第五章
放課後、翼は屋上の真ん中で一人立っていた。
彼女の周りは悲惨な状態でコンクリートが砕かれ、あちこちにその破片が飛び散り、所々には乾いた血の後すらあった。
悪夢のような光景に翼は真直ぐで歪みのない瞳でそれを見詰めている。
「私は……。」
翼が何か呟こうとしたとたん、彼女は口を紡ぎ、出入り口のドアの方に振り返った。
そして、数分位してから、ドアが開き、小柄の少年が現れた。
翼は少年に笑みを向けた。
「こんにちは。」
「えっ、あっ、こんにちは。」
少年は礼儀正しく頭を下げながら翼に挨拶を返す。
「貴方が茶山大地君ですね。」
翼の言葉に少年――大地は軽く目を見張り、それを見た翼は目を細めた。
「光太郎さんの命で私に接触しに来たのね。」
「なっ、何で……。」
「さあ、何でかしら。」
翼はコロコロと笑うが、その目は笑っていなかった。
「ところで、貴方は炭染鉄也さんとは仲がいいかしら?」
「えっ?」
唐突な質問に大地は驚きを隠せずにいた。
「仲がよろしいのなら、良ければ、彼に連絡を取って下さい、藤堂翼が会いたいと。」
「……。」
「駄目かしら?」
翼は小首を傾げるが、翼の瞳からは強い意思の光が発せられている。
「……駄目って言ったら、貴女は納得しますか?」
「しないわ。」
即答する翼に大地は小さく頷く。
「そうでしょうね、貴女のような人がこんな事を言って、それで簡単には諦めないでしょうね。」
「ええ、勿論よ。」
翼はニッコリと微笑み、大地に近付き始める。
「それで、連絡は取っていただけるかしら?」
「構いませんよ、但し、僕も傍にいる事が条件です。」
大地の出した条件に翼は何の戸惑いもなく受け入れる。
「ええ、それは構いません。」
「いつ頃がいいですか?」
「今日中に会いたいわ。」
「えっ……。」
大地は翼が鉄也と会うのは二・三日中くらいだと、早くとも明日だと思った。だが、翼は今日中と言ってきたのだった。
「無理かしら?」
「無理じゃないと思う、けど……。」
「けど?」
翼の瞳は真直ぐ大地に向けられ、彼はその瞳の真直ぐさにたじろぐ。
「何で……?」
「私はもう、無知でいられないから。」
翼の顔からは笑みが消え、変わりに真剣な表情が広がる。
「無知で誰の足も引っ張りたくないから、だから、私は自分のするべき事をする。ただそれだけよ。」
「……分かりました。」
大地は頷き、制服のポケットから携帯電話を取り出し、哲也に電話する。
「あっ、鉄也先輩、僕です、大地です。」
『ん?何のようだ?』
「あの……。」
大地は言葉を詰まらせ、電話の向こうの鉄也は怪訝な声を出す。
『何かあったのか?』
「ええ、あの……。」
「貸して。」
翼は言いにくそうにする、大地に手を差し出す。
『大地?』
電話から鉄也の心配そうな声がし、大地は電話と翼の手を交互に見詰め、そして、彼は翼に携帯電話を差し出した。
翼は携帯を受け取り、ほのかに微笑む。
「ありがとう。」
『大地?どうしたんだ?』
「もしもし。」
『――っ!』
急に電話の相手が変わった所為で、向こう側から息を呑む音が聞こえた。
「藤堂翼です。大地君に無理を言い電話を借りました。」
『……大地…。』
唸るように言った言葉に本来なら聞こえていないはずの大地は「ごめんなさい……。」と少し離れたところで謝っている。
『…何のようで、こんな事をしている?』
「簡単な事です、今晩お時間を少し頂けないでしょうか?」
『何でだ。』
つっけんどんな返事に翼は内心で苦笑するが、声には全くそんな素振りを見せない。
「貴方がたにも重要な話ですから。今日お時間を頂けたらお話します。」
『……。』
「ですから、お時間を頂けないでしょうか?」
翼の問いからしばらくの沈黙が続いたが、鉄也のため息によって沈黙は破られた。
