第十二章
翌日、直巳は少し眠い目を擦りながらも、いつもどおり学校へ向かった。
昨晩、Aと一緒にヒイラギの部屋から帰宅した後、アイシャへの報告をしていたので、寝るのが遅くなってしまったのだ。
アイシャは、「わかった。引き続き任せるわ」と、素っ気ない対応だった。裏を返せば、特に文句もない、ということだろうと、直巳は理解している。
直巳は眠気に耐えながらも、真面目に授業を受ける。気になることと言えば、隣りの席の若林が、まだ学校を休んでいるということだ。ずいぶんと長く休んでいるが、教師は特に何も言わない。込み入った事情でもあるのだろうか。
授業が終わり、帰宅する前。直巳は若林の机に目をやる。いくつかの教科書やノートが机の中に入っており、机の横には何が入っているのか、キャンバス地のトートバッグがかけられている。若林の気配だけは残っているのに、本人のことはずいぶんと長い間見ていない。
彼女が戻ってきたらノートをコピーさせてあげよう、などと考えながら、直巳は帰宅することにした。
「お帰り……なさい……」
直巳が椿家の玄関を開けると、出迎えてくれたのは伊武だった。先に帰宅した伊武は私服に着替えており、Tシャツ1枚だった。いくら室内は暖房が効いているとはいえ、冬にTシャツだけというのは薄着だと思うが、伊武は体温が高いので、こうじゃないと暑いらしい。
「ただいま。あれ? 伊武だけ?」
いつもならAが出迎えてくれて、カバンやコートを受け取りながら、ちょっと気に障ることを言ってくるのだが。
「うん……Aは買い物……あ……Aから……伝言……が……ある……」
そういうと、伊武はリビングに向かい、綺麗な字で書かれたメモを持ってきた。
直巳がそれを受け取り、メモの内容を見る。
なんかBがいないので、探しておいてください。死んではいないと思います A
「何もかもが雑すぎるだろ……」
メモを見た直巳が溜息を吐くと、伊武も、横からひょいとメモを覗き込んできた。
「……雑……だね」
「本当だよ。どうしろって――」
直巳が笑いながら伊武の方を見ると、伊武の顔が真横にあった。
伊武の方が背が高いので、普段は間近で顔を見ることはない。
メモをジッと見つめる伊武の顔。輝くような黒い髪、切れ長の瞳。綺麗な白い肌。伊武は化粧品も何もつけてないのだが、微かに良い香りがする。シャンプーだろうか。
そして、さらに目線を下に落とすと、Tシャツの開いた胸元から、伊武の大きな胸の谷間が見えた。ブラジャーをつけているので、強調された谷間は、見たことのない深さになっていた。
ちなみに、以前の伊武はノーブラだったが、直巳が何度もつけてくれと頼むのと、Aが、「そんな大きいの放っておくと形が崩れますよ」と図解で説明してから、伊武は家でもブラジャーをつけてくれるようになった。
直巳がしばらく目をいる奪われて間、伊武はずっとメモを見ていた。
「あれー? 直巳君、帰ってきてるのー?」
2階からグレモリイの声が聞こえてきたところで、直巳はようやく我に帰った。
「じゃ、じゃあ俺ちょっと、B探してくるから!」
「うん……」
伊武はそういうが、直巳から離れようとしない。
「伊武? あの、離れてもらっても……」
「もう……いいの?」
「え? 何が?」
直巳がバカみたいな顔でたずねると、伊武はいたずらっぽく微笑みながら言った。
「ちゃんと……見えた?」
伊武と目が合う。直巳は硬直して動けなくなり、伊武はまったく目を逸らそうとしない。
「な! み、見てないし!」
「そう……? わかった……」
直巳はしっかり見ていたし、伊武も気づいていたのだが、そういうことにしてくれた。
「じゃ、じゃあ行ってくるから!」
直巳が足早に2階へ向かうと、そこにはグレモリイがいた。
「あ、直巳君。あのね、家具が届いたから、置くのを手伝って欲しいんだけど――」
「ごめん! B探してくるから、伊武に頼んで! 下にいるから!」
