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  作者: 弥生 桜香
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第一章

『翼、翼、私たちの大切な娘。』


 優しい声が、何度も何度も翼の名を呼ぶ、そして、優しく髪を撫でられる感触がし、翼はうれしくなり微笑んだ。


「お母さん…。」


 しかし、唐突に、目覚めが、夢から翼から母を引き剥がした。

 翼は目を開け、そして、見慣れない天井が映る、不意に自分の目から涙が流れている事に気付く。


「ああ、久しぶりに母さんの夢見たな……。」


 翼は感傷的になり、腕で自分の目を隠す。


「ふう。」


 翼は息を吐き、そして、昨日の記憶が蘇り、顔を顰める。


「何でこんな事になったんだろう。」


 翼は目覚まし時計に手を伸ばし、時間を確かめ、固まる。

 時計の針が示していた時間は八時ぴったり。


「っっっ――――!」


 翼は悲鳴にもならない悲鳴を上げ、慌てて、着替え始める。


(なっ、ちっ、遅刻ぅぅぅぅぅ―――!)


 翼は怒涛の勢いで身支度を済ませ、鞄を引っ掴み、部屋から廊下に出た。

 翼の部屋は南の棟の二階の手前の部屋だった、そのお陰で階段までの距離は短かった。

 翼は全速力で学校まで走った、もし、翼が元住んでいたアパートだったら遅刻だったが、あの洋館は学校から徒歩三分だったので、遅刻はしなかった。

 翼は下駄箱の前で、息を整える。


(よっ、よかった……、遅刻じゃない、それどころか……余裕。)


 翼は息を整え終わると、教室に向かった。

 そして、いつもと変わらない授業が始まり、そして、いつもと変わらない一日が終ると信じていた、そう、お昼休みまでは……。


***


 お昼休みに入り、翼はいつものメンバーでお昼を過ごそうとしたが、翼は今日起きるのが遅くなり、お昼は抜きだった。それは自業自得だと思い、翼自身特に何も感じていなかった。


「藤堂さん、藤堂さん。」


 突然、クラスメートの女子生徒に呼ばれ、翼は何事だと思い、読みかけていた本にしおりを挟み、机の上に置いた。


「どうしたの?」


 翼が、女子生徒のもとに行き、女子生徒の頬が微かに赤い気がしたが、それはまあ、あまり関係ないと思い、いつもの、微笑を見せる。


「あの、アオヒラ君が呼んでます。」

(アオヒラ?いったい誰の事?)


 翼は聞き覚えのない名前に首を微かに傾げ、女子生徒が指す方を見て、げっ、という声が危うく漏れそうになった。

 廊下にアオヒラという人物が立っていた、彼は昨日あの洋館で集まった男たちの一人で、ハヤテと呼ばれた人物だった。

 翼は女子生徒に微笑みながら「ありがとう。」とお礼を言いながらハヤテの方に歩いて行った、が内心では顔を顰め舌打ちをした。


「何でしょうか?」


 翼はいつもの微笑ではなく、冷気を放つ微笑を疾風に向ける。


「ついて来い。」


 ハヤテはいきなり翼の手を引き、歩き出してしまう。

 翼は呆気にとられ、そして、ハヤテの顔が真っ赤になっている事に気付き笑いを堪えた。

 そして、翼たちが立去った教室から黄色い悲鳴が上がった。


「嘘――!藤堂さんって、あのアオヒラ君と付き合っていたの!」

「翼!すごーい、帰ったら絶対聞かなくちゃね!」


 教室から聞こえてくる声に翼はげっそりとなった。


(最悪…、教室に戻ったらどうしようか…うーん。)


 翼は内心で後々の処理に悩み、外面は少し困ったような顔をしていた。

 しばらく翼が考えていたら、いつの間にか階段を上がっていて、翼は考え事を思わず止めた。

 翼を教室から連れ出したハヤテはずっと無言だった。


「……いったい何処に連れて行く気なの?」


 翼は誰が聞いているのか分からないので、取り敢えず学校用の顔を作っていた。


「……。」

(無視ですか…、何よ、こいつ…ムカつく。)


 翼は周りを見渡し、何処に向かっているのかにようやく気付く、屋上だった。屋上は立ち入り禁止に一応なっているが、一部の生徒はよく入っているという噂があったが、その人物が目の前にいるとは信じられなかった。

