第二十六章
翌日の朝。直巳は雨音で目を覚ました。昨晩からの雨が、まだ降り続いている。
朝だというのに暗い空が、直巳の気分をさらに憂鬱にさせた。
くるり達とは、もう関わらない――それでいい、そうするべきだ。自分達には、何の利益もないのだから――わかっているはずなのに、心にずっと引っ掛かっていた。
直巳はベッドから出ると、のろのろと着替えて、洗面所へ向かう。良く眠れていないせいか、目の下にクマができていた。
顔を洗い、歯を磨き、髪をセットする。どれも毎朝やっていることなのに、腕が重くて仕方がなかった。
リビングに顔を出すと、直巳以外は全員揃っていた。誰も、何も喋らない。元々、楽しく会話をするような人達ではないのだが、今朝は、何だか空気が重かった。
「おはようございます、直巳様。今、朝食の準備をいたしますね」
ただ、Aだけはいつもと変わらぬ調子で、何の価値も無い、軽薄な愛想を振りまいていた。
直巳はAの用意した朝食を食べる。食欲はない。ただ、習慣として、口に押し込んだ。
Aが食後のコーヒーを差し出すと、直巳はそれも義務的に口を付けた。
「直巳様。今朝はどうにも、元気がないようですね。どうされましたか?」
Aがしれっと聞いてくる。空気を読まない発言だが、空気が読めないわけではない。ただ、そんな気づかいをする価値無し、と思っただけだ。
「……寝不足なんだ」
直巳が面倒臭そうに答える。
「さようでございますか。では、目覚ましにもう少しコーヒーをいかがですか?」
Aは笑顔で、直巳のカップにコーヒーを継ぎ足してくる。本当に、どこまでも嫌な奴だ。
「――ありがとう」
ここで直巳が突っかかっても、Aは喜ぶだけだ。そして、後は正論でたたみ込んできて、直巳はさらに嫌な気持ちになり――Aはさらに喜ぶ。だから、相手にしないのが一番良い。
だが、それで素直に引き下がるようなAではなかった。
「寝不足の原因は、昨晩のお話でしょうか」
黙ってみていた伊武が、ピクリと反応をする。これ以上、Aが直巳に突っかかるつもりなら、黙っているつもりはなかった。
だが、Aは気にせずに言葉を続ける。
「もう1つ、お知らせしておきたいことがあります。つい先ほど、ARC商会が新たな依頼を出しました。クローバーの抹殺依頼です。報酬は天使遺骸2本。それを受けてか、ヒイラギも報酬を天使遺骸3本に引き上げました。クローバーの奪い合いですね」
天使教会も、ヒイラギの仕掛けに気づいたということか。ここでヒイラギが報酬を引き上げたのを見れば、さらに怪しむだろう。だが、どれだけ怪しんだところで、クローバーが手に入らなければ証拠はない。
先にあの少女達を手に入れた方が、この事件の真実を決めることができる。
そして、それはヒイラギと天使教会の間で行われているのだ。直巳達は関係がない。
「天使教会が本格的に参戦してきました。意味もなく関わるにはリスクが大きすぎる。これでもう、諦めもついたでしょう」
犯人を捜している時でさえ、天使教会からは距離を置こうとしていたのだ。犯人がわかり、何も得るものが無いとわかっている今、どうして天使教会と敵対する必要があるのか。
Aは直巳を慰めようとはしない。完全に希望を叩き折って諦めさせようとしている。
そして、希望を叩き折られた直巳から出たのは、こんな言葉だけだった。
「……もういい」
その言葉を聞くと、Aは満足げに微笑み、一転して優しい声でささやきかけた。
「直巳様。学校が終わったら、少し気晴らしをしてきてはいかがでしょう。たまには、外で遊んだり、食事をしたりすると、気分も変わるものですよ」
「……そうだな」
直巳が気のない返事をすると、Aはさらに続けた。
「ぜひ、そうなさってください――今は、特にするべきこともないのですし」
昨日までは伊武の犯人捜索をしていた――でも、今は何もない。
調べることもない。探すべき人間もいない。戦うべき相手もいない。直巳達が関わっている事件は、何一つないのですよと、Aは言っている。
「――ね?」
直巳が黙っていると、Aが笑顔のまま、直巳の顔を覗き込んできた。
Aは直巳を励まそうとしているわけではない。直巳を責めているだけだ。
決まったことを、いつまでも悩むな。甘えるな。態度に出すな――。
「――わかってる。わかってるよ、A」
直巳は精一杯、冷静な声で返事をする。手に持ったコーヒーカップが、震えていた。
「椿君……学校……行こう……」
