エピソードⅠ
エピソードⅠ
ウィンドウを立ち上げ、いつのもページを表示させる。文字だらけの画面から目的のスレッドを探し出してクリックした。やがて表示されたそれにオレは自分の目を疑わずにはいられなかった。
普段通りの、辛気くさいがまったりとした書き込みではなく、本日は荒れ模様だ。オレはその原因を探るべく画面をスクロールさせていく。やがて一つの書き込みが目に入ってきた。
「……なんだァ? 『廃墟案内人』? なんじゃそりゃ」
ネット上に無数に存在する掲示板群。その中の一つ、『廃墟マニアックス』というふざけた名前を冠した掲示板。オレはここの常連だ。それはアホなマニアどもが自らのマニアっぷりを他人に見せびらかすためだけに存在するむなしいツールであるのだが、実は何かと便利だったりする。
インターネットの最大の利点は情報収集が簡単であることだ、オレはそう思っている。たとえばこの掲示板。見知らぬ野郎どもに対して自己主張したい物好きな連中が勝手気ままに様々な情報を書き込んでくれる。オレはただそれらの書き込みを眺めているだけで、行ったことのない土地の詳細すら知ることができるのだ。こんな便利なもの、ほかにはないだろう。
『廃墟マニアックス』の各スレッドを巡回することはオレの日課の一つとなっていた。全国各地に散らばる無数の廃墟。それらを訪れ、体感した記事が多く寄せられる。オレは数多の書き込みを吟味するのだ。オレ自信の欲望のために。
『総合スレNo,105』というスレッドを眺めていた俺の目に、ある書き込みが留まった。その書き込みとはこんなものだった。
『廃墟ツアーに連れて行ってくれる旅行会社がある』
確かに最近は廃墟ブームだ。オレがかつて訪れた各地の廃墟にも同好者らしき人影がいたこともあった。だが、基本的にオレたち廃墟マニアは訪れた廃墟で他人と出会うことを良いと思わない。
その理由とは、自分たちのしている行為があまり誉められたことではないと知っているからだ。いくら荒れ果てていようとも、他人の土地や家屋に勝手に侵入するという、よろしくない行為だからだ。だからオレたちはこっそりと侵入し、自らの欲求が満たされると人知れず帰路につく。そういうものなのだ。
また、これは主に都会の廃墟に多い傾向であるのだが、中には浮浪者が勝手に住み着いている廃墟もある。世間から見放された奴らが見つけた終の棲家、それは今まさに朽ちようとしている建物。まあ、おあつらえ向きと言えばその通りだ。
そんな浮浪者であるが、奴らはなぜか自分たちの縄張りというものを強く意識していることが多い。自らが所有する建物でもないくせにいったいどういう権限があってそんなことを主張できるのか、それはオレたちには決して解らない奴らなりのルールなのだろう。気性の荒い奴なんかは鉄パイプやバットを振り回してくることもある。オレの場合、奴らはオレの姿を見ただけで逃げ出してしまうのだが。百八十センチ、百キロというゴツい体を前にしては、いくら何一つ守るものもない浮浪者といえども足がすくんでしまうのだろう。奴らは自尊心は失っても、恐怖心は無くしてはいないらしい。
ともかく、そんな理由から『廃墟』という特殊すぎる物件を訪れる場合、数人のグループで行く、というのがセオリーとなっている。なのにこの書き込みには『廃墟ツアー』などとある。
正直、信じられたものではない。
そしてこれを見た廃墟マニアのほとんどがオレと同じような感想を持ったようであり、その書き込みに対する返信は大変なことになっていた。
『ウソつけ』、『消えろ』、『氏ね』など、いわゆる「荒れている」状態にある。それらの雑言を受けた書き込み主は新たな投稿をしていた。
『自分はそのツアーに参加したことがある』
この書き込みによって、『総合スレNo,105』は完全にカオスと化した。
ふと見ると、書き込み主の名前を表す箇所にアンダーバーがあることに気がついた。オレは『名無し廃墟さん』という箇所をクリックした。別ウィンドウが立ち上がり、メール画面が表示される。宛先欄にはフリーメールのアドレスがあった。
本来ならば、見知らぬ連中が跋扈している怪しさ満点のネットの世界に自分のメールアドレスをホイホイと載せるものではない。いくらフリーなアドレスでも、むやみに載せる必要などあるはずもない。だがこの書き込み主は剛胆にもアドレスを記載しているではないか。それは自分の書き込んだ情報に対して絶対の自信を持っている。あるいは誹謗中傷なんでもウエルカムというくらいに懐の深い、いや、ド変態野郎である。この二つのどちらかに違いない。
オレはそのアドレスをコピーし、オレのアドレスからメールを送ってみることにした。
『廃墟ツアーの詳細を知りたい』
こういう馬鹿は無視するのが普通だが、オレはほかの奴らと違い、書き込み主を少しいじめてみたくなった。きっと今頃、見知らぬアドレスからメールが届いてビビっていることだろう。ディスプレイの前でビクビクしているやつの姿を想像しながら、オレは密かにほくそ笑んだ。……所詮、ネット上で自己主張する奴らなんて、匿名性が消え去れば何もできないクズばかりだ。こいつも同じ。さっさとこのアドレスを消去しようと頑張っていることだろう。
その時、目の前のディスプレイに『新着メールあり』という表示が出現した。まさかと思い、オレはメールソフトを起動させた。新着メールの差出人は、やはり先ほどオレがコピーしたアドレス。……どうやらやつは自分の情報に絶大なる自信を持っているらしい。
「へっ……、ちょうどいいぜ」オレは誰に向けてでもなく呟いた。
メールを開くと、『廃墟ツアーは本当だ。○○県○○町の駅前商店街の外れにある一件の旅行会社が秘密裏に行っているサービスだ。店主は客が望んだ廃墟に間違いなく連れて行ってくれる』と書かれていた。
……具体的な所在地まで出してきやがった。これはもしかしたら、マジかもしれん。
『あんた、本当に行ったことあるのか?』オレは再度メールを送った。
すぐさま返事が返ってきた。
『実際には私がツアーに参加したわけではない。知人が参加し、詳細を私に教えてくれた。
その旅行会社は表向きは普通の旅行会社で、通常のツアーのプランニングもしてくれる。大手旅行社への橋渡しもしているようだ。だが、希望するものには廃墟へ連れて行く、ということもしているらしい。
店員は女性が一人。大層美人である、とのことだ。ツアーに参加できるのはごく少数人数。そして、これがもっとも重要だが、無事に帰ってくることができる者は少ないらしい』
どういう意味だ? とてつもなく危ない廃墟に連れて行くとでもいうのか。行き先でツアー参加者は忽然と姿を消してしまうとでもいうのだろうか。
『あんたの知り合いは無事に戻ってきたんじゃないのか?』オレは意地悪な返信をする。『一度は、な。だが、数ヶ月後に再びツアーに参加し、そして彼は戻らなかった』
……なんだコイツ。都市伝説でもでっち上げたいのだろうか。どうも現実離れしているシチュエーションだ。
『じゃあ、オレが行って真相を確かてきてやるよ。店の名前、知ってるか?』
数分後、やつからの返信が届いた。
『天城旅行案内所』
……アマギリョコウアンナイジョ? 何とかツーリスト、とかじゃないのか。店員が女一人とあったから、おおかた暇つぶしででもやっている、遊びみたいな会社なのだろう。おそらくは知人の会社を譲り受けたか預かっている程度であり、そのような個人の旅行会社に客などくるはずもない。あまりにも暇なので廃墟好きの男どもを手玉にとり、「いやん、こわ~い」などといってブリっこしている馬鹿な女に違いない。
だが、その女は大層美人である、という。
そのたった一つの希望が、オレにとって大きな意味を持っている。
オレの目的が、欲望がまた一つ、満たされそうだ。
オレの住む土地から新幹線、特急列車、各駅停車の鈍行と乗り継ぎ、半日以上かけてようやく到着した○○県某所。電車から降りる前、オレはあからさまに意気消沈していた。
この二十一世紀に、未だにこんな田舎な場所があったのかというくらいのド田舎だ。といっても、田んぼや畑に囲まれたのどかな田舎町という風情ではない。オレの生まれる前だから詳しいことは知らないが、高度成長期に他の都市に追いつこうと頑張り、しかし途中で開発が頓挫し、そのまま放置されて時だけが過ぎていった街、という様子だ。……いや、ここは時間という万人普遍の事柄からも見放されているのかもしれない。
陰気くさい街。
それがもっともよく当てはまる。
車窓から見える景色は味気のないコンクリの灰色のみ。ネオンも看板もくすんでいる。オレたち都会っ子には耐え難い空気だ。そんな街に、廃墟案内人はいるという。
電車を降り改札を出ようと思ったのだが、当たり前のように自動改札はない。それどころか、改札口に駅員すらいない。なんだここは、乗り降り自由の貧乏人に寛容な駅なのか?
