第十七章
翌日の夕方。Aが公衆電話から、とある携帯電話へ連絡をする。
喉に手を当ててゴリゴリといじり、声色を変える。できるだけ低い、男の声に近づけた。
相手はすぐに出たが、公衆電話からの発信に、応対する声はあきらかに怪しんでいた。
「……もしもし」
「どうも。若林さんですか?」
Aが電話をした相手は若林だった。若林の携帯番号は、直巳がAに教えた。
「……どちら様ですか?」
若林は声の主を知らない人間だと判断すると、さらに警戒心を強めた。
「名前は明かせませんが、天使教会の者です。若林神父の件で、ご連絡を」
「天使教会……お父さんの……そうですか」
天使教会と父の名前を出されると、若林も話を聞くしかない。
「でも、どうして公衆電話から? それに、どうして私の番号を?」
「言えません。質問するのは、こちらだけです。きちんと言うことを聞いてもらえれば、あなたのお父様を治療して差し上げます」
「――嘘! 天使教会が、そんなことをするわけが!」
予想外の話に、若林が大きな声を出す。天使教会が父を助けるわけがない。それぐらい、天使教会のことを信用していないのだろう。
「こちらにも色々あるんですよ。お父様に治って欲しくない者もいれば、治って欲しい者もいる。そして、後者は表だっては行動できない。おわかりいただけますか?」
若林は少し悩んだ後、声を潜めて答えた。
「……話しを続けてください」
「よろしい。私は、勝手にあなたの父親を治療しにいきます。あなたにご迷惑はおかけしませんし、この電話もなかったことになります。あなたはただ、お父様の病室の番号、位置。それから、天使教会の警備が手薄になる時間帯を教えてください」
Aが言うと、若林は黙り込んだ。この人は、本当に天使教会の人間なのだろうか? そんな情報を伝えて、もし、天使教会ではなかったらどうしようかと迷う。たとえば、魔力暴走の証拠を押さえたいマスコミだとか、他の良くない目的で近づく人間だったら、どうしようかと考えているのだ。
なかなか口を開かない若林にたいして、Aは好感すら覚えた。これぐらいで良い。そんな簡単に人を信用して、ペラペラと喋るようではつまらない。
「両脇腹の魔力暴走、かなりひどいのでしょう? このまま放っておいても死ぬだけです。それならば、私に賭けてみませんか?」
Aが的確に症状を言い当てると、若林はあきらめたように言った。
「そこまで、知っているんですね……あの、一度お会いすることは――」
「できません。助けるか、助けないか。あなたが決めることはそれだけです」
「待ってください! お母さんにも相談を!」
「駄目です。今、答えてください。あなたはお父様をどうされたいのですか? このまま、天使様の元に送りたいのですか? それとも、助けて普通の生活に戻りたいのですか?」
「それ……は……その……」
まだ煮えきらない若林に、Aは仕方なく、とどめを刺すことにした。
「若林神父は、天使降臨に出会ったのではありません。誰かに襲われたのです。ですから、このまま死んだとしても、天使様の元には行けないでしょう。もし、若林神父が死ねば、私はこのことを公表します。残念ですが、お父様は死して名誉すら手に入れられないでしょう」
Aが残酷な言葉を紡ぐと、若林は黙り込んだ。ただ、かすかなすすり泣きが聞こえる。
Aは彼女が落ち着くのを待つことにした。これを直巳に聞かれたら、また嫌がられるだろうなと思いながら。
そして、しばらくの沈黙が続いた後、若林が口を開いた。
「――わかりました。お願いします」
「よろしい。では、私の質問に答えてください。まずは――」
そしてAは、病室の番号、位置、階数、窓の場所から見取り図、警備が薄くなる時間帯まで、すべてを聞くことに成功した。
病室は8階にあり、深夜は警備も少ないとのことだった。Aは直巳と立てた作戦の中から、使えそうなプランの一つを選択し、実行可能だと判断した。
「――わかりました。ご協力ありがとう。それでは最後に頼み事があります」
「はい。なんでしょうか」
