第六章
翼は今目の前にある危機に息を呑む。
翼の目の前には蝙蝠の羽を生やした醜い化け物がいる。
それはつい今さっき翼の目の前に降り立った。
先程までは本当にいつもの夕方の帰り道だったが、今は違う、かなり危険だ。
「キキキィィィィィィィィ―――――――!」
化け物の上げる甲高い声に思わず顔を顰め、そして、翼は反射的に耳を塞ぐ。
この前の化け物と同じだと思った、だが、少し違うとも同時に感じた。
前の化け物は少し人間の気配がしたのに、今回のこいつはまるでそんな波動は感じず、獣臭いと思った。
化け物の腕が振り下ろされる。
翼は後ろに大きく飛び退き、化け物の鋭い爪から逃れる。
「――っ!」
翼の目が大きく見張られる。
彼女が飛び退く前にいた地点に化け物の爪が突き刺さっている、その爪の威力は大きく、地面にひびが入っている。
翼は息を再び呑み、化け物と対峙する。
勝てる気はまったくしなかった、むしろ、警鐘が頭の中で「逃げろ」と言うように鳴り響く。
逃げられるのなら、逃げたかった。
だが、逃げられない。
「……どうしようかしら。」
思わず翼は苦笑いを浮かべる。
もし、走り出したとしても、相手は空を飛べる化け物で、自分は地面を走るしかない。
当然、行く道を塞がれる、それどころか、後ろを向いた瞬間に背中をあの鋭い爪が襲うかもしれない。
そう考えただけで、背筋から汗が流れる。
「何か武器になりそうなものは……。」
ないと思いながらも、翼はざっと辺りを見渡す。
案の定、武器になりそうなものは落ちていなかった、まあ、もし落ちていたとしたら逆に問題があるかと、妙に冷静に考えながら、翼は化け物を見据える。
今手持ちにあるのは鞄一つだけ、その中にはカッターがあった事を思い出すが、それを取り出すのは無理だと思った。
理由は取り出す間に化け物に襲われてしまう事と、もう一つ、化け物にあんなちんけな刃が通るはずがない事である。
「――はっ!」
翼は殺気を感じ瞬時に身を伏せる。
刹那、頭上から何かが通る気配と空を切る音が聞こえた。
「危なかった……はあっ!」
翼は無駄だと知りながらも、反撃を試みようとした。
しかし、残念ながら翼の足払いは化け物が空へと逃げた所為で失敗に終る。
「ちっ……やっぱり駄目か。」
舌打ちをし、翼は即座に戦いの構えをする。
先日は疾風の『能力』のお陰で翼は助かったが、今は先日のように疾風はいない。
「来るっ!」
翼は最低限の動きで化け物の攻撃範囲から逃れる。
今は時間を稼ぐしかない、だから、出来る限り体力を温存とかないといけないと、翼は思った。
本当は他人に任せるのは本意ではないが、それでも、この化け物に勝てるのは光太郎たちをはじめとするあの屋敷に住む住人だけだと翼は分かっていた。
だから、翼は自分が死なないように化け物の攻撃を避ける事に集中する。
「いつまで持つかしら……?」
翼は自分の体力が持って三十分くらいだと思った、いくら最低限な動きをしているからと言って化け物の攻撃範囲は広いので必然と翼にとっては動き回らなければならない上に、瞬発力も遣わなければならなかった。
翼はそんな事を考えながら、不自然な事に気付く。
(何でかしら…人が一人も通らない……。)
翼のいる道はもともと人通りがそんなに多くはないが、それでも、この時間だと帰宅する学生が一人、二人いてもおかしくないのに、誰もこの道を通らない。
(何か不思議な『力』でも働いているのかしら、それとも、人為的?………っ!)