もしもオレがこの街で生まれていたとしたら、たぶん小学生の頃には引っ越したくてたまらなくなっていただろう。いったいここに住んでいるヤツらはどこで遊ぶのだろうか。若い奴らはどうやってエネルギーを発散させているのだろうか。……そもそも若い奴なんていないのか。まあ、どうでもいいことだ。所詮、オレにとっては他人事。
駅前にはタクシー乗り場となっている広場があった。黒だか灰色だかわからない、色あせたタクシーが数台留まっている。運転手は当然のように車内で高いびき、それもすべてのタクシーで、だ。やる気がないのもここまでくれば清々しい。
例の書き込み人からもらった情報によると、駅前から伸びる商店街の外れに『天城旅行案内所』はあるらしい。オレは首を巡らし、商店街らしき通りを探した。
やがてそれらしきものを発見し、オレは目を見張る。
……もしかして、アレか? あれはまるまる、廃墟なんじゃないのか?
見えたのは車一台がやっと通りるくらいの狭い道路の脇にみっちりと店舗らしき建物が並んでいる光景。それらの建物は間違いなく商店なのだが、九割九分の軒先はシャッターが下ろされている。一、二キロメートルは奥行きがありそうな通りだが、見事に人影はなかった。ここまでくれば、ゴーストタウンそのものだ。ゾンビなんかが出てくるよりも、一般人に出くわす確率のほうが低そうに思えてしまう。
とりあえず、オレの求める旅行案内所はこの奥にあるらしい。オレの意志に反して嫌がる足を無理矢理動かし、オレは商店街へと踏み入った。
本当に人影は無かった。陽は傾いてきているものの、まだ活動を終えるには早い時間だ。それとも、ここいらの住人たちは周囲の土地へと仕事に出ているのだろうか。完全なベッドタウンなのだろうか。だが、専業主婦がエコバックをぶら下げている姿も見られないのだ。飛び出すネギも、転げ落ちるリンゴもまったくない。いくら剛胆なオレといえども、背筋がゾクゾクしてくる。正直、気持ち悪い。
オレは知らぬ間に早歩きになっていた。
やがて商店街の外れに出た。と言っても、厳密に外れなのかはわからない。シャッター商店が途切れたのだ。商店街よりも細い道と交わり、その先は小汚い民家らしき建物。
おそらくここが商店街の外れなのだろう。ここまで来る道中、もちろんオレは一軒一軒のシャッターを見て歩いた。だが、どれも旅行会社ではなさそうだった。
「けっ……、やっぱガセネタかよ」オレはツバと台詞を同時に吐き捨てた。
吐き捨てる際に右に振れたオレの顔は一軒の店舗のほうを向いた。これまでと違い、そこはシャッターを下ろしておらず、営業しているようだった。オレは顔を上げてその店を観察する。控えめな磨りガラスの窓から漏れている明かり。ドアには「open」とやる気のなさそうに札がぶら下がっている。確かに何らかの店なのだが、商品を売っているわけではなさそうだ。陳列棚など見当たらない。オレはそのまま顔を上げる。看板があった。『天城旅行案内所』とある。
「マジだったのか……」
窓から漏れる光が一瞬遮られた。どうやら店の主、大層美人な店員はご出勤なされているらしい。オレの下腹部にこの町にはそぐわない熱い欲望がみなぎってきた。
飾りっ気のないドアを一瞥する。果たしてこの先にあるのは天国か、あるいは悪の巣窟か。待ち受けるは女神かクソババァか。妙な期待と不安が混在し、オレの心臓は密かに躍り狂う。
ノブをぎゅっと握り込む。小さく息を整え、オレはドアを開いた。見えたのは何の変哲もないカウンター席と、飾りっ気のない真っ白な壁、そして目を丸くさせている女――とびきり美人の、このクソ田舎のクソ商店街に似つかわしくないほどのいい女だった。
「……あ、いらっしゃいませ」
あまりに唐突な来店だったからか、女は不思議な間を置いて放った。オレは店内を見渡しながらカウンターに近づいた。
右側の壁に大きな棚があった。世界各国の情報誌や、ほかの旅行社のパンフレットなどが並べられている。どうやら大手旅行社との橋渡しをしているというのは本当らしい。
女はにっこりと微笑み、口を開いた。
「ようこそいらっしゃいました。ご旅行ですか?」
「ずいぶん暇そうだな」嫌味っぽく笑んでオレは言う。「ここだけじゃなく、ほかの商店も暇そうだ」
女は口元を押さえ、クスクスと笑った。
「ええ。今ではほとんどの店が閉めてしまい、こちらの商店街に来られるお客様も滅多に見かけません」
「そんなとこで、よく営業してるな」
「……親から受け継いだ店舗ですので。そう簡単には畳めません」
なるほど。どうやら道楽でやっている馬鹿娘ではないようだ。オレの皮肉にも余裕を持って返してくる。肝の据わったいい女だ。……獲物としては、申し分ない。
「ご旅行ですか?」女は微笑みながら首をかしげ、再びオレに聞く。
「ああ。……ここには廃墟ツアーがあるって聞いてね」
女の顔色が変わった。「……どちらでそれを?」
「ネットだよ。ある掲示板で、おたくのツアーに知り合いが参加した、って書き込んだやつがいてね。そいつに問い合わせて、ここのことを知った」
「まぁ……」
再び女の表情が変わる。うっすらと口の端を上げ、細められたまぶたから見える目は妖しい光を放っている。得体の知れない怪物の舌で首筋を舐めあげられたかのように、オレはぞくりと不気味な感覚を覚え、小さく身震いした。
女はスッと立ち上がり、入り口へと向かった。ドアを開け、「open」と掲げられた札を裏返した。傍らにある小さな窓の前に立つと、シャッ、という小気味のよい音を立てながらブラインドを降ろした。……じっと、オレの目を妖しく見据えたままで。
店を外界から遮断すると女はカウンターへと戻った。オレに向き直り、今度は無邪気なガキのような笑顔を見せる。
「久しぶりですわ、ツアーをご希望されるお客様なんて!」女は饒舌に語る。「おもての仕事ばっかりで、実は最近欲求不満だったんですよ。自分のやりたいこともできない仕事だなんて、退屈でしかないですわ」
……こっちがこの女の本性か。オレよりも年上、三十手前かそこそこに見えたが、今オレの目の前ではしゃいでいる女は、どう見ても尻の青いガキだ。頭がかわいそうな女なのかもしれないな。
「おっと、失礼」女は咳払いをしながら襟元を正した。「それでは、こちらのアンケート用紙にご記入ください」
オレは差し出された紙を拾い上げ、読んだ。そこには『どんな廃墟をご希望ですか?』、『あなたにとって廃墟とは?』、『ひと月に何度くらい廃墟に行かれますか?』、『今までどのくらいの廃墟に行かれましたか?』、『思い出に残った廃墟はどこですか?』、などといったわけのわからない項目が記されていた。オレは顔を上げ、女を見た。……ニコニコしながらオレの記入を待っていた。……書かなきゃならないようだ。
「ふぅ……」オレはため息とともに声を出した。「何か書くもの、貸してくれないか」
「ああ、申し訳ありません」がたがたと引き出しをかき回す女。
女が貸してくれたボールペンでオレはアンケートに適当に記入していった。数分で書き終えると、アンケート用紙を女に差し出す。女は用紙をじっくりと読みながら、ぽつぽつと質問してきた。
