縦書きと横書きについて思う
紙媒体である小説などを読むことと、なろうなどのPCで横書き文章を読むことは違う。
このことを意識して、なろうで小説を書いている人はどれだけいるのだろうか?
思えばネット上でそういった読み物を目にするようになった初期の自分も、PC上で横書きの文章を延々と読むことについて、漠然とした読み辛さは感じていた。
ぶっちゃけてしまえば、その新しい表記形態に慣れていなかったから面倒だったという感覚が強い。
本というものに小学校にあがる以前から親しんでいて、活字を読むことだけはいくらしていても辛いと感じたことのなかった私ですらそんな有様である。
あるいは、普通の読書に費やした時間の分だけ「縦書きの文章」というものに慣れているせいかもしれない。
さて、具体的に縦書きと横書きでは何が違うのだろうか?
まず一つには視野に収めるべき幅の問題がある。
これが縦書きの場合は、どれだけの長文だったとしても今読んでいる一文だけ見ていればいい。
先を気にしたとしても1~2行分だろう。
文庫や新書で言えば精々1~2センチというところである。
またどれだけ縦に文章が長々と続いていようが、視界に収めるのは大抵縦3~4センチに収まる範囲内、単語単位で十分である。
これが横書きだとどうなるか。
読書環境がスマホであるのならそこまで広がることもないのだろうが、PC画面は環境によりかなり幅が広くなる。
私自身の環境の話をすると、文字の並ぶ範囲は20~30センチにも及ぶ。
ワイドで大画面のモニタが増えてきた昨今ではそれはさらに広くなり、下手をすると可読域に一度に収まりきらない範囲に文章が続くのである。
横書きであったとしても、縦書きと同じように単語一つ一つを追えば良いとも思われるかもしれないが、実際そうはならない。
これは習慣によるもので、元々PC画面で見るものは文字情報だけに限らないからである。
画像もあるし映像もある。
仕事であれば表計算ソフトのマス目が並んだ画面を見ている人もいるだろう。
普段、PC画面で自分が何を見ているのかを考えていただければおわかりいただけるのではないだろうか。
その同じ画面に文章が表示されても、「画面全体を眺める」という感覚で見つめてしまう筈である。
つまり、PC画面で横書きの文章を目にする時、私たちは横方向に視野を広げることを強いられる形となる。
しかも、PCに慣れている人ほど嫌でも「画面全体をなんとなく視界に収めて」しまう。
ついそうしてしまいながらも、小説を読むためには単語の一つ一つを追うことになる。
PC画面で小説を読むという行為は、視野を広く持ちながらも、その中でさらに一部に集中しているという二重の作業になってしまいがちなのである。
ここで一つ、作品を投稿している方に個人的なお願いがある。
どうかレイアウトの幅を広げるのは止めていただけないだろうか?
デフォルト設定以上に幅を広げてしまうと、読んでいてかなり疲れる。
というより、読み難いので私の場合は作品を読む前にブラウザバックをしてしまうことも多い。
どういう意図でレイアウトの文章表示幅を広げているのかはわからないのだが、あれは読み手に対して余計な苦労を強いる行為になってしまうと思っている(勿論、環境次第ではそうした方が読み易い人もいるのかもしれないのだが)。
インターネットにおいて目にすることの多い読み物である、ブログを思い出してみて欲しい。
PC画面が横に長い画面であるにもかかわらず、あそこに表示される文章の幅はかなり短く、縦長に文章が連なっていることに気づくであろう。
今思えばあれも、ネット上で読み易さを意識した結果、あのような形式になっているのではないだろうか。
閑話休題。
縦書きと横書きの受ける印象の違いを、私自身の経験を元にもう一つ上げてみる。
これは媒体の違いが大きいのではあるが、文中に自分の知らない言葉遣いなどが使われていた時である。
これが縦書きの紙媒体であれば、ほとんど気にはならない。
文章を読むことに慣れている人間であれば、先へと読み進め、全体の流れを見ることで、なんとなく程度には意味を察することができるからだ。
ところが横書きだとそうはいかない。
紙媒体の本を読む以上に視野を広げて全体を眺めていながらも、単語の一つ一つに注目させられている。
その中で知らない単語が一つあると、そこで意識が躓いてしまうのである。
追いかけていたストーリーの流れは途切れてしまう。
PC環境であれば、その文字をなぞりすぐさま検索して、読みや意味などを探ることも簡単にできるのだが、これが良いとは一概にも言えない(語彙を増やすには便利ではあるのだが)。
何故なら、小説を読むという行為が、調べ物をする作業にスライドしてしまうからである。
その調べ物をした先で、さらに別の気になる記事が目にとまり、それを追いかけ……その繰り返しで、気づけば元々何をしていたのか忘れていることが、私にはよくある。
かつてネットサーフィンと呼ばれた、ネットの典型的な使い方だ。
ネットはそれほどに娯楽に満ちた場なのである。
これが紙媒体の小説であれば――読み方は人それぞれなので中には、その場ですぐさまメモを取ったり辞書を引いたりする人もいるかもしれないが――、私自身は「ひとまず置いておいて」、ストーリーや展開を追いかけることに集中する。
別の作業をするためには、そのページにしおりを挟み、読むことを中断しなければならないからだ。
そのように選択するしかない環境であれば、今読んでいる本に集中することができる。
ちなみに私はこの文章を書く作業を、とあるなろう小説を読んでいる最中に思いつき、始めてしまっている。
その作品が、私に先に上げた事例に気づかせてくれたからではあるのだが。
これは、その作品を楽しんでもらうことにとってはノイズが入り込み易い環境なのだとも言える。
逆に言ってしまえば、別作業から戻ってきても、すぐにそれまで読んでいた話に戻ることができる書き方こそがなろう作品には向いている。
以上のことから、なろう作品においては、「可能な限り平易な表現を心がけ、レイアウトなどはできる範囲で作品に集中できる環境を整えること」が重要だといえる。
紙媒体であればどれほど凝った表現をしていようが私は、美しい表現だ、名文だと受け入られる。
だが、なろうにおいて同じ表現を使ってしまえば、それは悪文にもなり得る。
さらに、なろう作品の読み易さについてよく取りざたされるのが改行についてであるが、これも縦書きと横書き、本とPC画面の差が如実に表れている問題のひとつだと思われる。
本であれば、ふと集中力が途切れた時などに、自分が読んでいたのがどのあたりだったのかは「ページのこの辺」という感覚で、すぐに戻ることができる。
ところが横書き(PC画面)にはそういった区切りがない。
横書き小説というものは、すべてが繋がった1ページに書かれているようなものなのだ。
縦書きであれば、巻き物を読んでいる状況に近い。
そのため、読者がどのあたりまで読んだのか確認しやすくする目的で、改行を多用することが推奨されているのである。
これは読者が位置を確認するためのものなので、1行毎に改行してしまっても具合が悪い。
段落下げも同様である。
たまに文章を書き始めたばかりの人の作品を目にすると、一文字下げが行われていないために、自分がどこまで読んでいたかを見失ってしまう。
改行もなしにそれが続くようであれば最悪だ。
まるで文字の迷宮に放り込まれたような気分になる。
そこで迷わないためには、整った文章を読む以上の余計な集中力を要求される。
最後に改めて言おう。
本を読むことと、なろうなどのPCで横書き文章を読むことは違う。
この事実について、より多くの書き手の方が気づいてくれることを願う。