 階段を全て上りきり、疾風は翼を掴んでいない手で屋上に出るドアに手を掛けた。

 ドアを開けると一面に青空と町が見渡せ、翼は少し感激した。

 ハヤテは目的の場所に付いたとたん翼の手を離し、さっさと自分がいつも座っていると思われしき場所に座った。


「……。」


 翼は一瞬教室に戻ろうかと本気で思ったが、一応文句の一つは言わないと割に合わないと思い、ハヤテの目の前で仁王立ちをする。


「どうしたんだ?座らないのか?」


 ハヤテは仁王立ちしている翼を不思議そうに見上げ、お昼ご飯のパンの袋を開けた。

 翼はそんな暢気な事を言うハヤテにムカつき、冷たく見下ろしながら棘のある言い方をする。


「急に人を呼び出して、その上、どこに行くのか尋ねているのに答えない。そして、目的の場所に着いたら、なに?一人で勝手に座って寛いでいるのよ!」


 翼はビシッとハヤテに指差し、殺気立つ。


「私にいったい何の用なの、さっさと言って。」


 ハヤテはたじろぎ、そして、頭を掻き、何か言うのを迷っている。


「……あー、あー。」

「あー、だけじゃ分からないでしょ、ちゃんと言って、くだらなくてもこれ以上怒らないわよ。」

「……それなら言うぞ?」

「ええ。」

「コウタロウさんの命令で、お前とメシ食えってさ。」

「……それだけ?」

「ん。」


 ハヤテはパンに齧り付き、頷く。

「…私、教室に帰る。」

「ん!」


 ハヤテはパンを銜えながら翼の手首を掴む。


「何よ…。離しなさい。」


 殺気立つ翼はキッとハヤテを睨み付ける。


「ん~~!」

「口のもの取ってから喋りなさいよ!」


 ハヤテは空いている手でパンを持ち、必死の表情で翼を引き止めようとする。


「駄目だ!待ってくれ、俺がコウタロウさんに殺されてしまう。」

「……。」


 翼は勝手に殺されれば良い、と思いつつも、さっきから挙げられる「コウタロウさん」と言う人物が気になった。


「コウタロウさんって誰?」

「へっ?」


 翼の行き成り質問に疾風は気の抜けた返事をして、翼を余計にイライラさせる。


「さっさと答えなさい!」

「あー、コウタロウさんはコウタロウさんで、あー、昨日お前をあの屋敷に連れてきた内の一人で……。」


 そこまで言われて翼はようやく「コウタロウ」=「コウ」と繋がった。


「つまり、ヨキさんが「コウ」って呼んでいた人がコウタロウって名前なのね。」

「ああ、そうだ。」


 翼はちらりとハヤテを見て自分は何も知らないのだと思い、少しはこいつと話をしても言いかと考え出す。


「いい加減その手を離してくれる?」


 翼は視線を自分の手首に向け、不愉快そうに微かに眉を吊り上げる。


「あっ、悪い……。」


 ハヤテはバリって音がしそうな程勢いよく、翼から手を離した。

 そして、ハヤテの顔が耳までも真っ赤に染まっていた。彼は女の子に免疫がないのかと翼は冷めた目でそれを見つめていた。


「まあ、いいわ、で、ちゃんと自己紹介をして頂戴。」

「あっ、あー。」


 翼に言われ、自分が名乗っていない事にようやく気付いたハヤテは気まずそうに頭を掻いた。


「そういや、名乗ってなかったな…。えーと、俺はアオヒラ、ハヤテ、字は青空の「青」平たいの「平」、風の疾風で「疾風」、二年三組だ。」

「そう、知っているとは思うけど私は藤堂翼、二年一組よ。」


 翼はそっと疾風の隣に座った、隣といっても片手を伸ばして触れるか触れられないかの微妙な距離だった。


「何で貴方とご飯を食べなきゃいけないかコウタロウから聞いているの?」


 翼はちゃっかり呼び捨てにしているが、疾風は呼び捨てにされたことよりも翼の質問の方に気を取られていた。


「……まあ、一応な…。」


 歯切れが悪い疾風にこれ以上聞いてもどうせ吐かないと思い、翼は次の質問を考えようとしたが、それよりも早く疾風の方が翼に質問してきた。


「なあ、メシ食わないのか?あっという間に休み時間終るぜ?」

「……ないわよ。」

「……ダイエットってやつか?」


 疾風は眉間に皺を寄せ、翼を見た。


