一話 突然の声かけ
偶然というものは、ある種奇跡のようなものだと言ってもいいだろう。状況と状況が運命的な確率で一致し、それが事象として現実になる。その確率は何千、いや何万分の一と言っていいほどに。
わかりやすい例を出すと、テンプレ的な恋愛話の序盤。つまり、寝坊した朝にパンを咥えた美少女と遭遇するシーン。
学校のある日、いつもなら七時に鳴るはずの目覚まし時計が偶然故障していて、偶然八時に起きてしまった。このままでは学校に遅刻してしまうと大慌てで支度をし、偶然八時十五分に家を飛び出し、全力疾走して学校に向かっていると、偶然曲がり角で偶然トーストを咥えながら走ってきた美少女と、偶然お互い怪我をしない程度のスピードでぶつかり、偶然地面に尻餅をつく時の姿勢が丁度スカートの中が見えるような姿勢だった。その後、ホームルームの時間に来た転校生が偶然その日から、偶然同じクラスに転入することになっていた。
あのシーンが出来上がるまでに、これだけの偶然が連続しているのだ。もしも朝起きるのが数秒遅れていたり、早かったりしたら?支度に手間取っていたら?トーストを咥えて……いてもいなくても変わらないか。大体ゼロコンマ一秒とかからず皿からひったくって家を出るからね。スカートも割愛しようか。
という感じで、本当に確率的には低いことが起きているのである。偶然は奇跡。これは絶対的なことだ。つまり、如何なる出来事も、全て偶然の重なり合いで起きる奇跡なのである。奇跡でできた今を忘れないで。いいこと言った。
もう一度言う。偶然とは奇跡だ。奇跡は予期せぬ運命的なことを指す言葉。
ならば、僕は今、奇跡を体験している真っ最中ということになるわけだ。
「夢咲君、すっごい絵が上手なんだね!」
そう。今、正面の席に座り、僕の手元を覗き込みながらそんなことを口にする彼女が目の前にいるこの状況が。
◇
陽が傾き、茜色の光が教室に差し込む時間帯。一年四組の教室にて、僕は一人の少女と机を挟んで対面していた。
一体どこの遺伝子なのかと言いたくなるような肩甲骨まで伸びる美しい亜麻色の髪を揺らし、淡いブルーの目をキラキラさせながら僕の手元を覗き込む少女。スラリとした体躯をし、もはや天才人形師が生涯をかけて作り上げた最高傑作と言っても過言ではないほどの美しさ。そんな美少女が、僕の手元に視線
を向けながら、楽しそうに声を弾ませた。
「これって絵画の模写だよね?こういうの描いてるなんて意外だなぁ」
「え……っと?」
「あ、もしかして他にも色んな絵を描いてるとか?油絵とかやったりするの?」
「ま、まぁ、たま~に」
「そうなんだ!実は私も油絵やるんだよねぇ~」
どうしてこうなった。
僕はシャープペンシルを動かす手を止め、頬に流れた汗を拭い、口元をピクピクさせながら曖昧に笑う。
それに対して彼女──一年一組に所属する我が春羽高校一年生のアイドル、白川日和は満面の笑みで楽しそうに言葉を連ねた。
「夢咲君は美術部なんだっけ?」
「いや、帰宅部、だけど……」
「こんなに上手なのに帰宅部なの?絶対部活に入った方がいいよ!うん、その方が夢咲君の才能を発揮できるから!」
「は、はぁ」
疲れる。クラスでも一部……じゃなかった、一人としか話さない僕には、一年生のアイドルと正面から話すというのは心臓に悪い。そもそもあなたはクラス違うでしょう?いや、目の保養には十分すぎるくらいの効果を発揮してくれているんだけど。ただ目の癒しと精神へのダメージを同時に繰り返すのはどうかと思うな白川さん。
僕は曖昧な笑顔と返事を白川さんに返しながら、こうなった状況を思い返した。
◇
今日はいつも通り朝起きて、学校で授業を受けて、誰もいない教室で絵を描いていたら白川さんに声をかけられた……以上。
思い返すほどの状況なんてなかった。普通に放課後の教室でダラダラ絵を描いてたら白川さんがやってきて声をかけてきたんだ。二行で終わるような僕の学校生活って薄っぺらいな。もっと濃密な学校生活を楽しみたい。
いや待て。本来なら帰っているはずの放課後にこうして絵を描いていたから白川さんに遭遇したんだ。これはまさか、運命的な何かが……そんなわけないか。放課後に残っているだけで声かけてもらえるとか人生ってすげぇ。イージーすぎる。
いや、そんなことより、
「あの、どうして僕の名前を?」
僕は一度も名乗っていない。にも関わらず、彼女は僕の名前を知っていた。ちょっと怖い。
「ん?……君に興味があって、前から知っていたから」
「え?」
そ、それは一体……。まさか本当にそんなことが現実に?とうとう僕にも春が訪れちゃいましたか?