「……ご希望の廃墟は『ヤバい』場所、ですか。具体的にはどういったところになるのでしょう?」
「たとえば曰く付きの物件だとか、ってこと。以前に殺人があったとか、女を連れ込んでレイプした現場だとか、そういうヤツ」
「つまり、出そうな物件、ということになるのでしょうか?」
「まあ、そうなるな」
「なるほど。あなたは、失礼ながら、ご自身の精神力の強さを確認するために廃墟に訪れておられるのですね」
「ああ。まあ平たく言えば、肝試しってヤツだな」オレは胸を張って言った。
「わたくしも以前、××廃墟は訪れたことがあります。あそこは素敵な物件でした」女は用紙から顔を上げずに言う。
思い出に残った廃墟、という意味不明な質問に対してオレが記入した場所が、××廃墟と呼ばれる物件だった。一昔前のラブホテル廃墟であり、今では見る影もなく朽ちてしまっているが、廃墟マニアや心霊マニアでは有名な物件になっている。数年前、地元不良グループがナンパに失敗した腹いせに、断った女子高生とその友人数名を拉致、連れ込んでさんざん犯し、一人を殺害したという事件の現場になった廃墟だ。逃げおおせた女子高生に通報され、不良グループはすぐさまご用となったらしい。……馬鹿なヤツらだ。ヤるにも美学ってモンがあるだろうに。
「……了解いたしました。それではこちらのアンケートを元にプランニングさせていただきますわ。ツアーの日程ですが、いつ頃がよろしいでしょう?」女は壁にあるカレンダーを見た。
「そうだな、できたらすぐにでも行ってみたいが」
「そうですね……、場所のピックアップなど、しなければならないこともありますので、改めてご連絡させていただきますわ」
「わざわざ遠くから来たんだ。そんなに待たされちゃ困るぜ?」
「ご心配なく。本日中にプランニングし、明日にでも出発できるようにいたしますわ」
「オーケー。じゃあ、それで頼むよ」
「駅前にビジネスホテルがございますので、本日はそちらにお泊まりになっていただくとよろしいかと」
「ああ、そうさせてもらおうか」
「では、こちらの誓約書に署名、捺印をお願いします。ああ、印鑑をお持ちでない場合は拇印でも結構ですよ」
「へえ、『ツアー先で何があっても、当方は一切の責任を負いません』ってか。なかなかちゃっかりしてるじゃねえか」
「フフ……、ただの形式的なものですわ。お客様の命の安全はこのわたくしが保証いたします。……そうですわ。言うまでもないとは思いますが、ツアーには終始、わたくしも同行させていただきますので、あしからず」
「そりゃありがたい。あんたみたいな美人とだったら、どこへだって行ってやるぜ」
「では、本日はホテルでゆっくりとお休みください。明日のお楽しみに備えて……」女はスッと立ち上がった。
「ああ、頼んだぜ」オレも椅子から立ち上がる。「……そうだ。あんた、名前は?」
「失礼しました。わたくし、こういう者です」
女はカードケースから名刺を取り出し、オレに差し出した。名刺には、「天城旅行案内所所長 天城弥美」とあった。
「弥美ちゃんか。可愛らしい名だ」
「……それでは、増岡さま」弥美はそっと目を細めた。「本日中にあなたさまのご希望に添う廃墟を必ず探し出してみせますわ」
ニッと笑う弥美の顔に、またしても不気味な何かが潜んでいる気がした。無邪気な表面の奥に決して触れてはならない闇が存在している。そんな気にさせられた。
だが、オレの肉欲の前には、闇も鬼もなにも関係ない。
この女の闇ごと、オレが喰らい尽くしてやるだけだ。
その日はさっさとホテルにチェックインし、すぐに休んだ。
周辺に居酒屋でもあれば一杯やろうかとも思っていたのだが、目に留まるのはボロボロに朽ち果てた元居酒屋やスナックばかり。これほどまでゴーストタウンと化しているとはにわかには信じ難いが、実際に目の前の景色はその通りなのだから信じるしかない。もしかしたら営業している店もあるのかもしれないが、だとすれば、この地域の酒場は真っ昼間に酒を飲ましてくれる良心的な店、ということになる。いや、夜はやらないのだから不親切極まるのか。
オレもお子ちゃまではないので、いくら何でもこんなに早い時間から簡単に眠ることはできない。なのでオレは仕方なく、自動販売機で缶ビールを数本買い込んでホテルに持ち込んだ。いつ自動販売機に押し込められた商品か判らないビールをたらふく体内に流し込み、翌日への鋭気を養った。
オレが一人寂しく呑んでいると、弥美からオレの携帯に電話が入った。弥美が言うには、場所のピックアップが済んだ、とのことだ。明朝、起床し次第店に来てくれ、とも言われた。あの女の夏に聞こえる涼しげな風鈴のような声を聞いている最中、アルコールでほてったオレの頭の中では弥美が全裸になりポールダンスを踊っている姿が浮かんでいた。いやらしい流し目でオレのことを見つめながら真っ赤な舌でちろりと唇をなめ回す。こんないい女を喰えるだなんて考えると、その先何があっても、もうどうでもいいと思えてくる。
弥美との淫らな夢を見ているうちに朝になり、オレは起床した。欲求はこれでもかと言うくらいに高ぶり、もはや待っていることは不可能だった。数分で身支度を調え、オレはホテルを後にした。
早朝にもかかわらず、商店街は昨夕よりも人通りがあった。と言っても、オレがすれ違ったのは数人なのだが。どいつもこいつも、無気力に、どこへともなく向かって歩いているように見えた。本当にここは生きた街なのだろうか。
天城旅行案内所の前には大きなRV車が駐められていた。オフロード仕様なのか、巨大なタイヤがこの商店街にはイヤに不釣り合いに見える。真っ白なボディはピカピカに磨き上げられ、指紋一つも見当たらない。
まさかこんな朝っぱらから客でも来ているのだろうか。そんなことを思いながら、嫌味な高級車を眺めつつオレは店に入った。
「おはようございます、増岡さま」
オレの姿を確認するなり、弥美はカウンターの奥から極上の笑顔で挨拶してきた。そんな顔を見せられては、昨晩の淫夢がオレの頭の中に生々しく甦ってきてしまうではないか。だが、慌ててはいけない。ここで失敗してしまったら、すべてがパーになる。
「なんだ、客がいるんじゃないのか?」オレはおもてのRV車を親指で指しながら聞いた。
「ああ、あれはわたくしの自家用車ですわ。こういうときは社用車にもなりますが」
「……儲かってるみたいだな」
「なけなしのお金で買った、小汚い中古車ですよ」弥美は小さく笑う。「それでは、早速出発いたしましょう!」
カウンターから立ち上がった弥美の姿を見て、オレは思わず後ずさった。真っ黒な厚手のシャツに、真っ黒なカーゴパンツ、そして真っ黒なコンバットブーツ。
「……驚いたな。ずいぶん本格的じゃないか。元軍隊かなんかなのか?」
「ご冗談を。廃墟を訪れるには当然の格好じゃないですか。わたくしも実は、スーツなどよりもこちらのほうが好みなんです」
弥美は口元を手で隠しながら笑った。その姿は貴婦人なみに優雅なのだが、格好が合っていない。唐突にそのような姿を見せられてオレの欲望もたじろいでしまったが、やはりいい女はいい女。よく見るとこれはこれで素晴らしくある。