『分かった、時間は取る。』
「ありがとうございます。」
電話を切り、翼はそれを大地に返す。
「ありがとう、助かりました。」
「いえ……。」
大地は浮かない顔で翼から携帯を受け取り、それをしまう。
「心配しないで。」
「えっ。」
翼の急な言葉に大地は顔を上げ、そして、ニッコリと笑う翼と目が合った。
「そんなに気負う必要はないわ。私が出来る限り背負うから。」
言葉の通り翼はもう何かを決意したような表情をしている。
「だから、心配しないで。」
風が翼の髪を靡かせ、一瞬だが、大地の目から翼の表情を隠す。
隠された翼の顔にはもう後には引けない決意がそこにあり、凛とした光を放つ瞳から強さと悲しみが映されていた。
***
「何のつもりでオレたちを呼んだんだ。」
腕を組み不機嫌な顔をしながら鉄也は翼を睨み付けていた。
「……座ったらどう?突っ立ったままで話してもしんどいでしょ。」
翼は近くのイスを指し、鉄也は顔を顰めたが、すぐに大地の隣にドカリと腰掛けた。
「……では、お話ししますわ。」
翼は真直ぐに二人を見詰め、彼らはその目を見たとたん微かに震えた。
翼の瞳は今とてつもなく冷え切り、まるで氷そのものだった。
「私が昨日何者かに襲われた事はご存知でしょ?」
翼の問いに二人は首を縦に振る。
「それが何者かは?」
言葉を発するのと同時に翼の瞳から強い光と鋭い眼差しが二人を貫く。
大地は一瞬たじろぎ、そして、翼から顔を背ける。
鉄也は微かに目を見張り、翼から目を逸らさずじっと挑むように彼女を見る。
それぞれの動きを観察した翼は口元に笑みを浮かべる、それは見た者を凍りつかせるような笑みだった。
「やはり、知っているのね。」
「……。」
二人は黙り込むが、その沈黙は肯定の意を表していた。
「私はアレが何者かは知らない、アレが私を何者か知っているのに、私は私自身の事もアレの事も知らない。」
静かな声音で淡々と語りだす翼の表情が苦々しいものへと変わる。
「私が知っている事は貴方がたの名前、年齢、職業に学校で教わる知識だけ、今何が起こっているかも、何でこんな事になっているかも私は知らない。」
「…………知らなくてもいいじゃねえか。」
鉄也は真剣な表情でそれだけを言う。
だが、翼はその言葉に首を振った。
「いいえ、駄目よ。私が知らないところで何かが動いている。私が係わる…いえ、違う。私が中心となっているのに何も知らない。知らないままで守られるなんて真っ平よ。」
「何で…それを…。」
鉄也はまるで信じられないものを見るような目つきで翼を見詰め、大地は背けていた顔を翼に向け驚愕の表情をしていた。
「分かるわよ。理由はまだ分からないけど、それだけは分かる、私は何かの中心に立たされている事くらいはね。」
不意に翼の表情が哀しげな色を見せる。
「もっと早く理解しようとしたら……、良かったのにね、そうすれば……。」
「翼さん…。」
「……。」
二人は翼が何を指しているのか理解出来た。
翼は大怪我を負った疾風に対して負い目を感じているのだ。
だから、翼はもう二度と同じ過ちを犯さないために、もう二度と自分以外の他人を傷つけない為に彼女はこうして自らの事を知ろうとしているのだった。
「……何で、オレたちに訊くんだ?オレたちなんかより、光太郎や凪の方が適任だろうが。」
鉄也は眉間に皺を寄せ、自らの疑問を翼にぶつける。
「駄目よ、彼らは私に真実を知って欲しくないと思っているから。」
「はあ?」
「……何で、ですか?」
怪訝な表情をする鉄也と本当は理解しているのに態々尋ねる大地に翼は苦笑する。
「簡単な話よ、もし、彼らが本当に私に話す気があったのなら、機会はいくらでもあったわ。私がいくら拒んでも、このことからは逃げられない事をあの人たちなら知っていたはず。」
