第四章
――何処までも落ちていく…
彼女がいる場所は底のない闇。
――寒い
何処までも先のない冷たい闇の中を彼女は落ちていく。
――怖い
いつまでも落ちていき、そこはまるで底なしの闇。
――何で…私はこんな所にいるの?
彼女は必死に眼を凝らすが先が見えない。
――体の自由が利かない……
腕を持ち上げようにも何かに縛られているように動かせない、今自分の意志で動かせるものは顔だけ。
――誰か…いないの…?
闇の中で彼女は不安に押しつぶされそうになるが、それでも、気丈にも目を閉じる事だけはしない。
刹那、彼女の頬に何かが触れた。
――何?
彼女は上を向き、そして、上からは何かが舞い落ちる。
――羽根?
上から落ちてくるものは自ら光を放つ羽根だった。
――温かい……
羽根が纏う空気は温かく、彼女は心が温まるような気がした。
そして、上から名前を呼ばれた気がし、彼女は顔を上に向けた。
***
翼の閉じられた瞳が震え、ゆっくりとそれが持ち上がり彼女の黒曜石のような瞳が見える。
翼の目が眩しそうに細められた。
「夢……?」
翼は鈍く痛む頭を押さえ、擦れた声で呟いた。
そして、今自分がいる場所を確認する。
そこは人気の全くない屋上だった。
「ああ、いつの間にか…時間が経ったのね……。」
ボーっとした頭がようやくハッキリとしだし、翼がなぜ屋上にいるのか思い出す。
「そうだ…お昼休みで…。」
翼は服の下に隠れていた腕時計を見て、まだ昼休みである事にホッと息を吐いた。
「おっ、やっと起きたか。」
快活そうに声を掛けてきたのは疾風だった、彼はゆっくりと翼に近寄ってきた。
翼は疾風の声を耳にしたとたん顔を顰め、殺気立つ。
「何でまだ貴方がいるの……。」
嫌悪丸出しの声に疾風は苦笑する。
「ここは俺にとってお気に入りの場所だから別にいたっていいじゃないか。」
「……それは…、そうね。」
「あのさ、そんなに警戒すんなよ。」
疾風は頭を掻きながら困った表情をする。
「……あの人と通じているくせに…。」
翼はぼそりと吐き捨てるように言った。
翼の言葉を聞いた疾風は目を見張った。
「な…何を、言ってるんだ?」
何を言われているのか分からない疾風は翼に尋ねるが、翼は氷のような目で疾風を睨み付ける。
「分からないの?」
翼は疾風を睨み付けたままゆっくりと立ち上がる。
「貴方は光太郎さんの命で、私の側にいるのでしょ?」
ニッコリと翼は微笑むが、その目は決して笑っていなかった。
まるで、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、冬の夜に吹き抜ける凍りつくような風のように冷たい。
疾風は思わず体を引いた。
そして、それを見た翼はクスリと小さく笑った。
「あら、逃げるの?」
「なっ!」
さすがの疾風もその言葉にはカチンと来て、翼をキッと睨み付けた。
「お前は――っ!」
怒鳴りつけようとした疾風は急にその場を蹴り、大きく跳躍する。
「――っ!」
疾風が跳躍するのと同時に翼の方も何か感じたのか、先程いた場所から大きく飛び退いた。
そして、二人が先程まで立っていた地点にナイフが空を切った。
もし、二人が飛び退いていなかったら、そのナイフが彼女たちの心臓に命中して、今頃二人は絶命していただろう。
「何もんだ!」
疾風は制服のポケットに手を突っ込み、何かを抜き出し、素早くナイフを放った場所に投げつけた。
疾風が投げつけたモノはカッターナイフだった、しかも、それは刃が剥き出しになっている。
「ぐっ……。」
疾風が投げたナイフは見事に命中したらしく、呻き声が聞こえた。
「疾風!」
翼の緊張した声音に疾風は振り返ろうとした。