直巳が赤くなった顔を隠して、高宮家へと繋がる空間転移装置へと向かう。
「直巳君、何があったの!? 希衣ちゃん? あの子がなんかしたの!? ねえ、希衣ちゃん! 何したの!? どのパターン!?」
直巳は高宮家へ、グレモリイは1階へとすれ違うように駆けていった。
伊武から走って逃げ出した直巳は高宮家に向かい、玄関から外に出る。
Bがいるのなら、この前、勝手にうろついていた、この辺りじゃないかと思ったからだ。
だが、探し始める前に、一度心を落ち着かせることにした。
先ほどの伊武の胸が――それよりも、直巳をからかった時の微笑みが、頭から離れない。
直巳は風にあたって、顔と頭の熱を冷まそうとする。
移動は空間転移で一瞬なのだが、距離は結構離れているし、高宮家は山の中にあるので空気が違う。椿家の周りよりも、もっと冷たく、湿気が多い。
「……よし!」
直巳はスイッチを切り替えると、Bを探すために高宮家の周辺を探すことにした。
冬の夕暮れは早い。まだ夕方だというのに、もう暗くなりはじめている。街灯もろくにないような山中なので、早く探した方がいいだろう。
直巳は高宮家から伸びている道に沿って歩き、Bを探す。交通の要所でもないし、何か施設があるわけでもないので、高宮家に向かってくる人や車は、まったくいなかった。
歩き始めて10分ほどしたところで、離れた場所から子供の騒ぐ声が聞こえた。何人かいるようだが、一人の少女の声が際立っている。
直巳が、声のする方に向かうと、妙に開けた草原があり、そこには3人の少女がいた。その中にBの姿もある。
あのBが、他の子供と一緒に遊んでいるのだろうか。Bは自覚なく、簡単な魔術を使ってしまうので、他の子供を驚かせてしまうだろうし、そもそもコミュニケーションがまともに取れるとも思えない。
だが、直巳の見る限り、Bは他の2人と一緒に遊んでいるようだった。明確なルールのある遊びをしているようには見えないが、話して、じゃれて、そして笑っている――笑っているのはB以外の子だが。
Bは、あの子達と遊ぶために抜け出したのかと、直巳は一人納得していた。
時計を見ると、夕方の4時。もう少し、遊ばせておいてもいいだろう。直巳は少しの間、見守ってやろうと思い、木の影に隠れて腰を下ろした。
だが、それも10分で挫折した。冬の時期に、外で一人、何もせずに座っているのはとにかくつらい。開けた場所なので、風をさえぎるものもなく、座っている地面は冷たくて硬い。
「――っくしゅ!」
直巳が思わずくしゃみをすると、子供達の話し声が、ピタリと止まった。木の影から、知らない人間のくしゃみが聞こえたら、それはたしかに警戒するだろう。このまま隠れていても怖がらせるだけなので、直巳は姿を現わすことにした。
直巳が木の影から出ると、遠くにいる子供達と目が合った。
3人の子供達。一番背の高い、セミロングの髪の子が、後ろの2人をかばうように立っており、直巳を睨み付けている。知らない人間を警戒するのは当然だろうが、少しやりすぎな気もする。ここが山中だからだろうか、それとも、そういう子なのだろうか。
そして、2人をかばう彼女の背中からは、長いポニーテールの子が、ひょっこりと顔を出して直巳を見ていた。こちらは警戒というより、好奇心の方が強そうだ。
肝心のBは、背中にすっぽり隠れてしまって、直巳のことが見えていない。
直巳はどうしたものかと考え、まずは声をかけることにした。無言で近づいてはさらに警戒心が強まってしまうだろう。
「えっと……B! 俺だよ、俺! 直巳!」
「あ! くるり、あれ知ってる! オレオレ詐欺っていうやつだ!」
ポニーテールの子が、直巳を指さして、わけのわからないことを言い出す。
「違うって! Bの知り合い! な? そうだよな? B!」
直巳が必死で呼びかけると、Bが顔を出して直巳を見つめる。
