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第三十五章

 Aは直巳からの電話を切ると、携帯をポケットにしまい、目の前の一樹に言った。

「見張りからの連絡がありました。くるり様達の勝ちです」

「そうか。くるりがクローバーになったとしても、ゴウトの方が有利かと思っていたんだが。あれは、人を傷つけるのに躊躇しない。そういう風に育てたからな――ゴウトが調子に乗ったかな? それとも、予想外の何かがあったのか」

 一樹はテニスの試合を解説するかのように、冷静に、他人事のように言った。

 今、Aと一樹のいる場所は、一樹のプライベートなセーフハウスだ。ヒイラギの構成員も、この場所を知らない。

 Aは直巳達をゴウトの元へ運んだ後、真っ直ぐここへ来た。無理矢理押しかけたのではない。一樹に招かれてやってきたのだ。

「こんなに近くにいるのに、顔も出さないのですね」

 この部屋は、直巳達が戦っている場所の近くにある。さすがに、部屋から直接戦いを見ることはできないが、それでも、十分に歩いていける距離だ。

「顔を出したらゴウトの独断、ということにできないだろう」

「ゴウト様が負けたら、クローバーを取り込もうと。そういうつもりでしたか」

「そういうことだ。どっちが勝っても構わなかったんだ。どうなっても、クローバーの死体は手に入るからね。負けた方が暗殺者クローバーとして、天使教会への捧げ物になる」

 Aがククッと喉を鳴らして笑う。なるほど、この男はそこまで考えていたのか。そこまで人を、子供達を道具だと割り切っていたのか。

 そして、直巳はそこまで考えて行動はしていないだろうが、一樹の予測を上手く裏切った。

「ゴウト様は負けたそうですが――姿を消したそうです。死んではいませんよ」

「何? まったく……最後ぐらい、役に立って欲しかったものだ」

 一樹は、息子のゴウトが負けたことには怒っていない。ただ、死体を残さなかったことに怒っていた。

「ゴウトの死体を天使教会に差し出して解決。すべてゴウトの独断だと言って、クローバーを呼び戻す……つもりだったのだけどね。他の構成員はどうしたのかな?」

「さあ。逃げたか死んだか……とにかく、壊滅でしょうね」

 バエルがその気になれば一瞬。殺していないとしても、直巳が平然と電話をしてきているのだ。壊滅は間違いない。

「それは……さすがにまいったな……死んでくれればよいのだが、逃げてたら面倒だ。全滅したということがばれたら、反天使同盟としてはやっていけない」

 ゴウトは棚からウイスキーのボトルを取り出すと、安物のグラスに半分ほど注いで、一息で飲み干した。

「ゴウトが駄目なら、せめてくるりは手元に置いておきたかったな……あの子の能力は、とても貴重だ」

「貴重? 少女贄がですか? あれはようするに、天使贄の変形でしょう?」

 Aがたずねると、一樹はもう1杯、ウイスキーを飲んでから答えた。

「少女贄は能力の一部でしかない――あれは大きな器だ。くるりには、姿の無い天使がついている。誰よりも完全な天使付きに近く、もっとも不完全な天使付きなんだよ」

「……話が、良く見えませんね」

 Aが首をかしげる。どうやら、くるりの能力は、少女贄だけではないらしい。姿の無い天使というのは、どういうことだろうか。

 難しい顔をしているAを見ながら、一樹は楽しそうに話を続けた。

「――くるりはね、他の、「天使の子供達」から能力を奪うことができるんだ。姿を失った天使が、足りない体を集めるようにね。あれは、そういう天使付きなんだよ。最初は何も持っていなかったが、あの子も覚えていないぐらいに幼いころに、他の子供から、天使贄と超回復能力を奪っているんだ――まあ、私が奪わせたのだけれどね」