翼はこれまでの事を振り返ってみる。
彼らは何処となく翼と一線を引いていて、翼はその事に勿論気付いていた、だから、彼らを心から信頼せず自分ひとりで解決できるのならそれでいいのだと高を括っていたのだが、現実はそう簡単にはいかなかった。
「それなのに、彼らは私に注意すらしなかった。まあ、警戒くらいはしていたのかもしれないわね、そうじゃないと疾風が傍に付くはずはないから……。」
翼は目を伏せ、急に自分の不甲斐なさに怒りを感じる。
「……翼さん、残念だけど、僕たちもそんなに多くの事は知らないのです。」
「ああ、殆ど情報を握っているのは光太郎でそん次は凪ってところだ。」
翼は二人の言葉に温もりと優しさを感じ、きつく目を瞑った。そうでもしないと流したくもない涙が出そうだったから。
「だけど、僕たちの知っている事でよければ話します。」
「ん、だけど一つだけ言っておく。」
「何を?」
ようやく落ち着いた翼は顔を上げ、いつもと変わらない表情をしていた。
「一人で突っ走るな。」
鉄也が言葉を紡ごうとした時、翼の背後から声が聞こえた。
「………。」
翼は特に驚きもせず、ゆっくりと振り返る、翼は彼がだいぶと前からそこにいる事に気付いていたのだった。
「どうせ、自分ひとりで大丈夫とか思っているんだろ?」
「疾風……。」
翼が振り向いた先には疾風が突っ立っていた。
彼は折れたはずの腕を持ち上げ、翼や他の二人に挨拶代わりに手を振った。
「なっ!」
このあまりの非常識さには、さすがの翼でも声を失った。
ちなみに、驚いたのは翼だけで他の二人は平然として、順に声を掛ける。
「疾風先輩、もう大丈夫なんですか?」
「まあな。」
「相変わらず、治癒力は高いな。確か骨折れてただろ?」
「ああ、まあ、これくらいだったら半日で治るさ。」
「でも、よく凪さんが許可してくれたね?」
大地の言葉に疾風の視線が泳ぐ。
「ん、あー、それはだな――……。」
「……抜け出したのか?」
疾風の誤魔化し方ですぐに理解したのか、鉄也はため息を付きながら呆れていた。
「……ああ、よく分かったな。」
「……何年の付き合いだと思ってるんだ……、お前は。」
「そりゃそうか。」
「………貴方たちの事も訊かないといけないようね……。」
ようやく我に返った翼が発した言葉からは諦めに近いような響きがあった。
「翼さん。」
ちなみに、その呟きに気付いたのは大地だけで、彼は気遣わしげに彼女を見詰めている。
「大丈夫よ、思っていたよりそんなに驚いていないわ。」
苦笑に近い笑みを浮かべ、翼はここに来てから非常識な事ばかり目にしているような気がした。
でも、そんな非常識なものを見て動じない自分に少し異常なものを翼は感じ始めていた。
「さて、役者も揃った事だし、今回の貴方たちの知っている部分を全て教えて。」
凛とした声音を出し翼は三人を真摯な目で見詰める。
「……話が長くなるけど、それでもいいのか?」
「構わないわ。」
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。」
「……俺たちを信用しているのか?」
「信用はまだしてない、けれど、私は貴方たちから話を聞きたい、それだけじゃ駄目かしら?」
翼の正直な答えに疾風は一瞬目を見張るが、次の瞬間には笑っていた。
「そうだよな、もし、お前が素直に俺たちを信用するんだったら、始めっからしてるか。」
「ええ、そうよ、私は誰も心から信用はしない、でも――。」
翼はここで言葉を区切り、揺るぎない瞳で疾風を射る。
「命がけで助けてもらったのに、それで意地を張って貴方たちと話し合わないほど、私は馬鹿じゃないし、それに、貴方に失礼だわ。」
