第七章
翼が再び目を覚ましたのは次の日のお昼過ぎだった。
その頃には翼の体力も完全に回復していた。
そして、今翼は居間で八人の男性に囲まれながらじっと座っていた。
「さて、どういう用件で私を呼んだんですか?」
ニッコリと微笑みながら翼は目の前のいる人物に問いかける。
「貴女ならもう察しているのではないでしょうか?」
「あら、私はそんなに万能ではないんですよ。」
ふふふ、と翼は笑うが、その目は決して笑っていない。
「そんなに買いかぶりすぎますと後で痛い目を見ますよ。」
「それはないでしょうね。」
「あら、それはどうかしら?」
翼と光太郎の会話を黙って聞く、残りの七人の目には二人から発せられる吹雪が見えていた。
そして、これ以上この二人に任せていたら話が進まないとでも思ったのか、この七人中で数少ない口を挿める人物でもある夜希が口を開く。
「コウいい加減にしろ、話が進まない。」
「ふー、仕方がないですね、では、本題に入りましょうか。」
「ええ、そうね。」
ようやく話が進むと思った七人はこっそりと息を吐いた。
「貴女ならもう予想は付いているかもしれませんが、貴女は命を狙われています。」
「それはそうでしょうね、二回も襲われているのだから。」
「そうですね。」
光太郎が頷くのを見た翼は鋭い視線で彼を見るが、光太郎は応えていないのか微笑んでいた。
「貴方がたは…、いえ、光太郎さん、夜希さん、焔さん、凪さん、賢木さんは分かっているのでしょう?」
「何をですか?」
「私を襲った連中と、父の行方不明が繋がっている事を。」
「なっ!」
「えっ!」
「本当なんですか!」
翼が予想した通りに年少組みの三人が驚くが、残りの人たちは全く驚いていなかった。
「流石ですね。」
「お褒め頂き、ありがとうございます。」
皮肉気に翼が言い、光太郎は笑顔のまま接する。
「そこまで、理解しているのでしたら話は早いですね。」
「そうでもないわ。」
翼は刃のように鋭い眼差しで光太郎を見る。
「私は貴方が知っている半分も知らない。」
「そうでしょうか?」
「ええ、そうよ。例えば父の居場所とか。」
この言葉に一番早く反応したのは光太郎ではなく、疾風だった。
「何だって!」
疾風は今にも光太郎に飛び掛りそうになるが、横にいた鉄也と大地が止めに入った。
「離せ!」
「止めとけ!」
「そうですよ、今は止めて!」
疾風は必死でもがき、二人を振り払おうと必死になっていた。
だからだろう、後ろから近付く気配に察する事が出来なかった。
「少しは落ち着け!」
疾風たちの後ろに立った夜希は珍しく声を荒げ、疾風に拳骨を喰らわした。
「いってー!」
疾風は後頭部を押さえ、睨みながら振り返り、その表情が凍りつく。
「黙っていろ。」
怒りを押し隠す夜希の迫力に疾風をはじめ彼を取り押さえていた二人もコクコクと頷いた。
「あちらも静まったようね。」
翼は疾風たちの方を一瞥し、すぐに光太郎の方を見る。
「貴方は色々知っているのでしょ?」
「何でそう思うのですか?」
光太郎はまだ笑っているようだったが、その笑みは先程より余裕が見られなかった。
「貴方は色々知っているが故に、全てを隠し、そして、他の者には話せるだけしか話さない。」
「……。」
「貴方が隠していても、私はそれをいつか知るわ、今話す?それとも、私が勝手に知るのを待つ?どちらでも好きな方を選ぶといいわ。」
しばらくの間、沈黙が二人を包み込む、そして、光太郎は重い口を開く。
「残念ながら、話せませんよ。」
「そう。」
翼は睨むように光太郎を見て、そして、口元に冷笑を浮かべる。