コンバット弥美に促され、オレは純白のRVに乗り込んだ。弥美がエンジンをかけると、控えめな排気音が聞こえた。車体に似合わずお上品なエンジンとマフラーだ。ドアに埋め込まれているスピーカーからは緩やかなリズムのジャズが流れていた。これから廃墟なんてロックな場所へ行こうというのに、なんと不釣り合いなのだろうか。この女、やはり狂っているのか。
オレは虫酸が走りそうになるジャズを何とかこらえながら、ただ目的地にさっさとついてくれとだけ祈り続けた。
「……そうですわ、忘れていました!」出発してからしばらく経った頃、突然弥美が声を上げた。「申し訳ありませんが、こちらをご着用くださいます?」
弥美は上体を捻ってオレに何かを手渡そうとした。ハンドルがぶれて危なっかしいので、オレは素早くその物体を受け取った。広げてみると、それはごく普通の、どこにでもあるアイマスクだった。
「……なんだ、これ」
「非常に申し訳ないのですが、わたくしが企画するツアーのルールといたしまして、『廃墟へのルートは秘密にさせていただく』、という決まりを設けさせていただいております。お客様をお連れするにあたり、心苦しいのですが、目隠しをしていただかなければなりません」
「へえ、そうなんだ。……まあいいぜ。オレは一度行った廃墟には二度と行かない主義なんだ。ルートなんて誰にも言わないし、覚える気もねえし」オレはさっさとアイマスクを着用した。
「ご協力に感謝いたします」ジャズに負けず劣らずのしっとりとした弥美の声が耳に入る。
……どうせなら耳栓ももらえないだろうか。言いたかったが、弥美の機嫌を損ねてしまうと後々やっかいそうなのでやめておいた。
そのまま狂おしいほどスローペースなジャズを無理矢理聴かされながら数時間、どこだかわからないが道も通常の道路ではなくなってしばらく経った。本当にトチ狂って発狂しそうになる寸前、RVはなんの前触れも無く唐突に駐められた。
「着きましたわ」ドアを開ける音とともに弥美の声が放たれる。「しばしお待ちください」
馬鹿正直にアイマスクをつけたまま、よく解らない美人の車内に取り残されるオレ。これがある種の放置プレイだと言われればすんなりと受け入れられたかもしれない。もちろんその後にそれなりのご褒美が待っている場合に限るが。
たっぷり数分間、オレは放置されっぱなしだった。
「お待たせいたしました。目隠しを外してもらって結構ですよ」
オレは待ってましたと言わんばかりに目隠しを外した。弥美に手を取られ、車から降りる。そこは木々に覆われ、気持ちの悪い湿度がまとわりつく廃墟群だった。オレたちの立つ目の前には極彩色、と言っても色ははげ落ちているが、汚らしいアーチ状の門がある。建物の名称の名残がかすかに残っているが、正式なものはさっぱり判らない。どうやらモーテルだった場所であることは見て取れる。
これまた色とりどりの廃墟が門の奥にいくつもあった。今は懐かしい、コテージ風のラブホテル。あちこち雑草や樹木に侵略されており、まさに『廃墟』といった趣がある。数時間前までいたゴーストタウンと違い、オレが欲してやまない、おどろおどろしい廃墟そのものだった。
「ほお……!」心の底からため息が漏れる。これほどまでとは思っていなかった。
オレはこの女のことをどこかなめていたことに初めて気がついた。そして考えを改める。こいつは本物だ。本物の、狂った廃墟マニアだ。
もちろん、オレはこんな素晴らしい廃墟など目の当たりにしたことがない。それどころか、ここはネットでも書籍でも見たことはなかった。未開の廃墟、まさにそう思わされる。この女、いったいどこでこの廃墟の情報を入手し、たどり着いたのだろうか。……その才能が、正直言って、羨ましい。
オレは何かに取り憑かれたようにふらふらと足を進めていった。弥美の待つ、門の向こう側へと入り込もうとした。
そして、門の真下の地面に足を踏み降ろしたとき、異変は起きた。
突然、全身の血液が空っぽになったかのような脱力感がオレを襲った。目眩がし、オレはガクリと膝から崩れ落ちた。目玉が勝手にくるくると回り、世界がぐるんぐるん回っている。まるでオレが世界の中心であるかというように。頭蓋骨の中で小人がタップダンスを踊っている。それももの凄いスピードで。ガツンガツンと背骨にリズムが響き渡ってくる。体の表面は汗ばんでいるのになぜか酷く寒く感じる。悪寒が走ると言うのだろうか。
「大丈夫ですか?」
弥美の優しい声が届けられる。オレはどう答えたかわからないが、この女がさほど心配そうにしていないことから、心配ない、とでも答えたに違いない。ちっとも大丈夫じゃない。おかしい。何かがおかしい。
「きっと、山中で車酔いになられたのですね」頭の上で弥美が囁く。「ひどい山道でしたから」
オレは何度か深呼吸を繰り返し、動悸を無理矢理押さえ込んだ。腹にグッと力を込め、気合いで異常を吹き飛ばそうとした。
やがて異変は収まった。ふと顔を上げると、オレの背をさすりながら廃墟に方に意味ありげな視線を向ける弥美の顔が目に映った。この女、なにやら一人でぶつぶつと呟いてやがる。聞き取れはしないが、オレを気遣う言葉でないことは表情から明らかだ。
オレの視線に気づくと弥美は表情を柔らかくし、「大丈夫ですか?」と再度聞いてきた。
「あ、ああ……。大丈夫だ」よろよろと立ち上がりながら声を吐いた。「あんたの言う通り、車に酔ったみたいだ。お上手な運転だったからな」
「まあ、増岡さまったら、ひどいですわ」
にっこりと微笑む弥美の顔の中に、またしても恐ろしいものが潜んでいる気がした。だが、ひるんではいられない。もうこれ以上この女にオレの弱々しい姿なんて見せることはできない。立場的に、生物的に、この女よりも優位に立たねばならないのだ。なぜなら、オレは――。
「では、参りましょう」弥美は立ち上がり、宣言する。
「……」
オレは無言で弥美に続いた。
不思議なことに、先ほど感じた体調の異常はきれいさっぱり消え失せていた。弥美の後を追って門をくぐるとすぐに、だ。まるで門がギロチン台で、その真下だけ苦痛を受けることになるかのように、門からモーテル敷地内に一歩足を踏み入れるだけで苦痛は霧散してしまったのだ。忌々しい病院で血を抜き取られた後のように多少の脱力感は残るものの、それはオレのように血の気の多い男にとって心地よささえもたらす感覚だ。今では体が軽くなったようにも思えてくる。
この廃墟に歓迎されたのだな。
オレの頭は勝手にそんなメルヘンなことを考えた。すぐさまオレの理性が否定する。廃墟が歓迎もクソもない。ここはただの荒れて朽ち果てた物件に過ぎない。過去に何が、どんな陰惨な事件があろうとも、単なるオレの『狩り場』に過ぎないのだ。逆らうならば、オレが調伏させてやる。オレの前にひれ伏せさせてやる。
ふと視線に気づき、弥美を見た。
「……ここでは、妙な気を起こされないほうがよろしいですわよ」
これまでにない、上気した目でオレを射貫きながら弥美がそっと囁いた。
……もしかしてこの女、オレの正体に気づいているのか? だとしたら、なぜわざわざこんな場所へオレを連れてきた? これから自分に何が起こるのか、オレにどんなことをされるのかわかっているのか?