伊武は立ち上がると、自分の食器をさっさと片付けて、直巳を連れ出そうとした。いつも家を出る時間より、15分は早いが、Aの相手をしているよりはマシだろう。
「おや? 今日はずいぶんとお早い――」
「――だから?」
伊武がAを睨み付ける。黙れ、殺すぞと、口で言うよりも明確に伝わっただろう。
Aはそれ以降、一言も話さなかった。見送りも、黙って頭を下げるだけだった。
ちなみに、それでもAが直巳に何か言おうものなら、伊武は本気でAを殺すつもりだった。他の悪魔が止めようとすれば、その悪魔も一緒に殺す。それがアイシャだったとしてもだ。
Aは伊武の本気を見抜いた上で、直巳を煽るのをやめた。ただし、普通に話すこともやめた。嫌味ったらしく、一言も口を効かなくなった。どこまでも、人の気に障ることをする。
伊武は直巳を無理矢理に連れ出し、学校へと向かった。
「伊武。連れ出してくれて、ありがとうな」
直巳は力無く笑いながら言うと、それっきり何も言わなかった。
伊武は、そんな直巳の横顔をジッと見つめていた。
伊武にも、直巳がくるり達のことで悩んでいるのはわかる。さすがの伊武だって、彼女達を攻撃する気は失せたのだ。直巳はさらに気にしているだろう。できることなら、助けてやりたい、何とかしてやりたいと思っているのだろう。
そして、それはやってはいけないのだと思い――葛藤しているのだろう。
直巳は悩むべきだと。悩んで、自分で決めるべきだと、伊武は思う。
だが、アイシャの言葉だけで、こんなに悩むというのも、伊武は気に入らなかった。
「ねえ……椿君……」
「……ん?」
直巳はいつもより、少し遅れて返事をする。人と話すような気分ではないのだろう。
だが、伊武はそれに気が付かないふりをして話し始めた。
「どうすれば……正しいのか……なんて……答えは……ない……よ……」
「……伊武?」
伊武は突然、何を言い出したのか。直巳は怪訝な表情をするが、伊武は無視して続けた。
「アイシャの……考え……は……たしかに……正しい……このまま……何もしなければ……アイシャの……言うとおりに……なる……よ……」
くるり達と関わりを持たない。もう得られるものがないから。そうすれば、直巳達は何も失うこともない。それがアイシャの考えだ。リスクとリターンを天秤にかけた、正しい答え。
「でも……ね……椿君の……考えも……正しく……できる……の……」
「正しく――できる?」
正しい、正しくない、ではない。正しくできるのだと、伊武は言った。
「うん……無理矢理に……でも……正しくすれば……いいの……何も……しないよりも……良い結果に……なれば……いい……の……」
「良い結果って……アイシャの考えより、良い結果なんて……」
直巳が自信なさげに言うと、伊武は静かに首を横に振った。
「それは……椿君が……決めて……いいん……だよ……アイシャは……駄目って……言うかも……知れない……けど……それはそれ……」
「え……え?」
よくわからない、という顔をしている直巳。伊武は、にこっと笑いながら言った。
「私は……椿君に……ついていく……よ……殺すし……死ぬ……よ」
それっきり、伊武は何も言わなかった。
直巳は学校に到着してからも、ずっと伊武の言葉の意味を考えていた。
新しい悩みに気を取られたせいで、直巳の気持ちは少しだけ軽くなっていた。少なくとも、何かを考えられるぐらいには。
直巳達が学校に行った後のこと。
Bは1人で高宮邸を抜け出していた。
向かったのは白詰草の草原。何度も来た場所。みんなで遊んだ場所。
体の小さいBは、時間をかけて、何度も道を間違えながらも、草原に辿り着いた。
広い草原。Bの他には誰もいない。
そのまま、Bはしばらく草原に立ち尽くしていた。
くるりもユアもカサネも、誰も来なかった。
いくら待っても、誰も来なかった。
それでも、Bはずっと、この場所に立ち尽くしていた。
そのまま、1時間ほど経ったところで、Aが迎えに来た。
「――ここでしたか。探しましたよ、B」
「おー……えー……」
「帰りますよ」
Aは、Bの返事を聞かず、その手をとって、高宮邸へと戻っていった。
Bは途中、何度も草原の方を振り返っていた。
「もう、何もありませんよ」
「……くるり」
Bが名前を呼ぶと、Aは鼻で笑った。
Bが人の名前を覚えるなど、珍しいこともあるものだ。
「もう、会えませんよ」
そして、Aはククッと笑ってから、Bに向かって言った。
「今のままなら、ですけれどね」