「それなら、それで構いません。そろそろ、そちらの用件を言ってくれませんか?」
「ええ、そうですね。」
光太郎は話題が変わった事にホッと息を吐いた。
「今後、出来ればこの家の誰かと必ず一緒に行動して欲しいのです。」
「……。」
「貴女は狙われていますから、ですから――。」
「それだけですか?」
光太郎の言葉を遮った翼は立ち上がり、そして、光太郎を一瞥する。
「それだけでしたら、私がここにいる必要はありませんから。」
「……。」
光太郎が翼を引き止めなかったので、翼はそのまま自分の部屋に戻ろうとする。
廊下に出てしばらくすると、後ろから誰かが来る音がした。
翼はそれが誰なのか予想が付き、足を止める。
そして、振り返ると、案の定そこに疾風がいた。
「やっぱり来たのね。」
翼は苦笑交じりの笑みを見せ、そして、すぐに顔を引き締める。
「言っておくけど私は父が何処にいるかなんて知らないわよ。」
「ああ。」
短く返事をする疾風に翼は真直ぐ彼と対峙する。
「だったら何のために来たの。」
「一人で色々する気なんだろ?」
「……それが?」
翼は首を傾げ、真摯に向けられる視線を受け止める。
「俺も手伝う。」
「……それは本気なの?」
「なっ!」
翼の言葉に疾風は驚きと怒りを見せた。
そして、それを見た翼の心が微かに軽くなる。
「悪かったわ、さっきのやり取りで少し疑心暗鬼になっていたわ。」
「……。」
翼の言葉に疾風は口を閉ざす。
翼の言うように確かにあのやり取りでは疑心暗鬼になってもおかしくないだろう、だから、疾風は何も言わず、ただ頷いた。
「そうか。」
「……何で「手伝う」なんていうの?」
「……。」
翼の言葉に疾風は眉間に皺を寄せた。
「……なんか私変な事言った?」
「……さっきの本気で言っているのか?」
「さっきって…「何で「手伝う」なんていうの?」ってところ?」
「分かってるんだよな……。」
疾風は思わず、小さな声で「こいつ、天然か?」と言ったのだが、残念ながらそれは翼には聞こえていなかった。
「手伝うから、手伝うんだ、理由なんて得にないさ。」
「……。」
押し黙る翼に疾風は怪訝な顔をしながらこう言った。
「お前まさか、何でもかんでも損得勘定で人が動くとでも思っているのか?」
この問いかけに肯定するかのように翼の肩が揺れる。
「……いくらなんでもそれは酷いだろ。」
疾風は呆れた表情で翼を見詰め、肩を竦める。
「お前だって、ずっと損得勘定で状況を見ているわけないだろ?そうじゃなかったら、あの化け物に襲われた時、俺たちは自分の命が惜しくて逃げてただろ?」
「……そうかもしれないわね、……今更かしら?」
「ああ、今更だ。」
翼は微笑み、そして、ふっと視線を疾風の後ろの方に向けた。
「貴方たちも来たのね。」
翼の言葉に疾風は振り返る。
振り返った先には鉄也と大地がいた。
「鉄也、大地。」
「疾風、さっさと行くなよな。」
「そうですよ。」
大地は疾風から視線を外し、翼を見てニッコリと微笑む。
「翼さん、僕たちも協力します。」
「まあ、一人よりは絶対いいだろう。」
鉄也も振り向きざま翼にこう言った。
翼はふっと体から余計な力を抜き、そして、小さく笑った。それは心からの笑みだった。
「ありがとう。」
「んじゃ、頑張るか!」
「頑張る方向を間違えるなよ、疾風。」
「そうだよ、いつも変な方向に頑張るんだからね。」
疾風の言葉に二人は茶々を入れる。
「んだよ、煩いな!」
疾風は怒鳴り返す。それをずっと見ていた翼は吹き出し、笑い出した。
始めは呆気に取られて三人とも翼を見ていたが、しばらくして、皆で笑い出す。