いいだろう。わかっていてなおオレの前を行くということは、オレに勝てる算段があるということだ。オレは抵抗されるのが嫌いではない。そういう女を無理矢理押さえ込む、その時に見せる恐怖と絶望で脅えきった視線、表情、吐息がたまらないのだ。
すぐに化けの皮をはいでやる。全裸に剥いてやる。そうすりゃ、おまえも一匹の女、ケダモノに過ぎないのだから。
オレは弥美の意味深な視線をそっくり見返した。目と目を見つめ合うことで、オレは弥美の心の一端が見えた気がした。
どうぞご自由に。
そう言っている気がしてならなかった。
「こういうホテルとしては、非常に安い価格設定ですね……」真っ赤なコテージの壁にそっと手を這わせ、弥美が言った。「繁盛しなかったのは、やはり立地が悪かったからでしょうか」
山中深くに鎮座するこのモーテル廃墟。オレは目隠しをして連れてこられたために、ここがどれほど人里から離れているのか知るよしもないが、耳を澄ましてみても車の排気音ひとつ聞こえてこない。途中ガタガタと揺れたことを考えても、大きな道から近くないことは明白だ。
「休憩二千五百円に、泊まり四千円か。確かに格安だ」入り口脇の管理棟らしき建物の看板を見上げながら呟く。
利用者はかつてこの管理棟で料金を支払い、コテージの鍵を貸してもらっていたのだろう。これからコトに及ぶというのに、そのシステムは少々恥ずかしいと思えてくる。こんな山奥にまできてヤろうという奴らに、そんなことは関係ないか。
「入ってみましょう」
弥美は赤いコテージのドアに手をかけた。まさか開いているはずないだろうと思っていたのだが、コテージはあっさりと弥美に体を許した。まるでこの女の来訪をあらかじめ知っており、喜び迎えているかのように見えた。仲のよい知り合いの家を訪ねるかのように、弥美はためらいもなく内部に潜入していった。
「……キレイだな」オレは思わず口に出した。
多少風化しているものの、ひどく荒らされた形跡は見られない。
こういった廃墟はすでにクソガキどもによってむちゃくちゃに荒らされていることが少なくない。窓ガラスはほとんどすべてが破壊され、残された様々なものは残らず床にぶちまけられる。目につく金目のものは持ち帰られ、また金目でなくとも「思い出」として取っておけるようなものも強奪される運命にある。壁なども破壊されていることがあるが、それ以上に目につくのが落書きだ。アートぶった落書きだとか、頭の悪そうな卑猥な言葉だとか、なぜか相合い傘なんてのも書かれていたりするのだ。こんな場所にデートで来て、いったい何がしたいのか、オレにはまったく意味不明だ。
しかしここにはそんな落書きが一つも見当たらなかった。
コテージ内は浴室とトイレ、ベッドルームがあった。このコテージは外壁同様、内部も真っ赤っかだ。目が痛くなるくらいの赤で見事に統一されている。ベッドも、カーペットも、シーツも全部。冷蔵庫だって赤色なのだから、ここを作ったやつは、ある意味ぶっ飛んでいると言えるだろう。ここで性の営みに励んだ男女どもは、さぞかし燃え上がったに違いない。
小さな自動販売機が転がっていたため足でひっくり返してみた。大人のおもちゃだったら弥美に見せて辱めてやろうと思ったのだが、それは単なるジュースの自販機だった。……何で部屋にこんなものが設置されていたのか、やっぱりオレにはよくわからない。
赤いコテージ内部をあらかた観察し終えたオレはとっとと次に行こうと思い、弥美を見た。弥美はベッドに熱い視線を送っていた。
……この女、モーテルの門をくぐってからというもの、やはり様子が変わっている。口にする言葉や仕草は相変わらずなのだが、発する雰囲気は別物だ。神経を張り巡らせ、何かに集中している。……いや、これはむしろ、何かに取り憑かれていると言ったほうが近いかもしれない。旅行案内所で見せたガキのような笑顔なんて、もはや一切見せようとはしない。熱のこもった瞳でジッと見据え、つり上げた口の端から小さく舌なめずりする。そんなイメージが容易に浮かんでくる。かつてこの深紅のベッド上で繰り広げられた淫靡なひとときを想像しているなら可愛らしいものだが、そのさらに奥のかみ殺した欲望を想像し、自らを昂ぶらせているかに見えてしまう。
オレの視線に気づくと、弥美はゆっくりと首を巡らし、オレに顔を向けた。逆光で表情は読み取れないのに、青白い眼光だけはひどくはっきりと見えた。
「次へ参りましょうか」
オレは無言で弥美に従う。
赤いコテージの隣は、和風だか中華風だかの宮殿、あるいは神社のようなイメージだ。赤と白のコントラストがかつてはまぶしく見えたのだろう。王族プレイなんてものがあるのならば、こういった場所でヤるべきだ。
オレは苦笑いでコテージを眺めた。
「……お入りにならないのですか?」弥美が訝ってくる。
「いや、これはちょっと下品すぎるな」
どうせ中には天蓋付きのベッドなどがあるのだろう。そんなの、さすがにオレの趣味ではないので遠慮させていただく。
「ここは今から約二十年前に開業しました」
コテージとコテージの間を伸びる小道を歩いていると、唐突に弥美が語り始めた。
「初めのうちはいくらか客足も伸びていたようなのですが、やはりなにぶん不便だったのでしょう、数年で営業を辞めてしまいました。それからは若者たちの遊び場として密かに賑わっていたのですが、やがて彼らも飽きてしまい、すぐに寄りつかなくなりました」
「まあこんな場所じゃ、ガキどもが来るには荷が重いだろうな。登山家のカップルでもない限り無理だ」
オレの言葉を無視し、弥美は続ける。
「……ひとが訪れなくなった後は、悠久の時間とともにこのモーテルは滅びゆくはずでした。ですが、あるとき事件が起きてしまった」
「事件?」
「ええ。今から約五年前のある日、二十代の男性二人がこの場所に女性の死体を遺棄するという事件が起きたのです。男性のうちの一人、彼は交際していた女性と口論になり、勢い余って殺害してしまった。友人であるもう一人の男性に助けを求めると、車で女性をこの場所まで運び、すでにひとが寄りつかなくなったのをいいことに、事件を隠滅しようと試みたのです」
「おお、なんか聞いたことある事件だな。確か、女を殺した野郎は狂って自殺して、手伝ったヤツは妙な交通事故で死んだ、ってやつだよな?」
「その通りです」弥美は流し目でオレを見上げた。
オレたち廃墟マニア、特にオレのようなある種危険な廃墟が好きな連中は、そこで起こった事故や事件について結構詳しいものだ。殊更心霊好きの廃墟マニアなんかは、一家心中があった場所や、殺人、自殺など、ひとが死んでいることが廃墟に求める第一条件だったりする。よってこういった廃墟がらみの事件には常にアンテナを張っているのだ。
この事件もマニアの間では、いや、マニアでなくとも有名な話だ。廃墟はともかく、その後に事件を起こした犯人二人が相次いで死んでいるのだ。世間が騒がないわけがない、スキャンダラスな事件だったのだ。
直接女を殺害した男は、許してくれ、許してくれ、と何度も言いながら発狂していき、やがて自転車でトップスピードのままどこかの壁に激突死したというし、もう一人の男は、歩いているときに車に追突され、その車のフロント、そしてもう一台の荷台部分に挟まれて圧死したらしい。
「あれの事件現場がここだったのか」改めてあたりを見回す。「だとすれば、ほかのマニアどもにたっぷりと自慢できるぜ。……だが、あの事件は男二人が変死しているが、確か決定的な証拠が無いとかで無罪判決が出てたんじゃなかったか? なんでここだとわかる?」
「わたくしはこの廃墟ツアーのコンダクターですから。あらゆるお客様のニーズにお応えするため、様々な物件をご用意しております。もちろん背後関係も徹底的に調べます。この物件に関しても、周辺にお住まいの皆様への取材、過去の文献の参照などにより、わたくしの独自な見解ですが、件の事件現場であることに間違いはないと確信しております」
弥美は含みのある笑みを見せる。説明はもっともだが、どこかわざとらしくも聞こえた。もっと、何か本能的な、例の事件がこの女と密接な関係を持っている、そんな気がする。
「あんた、まさか事件の関係者かなにかなのか?」
「いいえ、わたくしはただの添乗員ですわ」弥美はフフフと小さく片笑む。「それは冗談として、本当は、取材した方の中に被害者のご姉弟がおられたのですよ。その方から詳しくお聞かせいただいたのです」
……これもウソだな。オレはすぐに気がついた。だが、どれほど掘り下げてもこの女ははぐらかしてくるだろう。いったいどういうルートがあるのか想像もつかないが、そういう面に大層通じている女であることは間違いない。
情報をマニアに売れば結構稼げることだろう。
「遺体はモーテルのもっとも奥にある、他よりも少しばかり大きなコテージのベッドの上に遺棄したとのことです。ご覧になられますか?」
「ああ、もちろんだ」
「フフ……、それでは参りましょうか」
廃墟で女を押し倒す時、オレはいつも場所をよく考えてから実行する。街で引っかけた馬鹿女は、廃墟に行こう、と言うとすぐに嬉しそうな顔をしやがる。『廃墟』というものを危ない場所と理解し、なおかつそんな場所に行きたがる自分を危険な女だと思わせたがっていることなどすぐに気づく。だがそんな馬鹿女どもは、実際の廃墟を目の当たりにすると豹変する。「やだ、怖い」、「気味が悪いわ」、「やっぱりあたし、帰る」とかなんとか。だがオレはそんな女の手を無理矢理引っ張り、廃墟内を探索して回る。「大丈夫さ、オレがついてるだろう?」などと思わず吹き出してしまいそうな台詞を吐きながら、だ。女はすでに逃げ道も失い、オレという唯一の存在を頼ってくる。やがて廃墟が怖くもなんともない場所であると気づくと、今度は調子に乗ってはしゃいでくる。オレも同じように楽しんでいることを装いながら、じっくりと場所を吟味してゆく。
