第二章
翼は午前中に台所を綺麗に片付け、そして、ちゃんと使える状態にまでし、今はこの屋敷に付いている大きなお風呂場・女湯を掃除していた。
「うー、なんて広さなの…。」
ブラシに凭れ掛かり、翼はうんざりした目で風呂場を見渡す。
始めはカビだらけ、コケだらけだった風呂場も翼が懸命に磨いたりした結果、かなり綺麗になっていた。
「それ以前になんでここまでほって置けるのよ…、信じられない。」
今の翼の恰好は水に濡れてもいいように短パンと半袖で、髪は括り上げポニーテールにしている。
胡乱な目つきで、風呂場を見ていた翼の目が急に鋭くなった。
「――っ!誰!」
翼はブラシを剣に見立て中段の構えをし、振り返る。
振り返る翼には全く隙というものがなかった。
そして振り返った先には二人の男性が立っていた。
「……貴方たちは誰ですか?」
翼は射るように女風呂の脱衣所に立つ二人の男性を見る。
男は共に二十代くらいだろう、一人は温和そうな空気を纏った男、もう一人は目つきが少し悪く温和そうな男と比べればピリピリした空気を纏っている。
「……なんて挨拶をすればいいのかな?」
「おれに聞くな。」
温和な男が尋ねるが、もう一人の男は欠伸をしてやる気のなさそうに答える。
「おい、小娘。」
「……小娘…?」
翼は目を細め、絶対零度の笑みを浮かべる。
温和な男はすぐにそれに気付いたが、もう一人の男はかなり鈍感なのか気付いた様子はない。
「誰が小娘ですって?」
「んあ?なんか不味い事言ったか?」
男の言葉に翼の額に青筋が浮かぶ。
温和な男は顔を少し青くさせ、「おれに聞かないでください!」と心の中で叫ぶが、もう一人の男は気付かない。
「……まあ、いい。」
目つきの悪い男はガシガシと頭を掻き、面倒臭そうに口を開く。
「あー、おれはアカムラ、ホムラ、漢字は赤に村、焔でホムラだ。仕事は料理人、年は二十四だ。んで、こいつが――。」
「待ちなさい!」
いきなり自己紹介を始める目つきの悪い男――焔に始めは呆気に取られていた翼だったが、何とか遮る事に成功した。
「何でいきなり自己紹介を始めるのですか!」
翼が怒鳴るように叫び、焔はまた頭を掻き、視線を温和な男に向ける。
「……貴方が始めた事なのにおれに尻拭いさせるんですか……。」
「ん、頼むぜ。」
「……。」
焔の言葉に翼と温和な男は思わず黙り込み、思わず翼は同情の眼差しを温和な男に送る。
男はそれに気付き、苦い笑みを浮かべる。
「えーと、おれたちはこの屋敷の住人で一昨日も一応会っているんだけど、覚えてないよね?」
「すいません。」
取り敢えず謝りはしたが、翼は警戒心を解こうとしない。
「いえいえ、仕方がありませんよ、いきなり連れてこられた上にそこにいた男の顔を覚えろなど無茶ですね。」
「……。」
「遅くなりましたが、改めて自己紹介をします。」
温和な男は翼にニッコリと笑いかける。
「おれの名前はミドリカワ、サカキ、緑の川に賢い木で緑川、賢木、年は焔と同じ二十四で、花屋を経営しています。」
「……自己紹介、ありがとうございます。」
翼は硬い表情で取り敢えずそれだけは言った。
「……用件は何ですか?まさか、自己紹介のためだけに来たのではないですよね?」
「ええ、一応そのつもりです。」
賢木はニッコリと笑うが、翼は険しい表情のままニコリとも笑わない。
「おれたちは貴女に説明をしに来たのです。」
「説明?」
「……あのさ、そろそろ、そのブラシ下ろしてもいいじゃないか?」
焔は欠伸をしながら、翼の手に持つブラシを指す。
翼は一瞬下ろすか、下ろさないか迷ったが、男たちに失礼だと思いブラシを下ろした。
「信用していただき、ありがとうございます。」
賢木は丁寧に礼を述べるが、翼はまだ警戒のある目で彼らを見ていた。
「勘違いしないでください、私は貴方がたを信用した訳じゃありません、もし、何かあったらすぐさまこのブラシで貴方がたを打ちのめします。」
「……。」
「ヒュ―、さすがは我らの主だけはあるね。」