この時初めて翼はこの三人を受け入れたのだった。
***
「さて、あのクソ親父の居る場所を見つけないといけないのね。」
「クソ親父……。」
「いいのでしょうか?」
「……いいんじゃないか?」
翼の言葉に三人は最初、呆然としていたが、しばらくして我に返りそれぞれの感想を言った。
「どうやって調べましょう?」
真面目な表情で翼がそう呟き、三人は私語を止めざるをえなかった。
「どうやって言われてもな……。」
「そうだな…発信機とかだったら簡単に出来るんだけどな、さすがに探すのは分野が違うからな。」
「あの……。」
大地が遠慮がちに口を挿み、翼は大地の顔を見る。
「何?大地君。」
「パソコン……。」
「パソコン?」
疾風が不思議そうな表情で大地を見て、大地は苦笑に近い笑みを見せる。
「はい、そこから光太郎さんのパソコンに忍び込んで、情報を得られると思うんです。」
「大地……それって…。」
疾風の額からダラダラと汗が流れ始める。
「疾風、貴方は黙っていなさい、大地君。」
「はい。」
「大変だと思うけどよろしく頼むわね。」
「はい。」
大地は力強く頷き、そして、翼の部屋から出て行った。
「そう簡単には進入できないと思うけど、彼ならやってくれそうね。」
翼はそう言うとちらりと、鉄也の方を見た。
「さっき、発信機がどうのこうのって言ったわよね?」
「ああ、言ったが?」
「他にどういうものを作れるの?」
「んー、そうだな、やった事があるのは、空気銃、スタンガン、発信機に簡単な爆弾、えーと、他にはだな……。」
指を折りながら次々と物騒なものを挙げる鉄也に翼は満足そうな笑みを見せる。
「そういうのが出来るのなら、盗聴器とかって作れるかしら?」
「んー、確か部品がまだいくつか残ってたはずだから作れるはずだぜ。」
「そう、それなら、盗聴器を二・三個、それに、スタンガンを三つ、空気銃を三丁、爆弾をそうね……十個ほどかしら?」
「戦争でも起こす気か?」
「そこまでいかないわ、ただ、用意は十分にした方がいいと思うの。」
「……オッケー、オレも部屋に戻る、もし、何かあったらこれで連絡してくれ。」
鉄也は何かを放り投げ、翼はそれを危なげなく受け止める。
鉄也が投げたものは携帯電話だった。
「携帯?」
「ああ、でも、『普通』の携帯じゃないぜ、オレが作り出したものだ。」
「ふふふ、何か特別な機能でもあるのかしら?」
「さーてな、試してみれば分かるぜ。」
「そうね、ありがたく受け取るわ。」
翼はニッコリと微笑み、携帯を机の上に置いた。
「詳しくはそのうち説明する。」
「ありがとう。」
「あー、そうだ、一応オレたちの番号は入ってるからな。」
「それって全員分?」
「ん、そうだ。」
翼は満足そうに笑った。
「んじゃ、オレは行くな。」
「ええ、よろしく頼むわ。」
「ん。」
鉄也は片手を上げ出て行った。
「さてと、疾風、貴方には何をやってもらいましょうか。」
「言っておくが、俺は鉄也や大地みたいに――。」
「分かっているわよ、貴方はその脚だからね。」
翼は疾風の言葉を遮りこう言った。
「大地君はあの頭脳、鉄也さんはあの手先の器用さ、疾風は足が速い事、それぞれの長所を生かすべきでしょ。」
「だがな。」
「ええ、今はあまり役に立たないわね。」
あまりにあっさりと事実を言うものだから、疾風の心は見事に傷ついた。
「でも、これから先は貴方の脚も必要になるはずだわ。」
「……。」
「何よその目は。」
翼は疾風のいじけているような視線に肩を竦める。