オレが場所として選ぶのは、その廃墟のもっとも穢れた地点だ。つまり過去において何らかの事件があったのならばその事件現場、死体が発見されたのならば死体のあったその場所。廃墟の他のどの場所よりも不気味な場所、それがオレの求める快楽の場であるのだ。
ほとんどの女はオレに犯されることを承知でついてくる。だが、それは安ホテルだったり、もしくは車内や最悪でも山中であると考えている。廃墟へ行くのはその後安全な場所でイチャついている時に、「あの時怖かったね」などという話題作りのためだと考えている。まさか廃墟内で組み敷かれるとは、微塵も考えていない。
だからこそ、オレが見極めたその場所で無理矢理押さえ込むと、これまでの女どもはすべてカッと目を見開き口の端を引きつらせた。「う、嘘でしょ。こんなとこで……」と声にならない悲鳴を漏らしてゆく。それでもコトが始まると、女は場所なんてどうでもよくなってしまうようだ。死にものぐるいで抵抗しないことがその証明だ。イヤなら何とでも逃げることができるはずなのだから。だが単純に足をバタつかせ手を振り回すくらいで、必死の形相ではない。仮面を剥いだ本性での逃避行道を執っていない。そうなるとオレはおもしろくない。絶望しない女とヤっても、何の意味も価値もない。
やがて女がノってくると、オレは最後の仕上げに入る。女を絶望の淵に落とすため、オレは泣く泣く最後の仕事に移るのだ。
喘ぐ女の首元に手をやり、少しずつ力を込めてゆく。
女がオレの行為に気づいた時には、すでに抵抗する余地はなくなっている。首を絞める力がそのままオレのペニスに伝わるかのように、女は収縮し、そして絶頂へ達するのだ。
絶頂と死を同時に迎えるというのは、いったいどれくらいの快楽なのだろうか。一生に一度しか味わえないのだから、それはとてつもなく大きな波に違いないだろう。きっと、死すらも甘く愛おしく思えるくらいの快楽なはずだ。オレは女どもにその巨大な快楽を与えてやるのだ。
その感覚が、神にも近づいたと思える陶酔が、オレにとって何よりの快楽であるのだ。絶望と快感という、相反する二つの感覚を同時に与えるという行為がオレにとって何よりも重要であるのだ。
オレの目の前にいる、この女。天城弥美とかいう女。
妙な女だが、そうはいないいい女であることは間違いない。オレがいわゆる異常快楽殺人者であると気づいているのかもしれないが、そんなことに気がついても、もはやどうこうなる場所ではないのだ。
廃墟は言わば、オレのテリトリーなのだから。
助けを呼んでも、聞こえる距離には誰もいない。逃げようとしても足場が悪く、そう素早くは移動できない。
蜘蛛の巣に引っかかってしまった哀れな蝶のように、後は蜘蛛であるオレに命運を任せるしかないのだ。
何を企んでいても、自分のほうが優位な立場にいると思っていても、すべては無駄なのだ。
オレに身を任せれば、快楽のうちに逝ける。
モーテルの最奥部には赤煉瓦造りの一回り大きなコテージが建っていた。雑草を踏み分けオレたちは近づいてゆく。
コテージの入り口に立ち、弥美が振り向いてオレを見る。「……こちらが先ほどご説明差し上げた、死体遺棄現場となったコテージになります」言いながら扉を開けた。
封印されたままになっていた空気がオレたちを覆い尽くしてくる。ムッとした独特の臭気。カビと埃のにおいに混じり、陰惨で生々しい腐臭が漂っている気にさせられる。いや、確実にそれは当時そのもののにおいだ。空気に刻み込まれた死体の記憶がオレたちに女の怨みを投げかけてくるのだ。
オレは大きく深呼吸をした。
これほどまで新鮮な死のにおいを味わえるなど、そんなチャンスは滅多にないのだから。
「いかがです?」弥美がオレに聞く。「お気に召されましたでしょうか」
「ああ、素晴らしい」
弥美を待たず、オレは一歩、コテージに足を踏み入れた。強烈な拒絶――出て行けという意志があからさまにたたきつけられる。ここはオレの居場所ではない。すべてが現実とは違う世界。
敵意むき出しの室内へ無理矢理上がり込んでいく。女を陵辱するときのように、土足で踏みにじってゆく。
「……ふう」
オレに続いて入ってきた弥美も、内部の空気を楽しむように深呼吸をした。
「ここの空気は当時そのもの。事件後、捜査が終了してから何人たりとも踏み入ってはおりませんわ。実に素敵……」
「その通り、素敵な場所だ」
これまでのコテージと違い、さらに大きくて下品な浴室、ゴージャスなソファが二脚とテレビ台の残るリビング、広々としたトイレ、そして鏡の屏風で覆い囲まれている丸い回転ベッドのあるベッドルーム。これまで同様安っぽい豪華さだが、上乗せして下品さが色濃くにじみ出ている。
きっと男二人に捨てられた女は、この回転ベッドの上に横たわっていたのだろう。周囲を取り囲む鏡に己の死に様をまざまざと写しだし、息絶えた目にその光景を見たに違いない。目を背けようと顔を巡らしても、そこは鏡に囲まれた無限地獄。写るはすべて自身の死に姿だけなのだから。
まさしく、ここはオレが廃墟に求める姿そのものだ。死人のにおいが芳醇に漂う、忌まわしき現場に他ならない。
……お楽しみは取っておこう。オレはとりあえず他の部屋を見て回る。
リビングから玄関口を見る。女を捨てた男らは脅えながらこの扉から出て行ったのだろうか。それとも肩の荷が降りたとでも言わんばかりに、足取り軽やかに発ったのだろうか。
トイレを正面に見る。女を殺してしまった恐怖に駆られ、男はここで吐いたかもしれない。
広々としたバスルームに立った。殺害してしまった事実、遺体に触れてしまった感触を洗い流そうと、何度も何度も手を洗ったのだろうか。返り血を落とすべく身を清めたのかもしれないな。
リビングのソファに座る。不安を払拭するために、罪を分かち合うために呼び出された男はここで何を見、思ったのだろう。二人の男がこの二脚のソファに腰掛け、これからのことについて口裏を合わせようと画策している姿が脳裏に浮かんだ。弱々しく背を曲げ、憔悴しきっているが、殺人を犯してしまったことへの罪悪よりも自らの保身が表立っているようだ。……人間、誰しも自分が一番可愛いということなんだろう。
ベッドルームに戻った。
深紅のコテージの時と同様、弥美はベッドに熱視線を送っていた。
オレは弥美の背後へそっと忍び寄ってゆく。毛足がつぶれている絨毯をゆっくりと踏みしめ、なるべく気づかせるのを遅らせるようにじっくりと近寄ってゆく。
弥美の余裕に満ちた表情が脆くも崩れ落ちてゆく姿が目に浮かぶ。その光景はオレをこれでもかとばかりに昂ぶらせ、ワクワクさせていく。
鼻息が荒くなるのを強制的に押さえ込む。動悸が速くなるのを黙らせる。
呼吸をすることすら休止し、オレは馬鹿な女を喰らうべく手を伸ばしてゆく。
オレが近づくのを気取ったのか、弥美は振り向こうとした。その瞬間、両手を力強く突きだした。
「きゃっ」
弥美はか細い悲鳴とともにベッドに崩れ落ちた。肩からマットレスに突っ伏し、すぐさまオレに立ち向かうかのように仰向けになった。
「……」
閉じていた目をうっすらと開け、何も言わずにじっとオレを見る。散った黒髪が嫌に艶めかしい。
そして――。
そして、弥美は嗤った。薄気味悪く、口を歪めていた。
……なんだ、やはりこいつ、オレのことなんて何も知らなかったんだな。こいつも他の馬鹿女同様、オレにヤられるためにノコノコ出てきやがったんだ。廃墟ツアーとかなんとかいって、結局はこういう場所でヤることが目的なだけだったんだ。
……好き者の雌豚め。
だが、それなら大いに楽しませてやろうじゃないか。人生で最大にして最後の快感を授けてやろうではないか。薄汚れた淫売め、おまえの望む快楽を与えてやろうじゃないか。死という代償によって。
オレは身じろぎひとつしようとしない弥美に迫り、ベッドによじ登った。弥美の腰をまたぐように膝を置いた。オレを受け入れようとしている目の前の女に現実を見せるべく、顔の両脇に諸手をついた。
「……抵抗しないんだな」
「……」
弥美は何も言わない。ただうっすらと笑むばかりだった。
オレは一度上体を起こし、弥美を見下ろした。本当に死んでしまったかのように、びくともしない。……だが、強がりはここまでだ。
シャツの首元をひっつかみ左右に引き裂いた。ボタンがはじけ飛んで上着が派手にはだけ、弥美の真っ白な肌、下着に包まれた乳房が露出した。……どうだ、恥ずかしいだろう。
それでも弥美は嗤うことをやめなかった。それどころか、小さく肩を引きつらせていた。
「……ふ……ふふ……ふ」
「何が可笑しい?」
「ふふ……」
細められた隙間からかすかにのぞいているその目は、これっぽっちも絶望していない。ましてやオレを受け入れることを了解したわけでもない。ただ単純に、自分のほうが優位であることを確信している。
……ふざけやがって。マウント取られてなにを余裕ぶってやがる。もう少しおしおきが必要だな。
オレは弥美の左の乳房に手を伸ばしていった。
しかし、下着の上にオレの手が触れようとした瞬間、オレの手は止まった。止められた。
「……?」
手の先に集中し、さっさと触れろと命令する。だがその指令はどこかで遮断されてしまった。まるでオレの右腕が誰か他のやつのものであるかのように言うことを聞かない。
「あ……な、ん……」
それどころか、声も出せなかった。いや、腕や声だけではない。
体のあらゆる部分がオレの意志に反して動こうとしない。目も、口も、足も、指先も、ペニスでさえも、オレの神経から切り離され、一切の命令を遂行しようとしてくれない。
――金縛りってヤツか
「うふふふふふ……」オレの下にいる弥美が薄ら嗤う。
なんだ、おまえがやっているのか
「いいえ、わたくしではありませんわ」
馬鹿な……、心霊現象だとでもいうのか? あり得ない。そんなもの、断じて存在するはずがない!
