第十九章
翌日の夕方。直巳は帰宅すると、Aに誘われて、一緒に白詰草の草原に来ていた。いつもBを迎えに来る時間より、相当早い。
「A、こんな早く来てどうしたの?」
「たまには、私もくるり様達と遊びたいなと思いまして」
Aは離れた場所で遊んでいる、くるり達とBを見ながら言った。
「――嘘だろ」
明らかな嘘に、直巳がなじるような口調で言う。
「ええ、嘘です。私、別に子供に興味ありませんので。ただ、もらい物の処理ぐらいはできるかなと思いまして」
Aは家を出る時から持っていたバスケットを開けると、中からリンゴを取り出した。
「リンゴ?」
「はい。ちょっと余ってしまいましたので、くるり様達にご馳走しようかなと。捨てるよりは良いでしょう?」
「ふうん……まあ……喜ぶとは思うけど」
Aがわざわざ、そんな親切なことをするだろうかと、直巳は疑っている。それでも、リンゴを食べさせるだけならば特に害はないはずだ。
「リンゴに……変な細工とかしてないよね?」
そもそも、リンゴ自体に害がなければの話だが。
「私は魔女ではなく、悪魔ですから。毒リンゴではありませんよ」
Aは笑いながらポケットに手を入れて、折りたたみ式のナイフを取り出すと、リンゴと一緒に直巳に渡した。
「俺が剥くの?」
直巳だってリンゴの皮むきぐらいはできる。だが、Aだってできるはずだ。どうしてわざわざ、自分にやらせようとするのだろうか。
「私がやっても良いのですが、直巳様が剥いてあげた方が、あの子達も喜ぶでしょう。格好良いところも見せられます。それだけですよ。さ、お願いします」
直巳は納得したような、してないような顔で、ナイフの刃を出した。左手にリンゴを持ち、右手でナイフの切れ味を確かめながら、ゆっくりと皮に刃をいれて、リンゴを回していく。
ナイフは非情に鋭い切れ味になっていた。まるでカミソリのようだ。ここまで鋭いと、硬いものを切ったら刃が欠けてしまうだろうが、果物や柔らかいものを切るのにはちょうどいい。ただ、間違って指を切ったら、相当深い傷になってしまうだろうなと思い、慎重に皮むきを進めた。
直巳が半分ほどリンゴをむいたところで、Aが立ち上がって子供達を呼んだ。
「みなさん! 直巳様がリンゴを剥いてくれますよ。一緒に食べましょう!」
Aの言葉を聞くと、くるり達はBの手を引っ張って、直巳の元へ駆け寄ってきた。
「A、呼ぶの早いよ。まだもうちょっと――」
直巳が笑いながら言うと、Aは突然、直巳の右手を掴んだ。
「ん? A? 危ないよ?」
驚く直巳に向かって、Aはにこっと笑った。
「失礼しますね」
その瞬間、Aは掴んだ直巳の右手を、思いきり押し込んだ。
ナイフがリンゴの表面を滑り、そのまま直巳の左腕を切り裂く。
「なっ――」
突然のことに、直巳は声もでない。ただ、他人事のように、自分の腕から血が溢れていくのを見ているだけだ。徐々に、しかし、大量の血液が流れ出してきている。
「A……お前、何を……」
「大変です! 直巳様が怪我をしました! ナイフを滑らせて……血が止まらない!」
Aは直巳の言葉をかき消すように、子供達に向かって大声で叫んだ。
「えっ! なおにーちゃん!?」
くるり達が、すぐに走り寄ってきた。
「だ、大丈夫だから……あっち行ってな」
直巳は、子供達に怪我を見せまいと右手で傷を隠そうとするが、腕からこぼれる血液は隠しようも無かった。
そして、Aは直巳の左腕を掴んでかかげると、少女達に傷を見せつけた。
「直巳様! こんなに深い傷が……これは、すぐに治療をしないと!」
子供達も、その傷をはっきりと目にした。もう隠せないだろう。
どうして、どうしてAはこんなことをするのか。直巳が混乱していると、くるりが直巳に近寄ってきた。
「なおにーちゃん! すぐに! すぐにだいじょうぶになるから! ね!?」
そういうと、くるりは直巳の傷口に触れた。自分の手が血塗れになることも構わずに。
「駄目だよ! くるりちゃん、それは駄目!」
ユアは、くるりを引きはがそうとする。汚れてしまうからとか、傷口にばい菌が入るから触っちゃ駄目だとか、そんな注意の仕方ではない。もっと、切羽詰まった物言いだった。
しかし、くるりはユアの言うことを無視して、直巳の傷に触れ続けた。
「――痛いのは、全部くるりがもらってあげるからね」
直巳の傷口に触れていたくるりの手が、ぼんやりと輝き始めた。まるで、直巳が神秘呼吸を使う時のような――何をしているのかはわからないが――1つだけはっきりしている。
今、くるりが使っているのは、間違いなく魔術だ。
それで直巳は、ようやくAの意図に気が付き、彼女を見る。
Aはただ、冷たい目で、くるりの手元をジッと見つめていた。
そうか――A――お前は、これが見たかったのか――。
「痛いの痛いの、とんでいけー」
くるりが笑顔で言うと、直巳の傷口が徐々に消えていった。塞がっていったのではない。本当に消えていったのだ。傷などなかったかのように、直巳の腕が元に戻っていく。
そして、ものの数秒で直巳の傷は完治してしまった。
直巳の傷が治ると、くるりはゆっくりと手を放した。
「ね? もう痛くないでしょ?」
直巳の傷は、完全に治っていた。痛みも、傷跡すら残っていない。怪我をしたという痕跡は、血で汚れた衣服だけだった。