「言って置きますが、私は本当の事しか言ってないわよ。」
「……。」
「さて、私も私で色々探らなければいけないわね。」
翼は携帯を手に持ち、ゆっくりと立ち上がった。
「おい、どこに行く気だ?」
「書斎よ。」
「何であんな場所に。」
疾風は眉間に皺を寄せた。
「まあ、あんまり成績のよくない、貴方ならそう思うでしょうね。」
「なっ!」
「ついこの間の中間の成績だって、最悪な点数が二十――。」
「言うな!言うな!言うな!」
翼の言葉を遮るように疾風は怒鳴り、肩で息をする。
「そこまで息を切らすほどかしら?」
「お前な!」
翼は肩を竦めてみせ、疾風はキッと睨み付ける。
「あーら。」
翼は冷めた目で疾風の視線を受ける。
「本当の事を言っただけでしょ?」
「だからってな!」
「まあ、いいわ、私は書斎に行く、疾風、貴方はどうするの?」
翼は凍りつくような視線で疾風を見る。
「ついて行く。」
「そう、勝手にすればいいわ。」
翼は身を翻し、颯爽と歩き始める。
疾風は翼の後をゆっくりと追ったのだった。
***
翼は何十冊目かの本を閉じると強張った体を軽く解す。
「これも違ったわ。」
翼がそう言うと、近くで本を下ろしていた疾風が顔を上げる。
「こんなにも読んだのに、目当ての本が一冊もないのかよ。」
疾風は翼が読み終わった本の山を一瞥し、うんざりしたような表情を見せる。
「仕方がないわ、ここにある本のまだ一パーセントくらいしか読んでないもの。」
「うげー。」
本をあまり読まない疾風は眉間に皺を寄せ、翼を見る。
「まだ続けるのかよ。」
「勿論よ、まだ初めて三時間しか経ってないわ。」
「……三時間も経ってるんだろ。」
「あら、嫌になったのなら帰ってくれてもいいわよ。」
翼は口元に笑みを作る。その笑みは傍から見たら嘲笑っているような顔だった。
勿論これを見た疾風はムッとした。
「誰が帰るかよ。」
「あら、そう。」
翼はさっさと次の本を手に取り、物凄い速さでその本を読んでいく。
本の影で疾風は分からなかったのだが、翼の口元が満足そうに微笑んでいたのだった。
疾風は見事に翼の手の平で踊らされていた。
「翼。」
「何?」
翼は顔を上げず、返事をする。
「次はどうすればいいんだ?」
自分で考えろ、と翼は突っ込みたくなったが、それでも丁寧に指示する。
「そうね、今さっき読み終わった本を元の一番高い棚にしまって。」
「ああ。」
疾風が本を持ち上げる気配を感じ、即座に次の指示を出す。
「それを持って行った後、その下の棚から本を五・六冊下ろして頂戴。」
「ああ、分かった。」
疾風は頷き、すぐさま指示された本を抱え上げ梯子に足を掛けた。
翼はその間、先程疾風が持ってきてくれた本の山から何冊か抱え、一気に二・三冊の本を読んでしまう。
しばらくして、疾風の何か悪態を付く声が聞こえ、翼はそれを無視していると、次の瞬間物凄い音がした。
「なっ!何!」
流石の翼もこの音には動揺せざるを得なかった。
翼は素早く音がした方に視線を向け唖然となる。
「……疾風…。」
翼は頭を抱え、唸りだす。
翼が目にしている光景は一言で言うなら、『悲惨』という言葉が一番合うだろう。
ここに来る前から少し積まれていた本の山は完全に崩れ、本棚に入っていた本はほぼ全部外に飛び出し、疾風は無意識に『力』を使い彼自身は辛うじて平気だったのだが……。
代わりに本が無残な姿になっていた。
「……最悪…。」
翼は何となくこの状況がどうして引き起こされたのか予想が付いていた。
