01
――なんでこんなことに――
女は思わず嘆息しそうになるのをこらえ、改めて周囲の状況を確認した。
年季の入った木造建築物。威圧感を漂わせる瓦拭きの講堂の入り口には佇まいだけで見るものに歴史を感じさせる扁額。ぐるりと巡らされた回廊。その終端には外界と空気さえ仕切るがごとき山門。まごうことなき古刹である。それは良いのだが。
その古刹の中庭で木刀を構え向かい合う男女。上手の講堂では階段の奥の座敷に腰を下ろした青年とその周囲の壮年老臣そして小姓たち。階段下から物見高い野次馬の侍たちがぐるりと人垣を作り対峙する男の方へ檄を飛ばしている。程よい日差しにも関わらずまだ肌寒さの残る三月とて初夏の熱気を感じさせるほどだ。
中庭で対峙している二人を挟んで講堂の反対側には青年が一人、こちらは周囲にぽっかりと人が途切れた状態で手持無沙汰に佇んでいる。そこだけ二月ほど時を戻し、雪でも振りそうな冷たさを持った周囲からの視線を気にするでもなく、あろうことか講堂や渡り廊下の奥の木々に目をやっている。腫れた頬を気にしているのか手で撫でていたが、こちらが視線を向けているのに気が付くと、いつものように暢気な笑みを浮かべながらその手をひらひらと振って寄越した。
常と変らぬその様を見て今度こそ本当にため息を一つつくと、再び愚にもつかない考えが頭に浮かぶ。
まるで演劇の一場面。これから見せ場という所。ああ、さぞや胸躍るところであろう。ただ一点、自分がその当事者になってさえいなければ。まして今の自分達は物見遊山をしているのではなく、解決すべき問題があるのだ。その目的を達成するために自分の主が考え付いた方針に一理あると認めてはいても、理解と納得は別問題であろうと内心に不満が首をもたげる。
相変わらずこちらへ暢気に微笑みを向けている元凶たる己が主にそんな抗議の一瞥をくれると視線を目の前の少年へと戻す。
お互い木刀を正眼に構え、数歩の距離を取って対峙している。こちらを女と侮る気持ちは無いらしく、程よく緊張しながらこちらの一挙手一投足見逃すまいと眼を向けてくる。
「始め」
こちらが意識を戻すのを待っていたように、上座から合図の声がかかった。
途端に目の前の少年は鞭を入れられた馬の様に動き出す。足は前方へ踏み出しながら両腕は木刀を頭上へと振りかぶる。そのままこちらへ振り下ろすつもりだろう。その人となりを表すかの様な真っ直ぐな立ち合いに一抹の清々しさを感じつつも、躰は既にそれに対応するべく動いていた。
対峙する少年秋山虎繁は、本来であるならば感じるはずの肌寒ささえ退ける、その身の内で猛り狂う憤怒――正確には義憤――を鎮めるべく最大限の努力を強いられていた。
他国者が士官を求めてくる。良い事だ。当家ならば一旗揚げる目がある、将来のある所だと判断されているということであるのだから。
士官を求めてきた者がお館様の御前で武芸を披露することを所望する。当然の事だ。それなくしてどうして士官が叶おうか。
だが、だがしかし、なぜそこで自分で行おうとせず、連れの女にやらせるのか。武士として、それ以前に一人の男として恥というものを知らぬのか。本当にそれが士官を求める者のとる態度か。そして侮蔑を露わにした目で元凶の男を睨みつけると、対峙している女へと視線と意識を戻した。
そもそもこの女も形からしてふざけているのかと思えてならない。公卿の如き黒烏帽子に白の水干に紅の袴ともはや白拍子の格好そのものではないか。警護の者もこの様な輩をお館様へと取次ぐとは、お役目怠慢どころの話では無いのではないか。近習の者どもも何を考えていたのか、理解に苦しむ。そこでしかし、と頭を切り替えた。
いかに不本意とはいえ、女相手ならばカムロでよかろうと元服前の自分が指名されたとはいえ、お役目はお役目。手を抜いていい理由にはならないし、ましていかに遊女相手とはいえ万一の事があっては家名にも傷を付けることとなる。
ややもすれば殺気さえ感じられる観衆の先輩同輩達の声援に促される様に、立ち合い前の常として冷静に相手を見分した。
なるほど、五尺三寸ほどの背丈を見れば生まれもった体格に恵まれたのだろう。男でも並みならば五尺そこそこなことを考えればなおさらだ。構えを見れば見様見真似で粋がっているのではなく、きちんと研鑽を積んだことが見て取れる。その眼差しは性根をそのまま表したかのような真っ直ぐなものだ。そして思う。実に惜しい。これで男でさえあれば、共に肩を並べて戦場へ出るに足る、一廉の侍となったであろうに……。
しかしお館様ご臨席なうえ、万座の中での勝負となれば女だからと手加減するわけにはいかない。せめて体に傷を残さぬよう、下手に長引かせず一太刀で勝負をつけるのが情けというものであろう。となれば、と勝ち筋を頭の中で組み立てる。様子見の打ち合いや小手調べの力を抑えた剣撃は除外される。開始と同時に素早く唐竹に打ち込み、相手に何もさせぬまま勝負をつけるのが最もよかろう。
そこまで考えを纏めると、ちょうど相手の女も周囲を気にしていた意識をこちらへ集中させた所の様だった。
「始め」
そこで座敷より老練の響きを伴った声がかかった。あの声は甘利様であろう。
