第五章
それから、特に何事もなく高宮邸へと帰ることができた。
時刻はすでに深夜。高宮邸は小さな山の中腹にあるので、辺りは真っ暗だった。
リムジンが止まると、アイシャは伊武の頬をペチペチと叩いた。
「まれー、起きて……起きなさい」
ペチペチと叩いていたのが、段々と強くなり、最終的にただのビンタになった所で伊武は目を覚ました。
「ん……あれ……?」
目を覚ました伊武がまず目にしたのは、自分の顔を覗き込むアイシャの顔だった。
アイシャは車に乗ってから到着するまで、ずっと伊武の頭を膝に乗せていた。
「アイシャ……に……椿君……? あれ……何で?」
伊武は間近にアイシャの顔がある理由も、なぜリムジンに乗っているのかもわからない。
「起きた? 動けるなら、どいてもらえる? あなたは重いから、足が痺れたわ」
アイシャは伊武の頭を乱暴にどかすと、一足先に車から降りた。
伊武は相変わらず状況が理解できないようで、ぼーっと直巳の顔を見ていた。
「伊武、大丈夫か? 痛い所とかないか?」
直巳がたずねると、伊武は少し黙り込んで体調の確認をした後、黙って首を横に振った。
「ううん……痛くは……ない……脇腹に……少し違和感がある……けど……」
そこまで言って、伊武は何かに気づき、ハッとしたような表情をした。
「脇腹……そうか……私……何かに……やられて……」
「その話は明日、ゆっくりとしましょう」
運転席から降りてきたAが、後部座席のドアを開けて話かけてくる。
「希衣様。お一人で歩けますか?」
Aが手を差し出すと、伊武はそれを無視して車から降りた。軽く体を動かし、問題なく歩けることをチェックする。
「……大丈夫……問題……ない」
「さようでございますか」
Aが差し出していた手を引っ込めた。
「では、今晩は高宮邸にお泊まりください。希衣様は魔力暴走を起こしておりましたので、経過観察をする必要があります」
そこまで言うと、Aはにこりと微笑んでから言った。
「それに、希衣様は負けて倒れておりましたので、他に何かされているかもしれませんし」
伊武はAの言葉を聞くと、目を伏せて黙り込んだ。何か言い返せる立場でもない。Aもそれをわかって嫌味を言っている。
「……わかった……言うとおりに……する」
「はい。では、お部屋へご案内します」
Aが伊武を連れて高宮邸に入ろうとする。付いていく伊武の足下が、少し危なっかしい。肉体的なダメージというより、疲労と精神的なショックのせいだろう。
直巳は伊武に駆け寄ると、肩を貸した。直巳の方が背が低いので、伊武を支える形になる。
「伊武、肩を貸すよ」
伊武は少し驚いた表情をした後、申し訳なさそうに微笑んだ。
「うん……ありがとう……ごめん……ね……」
「謝らないでくれよ。一人で行かせた俺達も悪いんだ。とりあえず、今日はゆっくり休んでくれ。俺もそばにいるから。A、いいだろ?」
Aは直巳の言葉を聞くと、少し悩んだ後に口を開いた。
「部屋はたくさんあるのですが、客室の掃除をしておりませんので、汚いですよ?」
「別にいいよ。とりあえず、寝られれば」
「そうですか。では、ご案内します――寝られますかねえ」
Aが少し不穏なことを言うが、直巳は伊武を支えたまま、黙ってついていった。
高宮邸の玄関ホールを通り、2階の一室へと向かう。いつもAが使っている部屋らしく、小綺麗で物が少ない。まるで、ビジネスホテルの一室のようだった。
「希衣様は、私と一緒にこちらの部屋でお休みください。ベッドは希衣様が。私はソファで構いませんので」
伊武はAと同じ部屋というのが不満そうだったが、文句を言える立場でもないので、黙ってうなずいた。
「では、部屋にシャワーがついておりますので、浴びたらさっさと寝てください。着替えは用意しておきますので」
そういうと、Aは手早くタオルと大きめのシャツを伊武に手渡す。伊武は黙って受け取り、シャワールームへ向かう。
「では直巳様の部屋にご案内します」
2人はAの部屋を出た。直巳はAについていき、廊下を歩いて行く。Aは階段を上り、3階へと向かっていった。足下が暗いため、直巳は階段につまづいてしまった。
「暗いのでお気をつけてください」
「電気とか、つけないの?」
「3階はほとんど使っていないので、電球がすべて切れております。それに、私達悪魔は夜目が利きますので」
