第三章
伊武が高宮邸を出てから、80分が経過したところで目的地に近づいた。
相当飛ばしたおかげで時間に余裕があったはずなのだが、何事も上手くはいかないもので、予定よりも早く、天使降臨が始まっていた。夜の空を割って光が降り注いでいる。この様子だと、もう天使は降臨しているかもしれない。
降臨した天使は、いつ消えてしまうかわからない。まだ数分はいるかもしれないし、次の瞬間には消えてしまうかもしれない。
伊武は天使の前でバイクを乗り捨てようと思ったのだが、一瞬で考えを切り替えた。伊武は天使が目視できる位置まで来てもスピードを落とすことなく、左手を伸ばして、背後の何もない空間から、天使を狩れる妖剣、フリアエを抜く。幸い、この辺りは開けた場所――天使降臨の衝撃で周りの細かい物が消し飛んでいたのもあるが――都合が良い。
伊武はバイクに乗ったまま、羊の顔がついている天使に突っ込み、すれ違いざまに片方の腕を切断した。天使の腕が斬られた勢いのまま、くるくると空中に舞い上がる。
次の瞬間、天使が体中から強い光を放った。「天使の奇跡」と呼ばれる光。普通の人間がまともに浴びれば、体に予測不能な症状をもたらす――良いことも、悪いことも起きる。大抵は命に関わるような悪いことだ。
「チッ……」
伊武は光を認識すると、バイクから飛び降りた。バイクはそのまま転倒し、遠くへと滑っていく。
「来い! アブエル!」
伊武は地面を転がりながら、背後の人造天使を実体化させて盾にした。いびつで大きな天使――人造天使アブエルが現れ、天使の奇跡から伊武をかばう。アブエルを盾にすれば、伊武は天使の奇跡にやられることはない。
アブエルが光に飲まれるほどの天使の奇跡を受け止める。伊武は慌てることもなく、まぶしさに目を細めるだけだ。
そして天使の奇跡が止んだところで天使に斬りかかり、もう1本の腕も落とした。
天使は声も上げず、苦しんだ様子も見せず、ただ弱い光となって、すぐに消えた。
これでもう何度目になるかわからない、天使狩りが終わった。
伊武は2本の天使遺骸を拾うと、1本をアブエルに向かって投げた。アブエルは腹の減ったワニのように天使遺骸に食いついて飲み込むと、姿を消した。
「なんとか……なった……かな」
伊武は残りの天使遺骸を抱えたまま、息を吐いて気を抜く。急な出撃と、緊張感のあるバイクの移動で、さすがの伊武も疲労を感じていた。
遠くを見ると、乗り捨てたバイクが燃えていた。乗り捨てた時の衝撃でガソリンが漏れ、引火したのだろう。とりあえず、バイクで帰るのは無理になった。
まあ、帰りの足は、遅れてくるA達に拾ってもらえばいい。それまで、どれくらいの時間がかかるかはわからないが、ゆっくりと休んでいればいいだろう。
伊武は天使狩り成功の報告をするために、携帯を取り出して、直巳に連絡しようとした。
「椿君……褒めて……くれる……かな」
伊武は表情をほころばせて、直巳へと電話をかけようとした。
その時だった。伊武の背後に、人影が音も無く忍び寄っていた。
油断していた伊武がそれに気づいたのは、もう十分に接近されてからだった。
「――なっ!」
伊武が振り返ると、人影は大きな金属製の棒を振りかぶっていた。フリアエを抜いて受け止めるのは間に合わない。
伊武は止む無く、片手を出して受け止めることにした。
ゴッ、と鈍い音がして、伊武の腕に攻撃が当たる。痛みはあるが、骨までは通っていない。
伊武は襲撃者を見る。辺りが暗いのと、襲撃者が全身黒づくめで、顔にまで布を巻いていたせいで、顔を確認することはできなかった。ただ、背は小さい。伊武と比べてではなく、一般的に見てもだ。それだけは、どうしても隠しようが無かった。
伊武は相手が誰なのか、という考えを振り払い、とにかく反撃に出ようとした。相手はまだ、両腕で持った武器を引いていない。相手がもう一度殴りかかってくるまで、空いているのは伊武の片手だけだ。
「……もらった」
伊武が片手で、襲撃者の腕を掴もうとした。捕らえてしまえば、伊武の腕力からは逃げられない。無理に逃げようとすれば、片腕が犠牲になるだけだ。
「――かかった」
襲撃者が小さくつぶやく。その言葉は口をおおった布に遮られ、伊武には届かなかった。
次の瞬間。伊武は両方の脇腹に強い衝撃を感じた。相手の両腕は塞がっている。相手は立ったままなので、蹴りを受けたわけでもない。
そしてすぐに、伊武は両方の脇腹に信じがたいような痛み、苦しみ、熱――それらが、本当にそういった感覚なのかもわからない。ただ、とにかく強い違和感が襲ってきた。
そして、自分の意志とは関係なく体が動作を停止して、伊武は地面に膝をついた。
「あ……ぐ……」
そのダメージに対しては超回復能力も働かず、天使贄でアブエルにダメージを転移することもできなかった。伊武は何をされたのか、何が起きているかもわからないまま、意識が遠くなっていった。
そして、伊武は地面に倒れ、襲撃者のシルエットを目にした後、気を失った。
これが、前日から、伊武が倒されるまでの話だ。
直巳達が到着したのは、それから1時間後のことだった。