なんてことが頭をよぎり、顔を少し赤くしていると白川さんがクスクス笑いながら口元に手を当てた。
「フフッ、冗談。ノートに名前書いてあるでしょ?それを見たの」
彼女は机の上に置かれていた僕の数学ノートを手に取り、そう言ってきた。なぁんだびっくりした。いや、ちょっと悲しかったけど、そうだと思ったよ。うん。最初から彼女が僕に興味があるなんて思ってなかったよ。本当に……グスッ。
「からかってごめんね。でも、今は君にすごい興味あるよ?」
「そ、それは一体どういう?」
真剣な眼差しで僕を射抜き、真面目な声音で告げる。
「夢咲君」
「は、はい」
「好きな西洋美術史は?」
「はい?」
問いに思わず問いで返してしまった。爆弾に変えられてしまう!
「だから、好きな西洋美術史は?」
「え、えぇっと、ルネサンス美術全般とバロック、近代の印象派と写実主義……あ、あと象徴主義です」
「……その中で、好きな画家は?」
「ルネサンスだと三大巨匠は勿論ですけど、アルブレヒド・デューラー、ジュゼッペ・アルチンボルト。印象派だとピエール・オーギュスト・ルノワールにジョルジュ・スーラ、クロード・モネ。あとはそうだな……エドゥワール・マネもいいですし、ヴァレンティン・セローフも……白川さん?」
チラッと白川さんの様子を見ると、こちらをニヤニヤしながらじっと見ていた。一体なに?そんなに僕の好きな画家がマイナーだった?そんなわけないだろっ!どれも時代を代表する天才画家たちなんだから!
「夢咲君は……美術オタクなの?」
「へ?……ま、まぁ、美術に関して言えばそうかもしれないですね」
「美術の知識は豊富だし、絵だってとっても上手に描けるし」
「しゅ、趣味は極限まで追求できるものなんですよ」
勉強とか嫌なことは長く続かないと思うが、自分の好きなことならとことん続けることができる。そういうものだ。勉強とかやりたくない。
「でも帰宅部なんだよね?美術部に入らないの?」
「美術部だと自分の好きな絵を描けるわけではないですからね。出された題材に従って描くなんて三流です。一流の画家たちは、いつだって自分の好きな絵を描いているものですよ。仕事だって、描きたくないと思ったら受注しません」
という言い訳を作ったが、実はそれだけじゃない。うちの学校の美術部は女子が多いのだ。個人的に女子に対して苦手意識があるため、入りたくない。中学の時に教室の机蹴り飛ばしながら悪口言ってるのを目撃したんだ。女子、怖い。
「ということは、夢咲君は自分の好きな絵を描ける部活なら入るつもりはあるんだよね?」
何を唐突に言うんだこの美少女は。なぜ目をキラキラさせながら僕の方へと身体を乗り出す。やめてよ。勘違いしちゃうよ?
「ま、まぁ、確かにそういうことになりますけど」
「じゃあさ!」
白川さんが僕の右手を白くて綺麗な両手で勢いよく掴み、その言葉を待っていましたと言わんばかりの勢いで引っ張る。更に顔を近づけて。
「ッ!あ、あの?」
「夢咲君!」
「は、はい!」
美しい淡いブルーの瞳に、窓から差し込んだ夕日が当たり、赤と青の光がキラキラと反射している。恐らく、僕の顔は夕焼けに負けないくらい真っ赤に染まっているだろう。こんな美少女に真正面から見つめられて、恥ずかしくないわけがない。……童貞臭いとか思ったやつ出てこいや。
この間にも、彼女は僕の手を握る力を強め、それに比例するように、僕の心臓もキュウっとする感覚が突き抜ける。僕は固まったまま、彼女の美しい姿に釘付けに───
「私たちの、アーティスト部に入らない?」
「………へ?」