翼が考え事をしていた所為で、化け物の攻撃の反応が少し遅れ、翼の制服が微かに裂ける。
「――っ!」
危なかったと思った、もし、もう少しでも反応が遅れていたのなら翼の体は裂かれ今頃道の真ん中で死んでいたかもしれない。
(これ以上無駄な考え事をしていたら本当に死んでしまうかも……。)
翼は瞬時に頭を切り替え、避ける事だけに専念する。
避け始めてからどのくらいの時が経っただろうか、翼の額に汗が滲み、肩で息をし始めた頃ようやく戦いの中に変化が起こる。
だが、それは翼にとっては予想した中で最悪な事態だった。
翼の体力が付き始めたのか、彼女の脚から力が抜け、体は支えを失い倒れてしまった。
「くっ……っ!」
翼は素早く体を起そうとするが、化け物の方が一瞬早かった。
(やられる!)
翼は怖くても目を閉じない、どんな事があっても背けてはいけないと自分に言い聞かせながらじっと化け物から目を逸らさず、翼はじっと自分が死ぬ瞬間を待ち構える。
刹那、地面が揺らぐ。
「なっ、何!」
化け物は宙にいるのでこの揺れを感じないが、翼は地面に倒れているのでその揺れを直に感じた。
そして、次の瞬間、化け物と翼の間に地面が盛り上がり、壁を作り上げる。
「グギギギィィィ……。」
化け物は唐突に現れた壁に体当たりする前に、羽をバタつかせ、空に上がった。
「これは……。」
翼はこの壁が自然のものではない事を理解していた。
そして、それが出来るのはあの屋敷に住む誰かだと分かり、翼は振り返った。
「よっ、良かった…間に合いました……。」
翼からかなり離れた所に肩で息をする大地の姿がそこにあった。
彼は地面に手を置いていた。その地面は不思議な事に光っていた。
だが、翼が今更そんな事で驚くなんて事は全くなかった。
「大地君。」
「大丈夫でしたか?」
場違いなほど温かい声音に翼は苦笑する。
「大丈夫よ。」
翼はまだ安全ではないと感じ、素早い動きで、大地の元に駆け寄る。
「どうするの?」
翼は息を整え直し、また戦いの構えを取る。
「……ごめんなさい、僕だけでは敵の攻撃を防ぐしか出来ません。」
「そう……。」
翼の中に芽生えた希望は大地の言葉で消え失せた。
「せめて、疾風先輩がいてくれれば。」
「……。」
翼は軽く大地を睨み、彼の言葉を封じる。
「今更がたがた言うんじゃないわ、今はどうこいつと対峙するか考えましょう。」
厳しい顔のまま翼は化け物から目線を逸らさないようにした。
「貴方の『力』は地面なのね。」
「はい、そうです、僕の『力』は『地』です。」
翼は小さく頷き、そして、後ろに飛び退く。
すると、化け物が急降下し、翼の先程いた地点に鋭い爪を付きたてる。
「本当に嫌な攻撃ね!」
翼は持っていた鞄を投げ飛ばした。それは化け物の顔に命中した。
「ギエエエエエエエエ……………!」
化け物は悲鳴を上げ、真っ赤に染まった目を翼に向ける。
翼の背中から冷たい、嫌な汗が流れる。
化け物が翼に突進するように猛スピードで距離を縮める。
「今よ!」
「はい!大地よ、強力な壁を作れ!」
翼の合図と共に、大地は『力』を込める。
化け物がスピードを殺しきれない絶妙なタイミングで翼と化け物の間に再び壁が聳え立つ。
「グギャアアァァァァ――――――!」
化け物の絶叫が響き渡る。
「……やっぱり決定的な何かをしないと。」
翼は冷静に分析し、呟く。
「ええ、でも、僕たちだけじゃ……。」
翼の言葉に大地は顔を曇らせながら頷く。
「そう、無理ね。」