ユアを見ると、泣きそうな表情でうつむいている。彼女は、くるりの力を隠したいから、必死で止めていたのだ。
こんな力、あるわけがない――あるとすれば、それは――。
「くるり」
直巳が優しく言って、あまり汚れていない左の手の平を、くるりの頭に近づける。
くるりは叩かれるのかと思い、一瞬、ビクッとして目をつむったが、直巳の手が優しく頭に乗せられると、おそるおそる目を開いた。
直巳は、できるだけ優しい声を、笑顔を、くるりに向けた。
「ありがとう。くるりのおかげで助かったよ。すごい魔術だね」
「なおにーちゃん……魔術……怖くないの? 気持ち悪くないの?」
くるりは、まだ怯えている。きっと、この力のせいで嫌な思いもしたのだろう。
直巳は、ゆっくりと首を横に振った。もう、言ってもいいだろう。
「怖くないよ――俺も、魔術師だから」
その言葉を聞くと、くるりはパァっと表情を輝かせた。
「ほんとに!? なおにーちゃん、魔術師なの!?」
「ああ、本当だよ。くるりみたいに、人の怪我を治すような、すごい魔術は使えないけどね」
直巳が言うと、くるりは少し気まずそうな顔をして、左腕を後ろに隠した。
「いや……その……へへ……」
「――違いますよ。くるりちゃんの能力は、治癒なんかじゃありません」
そう言ったのは、ユアだった。ユアはくるりの隣りに立つと、後ろに回した左腕を掴んで前に出し、直巳に見せてきた。
「ユア! やめろって!」
くるりは抵抗するが、ユアにはまったくかなわない。ユアは相当、力が強いのだろうか。
そして、直巳の目には、嫌でもくるりの左腕が目に入る――彼女の真っ白なシャツには、赤い血が滲んでいた。
「え――なんでくるりが血を――」
直巳が驚いた顔でたずねると、ユアは冷たい表情で言った。
「ショウジョニエ――それが、くるりちゃんの能力です」
ショウジョニエ。聞いたことのある響き――いや、それどころではない。直巳は、何度も似た能力を目にしている。
「ショウジョニエ――天使贄みたいなものか?」
直巳の天使贄、という言葉を聞くと、ユアは、「へえ」と、感心したように言った。
「知っているんですね。ええ、天使贄と似ています。あれは、自分の傷を天使に肩代わりさせる魔術です。字の通り、天使を生贄にして。ショウジョニエは、少女に傷を肩代わりさせるんです――少女を生贄にして。だから、少女贄なんです」
「――なるほど」
すべてわかったとばかりに、Aが口を開いた。もし、ここにくるり達がいなければ、直巳はAを殴っていただろう。
「もしかして、なのですが。あなた達は、天使の子供達なのですか?」
Aが道をたずねるぐらいの気軽さで、ユアにたずねた。
それで、直巳はAの行動の意図を察した。
何がきっかけかはわからないが、Aは彼女達が、天使の子供達なのではないかと疑っていたのだろう。そして、その能力も推測していたのだ。
それを確かめるために、無理矢理にでも能力を使わせるために、直巳を怪我させたのだ。
「――そうです」
ユアは、はっきりとそう答えた。
その瞬間、直巳でもわかるぐらいにユアから強い魔力が漏れた。見た目にはわからないが、何かの魔術を使ったようだ。
「だとしたら、どうするんですか?」
そして、くるりの手を引いて、直巳達から距離を取る。
ユアの雰囲気が変わった。最初会った時と同じ、野生の小動物のような警戒心。
「待ってくれ! どうもしない! 俺達は、君達に危害を加えるつもりはない!」
Aが何か言う前に、直巳が叫んだ。Aは何も言わなかった。
ユアは、直巳の足下に転がっているナイフを見ながら言った。
「……なら、その足下のナイフ。こちらに渡してください。そんなものをちらつかせて信用しろなんて……言いませんよね?」
「……わかった。渡す」
直巳は落ちていた折りたたみ式のナイフを拾うと、シャツで血をぬぐってから刃をしまい、ユアの足下に投げた。
「魔術師が、ナイフ1本渡したぐらいで無力になるとは思えませんが」
ユアは直巳から目を離さずに、足下のナイフを拾うと、再び刃を出して構えた。
「変なことをしたら、刺しますから」
ユアの手元は震えている。本当にこれで勝てるとは思っていないだろう。それでも、そうせずにはいられないほど、追い詰められているのだろう。
「まあまあ。そう怒らないで。とりあえず、お話をしましょうよ」
Aは薄ら笑いを浮かべながら、ユアをなだめようとする。
「お話……? 何を話すと言うんですか?」
ユアに睨まれても、Aは笑顔を崩さない。
「あなた達の正体から目的まで、何でもですよ」
「話すと……思いますか?」
「話してもらえれば、力になれることもあるかと思います。私達は、天使の子供達をどうこうしようとは思っていませんから」
「……話さなければ?」
Aは笑顔のまま、地面に落ちていた血まみれのリンゴを拾い上げた。
「ま――そう言わずに、ゆっくりお話しましょうよ。リンゴでも食べながら、ね?」
Aの笑顔はユアではなく、くるりに向けられていた。
ユアはそれで、Aの言いたいことを察したのだろう。くるりをちらりと見てから、あきらめたように言った。
「……わかり……ました」
「はい。ありがとうございます。ではまず、あなた達の目的から教えてください」
にこやかな笑顔の悪魔。血まみれのリンゴが、よく似合っていた。