「違うわよ、ただ、お弁当が作れなかったから、今日は抜きなの?」

「そんなら、学食とか、購買部でなんか買えばいいじゃないか。」

「……高いのよ。」


 翼は仏頂面になり、疾風から顔を背けた。


「はぁ?」

「だから、高いのよ!」


 翼はギロリと殺気立てた視線を疾風に向ける。


「…別に高くなんか…。」


 疾風は自分の持っているパンをちらりと見た。疾風が持っているパンは購買部で買ったもので普通の値段とそんなに変わらないのだった。


「あー、金欠か?」

「……。」


 翼はさらに鋭く疾風睨み付けた。


「そんなら、早く言えよ。ほら。」


 疾風は持っていた袋からパンを一つ取り出し翼に投げた。

 パンは綺麗な放物線を描き翼の手に落ちた。


「……。」


 翼はパンと疾風を交互に見て、胡乱な目つきで疾風を見詰めた。

 疾風は自分の食べかけのパンを口にしかけ、翼の視線に気付き手を止める。


「ん?何だ?」

「何で、くれるのよ。」

「はあ?」


 疾風はただの親切心から翼にパンをあげただけだったのだが、翼はそうは思ってなかった。


「いや、腹減ってるかな、とか思ったんだけど…。」


 翼はその言葉に裏がないと分かると、小さく頷いた。


「ありがとう…。」


 ポツリと小さく囁くような言葉はかろうじて疾風の耳に入った。


「ああ。」


 翼は袋からパンを取り出し、それに齧り付く。


「そういや、弁当とか言ってたけど、自分で作ってるのか?」

「……勿論よ。」


 翼は口に入っていたパンを飲み込むと、すぐに答えた。


「すげーな、俺らだとコンビニ弁当か、近くのスーパーからお惣菜を買うかだぜ。」

「…そんなの高くつくじゃない…。」


 さらりと言う翼に疾風は何となく引っかかりを覚えた。


「……。」


 疾風の何か言いたげな視線に翼は気付き、一瞬言わないでおこうかと思ったが、何となく一気に思いを吐き出しても言いかと考えた。

 鋭い視線を翼は疾風に向ける。


「どこぞのクソ爺がね、全く家にお金を入れてくれなかったのよ。」

「……。」

「お陰でこっちはバイト、バイト、バイトをしなくちゃやってられなかったわよ!」


 疾風は翼の言ったクソ爺が誰なのか何となく分かってしまい、顔を引きつっていた。


「えーと、それでも…入れてくれたんだろ?」


 疾風の言葉に翼は反応した。翼は先程とは比べようがない程刃のように鋭い眼差しで疾風を貫く。


「甘い!」


 ビッシっと翼は疾風に指を突きつける。


「あのクソ爺は私の授業料と家賃しか払わなかったのよ!体の弱い母に働かせようとしたのよ!あの悪魔め!」

「……。」

「しかも、家賃の安いところに移ったら、その分しか払わないし!あの頭は一体どういう風になっているのよ!」


 翼は握っていたパンを片手で握り潰してしまい、中に入っていたクリームがはみ出る。


「だから、母に苦労させたあの男を、あの悪魔を私は許さない!」

「……。」

「だからね…、私は貴方たちを信じる気もないし、頼ろうとは思わない。」


 疾風は先程の言葉で翼が苦労してきたのを知ってしまい、翼がこういう風に言うのは仕方ないかと思いだした。

「…でもね、一応受けた恩は仇で返す気はないわ。」


 翼の口調がほんの少し和らぐ。


「恩は恩で返す。転ばされたんならただでは立ち上がらず、砂でも掴んで立ち上がるか、悔しかったら相手まで同じように転ばせるかが、私の主義なの。」

「……。」


 後半の「相手まで転ばせる。」という言葉に疾風は思わずはた迷惑な、と思ったが、このまま翼と付き合っていくとそうなりそうな嫌な予感がした。


「で、晩御飯何が食べたい?」

「はあ?」


 いきなりの翼の言葉に疾風は目を丸くした。


「だから、このパン貰ったからそのお礼よ。」

「……。」


 疾風はふっと何年かぶりまともなメシが食えるのかと考えそうになるが、当の作る翼の料理の腕前がどのくらいなのかと判断が付かなく、なんて答えればいいのか分からなくなった。