「今晩、夜中の1時に携帯を鳴らします。そうしたら、ゆっくり病室のドアを開けてください。できるだけ長い時間です。そして、あなたは部屋に入らないこと。忘れ物をしたとか、そういう素振りをして、またドアを閉めてください」
「あの……それはいいんですけど、警備の人いますよ? どうやって入るんですか?」
「大丈夫です。とにかく、あなたがドアを開けてください」
「――わかりました」
「よろしい。そして、もう一度携帯を鳴らしたら、またゆっくりとドアを開けて、今度はあなたも病室に入ってください。その時、お父様に何があっても、気づかないようにすること」
「何があっても――治っていてもですか」
「ええ。治っていても、いなくてもです」
「……わかりました」
「それでは、今晩――もし、あなたがドアを開けられなかったら、お父様は助かりませんよ」
そういうと、Aは公衆電話の受話器を置いた。
「どうだった?」
外で待っていた直巳に声をかけられると、Aはしっかりとうなずいてから返事をした。
「今晩、プランCで進めます」
若林神父の救出プランは3つ考えていた。まず、プランAは窓からの侵入。これは8階なので無理。プランBが正面突破。プランCは正面からの潜入だ。
そして、若林から聞いた状況から、プランCで実行することになった。これには、Bの協力を得る必要がある。
「わかった。なら、帰ってすぐに準備をしよう」
直巳達は椿家に戻ると、素早く準備を済ませた。
直巳はAに、念入りに体を洗え、ただし石けんなどは使うなと言われたので、ひたすらにシャワーを浴びて、シャツも下着も、おろしたてのものを身につけた。
準備が終わり、Aが用意した軽自動車に乗り込む。後部座席には、Aが用意した潜入用の変装グッズの入ったカバンと、Bが座っていた。
直巳達は病院に着くと、外来の玄関から入り、入院棟へと移動した。
早めに病院に入らないといけないのだが、今度は深夜1時まで、どこに隠れるか、というのが問題になってくる。ちなみに、トイレにこもるというのは難しい。病院のトイレに長時間こもっていると、中で倒れているのではないかと思われて、すぐにナースが様子を見に来る。とりあえず、潜入用の服装に着替えるだけで、トイレはすぐに出た。
結局、Aが使っていない病室を見つけ、そこに隠れることにした。夜になれば清掃も来ないし、巡回が来ることもない。万が一に見つかったとしても、Bがいる。
全員、そのままジッと時間がすぎるのを待った。Aは数時間の間、何も飲み食いせず、彫像のように静止し、気配を消していた。BはAに寄りかかり、スヤスヤと眠っていた。
直巳には、この何もせずに待っている時間がとにかくつらかったのだが、これも大事な作戦の一部だと言い聞かせて、静かに時が経つのを待った。面白いもので、慣れてくると時の経つのが早くなってくる。
そして、病院内が暗くなり、深夜の1時まで、後5分となった。
「B、起きなさい」
Aが、先ほどからずっと眠っているBを起こす。
「……お……おお?」
Bは起きて辺りを見ますと、見慣れぬ風景であることに驚いていた。眠る前に見ているはずなのだが、そのことを忘れるぐらい、Bにとっては当たり前のことだ。
「B、直巳様の姿を消してください。できるだけ長くです」
直巳達の立てた作戦は、人の姿を消せるBの力を使って、正面から入ることだった。人の姿を消すのは、Bの特技の1つだ。だが、姿を消していても、ドアを開ければ、ばれてしまう。そこで、出入りでドアを開けるのは若林に任せることにしたのだ。
「おー……なお……けす……」
Bが眠い目をこすりながら、人形の手を直巳に向ける。しばらく、人形の口をパクパクさせていたと思うと、突然、直巳の姿が消えた。
Aは直巳がいるであろう位置に、小声で言った。
「3分後に若林様に連絡をして、ドアを開けさせます。それまでには病室の前に」
「ああ、わかった……これ、本当に全部終わるまで消えてるんだろうな?」
「Bを信用するしかありません。魔術の腕はたしかですから」
そのかわり、頭に問題がある。オーダーどおりの魔術をかけてくれたことを祈るしかない。
「……危なかったら、助けにきてくれよ。じゃ、言ってくる」