まず、疾風が翼の指示した本をとろうとし、足を滑らせ、そして、床に激突しそうになったのを『力』で止めようとしたが、加減を誤り小さな竜巻並みの『風』を起こしてしまい、そして、現在に至る。
「
いつつ……。」
腰を打ちつけたのか疾風は腰を擦りながら立ち上がる。
「疾風。」
翼の声に疾風は恐る恐るというように、彼女の方を見る。
「……つ、ばさ…?」
翼の表情はいたって普通に見えたが、残念ながらそれは表だけで、翼はこれ以上ないほど怒っていた。
疾風はそれを本能で察し、思わず後退りした。
「貴方は手伝いをしに来たのよね?」
翼はニッコリと微笑みながら、一歩踏み出すが、その笑みは今にも凍りつくような笑みだった。
「あ、ああ……。」
疾風の声音が掠れているが、疾風はそれを気にするよりも、この場から本気で逃げ出したくなった。
「じゃあ、この結果は何なの?」
翼は笑顔で一歩一歩近付き、疾風は翼が進むごとに下がっていく。
「邪魔をしに来たの?」
疾風は視線を微かに後ろにやり、そして、愕然となる。
後ろにはもう壁しかなかった。
「疾風……。」
疾風は唾を飲み、無駄だと知りながらも一歩下がる。
「――っ!」
「えっ!」
疾風が下がった瞬間に二人が予想していなかった出来事が起こった。
疾風の体の一部が壁に飲み込まれたのだった。
「どうなってるんだ!」
疾風は翼の恐怖を忘れ、狼狽する。
始めは驚いていた翼は疾風とは対称的で落ち着いていた。
「……もしかして。」
翼は壁の方に手を当てようとしたが、その手は壁を通り過ぎた。
「……やっぱり。」
翼は予想道理の出来事に頷き、神妙な顔で疾風を見た。
「疾風、『風』を出して、但し、さっきみたいに強いものじゃなく、緩やかな風よ。」
翼の言葉に疾風は疑問を抱きながらも、頷いた。
「分かった、緩い風だな?」
「ええ。」
翼が頷いたのを見て疾風は拳に『風』を集める。
「これをどうする気だ?」
翼は疾風の拳に集まった『風』の量を見てホッと息を吐く。
「それをその壁に向けて。」
「ああ。」
疾風は頷きそして、集めた風を放そうとした。
「――っ!まっ、待って!」
「んあ?」
「んあ?っじゃないでしょ!何をする気だったのよ何を!」
怒鳴る翼に疾風は首を傾げる。
「これをぶっ放つ。」
「~~っ!」
翼の表情が一気に怒りで真っ赤に染まる。
「馬鹿!」
「なっ!」
怒鳴る翼に疾風はたじろいだ。
「私はただ、その拳を壁に近づけろって言って、決してぶっ放せとは言ってない!」
「……あ~。」
そういえばそうだったかも、と疾風も納得した。
「納得したんだったら、さっさとやる!」
翼は腰に手を当て、ビシッ、っと壁に指を指す。
疾風は反射的にその指示に従った。
疾風の拳を壁に近づけると、その周りから別の景色が見えた。
「やっぱり。」
翼は小さく頷きそして、壁に手を翳し、ゆっくりと深呼吸をする。
「翼?」
翼の行動に疾風は怪訝な顔をしながら見つめる。
しばらくしてから、翼は目を開ける。
「やっぱりそうだったのね。」
「……なんだよ、一人だけ分かったような顔して、俺にも教えろよ。」
「……貴方は分かんないの?」
翼は嘆くように首を振り、仕方がなさそうに口を開く。
「これはいわゆる幻影よ。」
「幻影?」
「そう、この壁は『光』『火』『水』の『力』から成り立っているわ。」
「それって。」
「ええ、そう、光太郎さんたちが態々隠しているものがこの先にあるのよ、もしかしたら、そこに私の探しているものがあるかもしれないわ。」
翼は口角を上げ笑う。
「さあ、危険はなさそうだし、入ってみましょう。」
「……本当に大丈夫なのか?」
「ええ、勿論よ、何のためにさっき貴方に手を翳してもらったと思っているの?」
