第八章
高宮邸から山を下って行き、横道に入ると、開けた草原がある。
今は季節が冬なので地面も寂しいが、春になれば草の生い茂る美しい場所だ。
そこに、2人の少女がいた。
「ねえ、くるりちゃん」
「ん? どうしたの? ユア」
くるりと呼ばれた少女は、頭の高い位置でポニーテールを結っている、背は小さいが活発そうな少女だった。Bよりは年上だろうが、まだ幼い。髪の色素が薄く、銀髪のようだった。
もう一人のユアという少女は、くるりよりもいくつか年上のようで、背も高く、顔立ちも大人びていた。茶色っぽいセミロングの髪が、彼女をより落ち着いた雰囲気に見せている。
「あの子……なんだろうね」
ユアが、そっと遠くの木の影を指さす。
「ん? 誰って……わっ! なにあの子!」
くるりが、ユアの指さした木の影を見て驚く。
そこにいたのは、手に動物の人形をはめた、メイド服姿の少女だった。
メイド服の少女は、何をするでもなく、ただじっと、くるりとユアを見つめている。
くるりが驚くのも無理もないだろう。メイド服を着て、手に猫とカエルの人形をはめた幼い少女が山の中にいれば、普通は驚く。
「迷子……かなあ?」
「屋敷の子かな? おーい! こっち来なよー!」
くるりがBを呼ぶと、Bは無警戒に走り寄っていった。走ってはいるのだが、遅い。とてとてと、いかにも鈍そうな動きだった。
そして、くるりの目の前に来た所で、転んだ。
「……お?」
何かにつまずいたわけではない。特に何もない所で転んだ。
「ええ……なんで……?」
「だ……大丈夫?」
くるりとユアが、心配してBに駆け寄る。Bはこくこくとうなずき、大丈夫だと伝えた。
くるりがBを立たせると、ユアと2人でBの服についた汚れをはらった。
「怪我、してない?」
ユアがBにたずねると、Bはふたたび、首を縦に振った。
幸い、地面は土で草も生えていたので、たいした怪我はしていない。メイド服がロングスカートだったので、膝も擦りむいていない。
ただ、地面に手を付いた時、人形が汚れてしまった。
「あーあ。お人形、汚れちゃったね」
くるりが人形についた汚れを落とそうとして触った瞬間だった。
「にゃー」
人形が鳴いた。Bではない。人形が、猫の声を出して鳴いた。
「わっ! 鳴いた!」
くるりが驚いて手を引く。猫は、また黙り込んだ。
くるりは、「あー、びっくりした」と胸を押さえている。
一方でユアは、たいして驚くこともなく、ただ感心していた。
「すごいね。喋るお人形なの? こっちは、カエルさん?」
「げろげろ……にゃー」
「げろげろちゃんと、にゃーちゃん?」
「……お?」
「お人形さん、可愛いね」
ユアはにこにこと笑いながら、根気強く話をしている。小さい子が相手なのだから、意思疎通が難しいのはしょうがないと思っているのだろう。
Bも、どうやら人形を褒められたことはわかったらしく、少し機嫌が良い。
「……ん」
Bが人形をユアに差し出した。触ってもいいよ、ということだ。
「触ってもいいの?」
Bがこくこくと、首を縦に振る。
ユアが人形を撫でると、今度は何も言わなかった。
「くるりも! くるりも触る!」
くるりが、もう一度撫でようとして猫に手を伸ばす。
今度は鳴かなかったが、猫がくるりの手を噛んだ。
「いったぁーい!」
まさか人形に噛まれるとは思ってなかったくるりが、大騒ぎをする。
怪我をしたわけではないのだが、牙っぽい感触は確かにあった。この辺りは、猫とカエル、それぞれのさじ加減なので、Bがどうこうしたわけではない。
「どうなってんの!? どうなってんのそれ!?」
噛まれたくるりは、逆にそれで興味を持ち、今度はカエルに手を伸ばした。
「げろ」
カエルは軽く鳴くと、今度はくるりの手を、バクンと丸ごと口に入れてしまった。
「ぎゃー! ぬめぬめしてる!」
痛くはないのだが、ぬめぬめしていて、とても気持ち悪かった。
「カエルさん、あーん」
ユアがカエルの口を開けさせるが、ただの人形だった。ぬめぬめの気配すらない。
「わー……すごいね。手品みたい」
「なんでくるりだけー!」
くるりはぎゃーぎゃー騒いでいるが、不思議な人形を、すっかり楽しんでいた。