そして、しばらく見つめ合ったあと、ようやく口を開いた。
「おー……なお」
Bは直巳の方へ走ってきて、そのままの勢いで抱き付くと、頭を直巳の腹にこすりつけた。
「なお……なお?」
「合ってるよ。なんで疑問系なんだよ」
直巳がBの頭をグリグリと撫でると、Bは気持ち良さそうに目をつむる。
「ねえ、ユア。あのにーちゃん、Bの知り合いみたいだよ」
「……だね。大丈夫……かな?」
2人はこそこそと話すと、ゆっくりと直巳の方に近づいてきた。
そして、直巳の目の前に来ると、ポニーテールの子が元気良く挨拶してきた。
「こんにちは! くるりです! にーちゃんは誰ですか!」
くるりはちょっと緊張した様子で、元気良くお辞儀をした。
「どうも……ユアです。あの、Bちゃんの知り合いの方ですか?」
ユアと名乗る少女も、会釈をして挨拶してくれた。彼女はまだ警戒を解いていない。
「くるりちゃん、ユアちゃん、こんにちは。俺は椿直巳っていいます。Bの……家族みたいなものかな」
直巳はBとの関係をどう説明しようか迷ったが、ほぼ一緒に暮しているわけだし、家族みたいなもの、ということでいいだろう。
「家族……みたいなもの? お兄さんとかでは、ないんですか?」
ユアはその言葉に引っ掛かったようで、さらに突っ込んできた。
「家族ではないけど、一緒に暮らしてるんだ」
「あの、山のお屋敷で?」
ユアが高宮邸のある方向を指さす。どうやら、あの家の存在は知っているらしい。
「あれがBの家。俺の家は離れた場所にあって、行き来してるんだよ。家族ぐるみの付き合いみたいなものかな」
ユアはその説明を聞き、直巳に懐いているBを見て、ようやく信用してくれたようだった。
「――そうでしたか。わかりました。Bちゃんのお迎えですか?」
初めて笑顔を見せてくれたユア。穏やかな表情と口調は、見た目よりも大人びていた。
「うん。そうなんだけど、まだもうちょっと、遊んでても大丈夫かな」
「ほんとに!? じゃあ、なおにーちゃんも一緒に遊ぼうよ!」
突然、くるりが食いついてきた。直巳の袖を引っ張りながら、目を輝かせている。元々、直巳に興味津々だったようだが、ユアが認めたことでタガが外れたらしい。
ユアは困ったような表情で、「気にしないでくださいね」と言ってくれたが、直巳も、ただジッと待っているのがつらい、ということは先ほど学んでいる。
「よし! じゃあ遊ぶか!」
「やった!」
くるりが心から嬉しそうに笑うと、口元から八重歯が覗いた。
「くるりちゃんは……もう……お兄さん、ありがとうございます」
ユアが頭を下げる。まるで、彼女がくるりの母親のようだった。
「いや、いいって。俺も、ただ待ってるより、遊んでた方がいいから。で、何を――」
「肩車! 肩車して!」
直巳が何をしようかと言い終わる前に、くるりが大声でかぶせてきた。
「え? 肩車?」
「うん! そう! やってみたい!」
直巳は子供に肩車などしたことがない。別に嫌なわけではないのだが、落としたらどうしようとか、照れ臭いとか、そういう気持ちがある。
「ねえー、なおにーちゃーん、お願いー」
くるりは甘えた声で肩車をねだってくる。ここまで言われては断れない。
「よし、肩車な?」
「やった!」
直巳が了承すると、くるりが飛び上がって喜んだ。あまり乗り気ではなかった直巳だったが、そんなに喜んでくれると、やる気にもなってくる。
「じゃ、ほら。乗って」
直巳が肩車をするためにしゃがみ込む。
しゃがみ込んでから数秒間。くるりは微動だにしない。
「……あの? くるりちゃん?」
「あ? え?」
「ほら、肩車。乗って?」
「えっと……どうやるの?」
そういえば先ほど、くるりは肩車をやってみたい、と言っていた。恐らくはこれまで、一度もしたことがないのだろう。だから、やり方もわからないのだ。
「B、ちょっとしゃがんで」
「お?」