「僕の『力』が防御系じゃなかったら……。」
「そんな事、今言っても何も変わらないわ。」
翼は大地を叱責し、化け物を見据える。
化け物は先程物凄い速さで壁にぶつかったにも拘らず、すぐに回復し、怪我が全く見当たらなかった。
そして、化け物の狙いが翼から大地へと変わった。
「キイイイィィィィィィ―――――――――!」
化け物は甲高い鳴き声を上げ、大地へと方向を変えた。
翼は化け物の攻撃が自分のところに来ると構えていたが、彼女の予想がハズレている事に気付き、翼は顔を青くさせる。
「しまったっ!大地君!」
「――っ!」
大地の目が大きく見張られ、彼は混乱してしまい、自分と化け物の間に壁を作り上げることを忘れてしまう。
「止めてええええええええええぇぇぇぇぇぇぇ―――――――――!」
翼は腹の底から叫び、大地は硬く目を瞑った。
誰もが絶体絶命だと思ったが、神は彼らを見放さなかった。
「大地!」
誰かの鋭い叫びと共に、大地の目の前に鋼の盾が現れる。
それは大きく、しかも丈夫で化け物の爪を折る。
「ギャアアアアアアアァァァァァァァァ―――――――!」
化け物の絶叫は先程よりも痛々しい響きが混じっていたが、それに構っている程翼たちは優しくなかった。
「鉄也さん!」
大地は顔を上げ、自分を助けてくれた人物を見遣る。
「大地、気を緩めるな!」
「はい!」
鉄也の叱咤で大地は化け物を地面の壁で囲う、勿論空に逃げないように蓋もする。
そして、一先ずは危機が去って、誰もが張り詰めていた気を緩める。
「大丈夫そうだな。」
「はい。」
「……お前だけなのか?」
鉄也は素早く見渡し、この道にいるのが翼、大地しかいない事に気付き、顔を曇らせる。
「はい……。」
「そうか……参ったな。」
鉄也は顔を顰め、翼を見る。
「お前も大丈夫だよな?」
「普通、女の子がいるのに男の子の方に先に「大丈夫か?」って訊く?」
翼は少し拗ねたように言い、それを聞いた鉄也は笑みを見せる。
「それだけ、言えるんだったら大丈夫だな。」
「ええ、勿論よ。」
先程の拗ねた顔が嘘のように翼は笑みを作る。
「ところで、一人なの?」
「ああ、運が悪い事に一人だ。」
「貴方も防御系なの?」
翼の質問に鉄也は首を横に振る。
「微妙だが、オレは特殊だな。」
「どういう意味?」
「俺の場合は武器を作ったりする。」
「さっきの盾みたいに?」
「ああ、そうだ。」
翼は急に何かを考える素振りを見せ、すぐに顔を上げる。
「その武器は私でも使える?」
「……何を。」
怪訝な顔をし、鉄也は翼を見る。
「この中でまともに戦えるのはきっと私だけよ。」
「……。」
「だから、私が戦う。」
翼の瞳には迷いがなかった。
鉄也はそれに気付き、しばらく躊躇して見せたが、すぐに頷く。
「分かった、だが、無茶だけはするな。」
「あら、それは無理なご注文ね。」
「……。」
少しふざけたように喋る翼に鉄也は怪訝な表情をした。
しかし、すぐにそれも驚きの表情を見せ、真剣な顔に変わる。
翼の手が小刻みに震えていた。
翼は自らの弱さを見せないためにワザとふざけているように見せているのだ。
「オレの武器は切れ味がいいから気をつけろ。」
「分かったわ。」
翼は頷き、そして、化け物が閉じ込められている地の牢獄を見る。
「大地君、持ってあれはどのくらい?」
「多分、二・三分くらいです。」
「そう、鉄也さん、お願いがあるんですがいいですか?」
翼が誰かに「お願い」するなんて珍しかったが、この場では誰もその突っ込み入れない。
