最終回
(最終回)
「じゃあ、探してみるか」
日数は限られている。自分は年中暇だが合田は三日間しかない。
黒部川を眼下に眺めながら静けさの漂う峡谷の細い道を登っていた。幾度も合田は地図を確認しながら周囲の山とその樹木を点検した。自分はその彼の目つきを見ていて最初は未知への期待感に同調していたのだがやがて一種のホラを感覚の一部で感じ始めた。
「何か厖大な山景色だけどこんなところに尖がった断層があるのか?」
自分の問いかけに合田は例によってへらへら笑い「あるんだって…きっと今によ」と先を歩きつづけるのみである。
「でも具体的にその位置は地図に載ってないだろ?」
「うむまあ…だいたいの見当のつく程度だな」
二人はそれから無言で四時間ほど黒薙温泉から猿渡峡谷までの山道を登って歩いた。
二日目。
小雨模様だった。それでも合田は今日は猿渡から仙人峡谷までの行程を計画していた。二人はポンチョを着て一層険しい山道をくねくね黒部川の上流に沿って進んで行った。合田はまた地図を取り出しては何度も峡谷の山並みを眺めた。
「この辺に黄斑の樹木ってあるのか?」
自分は昨晩、チビチビやりながら薄いランプの下で議論した続きを尋ねた。合田はニヤニヤして何も答えず「うむまあ…」と口元に垂れる雨の滴を手で拭っていた。
根拠がないのだった。自分はそれでも合田と同じような気持ちになって一獲千金の夢を捨ててはいない自分に気付いていた。それが不思議だった。長年勤めていた会社という組織の欺瞞や虚栄や腐敗よりは少しはましだと感じていたからだった。だから今日もひたすら合田の後につづき、そして雨を撥ねのけ踏み締めていく合田のトレッキングシューズの泥とそれに纏わるようにくっ付いている落葉の形象をまるで未知なるものを見るかのように眺めていたのだった。
「それはそうとその発掘箇所が見つかったらそのあとはどうするんだ」
小雨に煙る仙人峡が輪郭を現わしてきた時点で合田に問うた。合田は「うむまあ…それはあとでいろいろ考えることよ」と目を細め、びちゃびちゃになった地図をまた取り出していた。それから「黄斑の樹木って何やろな」と頼りない声でつぶやいたのだった。
結局、仙人峡の峡谷にも尖った断層のある一帯は見当たらず黄斑の木の杜も見つけられなかった。
三日目。
訝る温泉宿の主人の視線を背に受けながらも最終行程の鹿ノ子峡谷へと二人は出かけることにした。黒部峡谷の最も奥に存在する秘境中の秘境といえた。
黒部川の源はその背後にそびえる北アルプスの谷間を縫って流れていた。翡翠の原石がこれらの峡谷を辿り富山県の海岸まで運ばれていることを思えば埋蔵されている元はといえばこの鹿ノ子峡谷の断層以外にない。二人は心を躍らせていた。最後の日にふさわしく深閑とした峡谷の空は見事に晴れわたっていた。
「万が一よ。賭けなんてものは」
「当てられたらいいな」
まるで宝くじを買うようなものだった。
最終日の山道は険しかった。下を流れる黒部川の清流が透明な煌きと神秘を漂わせるような音を奏でていた。
三時間は山並みを調べながら二人は歩いたがあとの一時間はとりとめのない話ばかりで終わった。
「油田はさあ、はっきりしてんだよな」
「ここ掘れワンワンってことか」
やがて二人は疲れきった足どりでもと来た道を歩いていた。合田はもう破れてボロボロになった地図を取り出さなかった。
小屋の宿を出るとき白髪だらけでしかもくしゃくしゃになった顔をあげて宿の主人がひとこと自分に言った。
「まだ若けぇーんだから何でも手に職を見つけるだよ」
いつの間に二人の会話を聞いていたのか不思議だった。
祖父の焼けた骨をみんなは順調に拾い集め白い骨壺に納めた。
自分は丁寧に最後の骨を火箸で掴み、合田との徒労に終わった鉱脈探しの思い出を同時に閉じようとしていた。
「最後やな…」
誰かが言った。
「最後は喉仏の骨です。躯最期のしるしとして燐が燃え尽きています。これをどなたか…」
と、火葬場の職員が静かに案内した。みんなは無言にして表情だけを意識するかのようにざわついた。
孫ではあったが自分は弾かれたようにみんなに目配せを施し、そして火箸を再び持って静かにそれを掴みにかかった。
「変なお爺ちゃんやった」
と、母親の声が遠くでこだました。
自分は黒部峡谷での奇行を思い出しながら「変じゃないよ」とつぶやくように一杯になってこぼれそうなその壺の一番上に最後の燐の欠片を載せた。