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第三十二章

 伊武が2人の少女を連れて逃げた後。

 ゴウトやヒイラギの構成員達は、先ほどの鳴き声のショックから立ち直りつつある。

 バエルは残された直巳を見ると、バカにしたように言った。

「「「お前も弱いんだから、一緒に逃げればよかったのにな」」」

「俺が助けるって言い出したんだ! 俺だって戦うよ!」

 直巳が必死で言い返すが、バエルは興味なさそうに手をひらひらと振った。

「「「わかったわかった。我はちょっと忙しいから、死なないように隠れていろ」」」

 次の瞬間、バエルは直巳の姿を消した。これならば、下手をしなければ直巳が死ぬこともないだろう。

「「「ジッとしていろよ」」」

「くっ……わかったよ」

 直巳は言いたいこともあったが、黙って飲み込んだ。ここで言い返しては消えたことに気づかれてしまうし、居場所もばれる。

「「「さあて。残りを片付けるか」」」

「待てよバケモノ!」

 ゴウトと数人の構成員が、Bにライフルを向けていた。旧式で使い込まれた流出品ではあるが、きちんと弾は出るし、どこにだって当たれば大抵の人間は死ぬ。

「くるりと一緒に――死にやがれ!」

 ゴウト達がライフルを乱射する。無数の弾丸がBの体に吸い込まれていく。

 Bにはまったく効いていないのだが、うるさいとばかりに顔をしかめた。

「「「くるり、すぐにあいつらを黙らせるからな。少し待っていろ」」」

「黙らせるって……何するの?」

「「「うむ。すぐに全員呪い殺す。苦しむ暇すらない」」」

 相手はただの人間。今のバエルなら、全員を一瞬で絶命させることなど、わけもない。ゴウトは少し抵抗するかもしれないが、誤差にすらならないだろう。

「駄目! 殺しちゃ駄目!」

 だが、くるりはバエルを叱るように叫んだ。銃声の中でも、Bに届くぐらいの声で。

「「「そうは言うがな。今もこうして、我とくるりを殺そうとしている相手だぞ?」」」

「それでも駄目! 死んでないでしょ! 殺しちゃ駄目!」

「「「嫌だ。面倒臭い」」」

「だめー!」

 くるりが、ぎゅーっとバエルの頬を引っ張る。悪魔バエルの頬を引っ張ったのは、人類史上、くるりが初めてだろう。

「「「わかった! わかったから離さんか! 殺さなければいいのだな?」」」

「そう! ちょっとぐらい痛いのはしょうがないけど、殺しちゃ駄目! できるでしょ? バエルすごいんだから、それぐらい簡単だよね?」

「「「お? おお……そうだな……まあ、我はすごいから、それぐらいは簡単だな」」」

 くるりにおだてられて、バエルは気分が良くなる。人知を越えた力を持つバエルだが、どうも頭の作りがシンプルらしい。

 Bは杖をかかげると、ヒイラギに構成員達に向かって、高らかに宣言した。

「「「あの者達を追い返せ!」」」

 次の瞬間、地面から無数の黒い大きな手が伸びて、ヒイラギの構成員達の体を掴み、地面へと引きずり込もうとした。

 構成員達の悲鳴が響き渡る。痛みはまったくない。命にも別状もない。Aのように、恐怖を与えるのでもない。それでも、ただひたすらに精神が、魂が削られていく。

 黒い手は、彼らの体をすり抜けて、地面へと戻っていった。実際、彼らの肉体は地面に引きずり込まれてなどいない。変わらず、その場に立っている。ただ、魂の一部が地獄へと引きずり込まれていっただけだ。

 黒い手が地面に消える。ヒイラギの構成員達は、正気を失ったように騒ぎ、次々とその場を逃げだしていた。唯一、バエルの呪術から逃れた――見逃されたゴウトだけが変わらずに立っている。