「他は? 他に何ができるの?」
「おー……」
興奮するくるりの質問にBが首をかしげていると、一匹の虫が飛んできた。
「きゃっ、虫っ!」
ユアが女の子らしく、虫を怖がる。くるりは、「刺す虫じゃないから大丈夫だよ」と、平然としていた。
Bも虫に気づくと、カエルの人形を虫の方に向けた。
「げろ」
カエルから舌が伸びて、虫を絡め取り、そのまま食べてしまった。
「……ぱくん」
Bがカエルの口を開くと、やはりただの人形で、虫も舌もなかった。
「わー……すごーい……」
「うわー! ほんとすごいね! 何でもできるね!」
ユアは拍手をし、くるりはさらに興奮している。
こんな奇妙な人形、大人であれば怖がるのかもしれないが、彼女達は面白がるだけだった。
「すごいね! ねえねえ、屋敷の子?」
「……やしき?」
「あれ? 違うの?」
「おー……?」
「おー?」
Bが首をかしげると、くるりも同じように首をかしげた。バカ同士で話が進まない。
「ま、いっか。もっと遊ぼうよ! ところで、名前はなんていうの?」
「……びー」
「びー? 変わった名前だねえ……見た目も外国の人っぽいもんねえ。ユア、そういう名前の人って、どこの国の人?」
「うーん……どこだろう。あだ名、とかかもしれないよ」
くるりとユアが悩んでいると、Bは何かを思いだしたように、ポケットから紙を取り出し、2人に差し出した。
「ん……」
「ん? なになに?」
くるりが受け取って、紙を見る。ユアも横から覗き込んだ。
その紙には、綺麗な字で、こんなことが書いてあった。
この子の名前は、ビーと言います。
もし、迷子になっていたり、ご迷惑をおかけすることがあれば、以下の番号までご連絡ください。お詫び、謝礼等、させていただきます。
補足 誘拐、いたずら等を考えておられる方は思いとどまってください。死にます。
高宮家執事より
この紙は、Aが、ちょくちょく迷子になるBに渡したものだ。そこには、Aの携帯電話の番号が記載してある。
ちなみに、最後の、「死にます」というのは脅しではなく、ただの注意書きだ。そのままの意味で、Bに危害を加えようとすれば、呪われて痛い目を見ることになるし、最悪は呪殺で原因不明の死を迎える。Bが心配というよりは、「Bが殺しちゃうと後処理が面倒だからやめて」という意図で、Aは書いている。
くるりとユアは読み終わると、顔を見合わせた。
「やっぱり、ビーちゃんって言うんだ。可愛い名前だね」
ユアが言うと、Bはユアの手を取って、手の平に、「B」と書いた。
「……こう」
こう書くんだよ、と言いたいらしい。幸い、ユアは理解してくれたようだ。
「アルファベットのBなんだ。あだ名かな? でも、可愛いよね。ね? くるりちゃん」
「くるりは、「死にます」がちょっと気になるけど……」
「心配だから、大げさに書いてるだけだよ。でも、執事さんがいる家の子なんだ。やっぱり、お金持ちなんだね。お屋敷の子だよ、きっと」
「しつじ? ユア、しつじってなに?」
くるりは執事のことを知らず、頭にはてなマークを浮かべて首を傾げる。Bも真似をして首を傾げた。
「ええと……家のことを、色々やってくれるお手伝いさん……かな?」
「あ! あれか! メイドさんってやつだ! しつじって、メイドさんのことだ! くるり知ってるよ! 家のことを何でもやってくれて、エッチな人だよね! メイド!」
どこで仕入れた知識なのか、くるりの間違ったメイド観にユアは苦笑する。
「別にエッチじゃないよ……ええと、執事が男の人で、メイドさんは、女の人……なのかな……? あ、でも、Bちゃんの着てるの、メイドさんのお洋服に似てるね」
「へえー。よくわかんないけど、すごいなあ。でも、Bはメイドじゃないよね。メイドって、掃除とか洗濯とか、バーっとやっちゃうんだよ。それで、エッチなんだ」
「くるりちゃん。エッチっていうのは忘れて?」
「そうなの? ま、Bはこんな感じだし、エッチじゃないもんね。でも、そのお洋服はすごく可愛いね!」
くるりが豪快に笑いながら、Bの頭をポンポンと叩く。
すると、Bはくるりの服の裾をクイクイと引っ張った。