「あ……そう……」
屋敷の手入れをしていないと、きっぱり言う執事というのはどうなんだろう。直巳は疑問を感じながらも、直巳はぼんやりと見えるAの後ろ姿についていく。
Aは3階のとある部屋の前で立ち止まった。
「こちらが客室になっております。もちろん、掃除はしておりません」
Aはまたも、掃除をしていないと、きっぱりと言い放つ。高宮家には執事とメイドが1人ずつしかいないし、あのメイド――Bが何かの役に立つとも思えない。この広い屋敷を1人で完璧に管理しろ、というのも酷な話だろう。何より、朝から晩まで甲斐甲斐しく屋敷の手入れをするAなど、想像できなかった。
Aはポケットから鍵の束を取り出すと、暗闇の中で迷うこと無く1本を選び出し、扉の鍵穴に差し込んだ。ガチャ、という大げさな音がした後、Aは古風な木の扉を開けた。
「さあ、どうぞ。当然のごとく、電灯はつきません」
「いいよ。どうせ寝るだけだし、一晩ぐらいは――ゲホッ!」
直巳は一歩部屋に踏み込んだ瞬間、舞い散る埃でむせてしまった。
「ちょっ……A……これっ……」
直巳は口と鼻を押さえて、室内を見回した。窓から差し込む月の光。その光の筋を埋め尽くすように埃が舞っているのが見えた。
「だから、掃除をしていないと」
「いつからだよ!」
「さあ……基本的に客人を泊めるようなことがないので、もう何年になるか……ま、一晩ぐらい大丈夫ですよね? では、希衣様に何かあればすぐに呼びますので。あ、これ鍵です。それでは、おやすみなさいませ」
Aは直巳に鍵を渡すと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
直巳は、真っ暗な、廃墟のような部屋に1人取り残される。
「マジかよ……」
直巳は月明かりを頼りに、ベッドの近くまで寄る。ベッドを軽く叩いてみると、やはりここからも大量の埃が舞った。
「うわっ!」
直巳がのけぞると、今度は顔に蜘蛛の巣が引っ掛かった。必死で振り払うと、そのままの勢いで部屋を飛び出した。
そして、そのまま記憶を頼りに2階へ降りて、Aの部屋をノックした。
「A! 頼む! 開けてくれ! あの部屋は無理だ!」
Aがそっとドアを開けて、顔を覗かせる。
「やっぱり、無理ですか?」
「無理だよ! 毛布だけ貸してくれ! 応接室かどっかで寝るから!」
「そんなマナーの悪いことさせたら、アイシャ様に怒られてしまいますし」
「わかった。A、泊める気ないな? 帰れって言ってるんだな?」
「そうは言ってませんが……困りましたね。使える部屋はありませんし……誰かと同室でもいいなら、聞いてみますが」
「同室? あ、Bか? うん、Bなら大丈夫だろ」
「いえ、Bの部屋じゃありませんよ。あれはあれで、人間が生活するのは難しいですから」
直巳はどんな風に難しいか気になったが、今は忘れることにした。
「Bじゃないなら……誰?」
まさかアイシャでもないだろう。アイシャが自分の部屋に人を泊めるとは思えない。
すると、Aから意外な答えが返ってきた。
「グレモリイですよ。彼女の部屋が高宮邸にあります。寝る時も一緒では、つばめ様の気が休まらないでしょうから、用意しました。ああ、つばめ様にはフラウロスがついていますので」
「グレモリイか……」
女悪魔グレモリイ。誰もが振り向くような赤毛の美女。世間一般の基準で言えば、直巳の周りにいる女性の中で一番美しいだろう。性格がちょっとうざったいのが原因なのか、なぜか直巳は惹かれないのだが。
「ええ。聞いてみましょうか? ただ、グレモリイの部屋にはベッドが1つしかありませんからぁー。1つのベッドで! 一緒に寝ることになる! と思いますが、よろしいですかー?」
何故か後半部分の声が大きかった。
「同じベッドか……いや、それは……どうかな……」
いつもは適当にスルーしているグレモリイだが、同じベッドで寝るとなると、さすがに直巳も色々と考えないではない。隣りであの美女が眠っている状況で、冷静でいられるだろうか。黙っていれば文句無しの美人だ。眠っていても美人だろう。
「しょうがないですよねぇー。こういう事態ですからぁー、グレモリイも嫌とは――」
その瞬間、ドアの隙間から、Aの顔がフッと消えた。
少しして、伊武が部屋のドアを開けた。