「……。」
「もし、何か危険があったのなら、貴方倒れているはずでしょ?それに、もし、このトラップで何か知らせるんだったら、もう誰か来ているはずなのよ。」
クスクスと笑う翼に疾風の顔が少し青くなる。
翼は疾風を実験体として扱っていた、そして、それに疾風はようやく気付いたのだった。
「……。」
「この話はここまでよ。」
翼はそう言葉を区切り、両手を翳しながら前へと進む。
腕が壁に呑まれ、翼は最後に軽く息を吸って決意したように前へと進む。
「……っ。」
壁を通り過ぎ、翼は目の前にある部屋に軽く目を見張った。
「ここだわ……。」
無意識に零れた言葉に翼は思わず口を押さえたが、煩いほどの鼓動止められなかった。
翼の血が、魂がここに自分の求めているモノがあると知らせる。
「うげっ……。」
後ろからやって来た疾風の気配でようやく翼は我に返り、近くにあった本に手を伸ばす。
「何だよ、この古そうな本の山は……。」
うんざりする疾風を無視し、翼は読んでいる本に釘付けになる。
「翼――。」
名前を呼んでも振り返りもしない翼に疾風は彼女の呼んでいる本を後ろから覗き込む。
「うげっ!」
「……疾風、煩い。」
流石に耳元で叫ばれ翼は耳を押さえながら、物凄く不機嫌な顔で疾風を睨み付けた。
「だっ、だってな……。」
睨み付けられる疾風はたじろいだ。
「その本、何語なんだよ。」
「日本語に決まっているじゃない。」
「何処がだよ。」
翼はため息を付き、首を振った。
その馬鹿にされた態度に疾風はカチンと来た。
「何が言いたいんだよ!」
怒鳴る疾風に翼は顔を顰め、肩を竦めた。
「貴方は本当に役に立たないのね。」
「何だよ!そんな蚯蚓のぬたくったような字、読めるかよ!」
「……あら、蚯蚓のぬたくったよう、って言葉知っているのね?」
翼は意外そうな表情をしたが、すぐに馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「でも、これは違うわよ。」
「何でだよ……。」
「これは決して下手な字じゃないわ、むしろ達筆よ。」
翼の持っている本は確かに達筆な字が並んでいたが、普通の人間なら全く読めず、疾風と似たような感想を言うだろう。
「まあ、そこまで貴方に期待していないから、そうね。」
翼はざっと周りを見渡した。
「そこの本棚から…、一番上の本で右から十番目の本、それに二段目から左の一番厚みのある本を三冊、それから……。」
「待った、待った!」
「何よ。」
翼はまだ指示をしようとしたが、怪訝な顔で言葉を止める。
「覚えられねえよ……。」
「そう……それならさっき言った本をとってきて頂戴。」
翼は空いている床に座り込み、ゆっくりと本を読み進めていく。
数時間が経過し、翼は読んでいた本を閉じた。
「んあ?終ったのか?」
疾風は顔を上げ、翼を見るが、すぐに怪訝な顔になる。
「どうかしたのか?」
疾風がそう訊くのも無理はないだろう、翼の顔がいつもよりも白くまるで病人のように真っ白になっていた。
「何でもないわ……。」
翼は何事もなかったかのように微笑むが、疾風はそれが嘘だと思った。
「何でもない訳ないだろ。」
疾風は腰を上げ翼に近付こうとする。
「……分かったわ。」
翼は逃げられない事を悟り、ため息と共に観念する。
「この本で私が何者なのかようやく分かったわ。」
翼は顔を曇らせ、哀しげに言葉を紡ぎ始める。
「疾風、貴方は私が何のためにここにいるのか知っている?」
「そりゃ、お前の親父である誠一郎さんが残した言葉だからだろ?」
