇に抱え込まれたまま振り回された経験、それも実戦でなどあろう筈も無い。何とか脱しようと自由な左足で何度か蹴って見るもまるで効いた様子が無い。何回転かした後急な浮遊感に襲われた。


 ぶおん、ぶおんという風切り音が数度続いた後数瞬の空白をおいて、派手な飛沫と水音が夜の静寂を打ち破った。男が勢いを付けて相手方の武士を放り投げ、湖水へと叩き込んだからであった。勝負の付いた瞬間であった。 「早く助けた方がいいんじゃないのか」

 男の問いかけに松明を持った武士達は顔を見合わせると駆けだした。武士の湖面でもがく音が聞こえてきたからである。只でさえ身を縮める様な寒さの中、更に冷たい湖水に全身を浸けては風邪ではすまず、命に関わる場合もある。

 

 男はそれを見届けると、残された未だ倒れている武士達の片方へと近寄りその腰から鞘を抜き取った。そして当たりを見回し、状況を観察していた静から拾った刀を受け取ると納刀し、自らの腰に差し直した。

 その後少し躊躇った後、男は武士の懐に手を入れ漁ると財布を取り出し、中身の重さを確かめるように数度手の中で跳ねさせた後自らの懐へとしまった。うめき声を上げながら手を伸ばす武士を打ち据え昏倒させた後

 「今宵はこれにて失礼いたす。では御免」

 そう言うと男は静の手を取り湖の中央を覆う霧の中へと歩み出した。


 なんとか2週連続で更新できました。

ふう、やれやれ。


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