直巳がBの頭を軽く押してしゃがませる。そして、しゃがんだBを自分に見立てて、肩車の説明を始めた。
「えっと、こうやって俺がしゃがむでしょ? そうしたら、こう、首に跨がって……」
直巳はBを使い、肩車の仕方を説明する。股の下にいるB。すさまじくおかしな絵面だった。
くるりは、ふんふんと真面目に聞きながら、やり方を覚えた。
「じゃ、しゃがむから。乗ってね」
「わかった!」
直巳がしゃがむと、くるりは元気良く直巳に跨がってきた。
「はい!」
くるりが元気良く直巳の肩に乗ってくる。それはいいのだが、スカートが完全に直巳の頭を包んでおり、直巳は何も見えない。
「スカート! スカートは押さえて乗って!」
「くるりちゃん! スカート! スカート! パンツ見えちゃう!」
直巳とユアが慌てて叫ぶと、くるりは不思議そうな顔をして直巳から降りた。
「いい、くるりちゃん? こう、スカートを押さえて……そう……挟み込んでね……」
ユアが説教をするように、くるりにスカートをどうすればいいかを教える。
「へー……なるほどなー。そうすればいいのかー。パンツはもうあきらめてたなー」
「パンツは最後まであきらめちゃ駄目!」
ユアが不思議な名言をくるりに授けてから、もう一度肩車に挑戦することになった。
直巳がしゃがみこみ、くるりが跨がる。今度はスカートも押さえている。
「俺の頭、しっかり掴んでろよー」
「わ、わかった!」
くるりは直巳の頭を、がっちりと掴む。髪が引っ張られて少し痛いが、落ちるよりはいい。
「じゃ、立つからなー。せーの……」
直巳がくるりを肩に乗せて立ち上がる。子供の体重なので、難しいことはなかった。
直巳の隣りでは、くるりが落ちてこないかどうか、ユアが心配そうに見守っている。
「うわ……うわ! 高い! すっごい高い!」
少し怖いのか、くるりが両腕で直巳の頭を抱きしめるように、しがみついてくる。
「肩車すごい! こ、これ世界一高いよきっと!」
怖いなりに、楽しんではいるらしい。少なくとも、下ろしてとは言ってこない。
はしゃぐくるりにつられて、直巳も楽しくなってくる。
「よーし、じゃあ歩くから、ちゃんと掴まってろよー」
「あ……歩ける……の?」
くるりが、歩くという新機能に驚愕の声をあげる。
「歩けるし、走れる――けど、それは危ないからやめておこう」
ユアがジッと睨んでくるので、調子に乗るのはやめた。
それから、直巳はくるりを肩車したまま、その辺を歩き回ってやった。くるりはずっとはしゃいでおり、地面の高さに怖がったり、普段は触れない木の枝に触ったりと楽しんでた。
くるりが満足すると、直巳はゆっくりとしゃがみ、くるりを下ろした。
「すごかった……なおにーちゃん……ありがとう!」
くるりは直巳の腕に抱き付き、目をキラキラと輝かせている。
「あ、ああ……どういたしまして」
そこまで真っ直ぐにお礼を言われると、直巳も照れてしまう。少し恥ずかしそうにお礼を言うと、くるりはまた、八重歯を見せてにこっと笑った。
すると、Bがそばによってきて、直巳の背中に飛び乗ってきた。
「なお……びーも……」
「え? Bも肩車したいの?」
Bはフンフンと元気良くうなずく。Bがそんなことを言い出すなんて、また珍しい。
「よし、じゃあ気を付けて――」
直巳がしゃがむ前に、Bはするすると直巳の背中を上り、勝手に肩に乗った。普段は鈍いのに、こういう時だけは器用だ。
「……おー」
Bは一言そういうと、すぐに降りた。時間にして5秒もたっていないだろう。
「え? もういいの?」
Bはこくりとうなずく。満足したのか、予想よりつまらなかったのか。相変わらず、何を考えているのか、さっぱりわからない。
Bが降りると、くるりがユアの手を掴んで言った。
「よし! じゃあ、後はユアだね!」
「え!? わ、私はいいよ!」
ユアは恥ずかしいのか、顔を赤くして、必死で断る。
「なんで? ユアは肩車したことあるの?」
「な、ないけどぉ……」