その瞬間、何か銀色の光が疾風を貫く。
「疾風――!」
貫かれた疾風の体が大きく傾き、彼の腹から血が流れ出る。
「つ、翼……、逃げ…ろ…。」
疾風は顔を顰めながらそう言うが、翼は首を横に振った。
「嫌!絶対に嫌よ。」
「つ…ばさ……。」
疾風は翼の名を呟いた後、激しく咳き込んだ。
「……がはっ…、ぐっ…、逃げろ、翼…。」
疾風は口の端に付いていた血を拭い去り、構えを取る。
そして、少し離れた所から低い笑い声が聞こえた。
「くくく……、血だらけになりながらもその娘を守るのか。」
「何が可笑しい!」
疾風は声のする方に吼える。
「それ程までに、その娘が大切なのか。」
「黙れ…。」
「血に塗れても、その娘が大切なのか。」
「黙れ。」
「その娘にそんな価値があるのか。」
「黙れってんだろぉぉぉぉぉ――――!」
疾風はギロリと睨み、そして、地面を蹴った。
彼はまるで風のように素早く走り出す。
刹那、周りの空気を震わせる程の凛とした声が発せられる。
「双方、お止めなさい!」
その凛とした声が彼らの耳に入り動きを止める。
そして、翼は一歩前に出る。
「つ…ばさ……。」
翼は落ち着いた様子でじっと一点を見据えている。
「最近ずっと、私を見張っていたのは貴方…、いえ、お前だったのね。」
「ほお、気付いていたのか。」
「勿論です。お前の狙いは私でしょ、でしたら、彼は関係ありません。」
「翼!」
「お黙りなさい、疾風。」
ピシャリと翼は疾風の言葉を封ずる。
「貴方は関係ないのです、逃げなさい。」
翼はゆっくりと屋上のドアを指し、そして、翼はニッコリと微笑んだ、その笑みは今までに見た事がない程慈愛に満ちていた。
「ありがとう、そんなになるまで、戦ってくれて。でも、これは私の事なの、だから、逃げて。」
翼はスッと疾風から視線を逸らし、戦いの構えをする。
「私が相手になります。」
「……手間が省けるな。」
その声と同時に翼に向かって、何千というナイフが嵐のように降ってくる。
翼は口元に笑みを浮かべ、前へと走り出す。
「はあっ!」
気合と共に翼は回し蹴りを翼は入れた。
「くっ……!」
突如として男が姿を見せる。
男は翼の回し蹴りをギリギリのところで避け、後ろに飛び退いた。
「み…見えていたのか……。」
「勿論ですよ。」
翼の瞳がスッと細められ、口元には笑みが浮かぶ。
「容赦はいたしません。」
「何っ!」
翼は男の隙に与えないようにすぐさま攻撃に入る。
素早く突き出された拳は男の頬を掠る。
男は後退して、次の攻撃をかわそうとするが、翼はそれを読んでいたのか最初の攻撃はフェイントで本命の蹴りは男の腹に見事減り込む。
「ごほっ……。」
男は体をくの字に曲げ、忌々しげに翼を睨み付ける。
「この程度なのですか?」
翼は冷え切った視線で男を見下ろす。
男は屈辱なのか最後のあがきに隠し持っていたナイフを翼に投げつけるが、彼女は軽く頭を傾げ避けてしまった。
「くっ…こんな小娘に……。」
吐き捨てるようにそう言われ、翼は軽蔑しきった眼差しを男に向ける。
「こんな小娘だと思って侮るからですよ。」
「くっ………っああああああぁぁぁぁぁぁぁ―――――――!」
突然男は痙攣を起こし、そして、見る見るうちに男の体が変形する。
「なっ!何!」
翼はすぐさま後ろに飛び、男との間合いを取る。
「ぐああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………………―――――――――!」
男の体はあっという間に三倍近く大きくなり、彼が着ていた服は裂けていた。
裂けた服から黒々とした毛が見える。
一瞬見えた男の目はもう正気を失っている。