疾風はその翼らしい言葉に笑った。
「そうか、それじゃ、話すか、大地頼む。」
「えっ!僕?」
いきなり話を振られた大地は動揺を見せるが、翼はニッコリと微笑む。
「貴方が一番適任でしょ?茶山大地君。」
ニッコリと微笑んでいるのに翼の声音が冷たく、この場の空気の温度を下げる。
「知っているわ、一年で首席、そして、頭脳においては鬼才の持ち主。そういう人材を父は逃すはずがないでしょうからね。」
「…いつから知っていたのですか?」
「焔さんと賢木さんから名前を聞いた時から貴方がたの情報を少しずつ集めていたわ。」
「……つまり、俺たちも?」
勿論よ、と言わんばかりの笑みを向けられ、疾風と鉄也は凍りつく。
「疾風は確か、陸上で――。」
「わー、分かった、分かった、分かったからこれ以上何も言うな、それにプライバシーの権利ってのはお前の中にはないのか!」
真っ赤になりながら、怒鳴る疾風に翼は黒い笑みを浮かべる。
「あら、私を無理やり連れてきたのは誰かしら?」
刃のような言葉に疾風を始めとする他二人も押し黙る。
「それにどうせ、貴方たちは私の情報もある程度知っているのでしょ?それなら私だけが知らないなんて不公平でしょ?」
図星だったのか、疾風はビクリと肩を揺らし、鉄也は顔を翼から背け、大地は目を見張ってから気まずく思ったのか鉄也同様翼から顔を背けた。
「まあ、今更貴方たちを責めてもしょうがないわね、どうせ、首謀者は父か光太郎さんって所でしょうからね。」
凍りつく笑みを疾風たちに向けた後、翼はその顔から全ての感情を消す。
「さあ、話して頂戴。」
翼はイスに掛けなおし、大地の方に顔を向ける。
「……長くなりますが…、いいんですか?」
「勿論よ、そのくらいの覚悟がなくて、この話を聞けるの?」
「それもそうですね……。」
大地は淡く微笑み、そして、言葉を紡ぎ始める。
「貴女がどのくらい知っているのか分かりませんが、僕たちの始めからお話します。
僕たちは全員孤児なんです、それを貴方の父・誠一郎さんが僕たちの力が欲しいからと、孤児院から引き取って、こちらに住まわして頂いているんです。」
「父が……?」
翼は信じられないのか怪訝な顔をして呟いた。
「はい、お陰で僕たちはこうして暮らしていけてます。」
「話の途中でごめんなさい。」
「いいですよ。」
大地はニッコリと笑うが、翼は眼力で人が殺せそうな険のある目つきで大地を見据える。
「父がそう簡単にしかも、自分の利益にならない事を決してしない人でず。ですから、今回の話もそうじゃありませんか?」
「何が言いたいのですか?」
「簡単な話です、父はどうせ貴方がたに交換条件を持ち出したのではないのですか?例えば――。」
――私を守るようにとか?――
ガタリとイスが倒れる音がしたが、翼はそれを一切無視し、驚いている大地に笑みを向ける。
「なっ、何で…。」
「やはりそうなのね……。」
翼は指を組み、それを額に当てる。
「変だと思ったわ、明らかに貴方たちが何かを隠そうとしているのは知っていた、でも、それは悪意じゃない、むしろ、私を何かから守るようにしている。」
翼は独白のように、言葉を紡ぐ。
「現に疾風は私を守るために傷つき、そして、戦いの後に光太郎さんと夜希さんが来た。そして、私がその時のアレの事を凪さんに訊いても、彼は知らないと言ったわ。」
翼はスッと視線を上げ、疾風を見る。
疾風は先程倒したイスを起こし、再びそれに腰かけようとしていた。
「どうせ、疾風…いえ貴方たちはアレの正体、又は属している組織とかもう見当は付いているのでしょ?」
「なっ!」
「……疾風。」
驚く疾風に鉄也は呆れたように彼を突く。
「座れ、どうせこいつなら、自分は知っていますよ、って誤魔化せるからな。」