「なるほど……そういうことでしたか……それはたしかに、貴重な能力だ」

 姿の無い天使、器だけの天使。完全な天使付きに近付くことができるが、自らは何の能力も持っていない。だから、誰よりも完全で、もっとも不完全な天使付き。

「くるりがゴウトに勝ったのは、ユアとカサネの能力を奪ったのだろう。くるりに食わせることを、あれだけ抵抗していたのにな。ユアの判断かな? たいしたものだ」

 ゴウトは先ほど言っていた――くるりがクローバーになったとしても、と。それはきっと、ユアとカサネの能力を奪った状態のことをさしているのだろう。

「ユア様とカサネ様は、くるり様の能力のことを知っていたのですね?」

「ああ、そうだ。自分達がくるりの生贄にされることも。だが、それを拒んでいた」

「拒む……ですが。それは、特別な力を失いたくないから?」

 Aが言うと、ゴウトは、「違う」と首を横に振った。

「くるりを1人にしたくない、だそうだ。くるりに能力が集まれば、戦うのはくるり1人になる。それは嫌だと。私達が働くから、くるりだけに力を背負わせるのはやめてくれと懇願してきた――ユアとカサネになら使い道はある。だから、私はそれを受け入れた」

 2人はずっと、くるりのことをかばっていたのだ。くるりだけに力を背負わせないために。

「それはまた……何とも感動的な話ですね」

 Aが言うと、一樹は真顔で、「心情などはどうでもいい」と首を横に振った。

「くるりは強くなる可能性はあるが、あの性格だ。暗殺をしてこいと言っても無理だろう。カサネやユアは、くるりを人質にすればやる、できる……それだけだよ」

 一樹は興味もなく言い放つ。使えない最強兵器より、使える通常兵器を選んだ。それだけのことらしい。

「これでゴウトが勝てば、くるりにもあきらめがついたのだが……上手くはいかないね」

 一樹はにこりと笑う。Aも、にこりと笑顔を返した。

 面白い話も聞けた。そろそろ本題に入ってもいいだろう。

「さて。あなたはゴウト様とクローバーを両方失い、構成員も全滅し、天使教会への言い訳もできず、ヒイラギの維持は絶望的――どうやら、私の出番のようですね」

 ひどい状況を明るく説明するAに、一樹は苦笑する。

「そうだな。君は稼ぎ時で、私は大損というわけだ」

「依頼というのは、そういうものですよ。では、私がお手伝いするのは、あなたの逃亡の手助け。天使教会への情報操作。そして、ヒイラギの再興資金提供――間違いないですか?」

「ああ、そうしてくれ。まさかのフルコースだな」

「ええ。逃亡から再興まで、何もかもです」

「その分、報酬も高い――天使遺骸4本とは恐れ入った。全財産だ」

「死ぬよりはマシでしょう」

 直巳がくるりの手紙を読んだ後、Aが電話した相手は一樹だった。

 万が一、ゴウト様が負けた時の保険はいかがですか――Aは、そう持ちかけた。

 Aはその時、一樹に事件の真相と、ユア達を捕らえたことを知っていると伝えた。私達は何もかも知っていますよと、一樹に伝えた。

 一樹は、高宮の情報収集能力を高く評価し、依頼をすることにした。ゴウトが勝つだろうとは思っていたが、負けた場合にはすべての責任をゴウトに押しつけて、クローバーをヒイラギに戻そうとした。