「…何よその沈黙は…。」


 翼の目が険しくなる。


「あっ、いや……その…。」


 狼狽する疾風に翼は睨み付ける。


「一応言っとくけどね、これでも私は料理も得意なの。」

「も?」

「ふふふ、まあ、もう一つ得意なのは貴方自身がその身をもって知っているでしょうね。」


 翼は口元を隠し笑うが、その目は決して笑ってなどいなかった。

 ギクリと疾風が固まり、翼は更に笑う。


「まあ、冗談はここまでにして、本当に何が食べたいの?」


 翼は瞬く間に笑みを消し、無表情になる。


「まあ、時間がかかるやつは多分明日になるかもしれないけれど。」

「……。」

「……黙っているのなら毒を盛るわよ!」


 片眉を器用に吊り上げ、翼は疾風を見据える。


「ぶっ、物騒な事言うなよ。」

「言わせているのは貴方の方でしょ。」


 翼はため息を付き、何となく視線を下ろし偶然に目に入った腕時計の時間を見て驚く。


「なっ、もうこんな時間!次の時間の教材を取りに行かないといけないのに!」


 予鈴五分前だった。


「もう!あの先生人使い荒いのに!」


 翼は残っていたパンを急いで食べ、屋上のドアノブに手を掛けようとして疾風に呼び止められる。


「おい!」

「何よ!こっちは急いでいるのだから早く言って!」


 翼はキッと疾風を睨むが、それでも、彼女は立ち止まっていた。


「中華料理なら何でもいいぜ!」

「……。」


 疾風の言葉に翼は珍しく固まった。

 そして、疾風は持って来たビニール袋を持ち、翼の方に歩く。

 疾風が残り十歩くらい歩かないかの距離に差し掛かり、翼はようやく口を開く。


「分かったわ。」

「うん、ありがとな。」


 目を細めて笑う疾風に翼は、こいつはそんなに悪いヤツじゃないかも、と思ったが、それでも長年の癖で警戒心は完全に消せなかった。


「なあ、次はそっち何の授業なんだ?」

「英語よ。」

「あー、あの先生な、確かに人使い荒いよな。」


 疾風が付いてくるので翼は眉を顰める。


「貴方さっき、三組って言ったわよね?」

「ん?言ったがそれが?」

「どうしてこっちに来るわけ?こっちは職員室なのに、教室はまだ下の階でしょ。」


 怪訝な顔で翼は言い、疾風は苦笑する。


「いや、あのノートの山はさすがに女一人じゃ辛いだろ?」


 疾風は英語の担当の先生が授業の度にノートを集め、そのノートを生徒に持ってこさせることを知っていたので、だから、手伝おうとしてくれるのだが――。

 翼はその善意を何か裏があるのではないかと勘繰った。


「……何かあるわけ?」

「何でそうなるんだ?」


 呆れ顔で疾風は言い、そのままスタスタ先を歩き出す。


「あっ、待ちなさいよ。」


 翼は早歩きで疾風にようやく追いつくと、彼に聞こえるか聞こえないかの大きさで悪態を付く。

 そして、スッと表情を和らげ、上品な笑みまで浮かべ、その時偶然それを見ていた疾風は翼のあまりの変わりように慄いた。


「どうかしましたか?」


 翼の声音まで先程とガラリと変わり、疾風は口を大きく開け呆気に取られている。