正気を失った瞳は最初血走っていただけだが、瞬く間に黒目が禍々しい赤色に変わってしまった。
彼は人間ではなく完全な化け物へと変わってしまった。
それを一部始終見た翼の体は小刻みに震え始める。
「――っ!」
警鐘が翼の頭の中で鳴り響くが、彼女の体はまるで金縛りにあったかのように指一本動かせない。
「ぐおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…………!」
変貌しきったばかりで苦しいのか化け物は腕を振り回し始め、その腕が翼を襲う。
逃げないといけない、と思っているのに、翼の足は根付いているかのように床から離れない。
しかし、すでに遅かった、腕がものすごい速度で翼を襲う。
「――っ!」
翼は苦し紛れに腕を交差し、顔を庇い硬く目を瞑った。
死ぬ、と確信した瞬間、突風が翼を包み込む。
「――!」
翼は浮遊感に驚き、目を開いた。
目の前に広がる景色はかなりの高さでしか見られない景色で翼はあまりのありえなさに絶句する。
「烈風斬!」
下の方から怒声が聞こえ、反射的に翼は見下ろした。
「なっ――!」
下の方では見えない斬撃に化け物が斬られていた。
「何で……?」
掠れた声音で翼は呟くように言った。
翼の疑問に答えるかのようにまた、怒声が聞こえる。
「風縛!」
怒声を発しているのは疾風だった、彼は両手を前に翳し化け物を睨み付けている。
一方化け物は何かに締め付けられているのか、何かを引き千切ろうとするが、簡単にはそれは引き千切れないようだった。
「……ふう…ばく…?」
翼は疾風が怒鳴った言葉を復唱して、そして、しばらくしてからその言葉を漢字に変換出来た。
「風…縛…?……っ!」
翼はじっと化け物を観察して、そして、ソレが見えた。
ソレが見えたのはほんの一瞬だったが、確かに翼の目に映った。
しかし、翼がそんな余裕を見せられたのはここまでだった。
「――っ!しまっ――。」
疾風が全てを言い切る前に化け物は今さっきまで自分を拘束していた風の鎖を破ったのだった。
疾風は即座に風を集め言葉を発しようとしたが、ほんのわずか遅かった。
化け物の伸びた爪が疾風の腕を掠る。
「っ――!」
あまりの痛さに顔を顰め、疾風は後ろに飛ぶ。
しかし、化け物はしつこかった。
疾風が飛び退いた瞬間にまた化け物の爪が彼を切り刻もうとした。
「くそっ!」
疾風は苦い顔でいたが、ほんの一瞬何かを振り切った表情をした。
「爆風龍撃!」
疾風は化け物を見据えながら全身全霊を懸け、風をぶち込む。
そして、爆風によって二つの姿が掻き消える。
「疾風っ―――!」
力いっぱい叫ぶ翼の声は爆音と共に掻き消される。
翼を守る風が一瞬緩み彼女は落下しかけるが、それでも、風は彼女を地面に叩きつける前に持ち直し、ゆっくりと彼女を地面に近づける。
地面からほんの少し離れたところで翼は風の守りから自ら出た。
「疾風!」
翼は疾風のところまで駆け寄ろうとするが、突然の殺気に体を捻る。
寸前のところで翼は攻撃をかわした。
「まだ生きていたの!」
驚愕の表情が翼の顔に浮かんだ。
前が土煙によって分からないが、そこに化け物がいる事が翼には手に取るように分かった。
「……お前を倒さない限り、疾風の元に行けそうもないわね。」
真直ぐに翼は化け物を見て、スッとその顔から全ての感情を消す。
「覚悟を決めなくてはいけないのね。」
本当なら泣いて逃げてしまってもおかしいのに、翼は冷静だった。
まるでその事を昔から知っていたかのように、翼は落ち着いた態度をとっている。
先程までの恐怖が一気に失せる、自分が死んでしまうかもしれないというのに翼は死に対する恐怖が消えてしまった。