 だが、何が起こるかはわからない。最悪の状況に備えた保険はあってもいい。もし、一樹のシナリオどおりになれば、Aには何も支払う必要すらないのだから、悪い話ではない。

 ただ、一樹はAの仲間が、くるり達に味方していることは知らなかった。結局は高宮のマッチポンプだということには気づいていない。

「ところで、ゴウト様はどうしますか? 探し出して、一緒に逃げますか?」

「いや、あれはもう捨てるよ。結局はくるりに勝てない程度だ。それに、あれの能力は今後、天使教会に目を付けられかねない」

 一樹は即答した。息子に対する態度だとは思えない。

 Aはこの男の考え方に、少しだけ興味をもった。

「さようで。しかし、あれだけの力を持っていて、従順に動く手駒。惜しくないのですか?」

「ああいうのはね、いくらでも作れるんだよ。今度はもっと、いいのを作るさ」

 一樹はそう言って笑った。ゴウトのことを失敗した料理、ぐらいにしか思っていない。

「高宮。どうしてゴウトが、あれだけ私に尽くすかわかるかな?」

「さあ。父親だから、ですかね」

 Aが当てる気も無い答えを言うと、一樹は笑いながら首を横に振った。

「大外れだ。嫌われてる父親なんかたくさんいる。そもそも、ゴウトは私の息子じゃない。あれも私が買ってきた、「天使の子供達」だよ」

「おや、そうでしたか――では、なぜゴウト様は、あなたに従っていたのですか?」

「ゴウトには、私しかいなかったからだよ。追い詰められた人間に道を示してやるとね、多少おかしいと思っても、その道を勝手に歩いてくるんだ。自分からね」

「暗闇よりは光を。その光が地獄の業火でも、天からの光だと信じ込む、というわけですか」

「君は詩的だな。天使教会くさいのが気に入らないが……そのとおりだよ」

 自分の話が素直に通じるAを、一樹は好ましく思っていた。

「絶望にある者は、どんな道でも差し出されれば、それを希望だと思い込む。自分で自分を騙すんだよ。そうでないと自分が救われないから。壊れてしまうからね」

「なるほど。あなたはそれを、子供達にやったというわけですか」

「ああ、我々は天使教会よりも高い金で、「天使の子供達」を買う。そういう子供が親に愛されているわけもないだろう。だから、私が親代わりになってやれば、大抵は思い通りになる。クローバーにもやったのだが、あれは私よりも仲間達に希望を見いだして、心のよりどころにしたんだな。失敗したな、あれは」

 一樹は実験の結果を話しているかのように楽しそうだった。自慢気ですらある。

 これが直巳だったら、もう殴りかかっているだろう。だが、Aにとっては小悪党の露悪趣味を聞いているにすぎない。

「なるほど。面白いお話でした。では、そろそろ仕事にかかりましょうか」

「そうだな。この話は、またゆっくり。まずは何をすればいいかな?」

 Aは一樹に向かって、にこりと笑いながら両手を差し出した。

「まずは報酬の先払いです。天使遺骸4本を、今いただけますか?」

「しっかりしているな」

 一樹は渋々ながら、別の部屋から布に包まれた天使遺骸を持ってきた。

「ほら、これだ」

 一樹がテーブルの上に天使遺骸を置いた。Aは布を解いて、中身を確認する。

 間違いなく天使遺骸だった――ただし、2本。

「数が足りないようですが」

「まずは半分。依頼が完了したら残りを払う。フェアな取引きだろう?」

 一樹の物言いを聞いて、Aはククッと押し殺した笑いを漏らす。

「フェア――フェアね。天使教会に狙われて、手駒も失った落ち目の男を助ける。依頼自体がね、フェアじゃないんですよ。全額先払いぐらいしてもらわないと」

 Aは強気に言うが、一樹は表情も変えずに、天使遺骸を自分の元に引き寄せた。

「なら、交渉は決裂だ。君は何も得られずに帰ることになる」

「そうですか。しかし、手ぶらで帰るのもつまらないですね。あなたを天使教会に売れば、少しは稼げるかもしれません。何より、あなたの味方をするよりも安全だ」

「――わかった。わかったよ高宮。君の言うとおりにしよう」

 Aが言うと、一樹は両手をあげて降参の意志を示すと、天使遺骸を再びAの方へ寄せた。

「持っていけ――だが、今はこれしかない」

「――これしかない? 報酬は4本ですが?」

「今は2本しかないんだ。組織が再興したら、もう2本――いや、利子もつけて4本渡そうじゃないか。黙って待っていれば2本儲かるんだ。悪い話じゃないだろ?」

「――フフッ――クックック」

 Aはこらえることもせずに笑い出した。邪悪に歪んだ口元を隠そうともしない。

「甘い言葉に甘い約束――どうしてそんな気軽に言えるか――あなたにはわかりますよね?」

 一樹は何も言わない。ただ、楽しそうなAを見て、不機嫌そうに顔をしかめている。

「何も守る気がないからですよ。だから、いくらでも甘いことが言えるんです。きっと、ゴウト様にも色々と言っていたんでしょうね。ヒイラギの次期盟主にしてやる、だとか」

 一樹はやはり何も言わない。逃げていないのだというように、顔も背けない。ただ、Aと目だけは合わせていなかった。

「天使遺骸4本――素晴らしい報酬です。私も、そんな甘い言葉につられたんですかね。それが嘘じゃないかと思いつつも……自分を騙して、ね」

「騙しているわけではない。これは交渉だ。だから、私は当初より良い条件で――」

「落ち目の反天使同盟、ヒイラギ盟主の逃亡の手助け」

 Aは一歩、一樹の元へと近付いた。

「天使教会への工作」

 そう言って、もう一歩。

「そして、反天使同盟再興の手助け」

 Aは一樹の目の前に来た。

「――甘い言葉じゃないですか。逃げ道のなくなったあなたが飛びつくには、十分です」

「高宮――君は、まさか――」

「ええ、嘘ですよ。そんなバカみたいな約束、守る気なんかありません。ただ、あなたを逃がさないため。天使遺骸を持ってこさせるための嘘です。普通なら、こんな上手い話は疑うに決まってるんですが。あなたは本気だと信じて、交渉までしようとした」