「何だ?」
短い返事に翼は微かに微笑んだ、それは自然な笑みで自然と翼の余分な力が抜ける。
「出来れば、剣で二振り。」
「……大丈夫なのか?」
「勿論よ。そうじゃなかったら頼まないわ。」
翼の目が本気だったのでこれ以上何も言わず、鉄也はポケットから鉄の塊を二つ取り出した。
「それは?」
「これが元だ、いくぞ。」
鉄也は両手にそれぞれの鉄の塊を乗せ、そして、目を瞑りながら念じ始めた。
鉄也の両手が輝きだしたと思ったら、次の瞬間には鉄の塊にその光が移り、そして、鉄也の手から離れ、剣の形をし始める。
「取れ!」
鉄也の声と共に、翼はその二振りの剣を手にする。
二振りの剣は翼の腕から詰め先の長さで、ずしりとして少し重かったが、不思議と翼の手に馴染んだ。
翼は剣を構え、二・三度振り下ろした。
「うん。」
翼は納得したのか、頷いた。
「鉄也さん、ありがとう。」
「……「さん」はいらない、鉄也だけでいい。」
「えっ……、分かったわ、『鉄也』。」
少々ぶっきらぼう気味に言う鉄也に翼ははじめ驚いたが、ニッコリと笑いかけた、そして、爆音が聞こえた。
「さあ、やるわよ。」
翼の瞳から光が漏れだすが、本人だけはそれに気付かない。
「鉄也先輩……。」
「ああ。」
翼を見詰める、鉄也と大地には翼の瞳の光が見え、それを目にし、二人の表情は同時に曇る。
「ギエエエェェェェェェェェェ―――――――――――!」
大地の作り出した地の牢獄から抜け出した、化け物は吼えた。
翼は口元に笑みを浮かべ、地面を蹴る。
不思議と体が軽かった。
翼はあっという間に化け物との距離を詰め、攻撃範囲に入る。
「――ふっ!」
化け物は身の危険を感じたのか、翼に攻撃を仕掛ける、だか、それは翼の片方の剣で止められてしまう。
「甘いわ!」
翼は片方の剣で化け物の攻撃を防いだまま、空いている方の剣で攻撃を仕掛ける。
剣は滑るように動き、化け物の片腕を切り落とす。
物凄い切れ味だと、翼は思った。
化け物は自分の腕を切り落とされた事に怒りを覚え、翼にもう攻撃を仕掛けるが、翼はそれを剣で防ぐ。
「だから、甘いのよ!」
翼は体を傾け化け物の攻撃を避けた、そして、化け物の背後を取り、化け物の両翼を切り落とす。
化け物は両翼を切り落とされた所為で、空から地面に落ちてしまう。
今までに聞いた事のないような絶叫が聞こえたが、翼は冷たい目で化け物を見下ろす。
「さあ、形勢逆転。」
翼の形のいい唇に残酷な笑みが浮かぶ。
「ギイイィィィ!」
化け物は近くに落ちていた石を拾い上げ、翼に投げつける。
それは物凄い速さだったにも拘らず、翼はそれを軽々と避けてしまう。
「ギッ!」
「なっ!」
「えっ!」
これには化け物だけでなく鉄也と大地も驚いた。
翼は目を細め、凍りつくような目をする。
「さあ、これでお仕舞いよ。」
鉄也と大地はこの言葉にはっとなり翼を止めようと動き出すが、翼の方が早い。
翼は剣を振り上げ、それを勢いよく振り下ろした。
――駄目!
翼の頭の中に声が響く。
――駄目よ、翼!
翼の手がピタリと止まる。
だが、声はまだ止まない。
――翼、お願いだから、自分を殺さないで。貴女は『時の翼』だから……。
声が聞こえにくくなる、翼は口を開こうとするが、声が出ない。
それどころか、世界が傾く。
目の前が真っ暗になる。
そして、翼の意識は闇に沈んだ。
***
「………で。」
「………が。」
話し声が聞こえる、翼はゆっくりとその話に耳を傾ける。
「何で話さないんだ!」