「……本当にそれだけ?」
「他には……。」
そこで疾風の言葉が濁る。
「本当の事を言って頂戴、私は何も責めたりしないから。」
何を、何処まで知っているんだ、と問いかける疾風の視線に翼は曖昧な笑みを浮かべる。
「お前が狙われているから、それに、お前は俺たちの『マスター』だからだ。」
「なら、何で狙われているの?」
「何でって……。」
「何で『マスター』と呼ばれなきゃいけないの?」
「………っ!」
疾風の驚くような顔で翼は彼が何も知らない事を悟る。
「そう、貴方も何も聞かされていなかったのね。」
「……。」
翼は悲しげな目をしたままそっと言葉を紡ぎだす。
「私は『時の翼』。」
「トキノツバサ?」
「ええ、そう、『時間』を司る者。」
翼は知り得た知識を自らの口から発する。
「私の父方の一族は代々女性がその『時の翼』という巫女みたいな役目を負っていたらしいわ。でも、何百年か前から男児しか産まれなくなり、その『時の翼』という存在は忘れられていくの。」
翼はゆっくりと立ち上がり、そして、疾風の前に立つ。
「でも、その『時の翼』の血は決して途絶えなかった。そして、今は私が受け継ぎ『覚醒』しようとしている。」
「『覚醒』……。」
「ええ、『覚醒』。『時の翼』には『守護者』という者が八人付くの、彼らには不思議な『力』が宿り体のどこかにこれと同じ文様が刻まれている。」
翼はある本の一冊を持ち上げ、目当てのページを疾風に見せる。
疾風はそのページを見て無意識のうちに左腕を押さえた。
翼は疾風のその動作を黙って見ていた。
「この屋敷に住む人間も八人、それは偶然かしら?」
翼の問いかけに疾風は答えない、答えないけれど疾風も翼もその答えを知っている。
答えは「必然」。
「私がどうして最近誰かに見られていたのか、そして、なぜ襲われたのかようやく理解したわ。」
「……見られてた?」
「ええ、言ってなかったかしら?」
「ああ。」
「そう、まあ、今は関係ないわね。」
翼は一人で言葉を止め、そして、真剣な顔をする。
「私が襲われた理由、それは『時の翼』だから、この『力』は危険であるけれど、人が欲するには十分な魅力を持っているわ。」
翼は俯き、自分の掌を見詰める。
「………こんな『力』欲しくなかったのに……。」
翼は吐き捨てるように言って、凛とした表情をして顔を上げる。
「これ以上の話は取り敢えず他の二人が揃ってからにしましょう。」
「はあ?」
いきなりそう言われ疾風は気の抜けた声を出す。
「この話はきっとあの二人も知らないはずよ。」
「……。」
「貴方に一度話してから、もう一度他の二人に話すなんて手間掛けたくないから今日のところはここまでにしましょう。」
翼は身を翻し、幻の壁の方に足を向ける。
「まっ、待てよ!」
引き止める疾風に翼は一瞥した。
「何?大した話じゃないのなら私は行くわよ。」
「……お前は不安じゃないのか?」
不思議そうな顔で翼は疾風を見詰める。
「不安って何がかしら?」
「お前はすんなりそんな事を信じるのか?」
「……。」
翼は口の端を上げ笑った。
「不安とかそんな事言って事態は変えられるのかしら?」
翼の言葉に疾風は押し黙る。
「信じられないといって耳を塞げば、もう何も起きないの?」
翼の視線はまるで鋭い刃のように疾風を斬りつける。
「そうじゃないでしょ?私はもう後戻りは出来ない、だったら進むしかないのよ。」
翼はそう言い完全に部屋から出て行った。
そして、翼が出る一瞬前に彼女はこう呟いた「不安でも先に行かなければならないのよ。」この言葉は疾風の耳には届かなかった。