 Aは一樹に詰め寄って、その目を覗き込んだ。

「追い詰められたものは、自分で自分を騙す――あなたがやってきたことじゃありませんか」

 次の瞬間――室内に発砲音が響く。

 撃ったのは、一樹だった。

 一樹は一瞬で懐から拳銃を抜くと、躊躇無く目の前にいるAの胸を撃った。

「――言い訳もせずに、躊躇無く撃った。さすがは汚い人間だ」

 Aは胸に空いた穴を、パンパンと手で払う。銃弾が床に落ちて、音を立てた。

 Aからは血の一滴も出ていないのを見て、一樹は初めて動揺した。

「な――そうか――防弾――防弾服か!」

 Aは防弾チョッキのようなものを着ているのだと、一樹は自分に言い聞かせた。Aは体のラインが出るような服装をしている。通常の分厚い防弾チョッキを着ているようには見えない。

 しかし、それぐらい薄い防弾服を着ているのだと、一樹は自分に言い聞かせた。

 Aの服を脱がせば、皮膚には蛇のような硬い鱗があるのだが、一樹にわかるわけもない。

「防弾……そうかもしれませんね。なら、次はここ、狙ってみますか?」

 Aは一樹の銃口に、自らの額を当てた。

「皮膚の下にうすーい防弾プレートを仕込んでいるかもしれませんが。ねえ? そう思わないとやってられないでしょう?」

 そういうと、Aの額の中心に、一瞬だけ鱗が浮き出した。

「う、鱗……? なんだ……何者だ貴様は……本当に……ただの魔術師なのか?」

 一樹の銃口は震えている。Aは銃の先端部を掴んで、銃口を固定させた。

「私が何者か、ですか」

 Aは眼帯を外し、一樹の目を覗き込んだ。

 Aの目の中に住んでいる蛇が、ぬるぬると動き回る。

 そして、Aの目が。目の中の蛇が、一樹を睨み付ける。

「ひっ――」

 一樹の心と体に、有無を言わせない恐怖が叩き込まれていく。

 これはAの魔術の1つ。人を殺すわけでも、操るわけでもない。ただ、人間を恐怖させて、楽しむだけに使う魔術だ。

 一樹が恐怖で崩れ落ちそうになると、Aは一樹の腰を抱きとめて、目を覗き込み続けた。

「あなたは汚い人間だ――だけど私は――汚い汚い悪魔なんですよ」

「あ……悪魔……?」

「そうですよ。本物の悪魔です。悪魔アスタロト――それが私の名前です」

「な……悪魔……なんて……嘘だ……これは……何かの魔術で……」

 この男は、まだ自分を騙そうとしているらしい。希望を見いだそうとしているらしい。

 これが本性なのだろう。弱い人間だ。小さな人間だ。

「ねえ、一樹。1つ良いことを教えてあげましょう。あなたは、自分の悪を誇っているようですらある。子供や善人を食い物にして、それを楽しんでいる。自分が賢いと思っている。でも、普通はそれをやらないんです。どうしてだか、わかりますか?」

「あ……ああ……」

 一樹は涙を浮かべるだけで、答えようとしない。

 Aは空いた手で、一樹の耳の穴に浅く指を入れて、カリカリ引っ掻くようにした。怪我をするまでは入れていないが、耳に直接入ってくる音は、何をされるか想像するには十分だ。

「わかるかと、聞いているんです」

「そ……それをやるだけの頭や……度胸がないからだ」

「――残念。やっぱり、わかっていないようですね」

 Aは悲しそうに言うと、一樹の耳から指を離した。

「子供や善人を食い物にするとね。悲しむ人間がいるんです。仇を取ろうと、悪人を倒そうと立ち上がる――だからみんな、嘘でも道を外れないようにするんです。逆に、悪人がやられても誰も悲しまない。誰も助けてはくれないんですよ」