「ん? どしたの?」
「B……メイド」
「うん、お洋服がね」
Bはふるふると首を横に振る。
「B……メイド……おてつだいする」
「ええぇぇぇ! Bがぁぁぁ!?」
くるりが驚いたのは、まだ小さいのにとか、そういうことではない。この、ちょっと鈍そうな子が――端的に言えばバカな子が、どうやったらメイドとして仕事ができるのか、まったく想像ができなかったからだ。
そして、くるりの考えは当たっており、Bはメイドとして役に立っていない。
「へえー。Bちゃん、お手伝いしてるんだ。偉いね」
ユアは大人だった。
「あ、そういうことか。なんだーもうー。Bは偉いなあー」
くるりがBの頭を撫でようとする。が、また猫に噛まれた。
「いったぁーい!」
絶叫するくるりを見て、ユアは笑っていた。
それからしばらく、3人はBの人形で遊んでいた。最後の方には、くるりは猫に噛まれても動じなくなり、カエルにぬめぬめにされても、「ユア! ほら! ぬめぬめ!」と、謎の液体でぬめった手で、ユアを追い回して遊ぶようになっていた。
そのまま3人で遊び続けて、気が付けば夕方になっていた。
ユアが腕時計を見て、そろそろ帰らないと、と言い出した。
「よし。じゃあ、Bも帰らないとね」
「……おー」
「Bの家はどっち?」
Bは少し悩んだ後に、山の中腹にある屋敷を指さす。
「やっぱ屋敷の子なんだ。じゃ、くるり達が途中まで送るね」
Bは、ふんふんと首を縦に振る。
「迷子になんないように、手繋いでいこう」
くるりがBに手を差し出すと、Bは人形を外してポケットにしまった。
「……ん」
Bが小さな手を、くるりに向かって差し出す。
「ふふっ。これなら噛まれないね」
くるりはそう言って笑うと、Bと手を繋いだ。
「じゃあ、私はこっち」
ユアが、もう片方の手を繋ぐと、3人は高宮邸に向かって歩き出した。
途中、Bが道端にあるものや、他の人には見えない何かに気を取られていたが、2人と手を繋いでいたので、迷子になることはなかった。
そして、高宮邸まで一本道になったところで、2人はBの手を離した。
「ここまでくれば大丈夫……だよね? 真っ直ぐだよ? 真っ直ぐ帰るんだよ?」
途中、色々なものに気を取られるBを見ていたくるりは、何度も言い聞かせた。
Bはくるりの言葉に、ふんふんと元気良くうなずいた。
「よしよし」
くるりが笑いながらBの頭を撫でると、Bの頭から、ぴこんと本物の猫耳が飛び出した。
「うわっ……ははっ! もう何でもありだ!」
「ふふっ……すごいね、Bちゃんは」
ユアも動じることなく、くすくすと笑っている。
「それじゃあね、B――えっと、私達、よくあそこにいるんだ。また一緒に遊ぼう」
くるりがそう言うと、ユアは悲しそうな表情で、くるりの袖を引っ張りながら言った。
「くるりちゃん――」
「ユア、大丈夫だよ」
ユアは真顔になって目を閉じて考える。Bという子供、不思議な人形、屋敷の子供――。
一瞬で様々な要素を含めた思考を巡らせて答えを出す。
「――そうだね。Bちゃん、また遊ぼう?」
ユアが笑顔で言うと、Bはこくんとうなずいた。
「やった! じゃ、またね!」
「じゃあね、Bちゃん」
2人は手を振って、元来た道を帰っていった。
Bも、2人の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
遠くから、直巳がBを呼ぶ声が聞こえる。帰ってこないので、探しに来たのだろう。
Bは直巳の声がする方向へ、何度か転びながら走っていった。
直巳が高宮邸の玄関の前でBを見つけると、Bの元へ駆け寄ってきた。
「B! ああ、よかった……服が汚れてるのは……また転んだか。怪我、してない?」
Bは返事もせず、しばらく直巳を見つめた後、そっと、その手を握った。
「……て」
「ん? 手、繋ぐのか……そうだな。迷子にならないようにな」
Bはよく、人の服を勝手に掴んでくるが、手を繋ごうとしてきたのは初めてだった。
直巳はBと手を繋ぎながら、高宮邸へと戻っていった。
Bは途中、何度も直巳の顔を見上げていた。そのせいで転び、直巳を心配させた。