「仕方がないんですよ、疾風君。」
「何がだ。光太郎、さすがのオレたちでも、今回はお前の出方しだいでは、疾風たちの側に行くぞ。」
「焔……。」
「そうですよ、光太郎。」
「賢木まで。」
何を言い争っているの、と翼はそう思い、重たい瞼を持ち上げる。
目の前がまだ霞んで見えたが、それでも、八つの影が見えた。
「……言い争いはよそでしろ、彼女が起きてしまったじゃないか。」
凪の静かな声音に、翼は心地よさを感じた。
だが、次の瞬間それは頭から飛び去った。
「何!」
「本当ですか!」
「いつから!」
「あー、本当だな。」
「良かった無事で。」
次々と話しかけられて、翼は頭が痛くなった。
翼が顔を顰めているのを見たのか、凪はため息を付き静かな声音で言葉を紡ぐ。
「いい加減に出て行ったらどうだ、煩くてかなわない、それにまだ彼女の治療は終っていない。」
「でも――。」
何かを言おうとするが、凪の視線に言葉が詰まる。
「はっきり言わしてもらおうか?邪魔だ、とっとと失せろ。」
「……分かりました、凪、後は頼みますよ。」
「ああ。」
光太郎ため息を付き出て行こうとし、不意に夜希が止める。
「コウ、本当にいいのか?」
「ええ、医者である彼が言うのです、間違いはないでしょうし、それに、翼さんのご迷惑になるのなら、それはルール違反でしょうからね。」
「そうか……。」
夜希は頷き、光太郎の後を追って外に出ようとする。
「ほら、他の皆もだ。」
「……。」
凪が促すが、他の特に年少組みの三人は渋った。
「おい、鉄也、疾風、大地、出て行くぞ。」
「でもな……。」
「もう少しだけさ。」
「……駄目なんですか?」
三人は心配そうな顔で翼を見詰めるのを見た残りの三人はそれぞれの反応を見せる。
凪は眉間に皺を寄せ苛立つような目つきで年少の三人を見詰め、焔は面倒臭そうに頭を掻きながら口元に笑みを作る、賢木は困ったように笑いながら、それでも、翼をちらりと見てから意を決したように口を開いた。
「翼さんもお疲れのようですし、今日のところは彼女を休ませてあげましょう。」
その言葉に三人は黙り込む。
確かに翼の顔色は青白く、まだ無理をさせてはいけないと思ったからだ。
「…分かった。」
「そうだな。」
「そうですね、休養は重要ですよね。」
「んじゃ、さっさと出ようぜ。」
「そうですね、では凪後は頼みますね。」
「ああ。」
凪の短い返事に五人のうち三人は後ろ髪を惹かれるように何度も振り返りながら部屋から出て行き、残りの二人はあっさりと出て行った。
「ようやく落ち着いたな。」
「そうですね……。」
翼は青白い顔のまま頷き、そして、まだ本調子ではなかったのか目眩を感じ、目を閉じた。
「……私はどのくらい寝ていたのですか?」
「そうだな、だいたい三時間くらいか。」
「そうですか……。」
翼は息を吐きながら、頷いた。
「……しんどい…だろうな。」
「当たり前の事聞かないで下さいよ。」
翼は薄っすらと目を開け、苦笑の笑みを見せる。
「でも、大丈夫です、このくらいなら……。」
「意地を張るな。」
凪は嘆息を漏らしながら、左手を翼の額に乗せた。
「少し冷たいかもしれないが、我慢してくれ。」
翼は何をするのかと怪訝な顔をした次の瞬間、凪が言ったように何か冷たいものが翼の中に流れ出す。
それは冷たすぎず、ゆっくりと翼の体の中を巡り始める。
翼は目を瞑り、自分の中に流れるものが何か探ろうとする。
そして、探っているうちに何かの音が聞こえた。
(…これは…せせらぎ…?)