伊武は、Aに渡されたワイシャツ1枚の姿だった。Aが持っている中でも、1番大きなサイズだったのだが、それでもボタンをとめることができず、胸のあたりは大きく空いている。
「い、伊武……?」
直巳は伊武の意外な姿に、思わず息を呑む。
「椿君……部屋……入って……ソファ……空いてるから」
伊武は自分の姿を気にすることもなく、直巳を部屋に招き入れようとした。自分の格好に無頓着なのもあるし、直巳になら見られても構わないと思っている。むしろ、不可抗力で見せようとしている。
「え? ソファって、Aが使うんじゃ……」
「A……床で寝ちゃってるから……大丈夫……」
直巳が部屋の中を覗き込むと、うつ伏せでまっすぐに眠っているAがいた。あれは眠っているというか気絶している気がするし、首が変な方向に曲がっているので――気絶も訂正。死んでいるようにしかみえない。伊武を散々煽った末路なのだろう。
「まあ……うん……それなら……」
伊武に何かあった時のためにそばにいる、というのが直巳の目的だ。ならば、同じ部屋にいるのが一番良いだろう。Aはあれぐらいで死ぬわけがないし、少しすれば目を覚ますはずだ。
直巳は部屋に入る。Aの部屋は、しっかりと電灯がついていた。しかも、この輝きからしてLED電球だろう。他の部屋の電球が切れているくせに、自分の部屋だけLED電球に変えているとは、なかなか太い神経をした執事だ。
直巳はソファーに向かい、横になった。少し窮屈だが、体を折り曲げれば眠ることはできるだろう。
「椿君……これ……」
伊武が自分のベッドから毛布を持ってきて、直巳にかけてくれる。
「私……暑がり……だから……使って?」
「ありがとう。使わせてもらうよ。体、おかしかったらすぐに起こしてくれ」
「うん……わかった……じゃあ、おやすみ……」
「ああ、おやすみ」
そして、伊武は電気を消してベッドに戻った。
部屋が暗闇と沈黙に包まれる。直巳は疲れのせいか、すぐに眠気が襲ってきた。
少しすると、先に伊武の寝息が聞こえてきた。直巳はそれを聞くと、安心して自分も眠りにつくことにした。
それから数十分後、Aが目を覚まして起き上がる。
Aはベッドとソファを交互に見ると、大きくうなずいて自分の寝る場所を決めた。
翌朝。伊武希衣は窓から差し込む光で目を覚ました。
いつもより硬いシーツの感触、知らない天井を見て、ここが高宮邸で、Aの部屋だということを思い出す。
伊武が目を開けて起き上がろうとすると、突然、何者かに髪を撫でられた。
伊武は体を緊張させて横を向くと、そこには頬杖をついたAが、優しく微笑んでいた。
「希衣様、おはようございます。私のベッドは、良く眠れましたか?」
Aは伊武の髪を手に取ると、サラサラと手からこぼして、もてあそんでいた。
「椿君……起きて……椿君……」
直巳は伊武に優しく起こされて、ソファの上で目を覚ました。
「……おはよう」
寝起きでぼんやりとした頭の直巳の目に、ワイシャツ姿で微笑む伊武の姿が目に入った。
「ああ、そうか……Aの部屋か……おはよう、伊武。体の調子はどう?」
「うん……大丈夫……痛いとかは……ない……よ」
伊武は直巳の顔を覗き込んだまま、髪をかきあげる。その格好と合わせて、いつもの伊武とはまったく別人のように見えた。
「そ、そっか……じゃあ、うちに戻ってご飯食べようか」
一気に目の覚めた直巳は、動揺を悟られないように、わざと明るく言って体を起こした。
「うん……私……着替えたら……キッチンに行く……ね」
「ああ、そうだね。俺もそうしよう――って、Aは?」
そういえば、昨晩、床で寝ていたAが見当たらない。代わりに、ベッドの上には、シーツでぐるぐる巻きになった何かがあった。ちょうど、人がくるまっているぐらいの不吉な大きさ。
「Aは……もう……起きられない……から……」
「ああ……そう」
まあ、Aが何か余計なことをしたのだろうと思い、直巳はAの部屋を出た。
椿家に戻り、自分の部屋で着替えてから、キッチンで朝食の用意をしていると、アイシャがリビングに入ってきた。後ろにはいつもどおり、AとBが控えている。
「おはようございます、直巳様。良い朝ですね」
いつもと同じく、貼り付いたような笑顔でAが挨拶をしてきた。格好も笑顔も完璧な執事。ただ、首がちょっとだけ変な方向を向いていた。朝食を終えるころには治っていたが。