「……幽霊の仕業、ではないと思います」
なんだと? じゃあ、いったいこれはなんだと言うんだ おまえ、オレに何をした
「ですから、わたくしではない、と申し上げているじゃありませんか」
眼球にありったけの力を込めた。ギギギという気持ちの悪い感触とともに、オレの目は弥美に留まった。あごを引いて、不気味な笑顔のままオレを見ている。下からオレを、オレのことを見上げているくせに、まるで見下されているような感覚に駆られる。ちくしょう、何がどうなってやがる。
「……言いましたでしょう?」
な、何を……?
「ここでは、妙な気を起こされないほうがよろしいです、と」
「さきほど、わたくしはあなたに一つ、ウソをついてしまいました」オレの股ぐらから這い出ながら弥美が言う。「ここであった事件についてですが、わたくしは特に当事者からなにも聞いてはおりません。被害者のご姉弟とも会っておりませんし、近隣の方々からお話を聞いたわけでもないのです」
「く……お……」
声を出そうとするが、どうしても出てこない。呼吸はオレの意志とは無関係に働いているように思える。眼球だけが、ほんのかすかではあるが、動かすことができる。体が見えない何者かに乗っ取られた、いや、雁字搦めにされている。物理的な力ではないなにかによって羽交い締めにされている。
「ど………い」
「どういう意味だ、ですか? ふふ、単純なことですよ。記録を見たのです」
馬鹿な、あり得ない。一般人が見ることのできる情報なんてたかがしれている。そのくらいならすぐにネットに出回り、オレの目にも留まるはずだ。
「いえ、『見た』というのにも語弊がありますね。どう言えばいいでしょうか」
弥美はあごに手をやり、考え込んでいる様子を見せる。はだけた上着を正そうともせず、下着が露出していることなど気づいてもいないかのようだ。
「そうですわ、これが一番近い表現でしょう。『ここの空気が教えてくれた』。申し訳ありませんが、これ以上のよい言葉がわたくしの中にはございませんので、どうかご理解くださいね」
体勢を変え、四つん這いになった弥美はオレの頭の下に顔をもってきて、熱のこもった瞳をオレに向けた。オレの右ほおにそっと左手を這わせてゆく。ひんやりとした感覚に思わず体をビクリと震えさせた。が、それはオレの頭の中だけの感覚であり、実際は微塵も動くことができないでいる。
「わたくしはどういうわけか、廃墟の記憶を見ることができるのです」舌なめずりをしながら弥美は言う。「あなたのこともよく存じ上げておりますのよ。こちらの廃墟が子細を語ってくれましたから」
動けないオレを尻目に、弥美はそっと体を離すとベッドから降りた。オレはしわくちゃでカビの生えたシーツだけをただ見つめることしかできない。
「『廃墟』というものは、全国あちこちに存在しています。それは人々から見放され、嫌われていった建物の残渣、死骸。
ですが、彼らは人々が寄りつかなくなっても決して『死んだ』わけではないのです。いつかまた、建物としての本分を全うできる日が来ると信じ、その時をじっと待ち続けているのです。
……あなたがかつて訪れた廃墟が、こちらの廃墟に情報を与えてくれていますわ」
気配だけが伝わってくる。弥美はオレの背後でくるくると回っているらしい。ダンスでも踊るかのように。……狂ってやがる。
「あなたはこれまで、廃墟に女性を連れ込んで乱暴するという事件を幾度となく起こしてきたのですね。……まあ、そんなにたくさん。中には女性を殺害したこともあるそうではないですか。ふふ……、結構なご趣味ですわ」
くそ、この女、やっぱり初めからわかっていやがったのか。
「いいえ、今現在、教えてもらっているところなのですよ」
ふざけんじゃねえ。きっとここへの道中、オレが寝入っている隙に一服盛りやがったに違いない。オレが体を動かせなくなるような薬を飲ませたに違いない。
「あら、そんなひどいことはいたしませんよ、わたくしは」薄気味悪い弥美の笑い声が背後に迫る。「わたくしはあくまでも、あなたをこの地にご案内差し上げただけ」
弥美は両手を大きく広げた。
「ここはあなたが望んだ廃墟。そう、『ヤバい廃墟』ですわ。『ヤバい』、すなわち生命にとってもっとも危険な場所。それはすべての命に共通、つまり『捕食者』が間近にいるところ」
ちくしょう、オレをどうする気だっ?
「わたくしは、あなたが犯してきた罪を特にどうこう言う気はございません。たとえば警察に通報するだとかいうつもりもまったくありませんわ。正直に申し上げますと、そのような些細なこと、興味がないのです。あなたがこれまでにどれだけの女性を犯そうが、殺そうが、それはあなたという世界の中の出来事でしかありません。そして、わたくしにはわたくしの世界がある。それだけのことなのですよ。
……あなたはここを自らのテリトリーと思っていらっしゃるようですが、それは大きな間違いです。ここはお口の中。大きな大きなケダモノのお口の中」
弥美の生暖かい息が耳にかかる。ぞくりとした甘美な感覚は、果たして実際にオレが感じている感触なのか。
「……『廃墟』という存在は、どうも大層お腹がすくそうなのです。彼らは常に、エサを欲している。わたくしは彼らにエサを与えてあげる――言わば飼育人ですわね」
……エサ、だと?