「あら、誤魔化すんじゃないわ、事実を述べているだけよ。」
翼は清々しいほどの笑みを鉄也に向け、鉄也は鼻で笑う。
「どれだけ凄いんだかな。」
馬鹿にしたような笑いにも翼は笑顔でいた、ただ、その笑みの後ろには吹雪が見えるのは間違いなく気のせいではないだろうが……。
「あら、お褒め頂き嬉しいわ。」
棘棘した声音に疾風と大地はギクリと体を揺らすが、鉄也は笑っていた。
「まあ、それくらいの強さがないと、オレらをまとめられないからな、頼もしいぜ。」
「……大地君。」
「はっ、はい!」
半分怯えたように返事をする大地に疾風はこっそりと哀れみの視線を向け、鉄也は軽く肩を竦ませていた。
一方、怯えられた翼は苦笑している。
「そんなに怯えなくてもいいわ、大丈夫よ、私は礼を尽くす人には礼で返し、そうじゃない人は素っ気なくするだけだから。」
「「……。」」
「……そっ、そうなんですか。」
疾風と鉄也は怪訝な表情をし、大地はホッとしたような表情をしていた。
「ええ、因みに私が一番苦手《大っ嫌い!》なのは父だけよ。」
「はあ……。」
気の抜けたような返事をする大地に翼はニッコリと微笑みかける。
「そろそろ、本題に入りましょうか?」
「えっ、あっ、はい!」
「貴方たちはいったい何の能力で、父に買われたのかしら?」
「「「――っ!」」」
三人はかなり驚いたような表情で翼をまじまじと見詰める。
「貴方たちが普通じゃないことくらい知っているは、そうじゃなかったら、昨日の疾風のアレはどうなっているのかしらね?」
「――っ!」
疾風は今更だが、翼に『力』を使っているのを見られた事に気付く。
「あっ、あれは……。」
「待って下さい。」
疾風の言葉に大地は遮るように言った。
「なっ、何だ!」
いつもは親しい人なら別だが、普段はかなり目立たないようにする大地には珍しく、自分の意見を言おうとするものだから疾風は驚きを隠せなかった。
「翼さん、何で…驚かないんですか?」
「何を、驚く必要があるんですか?」
「だって、僕らは……。」
声が萎むにつれ、大地は俯いていった。
そして、ようやく大地が言いたい事に気付いた疾風ははっと翼を見る。
「『普通』じゃない?」
さらりと言われた言葉には疾風や大地だけではなく、鉄也も驚いていた。
「それを言いたいの?」
翼の声音からでは彼女の感情は読み取れない。
「『普通』じゃないのは私も一緒よ。」
静かな声音に感情が篭らない、そして、翼の声が虚しく部屋に響く。
「私は『普通』じゃない、だから、ここで守られる。貴方たちは『普通』じゃないかもしれない、けど、私よりマシなのかもしれないわよ。」
翼は虚空を見詰める。その瞳には微かに悲しみの色が帯びていた。
何となくだが翼は分かっていた、日に日に自分が『異質』なものではないかと、もしかしたら、光太郎をはじめとする彼らが自分を『マスター』と呼ぶ所以があるのではないかと思っている。
その予想は当たっている、だが、今の翼がそれを確かめるには相手が悪すぎる、疾風たちには荷が重過ぎてはぐらかされるか、押し黙られるかの内のどれかなので、翼は自ら尋ねない。
「……翼さんは怖くないんですか?」
「何が?」
大地の質問の意味が分からず、翼は眉間に皺を寄せる。
「人の目です。」
「……。」
翼はこの一言で何となくだが、彼らがどういう目で見られてきたのか悟った。
彼らは多分小さい頃に『力』を使っているところを『普通』の人間に見られてしまって、そして、傷ついてきたのだろう……。
「……多分、怖くないわ。」
「嘘です!」
大地は声を荒げ翼を睨み付ける。その瞳は傷ついていた。
「傷つかない人間なんか、いない!あんな目で見られて、傷つかない人間はいないはずがない!」