 直巳は危険を承知でくるり達を助けようとした。そういうことだ。

「だからね。悪人を食い物にするのが一番楽なんです――私みたいにね」

 そして一樹は、誰も助けに来ないまま、悪魔に詰め寄られている。そういうことだ。

 Aは一樹からゆっくりと拳銃を奪い取ると、彼の額にグイッと銃口を押しつけた。

 それでも一樹は、命乞いをせず、悲しそうな目でAを見ているだけだ。

 一樹が命乞いをしないのは――自分が悪いと思っていないからだ。なぜ、自分がこんな目に遭わなくてはならないのかと、本気で思っているからだ。

 Aは人を恐怖させるのは好きだが、虫を虐めて楽しむ趣味はない。

 もう面白くもない。さっさと殺して退散しようか――そう思ったところで、玄関の開く音がした。

 玄関には鍵がかかっているはずだ。壊した様子もない。そもそも、普通の構成員は、この場所を知りもしないだろう。

 さて、誰が来たかと思ってAは玄関の方を見て――満面の笑みを浮かべた。

「――一樹、いいでしょう。私はあなたを殺しません」

 Aは拳銃を下ろすと、一樹に握らせた。

「ほ、本当……か?」

「ええ。私は天使遺骸が手に入れば、それでいい。もうあなたに興味はない」

「そ、そうか! ああ、構わない……天使遺骸は持っていってくれ!」

 Aは一樹から離れると、テーブルの上に置いてある2本の天使遺骸を持った。

「まあ、あなたに興味がある人間は、他にいるようなので」

 Aは眼帯を付け直して、玄関の方へと歩いていく。

 Aとすれ違いで、別の人間が入ってくる――ずぶ濡れになったゴウトだった。

「ゴ、ゴウト……お前、どうして、ここに……」

 一樹は、ゴウトがどこかに逃げたのだと思っていた。ボロボロにやられて、消えて、2度と会うことはないと思っていた。

 だが、目の前にいるゴウトは、走ってきたせいで息を荒げてはいるが、傷1つなかった。

「――どうしてだと思う?」

 ゴウトは濡れた前髪の隙間から、一樹を睨み付ける。

「ゴウト様。一樹様は、あなたとクローバー、どちらが生き残ってもいいのだと、そう言っておりましたよ」

「違う! 違うぞゴウト! こいつは、突然私を襲ってきたんだ!」

 Aがにこやかに言うと、一樹は慌てて否定をした。まだ、助かるつもりでいるらしい。

 Aは溜め息を吐くと、懐から小さな機械を取り出してゴウトに渡した。

「私、こういう会話はいつも録音しているんですよ。聴いてみます?」

 Aが渡したのは、小型の録音機器だった。実際に、今の会話のすべてが録音してある。

「聴くなゴウト! 耳を貸す必要はない!」

「おや? あなたは私に襲われたんですよね? なのに、聴かれたらまずいのですか?」

「黙ってろメイガス!」

 一樹が、再び銃口をAに向ける。効かないとはわかっていても、それしか頼るものがない。

「おや、口の悪さは親子で似ているようで……微笑ましいですね。では、私はこれで」

 Aは玄関から外に出る。扉が閉まると、すぐそばの壁に寄りかかって煙草を取り出した。

 Aはただ、一樹から恐怖を引き出したいだけだった。心からの恐怖を。そのためには、Aが手を下すよりも、一樹自身の罪悪そのものに――従順な道具のはずだった、ゴウトに詰め寄られた方が面白いだろう。それはきっと、一樹にとって最高の悪夢に違いない。