「……『水』?」
「……喉が渇いたのか?」
凪は手を止め、首を傾げる。
「違います、音が聞こえたんです、せせらぎのような…。」
翼は強い意思の宿った瞳で凪を見詰め、彼は翼の言葉に驚いたのか目を見張った。
「当たりなんですね?」
翼は口元に笑みを作り、そして、天井を見る。
「貴方の『力』は『水』、多分、癒しの『力』を持っているんですね?」
「ああ、そうだ。」
凪は頷き、翼はそれを見て微かに口元を緩める。
「そして、疾風は『風』、大地君は『地』、鉄也さんは『鋼』ですよね?」
「さすがだな。」
凪の声音は特に驚いたようには聞こえなかったが、それでも、翼には彼が驚いているように感じた。
「他の人たちは合っているか分からないけど、予想は付くわ。」
翼は淡々と言葉を紡ぎ始める。
「貴方たちの名前にはその『力』の共通点かあると考えるとすると。光太郎さんは『光』、夜希さんは光太郎さんの対の『闇』、焔さんは『火』、賢木さんは『木』でしょ?」
「よく分かったな。」
「だけど、私が分かっているのはここまでよ、詳しくは分からないし、知り得る情報がないわ。」
「そうか、……お前は知りたいのか?」
「分からなかったわ。」
「……分からなかった?」
「ええ、そう、分からなかった、でも、今はどうしたいか分かっている。」
翼の瞳が真直ぐ凪に向けられる。
「私は知りたいんじゃなくて、知らなくてはいけない、それは絶対的で、私の力では抗えない何かだと思うわ。」
「抗えない……。」
「そう、私はもう知らなかった頃にもう戻れない、もし、戻ったとしても、私はこの宿命に逆らえないわ、きっと。」
「……貴女が定めだとか、運命とか言うとは思わなかった。」
「私は運命とは一言も言ってないわ、私が言ったのは宿命。運命は自分の力で変えられるかもしれないけど、宿命は違うわ。」
翼の瞳が凍りつくような冷たい光を発する。
「宿命は人の子では決して抗えないもの、そう、『普通』じゃない私たちでも、人の子だから、その宿命には抗えない、だから、私たちは出会い、そして……。」
「そして?」
言葉を詰まらす翼に凪は促したが、翼は首を振り、何も言わなくなった。
「……分かった、これ以上何も聞かない。」
翼は小さく頷き、そして、ゆっくりと目を閉じる。
「かすり傷と打ち身程度の外傷だけだ、ゆっくり眠るといい。」
ぶっきらぼうに言う声音の中に微かな優しさが混じっている事に気付き、翼はゆっくりと頷く。
「では、お休み。」
凪は立ち上がり、そして、電気を消してから部屋から出て行った。
一人になった翼は再び目を開け、ゆっくりと体を起す。
「あの時の声は…いったい何なの?」
翼は自分自身に問いかけるが、答えはやはり返って来ない。
「……『時の翼』それが、キーワードなの?」
しばらく、耳を澄ますが、ため息すら聞こえなかった。
「アレは幻聴だったの……?」
自分の問いに翼自身の心がそれを「否」だと否定する。
あの声は確かに聞こえたのだ、それも、間違いなく翼だけに。
「もしかしたら、光太郎さんとかなら知っているのかもしれないけど……。」
まず、教えてくれないだろう、と翼は冷静に判断する。
「……待っていたら、自然とチャンスはやって来るかもしれないわ。」
翼はそう自分に言い聞かせ、そして、自分の手を見つめた。
真っ暗だというのに、なぜだかはっきりと見える。
「何かが私の中で変わり始めているの?」
自分の何気なく口にした言葉に翼はゾクリと寒気を感じた。
そう、翼はその言葉が正しいのだと感じたのだった。
「……私が、変わる…。」
翼は目を閉じ、そして、今まで全く感じる事の出来なかった、気の流れを読む。
緊張
悲しみ
怒り
苦痛
そして、微かに自分の内に宿る喜び。
「喜び……?」
そう、自分の中の殻から破り出るような、そんな、新しい世界を見つけるような、喜びが翼の中にあった。
翼は頭を振り、今しがた考えていた事を振り払おうとする。
だが、それはそう簡単に振り払う事が出来なかった。
「……どうなっているのよ……。」
翼は手を組み、それを額に当てる。
どうすればいいのか分からない、けれど、もう後戻りが出来ない。
翼はそんな不安を抱えながら、組んでいた手を外しもう一度手を見る。
「……大丈夫。」
心の中でも口にした言葉と同じ言葉を唱える。
「大丈夫、絶対、大丈夫。」
翼の瞳からはもう戸惑いも、迷いも不安もなかった。
「どうにかするわ、自分のこの手で。」
強い決意と共に翼は力強く笑った。
そして、さすがに体力の限界に達し、翼は泥のように眠りに付いた。
眠りは深く、夢は全く見なかった。
翼がどんなに強くとも所詮は『女性』宿命の荒波の中では精神力が耐えても、体力の方では耐え切れないだろう。
だけど、翼は荒波の宿命をただ一人で乗り越える必要はないのだが、今の翼はそれを意地でも避けようとしていた。