翼の言葉に賢木は困ったような笑みを浮かべているが、焔は不謹慎にも口笛を吹き、口の端を持ち上げ笑みを作る。
「……私は本気で言っていますよ。」
半眼になりながら翼は焔を睨み、ブラシを持つ手に力を込める。
「何なら、試してみます?」
翼はせっかく下ろしたブラシをまた構え、真直ぐに焔を射るように睨み付ける。
賢木は翼の様子に思わずたじろぐが、焔は笑みを浮かべたままだった。
「どうぞ、お好きなように。」
この言葉に翼の何かが切れた。
「ええ、好きにさせてもらいます!」
翼はタイルを蹴り、一気に焔との間合いを詰める。
「はあ!」
翼は振り上げブラシを焔に叩きつけようとするが、彼は余裕のある動きでそれを避けてしまった。
「チッ……。」
翼は小さく舌打ちをし、すぐさま薙ぐような動作に変える。
翼の次の攻撃を予測し切れなかったのか、焔は咄嗟にブラシを腕でガードする。
「くっ!」
焔は翼の攻撃を受けすぐさま飛び退くが、翼はその動きに合わせて前へと飛ぶ。
「はあ!」
「焔!」
賢木が叫び。
焔は観念したように黙って翼を見る。
ビュッン
「……。」
ブラシが焔の喉に突きつけられる。
翼はブラシが焔に触れるか触れないかの距離でそれを寸止めにしたのだった。
「私あの時言いましたよね?」
翼は焔顔を上げ、彼を見下すように見る。
「容赦はしないと、それは冗談だと思ったのですか?」
「……。」
焔はブラシを突き付けられているにも拘らず、彼は動揺も見せないし、真直ぐに翼を見ていた。
「まあ、それは置いておくとして、何で本気を見せないんですか?」
「――!」
翼の言葉に焔と賢木は目を見張る。
「……私が気付かないと思ったの?それは間違いね。」
翼は刃のように鋭い眼差しで焔と賢木を睨み付ける。
「手加減はしていないけど、本気も出していない。まるで、それを使うのを躊躇うような……、そんな感じがするわ。」
翼は突き付けているブラシを下ろし、笑みを作る。
「私は貴方が何を恐れ、なぜそれを使わないかは分からない。だけど、本気を出さないと負ける時はあるわ。」
「……。」
「……それは遠からず起こりそうね。」
「……貴女は何処まで知っているのですか……?」
賢木は掠れた声で翼に尋ねる。
「……何処までだと思います?」
「……。」
翼は余裕のある笑みを浮かべ、賢木は黙り込む。そして、不意に翼は口を開いた――。
「と言うのは冗談です。」
「……えっ?」
「はあっ?」
二人は唖然として翼を見詰める。見詰められる翼は冷ややかな笑みを浮かべていた。
「言っておきますが、私は何も知りません。先程の言葉はただのでたらめです。」
「……えっとー、いったい何処からが……?」
賢木は顔を引き攣らせ、翼に尋ね、尋ねられた翼は笑みを深くする。
「「それは遠からず起こりそうね。」の所から、まさか、信じるとは思わなかったわ。私が未来を予言するなんて馬鹿げた事だと思わなかったのかしら?」
「…貴女なら出来そうなのでつい…。」
賢木は引き攣ったような笑みを浮かべ、焔は先程とは打って変わって真剣な目で翼を見ていた。
「クスッ…、貴女なら出来そう…ね。それは貴方が私の知らない事を知っているから言っているのかしら?」
ギクリと賢木が固まり、焔も微かに表情を硬くするが、それは翼でなければ見破れなかっただろう。
「……まさか、本当にそんな事があるなんて。」
微かにため息を漏らす翼は半分呆れたような、半分哀しげな表情をする。
「賢木さん、本当に貴方は隠し事に向いていないわね。」
「……そうだな、おれたちの中で四番目に隠し事が出来ないからな。」
「焔……。」
賢木は焔を軽く睨み付けるが、彼は全く応えていないのか涼しい顔をしている。
「ふふふ、隠し事が一番向いてないのは疾風かしら?」
「正解。」
翼は笑みを浮かべているが、その背後には黒い何かが蠢いていた。
「一番隠し事が向いているのはきっと、コウ…いえ、コウタロウさんですね?」
「ふーん、何でそう思うんだ?」
焔は微かに目を見張り感心したように翼を見た。
「ヨキではないかと思わないのか?」