そういうと、直巳は部屋を出て、若林神父の病室へ向かった。
姿が見えないとは言え、物には触れるし、足音もある。誰にも気づかれないように歩くというのは、なかなか難しかった。
8階はすべて個室病棟だ。似たような部屋が並んでいるが、とある部屋の前に、スーツ姿の男が2人立っているのがわかった。あれが天使教会の人間だろう。わかりやすい目印だ。
直巳は部屋に近づくと、自分の口と鼻を手で覆い、呼吸音を聞かれないようにした。
Aが直巳にシャワーを浴びさせたのは、直巳の匂いを消すためだ。透明だからこそ、あり得ない匂いがしては怪しまれる。シャンプーや石けんは駄目。衣服から洗剤や柔軟剤の匂いがうつってもいけないので、おろしたてのものを身につけた。食事や飲料も、匂いの残るものは避けていた。冬場で汗をかきにくいことは幸いだった。
護衛の男達は、辺りを油断なく見張っている。直巳はたまに、男達と目が合ったような気がして、生きた心地がしなかった。自分は透明なのだと、何度も自分に言い聞かせた。
時間としては、ほんの30秒程度だっただろう。直巳が部屋の前で待機していると、若林がやってきた。
そして、護衛を無視して、部屋のドアを開けようとしたところで、呼び止められた。
「何のご用ですか? ご家族の方とは言え、無闇にお会いさせるわけには」
護衛の男が言うと、若林はヒステリックに言い返した。
「娘が病気の父に会うことの、何が悪いんですか!? あなた達に、それを止める権利があるんですか!?」
いきなり大声を出され、護衛の男は怯む。ここで目立って人でも集まってきたら、それこそ面倒なことになってしまう。
「わ、わかりました……わかりましたから、どうかお静かに」
若林は怒りを露わにしたまま、護衛を睨み付ける。たいした演技だなと直巳は感心していたが、護衛に対する言葉は、若林の本心だった。護衛は若林が病室に入るたびに、同じような注意をしてくる。そのせいで溜まっている怒りは、本物だった。
若林が護衛を左右にどかして、ドアにゆっくりと手をかける。直巳も、それに合わせてゆっくりとドアに近づく。
若林はドアを全開にすると、そのまま動かなくなった。
1秒、2秒、3秒。全開になったドア。さすがに護衛も止めようとしたところで、若林は、自分の横を通り過ぎて部屋に入る、「何か」の存在を感じた――もちろん、直巳だ。
若林は、「何か」が部屋の中に入ったのを確認すると、今度はあっさりとドアを閉めた。
「あ、トイレに携帯忘れちゃった」
そういって、護衛が何か言う前に、足早にその場を去ってしまう。
顔を見合わせる護衛。彼らは、若林の不可解な行動が理解できない。。
直巳は無事、若林神父の病室に潜入した。無事とはいえ、護衛の真横を通り過ぎたのだ。緊張のあまり、心臓が破裂しそうに高鳴っている。
気持ちが完全に落ち着くのを待っている時間はない。直巳は一度だけ深呼吸をして、神秘呼吸を使うために気持ちを落ち着けることにした。鼻に、病院独特の匂いが吸い込まれていく。
まだうるさい心臓を軽く叩き、部屋を見渡した。カーテンの隙間から入ってくる月明かりや、電子機器の光だけが頼りだ。ただ、目標は大きなベッドなので、見逃すことはない。
直巳はベッドに近づき、若林神父の顔を見た。人の良さそうな、小太りの中年。いかにも、友達のお父さん、という感じだ。暗いので、若林に似ているかまではわからないが。
しばらくの間、若林神父の寝顔を見ていたが、薬でも効いているのか、魔力暴走の苦しみにうめいている様子もなかった。軽く顔に触れて、起きないことを確認すると、直巳は掛け布団を剥がす。幸い、彼が着ているのは脱がしやすい病院服だった。
直巳は彼の病院服を脱がすと、彼の両脇腹はかすかに光っていた。光の中に、人間の皮膚とは思えない異様な症状を確認する。間違いなく、魔力暴走だった。
すぐに治療してやりたかったが、まずは、本当に伊武と同じ症状なのかを確認する。
魔力暴走の起きている箇所は両脇腹なのだが、伊武よりも位置は高かった。あばら骨に近い位置と言っていい。