刹那、翼は地面を蹴った。
それと同時に化け物も腕を振り上げる。
翼は振り下ろされた腕を避け、一気に化け物との間合いを詰める。
そして、強烈な蹴りを入れるが、化け物の体が鋼鉄のように硬く攻撃を入れた翼の方がダメージを食らう。
「っ……。」
翼は顔を顰め、素早く後ろに飛び退く。
しかし、化け物はそれを読んでいたのか、翼との間合いを詰め、襲い掛かる。
「――!」
襲い来る化け物に翼は驚愕の表情を隠せなかった。
早い!そう思った時には化け物の鋭い爪が目の前にあった。
「風…防御壁……!」
息絶え絶えに叫ばれた言葉によって、翼の目の前に風の防御壁が張られる。
化け物は自分の攻撃が翼に届かない事を悟り、唸る。
「……こいつ…を…、殺させ…は…しない…。」
化け物と翼との間に疾風は飛び出した。
「疾風!」
悲鳴に近い叫びは疾風の耳に届いていたのだが、彼は翼に振り返ろうとしない。
もし、振り返れば余計に翼に心配を掛けてしまう事を知っているからだ。
後姿でもかなりボロボロで血塗れだが、前の方がもっと酷かった。
額から血が流れ、それが頬まで付いているうえに、片腕は骨が折れているのか使い物にならない。
「翼…逃げろ。」
翼の顔が強張る。
「多分、光太郎さんたちが…気付いている…、だから、逃げろ…。」
翼は意を決したのか、硬い表情で首を横に振った。
「嫌、私は逃げないわ。」
「翼!」
「嫌よ、私は逃げない。」
翼は疾風の横に並び、そして、横目で彼の顔を見る。
「傷だらけの人を残して行けるほど私は人でなしではないわ。」
「人でなしとかは関係ないだろ。」
疾風は顔を顰めながら翼を説得しようとするが、化け物は翼を説得させる時間をくれなかった。
二人は同時に左右に飛び、化け物の攻撃を避けた。
「私を説得している暇はないわよ。」
翼は構えながら、疾風をちらりと見る。
疾風は苦いかをしながら「くそっ……。」と言葉を吐き捨てる。
「仕方がない。」
「来たっ!」
翼は地面を蹴り化け物の攻撃を避けきった。
「風斬撃!」
疾風は化け物に狙いを定め一気に風の刃で攻める。
「ぐおおおおぉぉぉぉぉぉぉ―――――――――――――――!」
疾風の風の刃を受けた化け物は吼え、そして、その体には無数の傷を負う。
翼は化け物が怯んでいる隙に近くに落ちていた何本ものナイフを投げ飛ばす。
ナイフは化け物の傷口に刺さり、化け物はまた吼える。
そして、化け物の体が傾き倒れる。
それを見た瞬間微かに翼に隙が出来た。
慣れない戦いにようやく勝てたと思った瞬間だったから、気が抜けるのもしょうがなかったのだが、それでも、それは命取りだった。
疾風はほんの一瞬化け物の目が光ったような気がし、そして、無意識に体を動かしていた。
「ぐっ…ぐおおおおぉぉぉぉぉぉ……………。」
化け物が再び吼え、化け物の口から気が発射された。
発射された気は真直ぐに翼を狙う。
「――っ!」
翼の目が大きく見開かれる。
化け物の放ったものは大きく、強いものを感じた。
そして、翼の目の前に黒い影が立ちはだかり、化け物の放ったものから翼を守ろうとする。
「あっ!」
翼が彼の名を呼ぼうとする瞬間、爆風が彼女を襲う。
翼は何とか腕で自分の顔を防ぎ、辛うじて飛ばされなかった。
「きゃっ……!」
小さく漏れた悲鳴は爆音に掻き消されるが、その中で翼は何か音が聞こえた。
それは凛として、まるで何かが触れ合った音だった。
「なっ…、何?」
疑問を口にしたとたん、風が一層強くなった。
「くっ……あっ!」
翼の体が宙に浮き、そして、飛ばされかけるが、誰かが翼の腕を掴んだ。
掴まれた手に引き寄せられ、翼はその人物に抱き締められる。