疾風が大地を止めようと立ち上がったが、鉄也が彼腕を掴み阻み、そして、翼も目で彼を制す。
「私には分からないわ。だって見られた事がないんだもの。」
「ならなんで!」
「私は貴方がどんな目に遭ってきたのかは知らない、だけど、これだけは言えるわ。」
翼はゆっくりと大地に歩み寄る。
「私は決して、そんな目で見ない。」
「…っ………。」
翼の声音は柔らかく、優しかった、そして、手を伸ばし、彼女は優しく頭を撫でる。
そして、大地の瞳から涙が零れ、彼は俯き嗚咽を殺す。
「大丈夫よ。」
今までに見たことのないくらいの柔らかな笑みを翼は浮かべた。
それを少し離れていた所で見ていた疾風と鉄也は息を呑む。
「泣いても大丈夫よ、大丈夫よ。」
大地は翼の柔らかな声音に促されるように、声を上げて泣き出す。
彼はまだ十五年しか生きていない、その十五年の中で彼にどんな苦しみがあったのか、翼は予想する事が出来なかった。
翼は顔を上げ、疾風と鉄也を見る。
彼らは困惑したような表情で翼を見ていた。
彼らも少なからず、大地のように傷付いてきたのかもしれない、けれど、彼らはきっとそれを顔には出さない、いや、出そうとしないだろう、それは彼らの性格であり、経験であると翼は感じた。
「私は…何のために、ここにいるのだろう?」
ポツリと呟いた翼の言葉はあまりにも小さく、近くにいた大地すら聞こえなかった。
***
大地が泣き止んだ後、あまりにも夜が更けたものだから、必然とこの場はお開きとなったが、疾風と鉄也だけはその場に残った。
「なあ。」
「ん?」
呼びかけられ、鉄也が振り向いてみると、疾風の表情は曇っていた。
「俺たちは本当にあいつをここに呼んでよかったのか?」
「……。」
「ここに来なかったら、あいつは普通の女子高生として過ごせたんじゃないかって、俺は思うんだ。」
「……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。」
鉄也はため息を付き、凛とした表情を見せる少女の姿を思い起こす。
「だけど、オレたちにはそうしようも出来なかったと思うぜ。」
「そうかもしれないけど……。」
疾風は少し落ち込んだ風に言った。
疾風はどうしても考えてしまう。
もし、俺たちと出会わなければ。
もし、翼が『普通』の女の子だったら。
もし、彼女にあんな『力』が眠っていなければ……。
そして、それが目覚めかかっていなければ、もしかしたら、今でも翼は平穏な暮らしを手にしていただろう。
今更何を言っても無駄だ、翼と疾風たちは出会ってしまい、翼は『普通』の少女ではなく、『力』を宿し、しかも、それは目覚めかかっている。
「今更、オレたちがどうのこうの言っても無駄だ、疾風。」
「……本当に無駄なのか?」
疾風は何かにすがるように鉄也を見るが、彼は首を振る。
「もう手遅れだろ……。」
手遅れ、そうかもしれないと疾風もそう思わず思ってしまった。
翼の存在があいつらに知られてしまい、そして、現に翼は襲われた。
あいつらは翼の『力』を狙っている。
翼の『力』はもう誰にも止められない段階まで来ている、あとは彼女が『覚醒』するのみ。
そして、その『覚醒』が全てを左右する。
翼本人はそこまではさすがに知らないだろう。
疾風はそこまで考え、ふと疑問が湧く。
「なあ、何で光太郎さんはあいつに、翼に説明しないんだ?」
「……知るか、オレはあいつが苦手なんだ、だから、あんなヤツの事をオレに話しかけるな。」
思いっきり不機嫌な顔で鉄也は疾風を睨んでいる。
何でここまで鉄也が光太郎を毛嫌いするのか疾風は知らないが、昔から鉄也は光太郎の事が好きではなかった事はさすがに知っている。
「……悪い。」
疾風が素直に謝るが、鉄也はまだ不機嫌な顔でいる。