そして、魔力暴走の症状自体は、伊武よりも重いような気がする。伊武よりも激しい異変が起きているように見える。あくまで見た目の感想だが。この後、実際に魔力を吸収すれば、その量で伊武より症状が重いかどうかはわかる。
大体の状況を確認したところで、直巳は治療を行うことにした。部屋のドアが閉まっていることを確認し、直巳は左手で彼の右脇腹に触れた。
「神秘呼吸――吸収」
小声でそう言いながら、左手に意識を集中させ、魔力を吸い取る。相当な魔力量で、やはり伊武よりも症状は重い。
直巳は一気に魔力を吸い取る。右脇腹から魔力の気配がなくなると、そのまま左の脇腹に触れて、魔力の吸収を始めた。
連続で行うのは疲弊するし、溜めた魔力の逃がし場所もない。厳しい治療だったが、今回に限っては、多少つらくても無理矢理に遂行するしかない。
そして、左の脇腹の魔力もすべて吸収し終わった。
無事に治療が済んだのはいいのだが、ずっと待機していた疲れや緊張感も合わさって、ドッと疲れが押し寄せてくる。
まだだ。まだ終わっていないと、直巳は自分に言い聞かせて、気合を入れ直した。
音を立てないように、大きく呼吸をしてから、若林神父に話しかけた。
「若林神父――起きてください」
耳元で、小声で話しかけながら、頬をペチペチと叩く。
「う……うん……」
「起きて……起きてください!」
少し強めに頬を叩いたところで、若林神父の目が、うっすらと開いた。
その瞬間、直巳は彼の目を手で覆い、無理矢理に閉じさせた。透明だ、ということを知られないようにするためだ。
目を隠された若林神父は、ようやく目が覚めたようだった。
「な、なんだ……誰だ?」
「大丈夫、そのまま。目は、塞がせてもらいますが……お静かに。いいですね?」
直巳が耳元で言うと、若林神父は、黙ってこくこくとうなずいた。
「あなたは魔力暴走で倒れて、ずっと眠っていたんです。覚えていますか?」
「魔力暴走……? 私は魔力暴走を起こしていたのか?」
「そうです。それを魔術師の僕が治療しました。天使教会には内緒で。あなたは、僕とは会わなかった。あなたは勝手に治った、いいですね?」
「……わかった。天使教会の神父が、魔術師に治療されたなどとは言えないよ。きっと、私には天使様のご意志で元に戻ったのだろう……」
「そういうことにしてください」
「誰だかは知らないが、ありがとう。このことは内緒にしよう。お礼はいずれ――」
「お礼はいりません。ただ、あなたが魔力暴走にかかった時のことを教えてください。それが天使降臨だったのか、それとも、別の理由なのか。できるだけ詳細に」
直巳がたずねると、若林神父は少し黙り込んだ後、ゆっくりと話し始めた。
「誰にも言うつもりはなかったのだけどね。君と私は会わなかった。これは独り言だ」
「あなたは何も言っていない。僕は何も聞いていない」
直巳が言うと、若林神父は、「そうだな」と言ってから、語り始めた。
「あれは何日前か……眠っていたからわからないが。夜、帰宅する途中のことだ。いつもどおりだったから、20時から21時の間ぐらいかな……この辺はあいまいだ、すまないね」
「いえ。その辺は大丈夫ですので、続けてください」
「そうか。私は突然、誰かに襲われてね。脇腹がおかしいと思った時には、もう地面に倒れていた。それが魔力暴走だなんて、想像もしなかった。経験したことがないからね。段々、意識が遠くなっていって……目が覚めたら、今こうなっている……それだけの話しだよ」
「誰かに襲われたんですね? 天使降臨ではない……間違いありませんか?」
「ああ、間違いない」
神父は、はっきりと言った。予想はしていたことだが、確証が取れたことは大きい。
そうなれば、後は推測すらできなかったことを聞くだけだ。こんな危険を冒してまで、直巳が聞きたかったことを。
「若林神父。あなたを襲ったのは、誰ですか?」
「知らない……知らない男だった」
「男? 男で、間違いないですか?」
「出会った瞬間に、なんだか嫌な笑い方をしていたのを良く覚えている。あの声は男だ。背丈や体格も、男のものだったと思う」
男――どういうことだ。伊武を襲った犯人と同一ではないのか?