「大丈夫だ…。」
そう囁かれ、翼は小さく頷いた。
しばらくして、風が完全に止んだ。
「……おわ――。」
翼を抱き締める人物は崩れるように翼に凭れ掛かる。
「疾風!」
翼は必死に崩れる疾風を抱き止めるが、彼は完全に気を失っている。
翼は凭れ掛かる疾風を抱き締めながら、地面に下ろそうとするが、自分よりも重く意識を失っている人を支えるには少し体力が足らなかった。
「あっ……!」
手が滑り、疾風の体から自分の手が離れてしまった。
疾風の体が地面に接触する前に、彼の体が支えられる。
「よくやった、疾風。」
「翼さんも大丈夫ですか?」
「……あっ…。」
疾風の体を支えてくれたのは夜希だった。彼は疾風の折れていない腕を掴んでいたが、すぐに荷物のように疾風を担ぎ上げた。
翼はようやく本当に自分たちが助かった事に安堵し、膝から力が抜け床に座り込んだ。
「……よく頑張ったな。」
夜希は空いている手で翼の頭を撫でた。
不意に翼の瞳から一筋の涙が零れる。
「えっ…?な、何で……?」
翼は戸惑いながら涙を拭い、そして、すぐさま凛とした表情を作る。
「何でここに?」
「……。」
「――と、聞きたいところですが、それよりも、疾風を病院に。」
翼の視線は真直ぐに疾風に向けられていたが、彼女はスッと立ち上がり、光太郎と夜希を見上げる。
「病院に連れて行きましょう。」
「いいえ、病院には行けません。」
「えっ……。」
さすがの翼もこの言葉には驚いた。
「何故……?」
「その話は後程。」
「……分かりました、ですが、彼をいったい何処に?」
「ボクたちの仲間には医師がいます。」
「……確か、水木凪さん。」
「ご存知でしたか。」
翼はその言葉に首を振った。
「ほとんど知りません、名前、年齢、職業ぐらいです。」
「…コウ、もうそろそろ。」
「ええ、そうですね。翼さん、貴女はどうしますか?」
「付いていきます。」
翼は即答だった。
「分かりました、行きましょう。」
光太郎が先頭に立ち、次に夜希、殿には翼がついた。
翼は不意に振り返った。目の前にはあちこちがけ削られていたり、血が飛び散っていたりと酷い惨状だった。
そして、中央には化け物が横たわっていたが、瞬く間に化け物が空気中に溶けるように消え去ってしまった。
翼は一瞬目を見張り、自分の目を疑ったが、先程のありえない事ばかりの事を思い出しアレは本当に消えてしまったのだと思った。
そして、翼はすぐに身を翻して光太郎と夜希の後を追った。
***
翼は祈るように拳を額に当て、硬く目を瞑っていた。
彼女の目の前には包帯を巻かれ横たわっている疾風の姿があった。
「……。」
翼は彼をこんな風にしたのは自分だと思い、沈んでいた。
勿論、光太郎や夜希はそんな事はないと言っていたが、翼はその言葉に耳を傾けようとはしなかった。
今はもう夜が更けている。疾風の治療が終ったのは日が沈み始めた頃だった、その時から翼はずっと彼の側にいた。
「そんな事をしていると風邪を引く。」
言葉の後に翼の肩に何か温かいものが掛けられる。
翼は顔をゆっくり上げ、振り返った。
「……凪…さん。」
翼に声を掛けたのは眼鏡を掛けた、二十代の男性――水木凪だった。
「何で…?」
「貴女が心配だった、……疾風が心配か?」
凪の質問に翼は無言だった。そして、凪はそれが肯定の沈黙だと悟り、口を開く。
「疾風は大丈夫だ。」
「……分かっているわ。」
翼の声音にはいつもの覇気がなかった。
「分かっている…、だけど、彼をこんな目に合わせたのは私なの……。」
「だからって、貴女がこんな事をしても誰も喜ばない。」
凪は平坦な声音でそう言い、ニコリともしない。