 きっと、そっちの方が楽しい。Aが一樹をゴウトに譲ったのは、それだけの理由だ。

 Aは煙草に火をつけると、楽しそうに部屋から漏れてくる声に耳をかたむけた。

「親父! どうなんだ! 僕に聴かれたらまずいことでも言ってたのか!」

 ゴウトが声を荒げながら、一樹に近付く。

「違う! 私は、何も言っていない!」

「なら! これから! 僕と一緒にこれを聴けるよな!?」

 ゴウトが録音機器を突き出しながら、一樹に詰め寄ろうとする。

 少しだけ回復した魔力を使って、ゴウトが天使の腕を出す。一樹はそれに気づいていない。

「く、くるなっ!」

 一樹はそう言って、反射的にゴウトに銃口を向けた。

「あんたは――あんたは息子に銃を向けるのかよ! 親父!」

 すぐに発砲音。続いて、一樹の絶叫が響いた。

 Aは部屋の前で煙草を吸いながら、うっとりと、その声を聞いていた。



「ゴウトさん。よかったら、すべてをお聞かせしましょうか?」

 部屋から出てきたゴウトに、Aが話しかける。

 ゴウトは、ちらりとAを見た。椿直巳の仲間。この男が――女かもしれないが――一樹と何をしたのかは知らない。だが、それはもう、どうでもいいことだ。

「結構だ……後で、これを聴かせてもらう。まあ……親父の態度を見れば、お前や椿が言っていたことが真実なんだろうけどな」

 ゴウトは、Aから手渡された録音機材をもてあそびながら言った。

「直巳様が……? 何か、面白いことでも言ってましたか」

 Aに聞かれると、ゴウトは直巳の言葉を思い出し、苛立たしげに舌打ちをした。

「親父が僕を利用してたと……クローバーと僕、どっちが死んでもいいんだと……」

「おや――それはそれは――」

 直巳は、一樹と一切話しをせずに、その結論に辿り着いたというのか。一樹の思い描いた、非道な筋書きを思いついたというのか。

「まあ、彼も悪党の素質はありますからね――素質だけ、というのが残念ですが」

 Aはぼそりとつぶやくと、煙草をくわえたまま、ククッと笑った。

 ゴウトがAを睨み付けると、Aは、「失礼」と言って、笑うのをやめた。

「……それで、あなたはこれから、どうするおつもりで?」

「お前に言う必要があるのか?」

「個人的な興味なんかありませんよ。後始末のためです」

 ゴウトは小さな溜め息をついた。今、高宮に嘘をついても仕方が無い。

「……とにかく、この土地は離れる。そこから先は、考えていない」

「天使教会への工作もありますので、あまり目立つようなことをされると困るんですが」

「もう、意味もなく人を襲ったりはしないさ」

「おや? 改心されたので?」

 そう言われて、ゴウトはくるりのことを思い出す。くるり達を虐めてきたこと。殺そうとしたこと。それでも、くるりが許してくれたこと。抱きしめられたこと。

 ゴウトは、胸のあたりをギュッと掴むと、Aに向かって言った。

「――必要がなくなったからだ」

 Aはゴウトの仕草を見ながら、つまらなそうな表情で答えた。

「さようで。ま、しばらくは、「半天使」の能力は使わないください。クローバーは死んだことにしますから」

「……わかった」

 そういって立ち去ろうとするゴウトに、Aはスッと、手を差し出した。

 その手には、四つ葉のクローバーが握られている。

「これ、差し上げますよ。幸運のお守りってやつです」

 ゴウトはそれをつまみあげると、フッと笑った。

「僕にクローバーとは……嫌味か?」

「それ、くるり様のものなんですよ」

 Aは携帯灰皿を取り出し、煙草をもみ消しながら言った。

「くるりの? なら、お前が返して――」

 Aは肺に残った煙を緩やかに吐きだし、横目でゴウトを見る。

「私、子供嫌いなんです。そのうち、あなたから返してください」

「――そうか」

 ゴウトは四葉のクローバーをポケットにしまうと、それ以上、何も言わずに去っていった。

 彼がどこへ行くのか、何をするつもりなのか、Aにはわからない。

 だが、人を襲うようなことはしないと言っていた。つまり、騒ぎは起こさない。面倒の種にはならないということだ。それならば、放っておけばいい。

「罪と罰を両方背負った少年は、救われるべきか、裁かれるべきか――」

 Aは、もう1本煙草に火をつけて、大きく吸い込んだ。

「彼の痛みをどうするかは、彼自身に決めてもらいましょうか」

 遠くの空に、綺麗な夜の闇が見える。長かった雨も、もうすぐやみそうだった。


 それから1ヶ月後のこと。一樹はマンションの管理人により、死体で発見された。

 死因は不明。ただ、両方の脇腹を、肉が削げるほどにかきむしった跡があったという。

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