ユアは直巳をチラチラと見る。恥ずかしいが、してみたいという気持ちはあるのだろう。
「まあ、せっかくだし。ユアちゃんもやる?」
直巳がしゃがんでユアを呼ぶが、ユアはまだ、もじもじしていた。
「で、でも……私、くるりちゃんとかBちゃんより……その……重いし……」
たしかに2人に比べたら体格はいいが、それでも子供で、しかも女の子の体重だ。直巳が支えられないわけもないだろう。
支えられるかどうかを考えた時、伊武のことがちょっと頭をよぎったが、伊武だって頑張れば肩車できるだろうと自分に言い聞かせて、すぐに考えるのをやめた。逆に、伊武が直巳を肩車するのは余裕に違いないだろうが。
そんなことを考えているうちに、くるりがユアを、直巳の元にひきずってきた。
「いいから、やってみなって! すごいから! 世界一高いから!」
絶対に世界一ではないのだが、くるりにとってはそれぐらいの衝撃だったのだろう。突っ込むのも野暮なので、直巳は黙っていることにする。
そして、ユアは直巳の目の前にくると、うぅ、と少し変なうなり方をして悩んでから、おそるおそる言った。
「あの……じゃあ……くるりちゃんが言うから……ちょっとだけ……いいですか?」
恥ずかしそうに言うユア。これまでの2人は完全な子供だったが、ユアはちょっと大人っぽいので、直巳は意識しないように気をつけた。
「うん。まあ、ちょっとだけだから」
「はい……じゃあ、失礼します」
ユアが直巳の肩にまたがり、申し訳なさそうに頭を押さえてきた。
「じゃあ、立つよ」
直巳が一気に立ち上がると、ユアは思わず感嘆の声をあげた。
「わ……わあ……」
「な? すっげーだろ?」
くるりが得意気に言うと、ユアも少し興奮気味に答えた。
「うん……すごいね」
「世界一でしょ?」
「ふふっ……そうだね。世界一だね」
ユアはクスクスと笑う。もう、緊張は解けたようだった。
「肩車、してもらってよかったです」
「そう? それならよかった」
「あの、私、重くないですか?」
「ぜんぜん。軽い軽い」
くるりよりは重いが、それでも子供の体重だ。まったく問題はない。
直巳はそのまま、ユアを乗せて歩き回る。たまに少し走ると、ユアは頭上で小さな悲鳴を上げた。その後、「もう!」と言いながら、直巳の頭を叩くふりをした。
くるり達から少し離れたところで、ユアが話しかけてきた。
「お兄さん。くるりちゃん、すごく楽しそうです。ありがとうございます」
「こちらこそ、Bと遊んでくれてありがとう。あの子、ちょっと変わってるでしょ」
直巳が言うと、ユアはクスっと笑った。
「そうですね。でも、人を傷つけたりはしません。良い子だと思います」
「そっか。それならよかった。じゃ、そろそろ戻ろうか」
直巳がそういうと、ユアは直巳の耳元に口を近づけて囁いた。
「お兄さんも――人を傷つけたり、しませんよね」
突然のその言葉、別人のように落ち着いた声に、直巳は硬直した。
どういう意味なのだろうか。彼女達は、誰かに傷つけられる心配があるのだろうか。
そういえば、ユアは最初に直巳を見たとき、異常に警戒をしていた。
この子達には、一体何が――。
だが、直巳はそういった考えをすべて置いておくことにした。
そして、首を上に曲げて、ユアの顔を見る。逆さに映った彼女が、直巳を見つめている。
「しないよ。そんなこと」
直巳が明るく言うと、ユアは、「よかった」と言って笑った。
とても子供とは思えないほどに綺麗な、作り物の笑顔で。
「よし、戻ろうか」
「はい」
直巳は、ユアの言葉の意味や、作り笑いに気づかないふりする。
ユアは、直巳がわざと無視していることに気づいているかもしれない。
だからお互い、それ以上何も言わなかった。
直巳には、そんな嘘がとても悲しかった――ユアも同じ気持ちだろうか。
そうだとしても、違っていても。それはやっぱり、悲しいことだった。