「貴女はそうやって、自分を追い詰めるのか?」
「追い詰めてなんか――。」
翼は反論しようとするが、凪の瞳を見て反論できなかった。
今の凪の瞳は微かな怒り、嘆き、そして、声音では分からなかった自分に向けられる気遣いがあった。
「……追い詰めてなんかいない…、私自身はそう思っている、だけど、貴方の目には違って映っているのね。」
「ええ、わたしには貴女が自分の罪でないものを背負おうとしているように見える。」
「……そんなつもりなんかないわ。」
翼は自分らしくないと思いながらも、いつもより、覇気のない表情や声音で話す。
「ねえ、貴方は今日私を……いえ、私たちを襲った人物を知っている?」
「いいえ。」
凪は首を横に振って答えた。翼は何となくそれは嘘だと思ったが、翼はこれ以上追求する気力はなかった。
「そう。」
翼は特に表情を変えず、そのまま視線を疾風に戻す。
「……。」
「……。」
静寂が包む中、しばらくしてその静寂は破られた。
「……さ…?」
「疾風!」
疾風の焦点の合わない瞳が翼に向けられる。
翼は疾風の顔に自らの顔を近づけた。
そして、ボソボソと呟かれる言葉を翼は一言も漏らさず聞く。
「大丈夫…だったか…?」
「ええ。」
「傷は…?」
「ないわ。」
「……俺は…どのくらい…。」
「大体半日くらい…。」
疾風の目がまた落ちかけるのを見て、翼は無理やり笑みを浮かべる。
「もう少し寝ていた方がいいわ。」
「……ああ…。」
疾風は頷き、そして、彼はまた眠りに着いた。
「……った…。」
今にも泣きだしそうな震える声音で翼は呟いた。
――良かった。
しばらくしてから、凪はそっと翼の肩に手を置いた。
「もうそろそろ、貴女も寝たほうがいい。」
自分の体の事を心配している事ぐらい翼も理解しているのだが、翼はその親切を受け入れる事が出来なかった。
「ごめんなさい。」
翼は首を横に振って、ここから離れない事を示した。
「……本当は医者として、いや、わたし個人としては、本当は貴女に体を休ませて欲しい。だけど、貴女はそれを決して受けようとしないだろう。」
「……。」
「ところで、貴女は明日どうするつもりだ?」
翼はゆっくりと目を瞑り、そして、次に目を開けた時にはいつもの翼の表情がそこにあった。
「勿論学校に行くわ。」
「……そうか。」
凪は小さく頷き、そして、部屋から出て行きそうになり翼は彼を引き止めた。
「待って。」
「何だ?」
凪は足を止め、振り返った。
「止めないの?」
凪は黙っていたが、しばらくして彼は微かに微笑んだ。
「止めても無駄だろう、たとえわたしが止めたとして貴女は間違いなく行くだろうし、わたしには貴女を止める権限は最初から持ち合わせていないからな。」
「そう。」
「貴女は何にも縛られていないんだ、だから、貴女は好きにやってもいい。」
翼は目を細め、口の端には笑みを浮かべる。
「そんな事を言われたら、私は好き勝手にするかもしれないわよ。」
「それでも構わない、貴女が元気になってくれるのなら、どんな事でもわたしたちは受け止めよう。」
凪のこの言葉に翼は軽く目を見張った。
「では、わたしはここで失礼する。」
今度こそ凪は部屋から出て行って、この部屋には翼と疾風の二人きりとなる。
翼は口元に嘲笑を浮かべ、凪の出て行ったドアをじっと見詰める。
凪が言ったように翼は内心は落ち込んでいた。それでも、表情には表していないつもりだったが、凪には見事に見抜かれてしまった。
「私もまだまだなのね……。」
言葉とは裏腹に翼は落ち込んだ様子を見せない、それどころか翼の目は闇を照らす光のように強い意思を宿していた。
そして、翼はこの瞬間から自分の意思で宿命を受け入れた。