あんなことができる人間が、複数いるとでもいうのだろうか。
「髪は……長髪だったりしませんでしたか? 身長は? 顔は見ていない?」
伊武は犯人の顔を見ていない。だから、長髪で、背の低い男という可能性もある。
「フードをかぶっていたから、顔や髪はよく見えなかったのだが、長髪ではなかったと思うよ。背丈は……私と同じぐらいだったから、170から、175センチぐらいか」
伊武の言う犯人像とは、まったく違う。若林神父の答えは、直巳がまったく想像もしていないものだった。
「あなたは……どうやって襲われたんですか? 後ろから?」
彼の情報が信頼できるものかどうか、直巳は確かめてみることにした。後ろから襲われていれば、はっきりと襲撃者の姿は見ていないだろう。そうなれば情報の信頼性は下がる。
「いや、前からだよ。突然、目の前に立ちふさがって、気が付いたら倒れていた」
若林神父は、真っ正面から犯人を見たという。
これで、はっきりした。伊武を襲った犯人と、若林神父を襲った犯人は――別人だ。
「……他に、特徴はありませんでしたか? 持ち物とか、服装とか」
「服装は……特に変わったところはなかったよ。黒っぽいジャンパーに、同じく黒っぽいズボン……だった気がする。他の特徴は……これといったものは思いつかないな」
「そうですか……」
その時、病室のドアがゆっくりと開いた。時間だ。早く逃げなければいけない。
直巳は病室を出る前に、彼に耳打ちをした。
「では、僕はこれで。あなたは明日の朝、突然治って、気持ち良く目覚めてください。明日の朝までの我慢です。この後、娘さんが入ってきますが、起きてはいけません。いいですね?」
「言うとおりにしよう……ありがとう……もう一度、娘に会えるのか……」
若林神父の目を押さえていた直巳の手が、かすかに濡れた。泣いているのだろう。
直巳は何も言わずに、布団をかけなおすと、彼から離れた。そして、若林の開けたドアの隙間から、滑り込むように外へと出た。
病室から出た直巳は、足早にその場を去ろうとする。護衛の男達は、特に何かを怪しんでいる様子もない。作戦は無事に成功、ということでいいだろう。
さっさとAのところへ戻って脱出しようと思った時のことだった。
「おい――そこの君、何をしている? 止まれ」
背後から、護衛の男に声をかけられて、直巳は思わず足を止める。
自分のことだろうか。そんなはずはない。自分は姿を消しているはずだと、直巳は自分に言い聞かせて、ゆっくりともう一歩歩いた。
「止まれと言っているだろう!」
護衛の男達が近づいてくる。直巳は自分の手に目をやると――見えていた。Bの姿を消す魔術が切れていたのだ。
やばい。捕まるわけにはいかない。顔を見られるわけにもいかない。走って逃げても、大騒ぎになってしまうし、無事に逃げられるとは思わない。
護衛の男達の足音が近づいてくる。直巳は一歩も動けない。
直巳が顔を上げると、騒ぎを聞きつけたのか、向こうからナースが歩いてきた。
もう駄目だ――直巳が目を閉じた瞬間、ナースが走り寄ってきた。
「ちょっと! 何してるんですか!」
ナースが走り寄ってきた直巳の手を掴む。
「はぁ……あなたはまた、夜中に出歩いて……いい加減にしてください!」
突然現れて直巳を叱ったのは――医療用の白い眼帯をして、ナース服を着たAだった。
ちなみに、直巳は入院患者と同じ、病院服を着ている。
これが、Aの用意した潜入用の服だった。
Aは直巳の腕を掴んだまま、その後ろにいる護衛の男達に話しかけた。
「お騒がせしてすいません。この子、夜中に勝手に出歩くんです。すぐ、部屋に戻しますから。もう、戻ってもらっていいですよ。あまり、騒ぎにはしない方がよいでしょう?」
「……患者といえども、この部屋には近づけないようにしてください。おわかりですね?」
護衛の男が言うと、Aは素直に、「はい。すいません」と頭を下げた。
「さ、行きますよ。あんまり面倒かけないでくださいね!」
Aは直巳の腕を引っ張り、どかどかと怒ったように足を鳴らして、その場を去った。
廊下を歩き、角を曲がり、待機していた病室に入ると、そっとドアをしめる。
「……助かった……ありがとう、A」
直巳は大きく息を吐くと、Aは腰に手を当てた得意気な顔をした。
「まさか、本当にこの格好が役に立つとは思いませんでしたけどね。それにしても、B。できるだけ長く姿を消しておけと言ったでしょう?」