「まあ、何かそんなに驚くような事ですか?」

「……二重人格?」


 疾風は最初に会った時の事も思い出し、このギャップに思わずそんな言葉を漏らした。

 一方、その言葉を聞いた翼はコロコロと可愛らしく笑う。


「ふふふ、二重人格だなんてそんな生易しいものではないはずですよ?」

「――っ!」


 翼は確かに穏やかな声音で言っているのだが、なぜか急に背筋が冷えた。

 そして、少し冷静になった頭で疾風は先程の翼の言葉を思い返し、顔を引き攣らせた。


「どうかなされましたか?」


 翼の目が細められ、微かな、けれど鋭い眼光が疾風を射った。

 まるで、何か変な事を漏らせば即刻その首を刎ねるという、殺気を帯びた空気がヒシヒシと伝わってくる。


「なっ……、なんでもない………。」


 疾風がようやく擦れた声でそう答えると、翼はニッコリと笑うが、その目は冷え切っている。


「それなら良かったですわ。」


 疾風は翼の恐ろしさの一部を垣間見てしまったような気がして、何も知らなかった頃に戻りたいと切に願った。


***


 学校が終り放課後、翼は食材を買って帰り台所に向かった、そして――。


「なっ!何これぇぇぇぇぇぇ――――――――――――――――――――!」


 翼の絶叫は台所中…、否、元台所・現在ゴミ置き場中に響き渡った。

 翼の叫びはこの台所を見た人が誰もが言いそうな言葉だった。

 翼は疾風との約束通り晩御飯を作ろうと、台所に向かったところ――ノートを取りに言ったときに疾風に場所だけは聞いといた――そこはゴミの山だった。

 台所と食堂らしきものがくっ付いているみたいだが、あちらこちらにゴミ袋が詰まれ、足の踏み場もなかったのだが、翼はそれを突き進み、何とか目的の場所に着いたのはいいのだが、そこはもうすでに台所の影も形もなかった。


「………………………ふふふふふふふふふふふふふふふ……。」


 不気味に笑い出した翼の頬は引きつっていた、

 翼は元々綺麗好きなので、通常の場合、汚いものを見れば綺麗にしてやろうじゃないかと、意気込んで片付けるのだが、これ程、汚ければ誰もやる気も出ないのだが――。

 翼は違った。

 翼は一気に窓を開ける――そこにたどり着くまでにゴミの海を押し進んだ。

 そして、彼女は不敵に笑った。


「明日はまあ、土曜日でよかったわ…、本当は新しいバイト先を探したかったけど…、それよりも食と住が何よりも優先されるからね……、ふふふふふ…。」


 翼は近くにあったゴミ袋を掴み取り、窓に投げる。

 台所の裏は丁度庭になっていて多少のゴミなら置けそうだった、それを翼は先程窓を開けた時に確認し、本来ならドアで運び出したかったが、そのドアはゴミで塞がれ通れなくなっていた。

 ゴミ袋を二十個くらい投げ飛ばしていると、よほど運が悪いのか、疾風が偶然食堂の前を通り過ぎようとしたのだが、翼それを見逃さなかった。


「待ちなさい!」


 ビクリと疾風の肩が跳ね、ギギギギギと首を翼の方に向ける。


「つっ、翼……。」


 疾風は頬を引きつり、思わず逃げようとしたが――。


 ビュッン!