「ええ、お食事。わたくしたちと彼らとではまたちょっと違うのですが、それは紛れもなく『お食事』ですわ。生きるための糧、生命維持のためのエネルギー、本能的な欲求。
……先ほどからあなたが体を動かせないという事実、これはすでに彼らが捕食の体勢に入っているからなのです。後はわたくしが一言許可の合図を与えるだけで、彼らはあなたを食べます。……ああ、おあずけが長くなってしまいましたね。待ち遠しくて仕方ないようですわ」
弥美の言葉に同期するように地面が揺れた。オレは必死になって目を巡らせる。そして、あり得ないものを見た。
壁が波打っている。うねうねと、まるで消化器官が食物を嚥下していく時のように、グニャグニャと蠢いている。壁だけではない、天井も同じようにうねっている。
天井からぶら下がるシャンデリアがうねりで左右に振れている。だが、ガラス玉一つ一つが不規則に動いていた。物理的な法則を無視した、それぞれが意志を持っているかのような動きだ。多眼のバケモノが獲物を探し求めるかのように、きょろきょろと、あたりを見定めている。
ベッドの表面が跳ね回り、オレは中央へと追いやられた。シーツがばりばりと裂けてオレの四肢に絡みついてくる。回転ベッドの中央でオレは磔にされてしまった。
「おおお! おおお」
口から出るのは意味を成さない咆吼のみ。恐怖と困惑から、意志とは無関係に涙があふれている感触がある。鼻水もよだれも、尿すらも。ありとあらゆる場所が助かろうと藻掻き苦しむ。
「ご安心ください。『食べる』と言いましても、大きな怪獣があなたをくわえ込んで、牙でかみ砕く、などということはありませんから。彼らの欲しているのはあなたの中にあるエネルギーだけなのです。あなたのたくましすぎる下半身に宿る、飽くなきリビドーだけなのです。……苦痛は伴いません。わたくしは体験したことがないので何とも言えませんが、もしかしたら最上級の快楽をもたらしてくれるかもしれませんわ! あなたがこれまで女性たちに与えようとしてきた快楽よりも、もっともっと安全で、なおかつ比べものにならないほどに気持ちの良い……」
不規則に動いていた波紋が収束し、一点に向かっていった。オレの足下に立ち、ぞっとするほどの悦楽の顔を浮かべている弥美に集まっていく。
「大丈夫、死ぬことはないですから。どうかそんなに恐怖に脅えたお顔はおやめください。そんな顔で見つめられるとわたくし、感じてしまいますわ……」
弥美は陶酔しきった顔でオレを眺めている。
くそ! くそ! だれか、助けてくれ! ここは異常だ。ここは狂っている!
「うふふふ。だからこそ、気持ちが良いのではないですか。さあ、あなたの大好きな廃墟とともに、狂おしい世界へと旅立ってくださいませ」
「おおおおおお」
「……いいわ、お食べ」死刑を宣告するかのように、弥美が放った。
ひときわ大きく壁が波打った。弥美を中心に収束していた波紋は逆向きの波となり、床から壁を伝い、天井の一点へと集まってくる――オレの顔の真上だ。波の中心点にぽっかりと穴が穿たれ、すぐさま大きく左右に伸びて亀裂が走る。それが口であるということはすぐに理解できた。閉ざされていた口はやがてぱっくりと開かれる。奥は何もない、暗黒が広がっていた。その暗黒から褐色の不透明な液体がだらだらと垂れ落ちてきて、オレの体に広がった。酸っぱい腐臭のようなにおいが立ち上ってくる。長年留まっていた廃墟の空気など比較できないほどのにおいを放つ、汚染された毒液。バケモノの唾液に違いない。
逃れようと左右に藻掻くが、シーツの枷は決してオレを放そうとはしなかった。
「があああああ!」
藻掻くたびに唾液がオレの体にまとわりつく。付着した場所からは糸を引き、それは空気に触れるとすぐさま硬化しているようだった。数カ所だけだった唾液の糸は数十カ所、瞬く間に数千カ所へとおよび、やがてオレの体を覆い尽くしてしまった。顔だけを除いて。
見開いた目で、直上の巨大な穴を見た。
ふざけんな、喰えるものなら喰ってみやがれっ
オレの敵意を感じ取ったのか、暗黒でしかなかったバケモノの口の中に、突然無数の牙が現れた。ぬらぬらと褐色の液体にまみれた、何万もの鋭い牙がオレに向けられる。
そして、波紋がぴたりと動きを止めた。
一瞬の間の後、グンと天井が落ちてきた。
すべてが真っ暗になった。
揺れている。
振動している。
ガタガタ、ガタガタ……。
これは……、そう。車の中だ。
うっすらと霞が晴れてゆく頭の中に、ゆったりとしたリズムの音楽が聞こえてくる。控えめなメロディーの中、時としてたたきつけられる鍵盤の音。不整脈のようなピアノの音。狂ったリズムを無理矢理整える、生態モニターのように正確なベースライン。金属同士がこすれあい発生する不快音のようなドラムスの音。
車内にはジャズが流れているようだ。
……近い過去に同じ音楽を聴いたことがあるような気がする。習慣的に聞いていたのだろうか。ダメだ、思い出せない。
霞が晴れてさっぱりした頭の中には、なにも残っていない。
ここがどこなのか、自分が誰なのか、誰の車に乗せられどこへと向かっているのか。
さっぱり解らない。
「……あ、気づかれました?」
女の声が聞こえ、オレは視線を移した。美しい女がハンドルを握り、オレに心配そうな顔を向けている。
……誰だ?
「増岡さま、大丈夫ですか?」
「……え?」
増岡? それはオレの名なのか? そうだという感覚も、違和感も、なにも感じない。
「あなたは目的地に着くと、門の手前で突然気分が悪いとおっしゃった。わたくしは万一を考え、ツアーの中止を訴えたのですが、あなたは行くと言ってきかない。でも、やはりあなたは動くことなどできなかった。立ち上がることすら困難な状況でした。わたくしは不覚にも応急手当のできる手段を用意していませんでした。どうすることもできず右往左往しているうち、あなたは気を失ってしまった。ですから仕方なく、こうして車内に戻らせていただき、一時帰還しようとしているわけなのです」
女はスラスラと言葉をはき出した。
「申し訳ありません。こんなことではわたくし、コンダクター失格ですわね……」
女は悲しげにうつむいた。
オレは女の顔に目を向ける。悲しんでいる姿を見せているが目の奥にひた隠しにされた不自然な感情が見えた気がした。
……何だ? この女、なにを喜んでいるのだ?
首を動かそうとした。だが、思うように力が入らない。痛みなどはまったくない。ただ、筋肉が働くことを諦めてしまったかのような脱力感だけがある。オレはゆっくりと首を巡らせ、窓を見た。
外は真っ暗だった。街灯も何もない、荒れた森の中の道を走っている。
オレはそっと手を持ち上げ、見た。しぼみきった、骨と皮だけの筋張った右手。
……これがオレの手、だったか?
雲間から青白い月が顔を見せた。月の光に照らされたオレの顔が窓ガラスに写り、鏡のように見える。
……鏡。
唐突にフラッシュバックするイメージ。鏡に覆い尽くされた空間の中、横たわる女の死体。無限鏡に映し出された幾千もの死体。右も左も、見えるのは女の死体、自分の死体。
窓ガラスに写った自分の顔を見た。
「……なあ」かすれて消え入りそうな声を漏らす。
楽しそうに運転をしている女はオレの声を聞き、はい? と聞き返す。
「オレ、こんな顔だったかな……?」
「まあ」女は小さく吹きこぼした。「増岡さまったら、ほんとにご冗談ばっかり。わたくし、笑わされてばかりですわ」
「……」
鏡に映るオレの顔の少し奥に、女の顔が写った。
「増岡さまは、ずっと以前からお変わりありませんわ。失礼ですが、ひどく虚弱に見えます。そのようなお体でツアーに申し込まれるのは、やはり無理があったのでしょう」
「そう……か」
窓の外にいる顔は、ほおの肉が削れ、目もくぼんでしまい、かさかさの肌で、唇はあちこちひび割れ、夜叉のように白髪の男だった。無気力な目は何も映し出していないように見える。
これではまるで……。
「浮浪者だな……」
それが自分の顔であると理解してもなお、オレの頭には何の感慨も浮かんでこなかった。
それからどういうルートを辿ったのか覚えていないが、人気のない、まるで『廃墟』のような街の一角、おそらくは商店街の一端らしき場所で女は車を駐めた。
下車するように促され、オレはふらふらと地面に足をつける。
目の前にある店舗を見上げると、小さな看板が目に入ってきた。
『天城旅行案内所』、とある。
「アマギ……天城、弥美……」
女がすっとオレの傍らに寄ってくる。ぺこりと頭を下げ、慇懃に言った。
「増岡さま、これにてツアーは終了となります。我が『天城旅行案内所』をご利用いただき、誠にありがとうございました」
女は顔を上げ、にっこりとオレに微笑みかける。オレはうつろな目で女を見返した。
「それでは、またのご利用をお待ちしております」