「普通の人ならそう思うかもしれないわね、彼何事にも無関心そうに見えるもの、でもね、彼よりも一番厄介なのはコウタロウさんなの。」
翼の言葉を聞いていた焔は口笛を吹き、ニヤリと笑った。
「ヨキさんの場合は無関心に見えるけれど、実はそうじゃないわ、よく見ると彼は結構表情豊かよ。」
「……へー、表情豊かね?」
「……。」
焔は笑うが、賢木は微かに首を傾げていた。
「でも、コウタロウさんの場合は笑っていても、腹だと違う事を思っている。それに、あの目には決して隙がなかったわ。あんな人初めてよ。」
翼よりコウタロウを知っている二人はほとんど真実を射る翼の言葉を聞き、賢木は目を見張り固まっているが、焔は感心したように深い笑みを浮かべている。
「というのが、私の意見よ。」
「さすがだな。」
「……ええ。」
賢木が頷くと焔の表情が真剣なものに変わり、翼はすっと目を細める。
「何か間違っていて?」
「イヤ、間違ってはないさ、光太郎は確かにおれたちでも腹ん中何考えているか分からんからな、まあ、分かるとしたらヨキぐらいさ。」
「そうなの。」
「ん、でも、お前はまだ他のメンバーにちゃんと会っていないのによく断言できるな。」
「簡単よ、貴方たちの中で一番偉い、とういうか仕切っているのは光太郎さんその人だもの。」
「へー、よく見てんな。」
「どうしてそんな事が分かったのですか?」
焔と賢木はそれぞれの感想や疑問の言葉を翼に投げかける。
「私を連れてきたのがあの人だから、と答えたら?」
「……それは嘘だろ?」
翼が冗談で言った言葉は即座に焔に打ち消される。
「お前はそういう風に判断はしないだろ?」
「ええ、そうね。」
翼はニッコリと焔に笑いかけるのと同時にその場の温度が二度ほど下がった。
「そうだけど、他の人にそう断言されるのは結構腹が立つから止めてくれるかしら?」
「さーな、これはおれの性格だから簡単には変えられないぜ。」
翼は片眉を微かに吊り上げ、不機嫌そうな表情を作るが、すぐにそれは掻き消され何事もなかったかのように笑みを浮かべる。
「ところで、さっきの続きを聞かせてくれないか?」
「……いいわよ、但し私から見た観点だけだから結構偏っていると思うわよ。」
「ああ、それでも構わない。」
焔の余裕のある笑みを見て翼は無性に殴りたくなったけれど、何とか自分を押さえつけ常と変わらない声音を作り上げる。
「ヨキさんとコウタロウさんの話し方からして、まず、結構な上の立場の人だという事が分かったわ。それに、屋敷に入って座る時、私の真正面に彼は座った。」
翼の瞳から強い光が漏れ始める。
「だけど、他の人たちは私たちを囲むようにしていたし、ヨキさんでさえ、コウタロウさんの隣で立っていたわ。」
「へー、よく覚えているな。」
「……普通でしょ。」
翼は冷たく言い放ち、彼女の眼から放たれる光はさらに強くなるのだが、彼女自身は全く気付いていない。
「色々見ていたら分かるわ、例えば疾風はコウタロウさんやヨキさんが苦手。貴方がたも少なからずコウタロウさんと相性が合わないでしょ?」
「へー、よく分かるな。」
「見ていたら分かるし、何となくだけどそう感じるわ。」
「さすがは我らが主だな。」
「……さっきから、気になっていたけど「主」って何?」
「あー、そういや、誰も説明してなかったけな?賢木?」
「ええ、そうですね…。ですが、おれたちが勝手に話してもいいんでしょうか……?」
賢木は右手で口元を覆い隠し考える動作を見せ、焔は面倒臭そうに欠伸をしながら頭を掻いていた。
「……話せないような内容なの?」
「んー、話せない、つーか、説明しづらい、つーか、まあ、簡単に言や、おれたちには荷が重過ぎるような話だ。」
「何なのよ、それ……。」
翼は眉間に皺を寄せ、焔を睨み付ける。
「全く意味が分からないんですけど。」
「んー、分かんねーよな、困ったなー、なあ、賢木お前も何か言ってくれ。」
焔は全く困った表情ではなく、むしろ何か楽しんでいる表情で賢木の方を見る。
賢木は楽しげな焔の表情を見て、げんなりとなる。