 何かが空を切り、疾風の目の前を通り過ぎた。


「げっ!」


 疾風は飛んできたモノを見て固まった、飛んできたモノそれは包丁だった。

 もし、疾風が後二・三歩踏み出していたならば、彼の顔に傷が付いていただろう。


「ふふふ、本当に丁度いいところに来たわ。」

「……。」


 疾風は逃げられないと確信し、項垂れる。


「……着替えてからじゃ駄目か?」


 翼の目がスッと細くなり、気温が一気に五度程下がる。


「逃げるの?」

「ちっ、違う!さすがに制服のままだと汚れるだろ!」


 翼の声がいつもよりも低く、疾風は慌てて首を横に振った。


「……逃げないわね?」

「逃げねえよ!絶対逃げねえ!」


 疾風は必死でそう言い、翼は小さく頷いた。


「まあ、良いわ、早く着替えていらっしゃい。」


 翼の許しが出たので疾風はホッと息を吐き、そのままダッシュで自室に向かった。

 そして、数分もしない内に疾風は戻って来た。


「あら…、早かったのね。」


 思っていたよりも早く疾風が戻ってきたので、思わず翼はそう言葉を漏らした。


「そういえば、何か部活でもやっているの?」


 今の時間が七時過ぎで先程帰ってきたのだからと、翼はそう見当をつけた。


「あ?ああ、そうだが。」


 疾風はゴミ袋を両手で持ち、外に運び出す。


「ふーん、そうなの…、で、何の部活なの?」

「陸上。」

「……まあ、そう言われたら似合っているわね。」


 翼はそう言いながらゴミ袋を持ち上げ、その下敷きになっていた物を見て半眼になる。


「何よ、コレ……。」


 翼の言葉に疾風は振り向きギョッとなる。


「なっ!」


 下敷きになっていたものは誰かの下着だった…。

 疾風は顔を真っ赤にし、慌てて翼に見えないように隠すが、もう遅かった。


「……それ、あんたの?」


 汚らわしい物を見たような目つきをする翼に疾風は慌てて首を横に振る。


「ちっ!違う!俺のじゃない!」

「……まあ、いいわ、それを持ち主に返しといて、ついでにこうも言っといて「神聖なる台所に汚らわしいものなんて持ち込まないで!」って。」

「……ああ。」


 疾風は顔を引き攣りながら、頷いた。


「それにしても…、何でこんなになるまでほって置けるの、信じられない。」

「あー、仕方ねえよ、俺らまともに料理できるのは一人しかいねえし、その一人がここでは料理しねえからな。」

「……そういえば、ここ何人住んでいるの?」


 翼は雑巾であちこち拭きながら尋ね、疾風はゴミ袋を運び出しながら答える。


「翼と俺を入れたら九人だ。」

「……八人もいるのに、何で片付けないのよ。」

「しょうがねえだろ、俺らは学校あるし、他の奴らも仕事があるからなかなか家の事は出来ねえんだよ。」

「……それでも、やろうと思えば出来るわよ。」


 翼は冷たい眼差しで疾風を見遣り、大げさなため息を付く。


「情けないわね、大の男が家事も出来ないなんて。」

「うるせー!」

「……そんな事言ってもいいの?」


 翼は目を細め、笑みを浮かべる、その笑みは見たもの全てが凍りつくような冷たい笑みだった。

 疾風はしまった、と思ったが、口にした言葉はもう戻らない。


「貴方たちはまともな食事なんか取らないのよね…、ふふふ……。」


 疾風は翼の笑い声を聞きながら固まっていた。


「まあ、どうなるか予想は付くけど、楽しみね……。」


 そして、一頻り笑った翼は疾風を一瞥する。


「固まってないで、さっさと、それと、それ、あれも運んで頂戴!」


 翼はまだ残っているゴミ袋を指し、疾風は肩を跳ね上げテキパキと動き始めた。

 疾風がゴミ袋を全てだし終えると、台所と食堂はかろうじて元の姿を取り戻すが、それでも、長年の埃や、ゴミ袋に入りきらなかったゴミなどが散乱していた。


「ありがとう、今日のところはこれでいいわ、続きは明日やるわ。」

「ん~、あ~。」


 疾風は机の上でうつ伏せになって、疲れ果てていた。

 それもそうだろう、時間はもう十一時を過ぎしかも、部活で疲れている上に、過重労働で晩御飯だって未だ食べていない。


「……悪かったわね。」


 さすがの翼もこれは可哀想だったかと思い、かろうじて使えそうなところで調理し始め簡単なものを作り始めた。

 いい匂いがし始め、疾風は顔を上げる。


「お疲れ様、これでも食べて、食べ終わったら水に浸けときなさいよ。」


 翼はそう指示し、食堂から出て行った。

 疾風は空腹だったので、例え、毒が入っていてもと思い、翼の料理に手を出した。


「ん……うまい。」


 翼自身が得意と言う通り、その料理はかなり美味しかった。

 しかも、量も疾風の胃を満たすぐらいの量だった。


「あいつ…、本当はいい奴なんだな。」


 疾風は空になった皿を見ながらそうポツリと呟いた。


「今後どうなるかまだ分かんねえけど、まあ、あいつならいいかもしれないな……。」


 疾風はそう言い、左腕にある痣を見た、それはまるで『翼』の形をしていた。


「定めからは逃げられない…、だけど、最終的にそれを受け入れるのは俺たちだ。俺たちがあいつを受け入れるか、見放すか、まだ分かんないけど……。」


 右手で痣を覆い、疾風は目を閉じた。


「受け入れるかもしれないな…、まあ、まだ先だろうけどな。」


 疾風はそう言い、翼に言われた通り皿を水に付け、食堂から出て行った。



 運命の輪が廻り始める、それは翼を中心に徐々に広がりを見せていくが、彼女や周りの人間は誰も気付いていない。

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