「お前達、どうした!? 無事なんだろう!? 銃を持て! あの悪魔と戦え!」

 ゴウトが逃げる構成員達をとどめようとするが、無駄だった。もう、彼らの耳にゴウトの声は聞こえていない。

「バエル……何したの?」

 たしかに殺してはいないが、尋常ではない様子の構成員達を見て、くるりが心配そうにたずねる。

「「「魂の一部を奪って、心を剥き出しにしてやったのだ。今のあいつらは子供と同じ。この状況への恐怖や嫌悪感を押さえることができなくなったのだ」」」

「うーん……つまり、どういうこと?」

 バエルの説明を理解できず、くるりが頭上に大量のはてなを浮かべる。

「「「そうだな――みんな、我が怖かった。みんな、ゴウトの命令で戦いたくなかった。その気持ちに素直になったから逃げた、ということだ」」」

「へえ……そっか……みんな、本当は戦いたくなかったんだ……本当に、誰も殺さずに追っ払うなんて! やっぱりバエルはすごい!」

「「「ははっ! そうだろう! 我はすごいからな! まあ――魂の一部を奪ったのだから、多少、心は壊れたが……そんな顔をするな、くるり。あれぐらいはすぐ治る」

「むう……すぐ治るなら……しょうがないか」

 くるりは3日ぐらいで治ると思っているが、実際は20年近くかかる。寿命の無い悪魔の感覚なので、くるりが理解できるはずもない。

「「「さあて。後はあの小僧だけか」」」

 バエルが全身をゴウトの方に向ける。少女が、猫が、カエルが。そしてくるりが。8つの瞳がゴウトを見据える。

「くっ……なんで……なんでくるりのアホは、悪魔なんか呼んでるんだよ!」

 ゴウトに武器は残されていない。拳銃もライフルも弾は切れ、他に武器らしい武器は持っていない。後は、自分の能力だけだ。

「何が悪魔だ……いいぜ! 本当に悪魔なら、俺の天使の力でぶっ倒してやる!」

 ゴウトは逃げようとしなかった。自分の持っているすべての能力を発動させて、バエルに立ち向かおうとする。

「「「そうか――ここで逃げないのは褒めてやろう。我が直接に相手をしてやるという栄誉も与えてやろう――と思ったが――時間切れのようだ」」」

 Bが大きなあくびをする。

「え……バエル? どうしたの? 眠いの?」

「「「うむ。魔力が切れたようだ。すごく眠いから寝る――後は頼んだぞ」」」

 そういうと、バエルが現れた時とは逆に、地面から伸びた黒い手が、Bの衣服と王冠、杖を剥いでしまい、蜘蛛は地面へと沈んで、どこかへ消えてしまった。

 残ったのは、いつものメイド服を着て、地面に突っ伏して眠るBだけだった。

 眠るBのかたわらに、くるりが立ち尽くす。

「バエル……B? B、本当に寝ちゃったの!?」

 くるりが体を揺さぶるが、Bはまったく起きる様子がない。完全な魔力切れだ。現世に存在しているだけで限界。睡眠というよりは仮死状態に近い。かなり危険な状態で、普段はここまで無理はしない。Bがここまで頑張ったのは、もちろん、くるりを助けるためだ。

「ありがとう……B。後は、頼まれたからね」

 くるりは地面に突っ伏していたBを仰向けにすると、顔についていた泥をぬぐった。

「――ははっ――なんだよそれ――ここで終わりとは――俺もついてるよなあ」

 その様子を見ていたゴウトは、バエルに感じていた恐怖をぬぐうように笑い始めた。

「力を失ったユアとカサネに用はねえ……逃げてった使えない連中もだ……結局、最後にお前さえ、クローバーさえ捕まえれば、俺の……俺と親父の勝ちなんだよ……」

 ゴウトは余裕の表情で、くるりに向かって飛びかかった。くるりは身を守るために、しゃがんで頭を抱えた。魔術が使えない今、くるりにできるのはこれぐらいのことだ。

「助けにきたメイガスも悪魔も、全部無駄だったなあ! くるりぃ!」

「――忘れてんじゃねえよ!」

 ゴウトの頬に、右のストレートが綺麗に決まる。ゴウトが走っていた勢いのおかげで、強烈なカウンターになった。

「――ごっ」

 ゴウトは痛みを感じる暇もなく、ただ強い衝撃で地面に倒れた。ゴウトが顔を殴られたのは、生まれて初めてだ。誰にも、一樹にも殴られたことはない。

「な……何だ……くるり……じゃない……」

 ゴウトは混乱しながら、急いで起き上がる。血の味がする。口の中が切れていた。

 くるりをかばうように立っていたのは、直巳だった。

 ずっと、バエルに姿を消されていたので、ゴウトはすっかり、その存在を忘れていた。

 直巳は、ずっとここにいて、一部始終を見ていた、聞いていた。

 バエルの最後の言葉――後は頼んだぞ――あれは、くるりに向けてではない。直巳に向かって言ったのだ。

 直巳は、くるりの前に立つと、両方の拳を構えた。伊武のように格好よくはない。もちろん、強さだってかなわない。それでも直巳は男で、目の前に敵がいて、後ろには守るべき少女がいる。だから、直巳は拳を構えた。

「立てよ、ゴウト。最後は俺とやろうぜ」

「ヒッ――ヒヒッ」

 ゴウトは直巳を見ながら、加虐的な笑い声をあげた。これまでよりも激しく、いやらしい笑い声だった。これが、彼の本性なのだろう。

「ぼ、僕の――僕の顔を殴るなんて――お、お前が初めてで――さ、最後だよ……ヒッ!」

 引き攣るような笑い声。笑い声というより、あれがゴウトという獣の鳴き声なのだろう。

「椿……お望みどおり! くるりの前でぶっ殺してやるよ!」

「俺は伊武やバエルみたいに強くはないけどな! ゴウト! お前には負けない!」

 残ったのは2人だけ。これが最後だ。直巳とゴウトの戦いが始まった。

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