「まっ、オレには分かんねー、けど、一応、あいつはあいつなりに心配してるんじゃねーか?」
誰をとは聞かなくても、疾風はそれが誰か分かった。
「光太郎さんがそこまで気にかけるか?」
怪訝な顔をしながら、尋ねる疾風に鉄也は「だから、オレに訊くな!」というように物凄い勢いで疾風を睨み付ける。
「悪い、でも、これで最後にするからさ。」
「……本当に最後だな?」
「ああ、勿論。」
疾風が頷き、鉄也は仕方がなさそうに、口を開く。
「気に入ってるよ、ありゃ。」
「気に入ってる?」
「ああ、あの気性といい、あの鋭さ、光太郎はぜってー気に入ってる。」
「……。」
毛嫌いしているのに、よく分かるなー、と思いつつも、疾風は決してそれを口にしない、もし、口にすれば翼よりは威力は低いが、蹴りか拳か、どちらかが疾風を襲うだろう。
「まあ、あいつを、翼を気に入ってるのはあいつだけじゃないだろう。」
「……そうだな。」
鉄也の言葉に疾風は頷いた。
翼を嫌っているのは間違いなくこの家には誰もいないだろう、皆少なからず翼を気に入り、そして、彼女を『マスター』だと認めている、と疾風は思っていた。
「疾風、オレは言いたくないが、どうせ、お前の事だ気付いていないだろう。」
「ん?」
「光太郎が翼に何も言わない理由は、お前がさっき言った理由と一緒だぜ。」
「さっき?」
疾風は首を傾げ、先程の会話を思い出し始める。
そして、まだ気付かないのか、疾風は眉間に皺を寄せはじめ、それを見ていた鉄也は呆れ交じりのため息を付く。
「お前な……、さっき言ってただろ?」
「……何を?」
とうとう、思い出しきれなかった疾風は降参代わりに鉄也に尋ねる。
「お前なー。」
完全に呆れ果て、鉄也は首を横に振った。
「さっき自分で言っただろ?「ここに呼んでよかったのか?」だよ。」
「……それが?」
素で言ってるのか!と怒鳴りそうになるのを鉄也は押さえ、代わりに疾風の頭を殴る。
「何処までお前は鈍感なんだ?そんなんじゃ、持てねーぞ。」
「うっせー。」
殴られた箇所を押さえ、よほど痛かったのか涙を溜めながら、疾風は鉄也を睨む。
「つまりだ、お前は翼を心配して、「ここに来なければ良かった。」って言って、光太郎は翼が何も知らなければ、翼を「守れる」と思ってるんだよ!」
「……そうなのか?」
ここまで言ってもまだ分かってないかと、痛む頭を押さえながら鉄也はこの「鈍感」の頭を再度殴った。
「いってー!」
疾風が叫ぶが、今の鉄也の頭痛よりはかなりマシだった。
「もう、オレは知らねー、お前はさっさと戻れ、凪に怒られても知らねえからな。」
「あっ!ヤベ……。」
疾風は鉄也に言われ、そこで始めて自分が抜け出してきたのを思い出す。
「さっさと、戻ればその分怒鳴られるのは少しくらいマシだろ。」
「ああ、そうだな。」
昨日の今頃は大怪我で眠り続けていたとは思えない俊敏さで、疾風はこの部屋から出て行った。
「あの馬鹿……。」
鉄也は疲れたのか、イスにドカッと座り、項垂れる。
「少しは察しとけよ。」
鉄也は目を閉じ、脳裏に翼の姿が映される。
彼女は不思議だと鉄也は思った。
勇ましく見えたと思ったら、慈愛に満ちた聖母のような姿を見せるし、そして、哀しげな表情も見せる。
どれが本当の彼女なのか、それとも、どれも作り物の彼女なのか、誰にも分からない、もしかしたら、翼本人ですら分かっていないのかもしれない。
今日初めて言葉を交わしたのに、彼女を、翼を信じたいと思う自分に鉄也は驚きを隠せなかった。
だが、今思うとそれは必然ではないかと思う、翼という人間には自分たちと似たような何かを持っているから……。
だから、翼を「守りたい」と思ってしまうのだと、鉄也はそう心から思った。