「焔…、その顔だと全く説得力ない……。」
「確かにね。」
賢木の言葉に思わず翼も同意し、焔はそれでも楽しげな表情を崩さない。
「んー、そうかもしれねえが、変えられねえからなー。」
この言葉を聞いた賢木は肩を竦め、これ以上何を言っても無駄だという事を悟る。
「翼さん、申し訳ないですが、おれらでは貴女の疑問にお答えする事は出来ません。」
「……そう、なら、この質問はどう?この屋敷にいる人の名前、年齢、職業を教えて。」
「へー、んな事訊くんだ。」
焔は感心したように言う。
「他の奴なんて関係ねえ、みたいな顔をしているから、ぜってーそんな事は聞かないと思ってた。」
「そうね、普段の私ならそうよ。でもね。ここで暮らす以上、ここの人達とは付き合わなくてはならないわ。それなら、少しでも知っているのと、全然知らないとでは違うから。」
翼は凛とした表情で賢木を見た。
「教えて下さい。」
「分かりました。それならおれでも答えられます。」
賢木は頷き、翼の目を見る。
「まず、一番年長は二十八歳のコウノ、コウタロウ。」
「そういえば、どのような字で書かれるんですか?河野ですか?」
「字は知らないんだね、「黄」の「野」に、「光」に普通の「太郎」だね、同じく二十八のシザキ、ヨキ、「紫」に「咲」く、「夜」の「希」望。光太郎はセクレタリーで、夜希はボディーガードってところですね。」
「……セクレタリーって確か、秘書・書記という事ですね?」
翼はじっと賢木を見透かすように真直ぐに彼を見詰める。
「ええ、さすがです、良くご存知ですね。」
「偶然よ。」
翼は特に表情も変えずそう言った。
「それで、続きは?」
「えーと、次は…誰になるんだ?えーと、おれらは二十四だから……。」
賢木が考えていると珍しく、焔が助け舟を出す。
「ナギだよ、ナギ。」
「あっ、ああ、ナギね。」
賢木は思い出したのか、二・三度頷いた。
「ミズキ、ナギ、「水」の「木」に風が凪ぐの「凪」、二十六、職業は医師です。」
「んで、次がおれらで二十四。」
「次は……ああ、テツヤになるのかな?」
「ああ、そうだな。」
翼は黙って二人の会話に耳を傾けながら言われた事をきっちりと頭の中に詰め込んだ。
「えーと、スミゾメ、テツヤ、炭を染めるで「炭染」鉄に也で「鉄也」、十九で、大学何年だったか?」
焔は頭を掻きながら賢木に尋ねる。
「確か……、二回だったはず。」
「ふーん、そうだったか…。」
「……あの、鉄也さんって、何の専門なんですか?」
翼は疑問に思った事をすぐさま言った。
「んあ?……何だったか?」
「……忘れました…、多分疾風なら知っていると思いますが…。」
「あー、そうだな、鉄也、疾風と大地は仲良いからな。」
「そうなんですか……。」
翼は次に誰が来るのか何となく理解し、彼の名前を挙げる。
「次はもしかして、青平疾風、私と同じ学校で同じ学年、高校二年で三組。」
賢木と焔は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに疾風とは昨日の内に挨拶を済ませたのだと察し、賢木は翼の言葉に少し付け加える。
「ええ、そうです、疾風はちなみに十七です。」
「んで、最後がチャヤマ、ダイチ、茶色の山で「茶山」「大地」は大いなる地だな、お前や疾風と同じ学校で、高一年、十五だったな?」
「ええ、それで間違いありません。」
翼はそれを聞くと、一度頷き、すぐさま復唱する。
「まず、二十八が二人、黄野光太郎さんと紫咲夜希さん、次に二十六で医者の水木凪さん、二十四は貴方たち二人で赤村焔さんと緑川賢木さんで、次は大学二年の炭染鉄也さん、後は私と同じ学年の青平疾風に、一学年下の茶山大地君ね?」
「……すごいですね…。」
「ああ。」
先程教えた事を見事に復唱する翼に二人は目を丸くする。
「そんな事ありません、八人くらいの名前と年齢ぐらいなら簡単に覚えられます。」
翼はどうって事ないように言うが、実際はかなり凄い事だ。
「……なあ?」
「はい……?」
「一回言われただけで、覚えられっか?」