座敷に陣取っている老人―甘利虎泰―の身を震わせていたのは疑念であった。なぜ、今その身に湧き起っている様々の思いはすべてその一点へと帰結した。士官を求めてきた者の武芸を試す、それは良い。戦を控えた現在ではむしろこちらから願い出たいくらいだ。 だが、なぜそれが氏素性定かならぬ他国者の、しかも自分の代わりに女に仕合わせるような不心得者なのだ。万一その正体が他国の間者であって、取り返しのつかない事になってしまってからでは遅いのだ。怪しい素振りを見せた際に備え、見物の態を取って人数で取り囲んでいざとなったら始末する手筈をつけてはいるが、万万が一ということもある。歌会花見の余興と笑って済ませるには悪ふざけが過ぎよう。
やはりやむを得ないこととは言え、自分の父親を追放して世直しの当主交代を図った事が若い主君の心に何がしかの影を落としていたのか。戯れの一言で済ませるには大げさになりすぎた今回の一件、さてどのように始末をつけようかと算段を思い描きながら、開始の合図を告げた。
「始め」
掛け声が終わらぬ中に秋山虎繁は動き出していた。足は相手に向かい踏み込む、下半身の動きの反動を利用して上半身は木刀を振りかぶりそのまま振り下ろ――そうとした所で異変に気が付いた。
喉元に切先が突きつけられている。
――するり――
いつの間にか、間合いに入るどころか目の前に立たれている。
今更ながらに背中の悪寒に気が付いた。
この世に妖気というものがあるならば、あの時に背筋を震わせたものがそうだったのであろう、と秋山は後に述解している。
立ち合いで相手から目を離すなどという愚挙は犯さなかった。
足の踏み込みも、腕の振りかぶりも申し分ないものだった。
そこへこの女は眉一つ動かさず、こちらに何一つ気取らせることも無く、自分の動きを見てから動き出し、何をさせることも無く終わらせた。
お主はいつ動いたのだ。
人目も憚らず叫び出しそうだった。
一体何をしたのだ、この女は。
驚愕の為石像になったかのように動かぬ躰と、内心の動揺をそれだけで表しているかのようにせわしなく動く眼球の手綱を自分でも掴み切れぬままでいると、目の前の女が自分をじっと見ていた。こやつは俺に何を求めているのだ。自問した後に己が衝撃に惚けていたことに気が付いた。この状態でなすべきことをしていなかっただけなのだ。声に出さなかったのはせめてもの情けか。
「参った。」
恥を忍んで声を絞り出すと、女は数歩下がりつつ木刀を逆向きに両手から左手に持ち替え、腰の辺りにもってくると一礼した。
それと同時に庭中の空気を震わせて侍たちのどよめきが起こった。その声を受けてようやく全身の硬直がほどけ、自分も姿勢を正すことが出来た。
いささかの陽気はあっても、外気はまだまだ体を震わせる寒さを持っていたことを、少年は今更思い出していた。しかしそれを気にも留めず、後ろ足で距離を取りつつある女に手を伸ばしつつ声を掛けようとした。あの瞬間何をしたのか確かめずにはおれなかったのだ。
するとそこで、そっと肩を掴まれ押しとどめられた。何を、と振り返るとそこには先ほどまで見物していた侍の一人が立っていた。 反射的に姿勢を正そうとすると相手は構わぬ、とでも言うように半歩前へ出た。目線を合わせると握りこぶしで胸を一つ叩いてうなずいてきた。こちらもうなずきで返し、木刀を両手で渡した。相手はそれを片手で受け取ると声を張り上げた。
「次は俺じゃ、女」
座敷で一部始終をつぶさに見ていた老人、甘利虎泰は驚愕と満足を覚えていた。むろん驚愕は怪しげな女に対してだ。相手が剣を振り上げた隙に、振り下ろすよりも速く突きを決める。言葉にすればただそれだけだが、それを実際の物とするにはどれだけの鍛錬を積み重ねてきたというのか。
なるほど女とはいえ武芸披露に来るだけのことはある。しかもまだ二十に届くか届かぬかの若造ではないか。そんな者がなぜ、どこであれだけの技を修め、しかも青瓢箪のような男に従っているのか。疑問は尽きない。
そんな女を使う得体の知れぬ男に比べて、秋山の次を買って出たあの侍はどうだ。不覚を取った後輩に対して、下手に言葉をかけることは傷をえぐることにもなろうと、貶すでも慰めるでもなく、ただ前に立ち次は任せろ敵は取ってやると言わんばかりの態度。
あれこそ武士の鑑ではないか。自家にあのような者が増えればお家は安泰、どのような戦に臨んでも悠然と構えることができよう。しかしあの奇怪な女をどう攻略するつもりなのか、一つあやつの手並みを見せてもらうとしよう。
先ほどの仕合を制した女――静――は、勝利とは裏腹にその身の内に砂漠の如き空虚を感じていた。
主に言われるまま戦い、そして勝ったが果たしてこれで本当に良かったのだろうか。改めて見れば先ほどの対戦相手は元の世界では未成年に分類されそうなほどの年頃であり、凛々しさよりも可愛らしさのほうが目立つような少年だったではないか。
そもそも自分の様な存在ならば勝って当然、そもそもこちらの世界の人間と同じ土俵で戦うこと自体が卑怯と罵られても文句を言えないのではないか。
そう口にした所で主はまあまあなどとお茶を濁し結局自分はその意に従うことになるのだろう、それは今まで繰り返されてきたことだし、これからもそうなのだろう。しかしそれならばもう少しこちらの心情に配慮しても良いのではないか、むしろそうするべきだろう。
と内心思いを馳せていると今度は文字通りの若武者が出てきた。見るからに覇気を漲らせ、先ほどの少年とは一線を画している。
それを見てまだ腕を見せねばご納得いただけないようだ、と左手に下げた木刀を再び両手で構えなおしつつ、このようなことになったそもそもの発端に瞬時想いを巡らせた。
その内心を表すかのように、太陽には薄雲が掛かりはじめていた。