「……お?」
Aの叱責に、首をかしげるB。彼女は子供用のパジャマを着て、大きなウサギのぬいぐるみを抱いていた。どうやら、入院している子供、という設定らしい。
Bは、なぜ怒られているのか、わかっていないようで、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめている。気に入ったらしい。
「まあ、言っても仕方ありませんけどね……直巳様、結果は?」
Bへの説教をあきらめたAにたずねられると、直巳は自信ありげにうなずいた。
「成功だよ。治療もできたし、重要な情報も得られた」
直巳の成功報告に、Aは満足そうな表情をした。
「それは何より。では、早速脱出しましょう」
「……脱出は、どうやってやるの?」
そういえば、脱出の話を聞いていなかった。潜入であれだけ苦労したのに、脱出はどうするのだろう。入った時は病院の玄関も開いていた。だが、今は完全に閉まっている。
「ここで見つかったら台無しだから、強行突破じゃないよね?」
「まさか。おっしゃるとおり、それで見つかったら作戦失敗ですよ。大丈夫、ちゃんと考えてあります」
そういうと、Aは病室の窓を開けた。
「登るのは時間がかかるので無理ですが、降りるのはすぐですから。さあ」
そういって、Aは窓の外に向かって、手を差し出す。
「さあって……飛ぶのか?」
「ええ。飛び降りてください」
間違いではない。Aは8階の窓から飛べという。
「……死ぬだろ」
「まあ、病院も近いですから――冗談ですよ。下に、希衣様を呼んであります」
「え、伊武が?」
直巳が窓から地面を見ると、たしかに、伊武らしき人影があった。夜だから目立たないようにしたのか、戦闘服こと、真っ黒な改造ライダースーツを着ている――ので、目立つ。
「……伊武に、キャッチしてもらえって? この高さから? 俺を?」
直巳だって、年相応の体重はある。そしてここは8階だ。それを伊武にキャッチさせるというのは、ずいぶん荒っぽい方法ではないだろうか。伊武なら出来るとは思うが。
直巳が尻込みしていると、AがBの首ねっこを掴んだ。
「では、まず実験してみましょう。B――先にいきなさい」
Aが躊躇なく、窓の外にBを放り投げる。まるで、猫を外に追い出すような気軽さだった。
「お、おい! B!」
直巳は窓にかけより、落ちていくBを見つめる。
そして、伊武は――まったく動かなかった。携帯を見つめていて、Bに気づいていない。
「あ、希衣様に、これから落としますよって連絡するの忘れてました」
「え!? 何言ってんの!?」
Aがとんでもないことをさらっというが、Bはもう落ちている。
そして、伊武が気づくこともなく、Bは地面に近づいていき――すとん、と着地した。
着地の寸前に体をひねらせ、まるで猫のように身軽に着地し、無傷だった。まあ、悪魔なので怪我をしても大丈夫だったのだとは思うが。
Bの着地を見届けた直巳とAが顔を見合わせる。
「――ね? 大丈夫でしょう? さ、どうぞ。あ、希衣様? 今、直巳様が落ちますので」
Aがサクサクと伊武に連絡をして、直巳を窓の側に追いやる。
「いや、そんな、今のは何の参考にもならないし」
「直巳様は存外に臆病ですね。失敗したって死にはしませんよ」
「死ぬよ!」
直巳が嫌がっているのは、失敗したら痛いからとか、怪我をするからじゃない。死ぬからだ。
直巳が窓から身を乗り出して下を見ると、伊武が両手を広げて待ち構えている。完全にやる気のようだ。
伊武は昨日、くるりとユアを放り投げた経験があるので、キャッチには自信がある。
「あの……他に何か……ほら、伊武も危ないし……」
「いいから、さっさと行ってください」
「――え」
窓から身を乗り出していた直巳は、Aに尻を蹴られて窓から落下した。
落ちるのはほんの一瞬――だと思ったが、意外と状況を認識できるものだなと、直巳は落ちながら思った。
そして、いつもどおり無表情な伊武の顔が近づいてきて、強い衝撃が体を襲った。
「――生きてる、よな」
「……うん……生きてる……よ」
直巳は伊武にお姫様抱っこをされた状態になっていた。体に衝撃はあったものの、怪我はしていないようだ。多少、魔力強化は使ったのだろうが、さすがは伊武。落ちてきた直巳を完璧に受け止めて見せた。