「……いいえ、無理です。おれは……。」
「…だよな。おれだって無理だし。」
二人は翼の頭の良さを知ったような気がした。
「あー、でも、光太郎なら出来そうだよな?」
「……そうですね、光太郎なら出来そうですね。」
「………お話の途中すみませんが。」
翼は二人の会話に割り込み、片頬を引き攣りながら笑っていた。
「そろそろ、掃除を再開したいので、どっか行ってもらえますか?それとも……。」
翼の瞳が一瞬怪しく光る。
「掃除を手伝って下さりますか?」
「あっ、それな――フゴッ!」
「あー、わりーな、おれらこれからする事があるんだ。」
「そうですか。」
焔は暴れる賢木を押さえ込み、ニッと笑い、翼は見たものが全て凍りつくような笑みを浮かべる。
「ああ、本当に悪いな。」
「――フグッ!焔!」
押さえ込む焔の手から逃れた賢木は軽く焔を睨み、翼に向き合う。
「あの、手伝いくらいな――ゴスッ……。」
賢木が翼に手伝いを申し出ようとしたとたん、焔は彼の腹に強烈な拳を入れた。
賢木の体が傾き、焔は彼が完全に倒れこむ前に支える。
「……。」
その姿を翼は冷ややかな目で見詰めていた。
「じゃっ、そういう事で。」
焔は片手を上げ、脱兎の如くその場からいなくなった。
一人残された翼は半眼になりながら、焔たちの逃げた方をしばらく眺めていた。
***
「……あー、危なかった。」
翼から逃げた焔は壁に凭れ掛かりながらズルズルと座り込む。
「――っ――……。」
「ああ、悪かったな。」
焔は苦笑しながら、殴られた腹を抱えている賢木に謝るが、彼は焔をキッと睨み付けた。
「……何を…するん…ですか……。」
痛みの所為で賢木は途切れ途切れに言葉を紡ぎ、その言葉を聞いた焔は肩を竦める。
「だって、しょうがねえじゃん。」
「何がです?」
怒気が微かに篭る声音に焔は苦笑する。
「あーあ、こんな自分の身の危険すら感じない奴を助けるんじゃなかった。」
大げさに嘆く焔にとうとう賢木は切れた。
「いい加減にして下さい!」
「はー、面倒くせー。」
「何で彼女の手伝いを申し出て、おれが殴られなきゃいけないのですか!」
「やっぱ分かってねえ。」
焔は首を横に振り、大げさにため息を付く。
「あの場合残ってれば、間違いなく大変な目に遭ってるぜ。」
「何が大変な目ですか。」
「察しがわりーな。」
賢木は焔を射るような目で見ているが、彼は何も感じていないのか平然としている。
「あいつは、あのお姫さんは間違いなくおれらを扱き使っただろ言って言ってるんだ。」
「……。」
「あー、その目は信じていねえな。」
賢木のあまりの人のよさに焔は微かに苦笑する。
「あの姫さんはお前が思っているよりぜってー、芯が強い、それに策士だぜ、あの姫さん。」
「……そんな訳ないですよ。」
「いいや、ぜってー、策士だ。」
そう言い切る焔に賢木は首を振る。
「そんな事はないです。」
「はー、ここまでお前の眼が節穴だったとは思わなかったぜ。」
焔は息を吐き、項垂れるような恰好をする。
「あの姫さんは自分が他人にどう見えるかちゃんと理解しているし、そして、どうすれば人が動くか分かってると思うぜ。」
「……まさか?」
未だ信じられないでいる賢木に焔は顔を上げる。
「まあ、お前がだまされるのは当然か、おれだって、一昨日のあの立ち回りとか見ていなかったらぜってー信じてねーからな。」
「……。」
焔に一昨日の事を言われ、賢木は思わず反論できなかった。
「まあ、あの姫さんが策士とかじゃなかったとしても、おれらは多分姫さんの手の上で踊っているだろうな。」
「……嫌な言い方をしますね。」
「ホントの事だろ?」
「……おれには計りかねない。」
「ん、そうだろうな。」
そんな事を言う焔に賢木は脱力する。
「そう思っているんなら、おれに訊くな。」
「おれだって、何でもかんでも理解しているつもりはないぜ、まあ、あの姫さんや光太郎は違うだろうがな。」
「……光太郎は…、人間じゃないだろ?」
真面目顔で賢木はそう言ったものだから、焔は噴出した。