伊武の携帯が鳴る。伊武は直巳をそっと地面におろして、携帯に出た。
「……うん……椿君は……大丈夫……Aも……早くして……」
伊武が電話を切ると、まずは8階の窓から大きなカバンが落ちてきた。Aの荷物だ。
そして、Aが8階の窓から飛び降りて――伊武は一歩も動かなかった。
そのまま、Aは地面に着地した。足から落ちて、そのまま倒れ込む。
「あれ……? 希衣様? どうして、受け止めてくれなかったんですか?」
地面に倒れているAが、苦痛に表情をゆがめながら言う。両足が変な方向に曲がっていた。
「嫌……だった……から」
伊武はAを見下ろしながら、きっぱりと言った。
「さようで……直巳様、申し訳ないのですが、治療のために魔力をいただけると……」
「そんなことで使っていいのかな……」
幸い、直巳の体には、先ほど若林神父から吸収した魔力が溜まっている。
直巳がAに右手で触れて魔力を注いでやると、Aはすぐに回復した。
「よし――では、帰りましょうか」
Aが何事もなかったかのように言うと、全員はAの運転した軽自動車に乗り込んだ。
ちなみに、全員着替えていないので、病院から脱走した変な一団にしか見えなかった。
直巳達が無事に椿家に帰宅すると、リビングでアイシャが待っていてくれた。
「何? その格好?」
直巳達の格好を見た第一声が、それだった。
「ま、いいわ。報告してちょうだい」
直巳がアイシャに、若林神父から聞いたことを報告する。Aも伊武も、一緒に聞いていた。
犯人が男であり、伊武を襲った犯人の特徴と一致しないことがわかると、アイシャはあきれたような口調で言った。
「少なくとも、犯人は2人ってわけね」
「結局、話が複雑になっただけだったな」
直巳が、少しがっかりしたような口調で言う。犯人が絞れたわけではない。むしろ、候補が増えただけだ。
「そんなことはないわ。貴重な情報よ」
落ち込む直巳を、アイシャがねぎらった。
「何もわからないよりは、何かわからない方がマシでしょう」
そのアイシャの言葉に賛同するように、伊武が大きくうなずく。
「それじゃ、ゆっくり休んでちょうだい。Aは直巳の話を元に調査を進めて」
そういうと、アイシャは自分の部屋へと帰っていき、Aも高宮邸に戻っていった。
リビングに、直巳と伊武だけが残される。
「伊武を襲った犯人、なかなか見つからないな」
直巳が言うと、伊武は、少し困ったように微笑んだ。
「少しずつ……情報は……集まってる……よ……だから……大丈夫……焦らない……で?」
伊武にそう言われて、直巳も少し気持ちが落ち着く。
「うん……そうだな。そのうち、見つかるよな」
直巳の言葉に、伊武が、「うん」とうなずく。
「それより……若林……さん……助けられて……よかった……ね……」
伊武がぼそぼそと言った。少し、恥ずかしそうに。
「――ああ、そうだな。助けられてよかった」
そうだ。若林を助けられたんだ。それで今日は、十分な成果じゃないか。
友達を助けられた喜びを噛みしめる直巳。
だが、同時にアイシャの言葉を思い出す。
「あなた1人で、何もかもは助けられないのよ」
それでも、アイシャ。俺は若林を助けたよ――みんなの力を借りて。
直巳と入れ違いで部屋に入った若林は、眠っている父のそばへと近づいた。
そして、そっと布団を剥がし、父親の病院服がはだけているのを確認した。
目をこらして、父親の脇腹を見る――そこには、おかしなことは何もなかった。
お風呂上がりで見慣れている、中年太りをした父のお腹。肌も綺麗とは言えない。毛だって生えている。触りたいとも思わない――でも、魔力暴走は起きていない。いつもどおりの、ぽっこりとしたお腹。
「パパ……パパぁ……」
元に戻っている父の姿を見て、若林は思わず涙を流す――治っているのだ。謎の電話の主は約束のとおりに、父を治してくれたのだ。
若林は、何があっても明日の朝までは騒がない、という約束を思い出し、涙をこらえた。
そして、父の病院服をきちんと元に戻し、もう一度布団をかける。
「パパ……明日の朝……また来るね……」
若林が眠っている父に向かって言うと、父は片目を開けて、娘の顔を見た。
若林は黙ってうなずくと、表情を引き締めて病室を出た。
そして、翌朝。若林神父は突然に目覚め、それを見た娘は大げさに喜び、抱き付いた。
父と娘は顔を見合わせて、誰にもわからないように、お互いの演技を笑い合った。