「ブハッ…くくく……。お堅いお前がそんな事言うか?光太郎が聞いてたらぜってー殺されるな。」
「……不吉な事を言わないでください。」
顰め面をしながら賢木は軽く焔を睨み、焔はまだ腹を抱えたまま笑っていた。
「でも、まあ――。」
一頻り笑いきった焔は急に真剣な表情をしながら賢木を見る。
「おれらは普通の人間じゃないからな。」
「……分かっていますよ。」
賢木も焔の言葉を聞き、何か苦しげな表情をする。
「おれたちは普通じゃない。だから、彼女を、あの人を守らなきゃいけない。」
「ああ、それが姫様の父の命令であり、おれらの宿命だからな。」
「……貴方が宿命とか言うのは珍しいですね。」
「んー、あー、そうかもしれねえな。」
焔は頭を掻き、微苦笑する。
「おれらは元から、運命だの、定めだの、信じないからな。だが、これだけは例外だ。」
「ええ、そうですね。」
「これだけはおれでも認めざるを得ない、やつだからな……。」
そう言って、焔は左の肩を押さえる。
「おれらは……、普通の人間ではない故に、あの姫さんを守る力がある、それは幸せなのか、不幸なのかは分からないがな。」
「ええ、ですが、借りがあるから、おれらはどうしても返さないといけないですね。」
「ああ、一生掛かっても返せるか、返せないかの借りだからな。」
「……貴方は借りだけのために、彼女を守るのですか?」
賢木は焔がどう答えるか分かっていたが、それでも、この質問をした。
「お前は分かってるだろ?」
焔はニヤリと笑い、立ち上がる。
「借りだけのためなら、こうやってあいつに、あの姫さんに会う訳ないだろ?それなら、影でこっそり見守るさ。」
「焔がこっそりか?」
「悪いか?」
賢木は肩を震わせ笑い出す。
「悪くはないが、何か似合わないかな。」
「くくく、かもな。」
焔はほんの少し笑い、そして、軽く背伸びをする。
「んで、お前はどうするんだ?あの姫さんを「主」と認めるか?認めないか?」
「……お前は決まっているんだろ?」
「ん?何が?」
焔は恍けたように言い、賢木は微かに笑みを浮かべた。
「決まっているから、彼女に「我らが主」って言ったんだろ?」
「んな事言ったか?」
「言ったさ、お前の気持ちはもう決まったんだな。それなら、おれの気持ちも決まった。」
賢木は真剣な目で焔を見る。
「焔は結構いい加減な所があるが、それでも、人を見る目がある。信じれる人が見つかったのなら、おれはそれに賭けるよ。」
「何か褒められてる気がしねーんだけどな。」
「そうかな?」
「そうだ。でも、まあ、今回は聞き流してやるよ。」
焔はそう言い自室に戻るために、歩き出す。
「待てよ。」
「ん?」
賢木に呼び止められた焔は足を止め振り返る。
「焔は他の奴らはどう動くと思う?」
「……おれなんかよりも、光太郎あたりに聞けよ。」
「……おれが光太郎を苦手としているのは知ってるだろ?というか、この屋敷に住んでいる大半が光太郎に弱いし。」
「ははは、わりー、冗談だ、冗談。」
焔は一旦笑い飛ばし、そして、真剣な表情を作る。
「他の奴らも最終的には姫さんに付くと思うぜ、まあ、一番厄介なのは光太郎だな。あいつは仲間だったら心強いが、敵だったら間違いなく一番敵にしたくないからな。」
「…意外です。おれはてっきり夜希だと思った。」
「あー、夜希か、あいつは光太郎が動けば動くさ。けど………。」
「けど、何さ?」
「さーてな。」
焔は急にはぐらかし、そのまま歩き始める。
「ほっ、焔。」
「どうせおれらは、今は見てるしか出来ないんだ。なら、姫さんがどう動くか黙ってみてようぜ?」
焔は小さくそっと心の中でこう付け加えた、「「主」として認められるのは姫さんだから、姫さんが頑張らないといけないからな、当分の間は。」と。
「さーて、お手並み拝見とするか。」
焔が呟いた言葉は小さく賢木の耳には入らなかった。
「焔。」
賢木は焔の後を追うように、歩き出す。
翼の知らない間に、彼女は認められた。そして、それを後々知るのだった。
運命の輪が廻っている事に、翼はまだ気付かない。