プロローグ
まさか、こんな事に巻き込まれるとは思っても見なかった……。
今は亡き母の遺言で言われた高校に入ったが、後々、大学は自分で決め、そして、平凡な人生を歩むのだと思っていた。
なのに、まさか自分の身にこんな事が起こるなんて、信じられなかった……。
***
「翼――。」
「何?」
帰り道、友達に唐突に話しかけられ、翼は小首を傾げる。
友達の話を聞き流して殆ど聞いていなかった翼はただ穏やかに微笑む。――誰もこの笑みを作り物だと気付かない。
そして、翼の笑みが見た通りだと思っている友達は翼に問いかける。
「翼は好きな人いるの?」
「そうそう、やっぱり、三人ぐらい付き合っている人ぐらいいるんでしょ?」
「こんなにも美人だもんね。」
翼はその言葉を聞き表では穏やかに微笑み続け、内心では眉を吊り上げていた。
「あら、私は今好いている人なんていないわよ。」
(つーか、どうしていきなりそんな話になるのよ、もー、どうせ、彼氏どころか、初恋すらないのよ、私は。)
「えー、もったいない。」
「そうかしら?」
翼は少し困ったような表情を作り小首を傾げた。
「そーよ。」
(ああ、なんか話し変えてくれないかな……。)
内心ではげんなりしながら翼はどうにか逃げ出せないかと考え始める。
「あっ、でも、翼って高嶺の花って感じしない?」
「あっ!するする。」
「そうか、そうね、そう言われると納得。」
(あー、もー、勝手にしてよ!私は普通だっつうの!)
どんなに内心で怒鳴っていても、表面だけでは翼はただただ黙って微笑んでいるだけである。
「あら……、…もうこんな時間、私もう行かないと。」
何気なく腕時計を見た翼はそう言った。
「えっ!もう行くの?」
「ごめんなさい、今日はバイトがあるの。」
翼は申し訳なさそうに謝り、それを見た友達はごく普通に帰りの挨拶を交わし始める。
「それじゃしょうがないよね。」
「また明日。」
「うん、またね。」
「じゃあ、また明日。」
「バイバイ!」
「またねー。」
「頑張ってねー。」
「はい、ではまた明日学校で。」
翼はニッコリ微笑みながら友達に手を振り、そのままT字路で彼女たちとは逆の方向に歩いていった。
「本当、翼ってえらいよね。」
「うん、母親死んで、一人暮らしだって。」
「私たちじゃ無理だよね。」
「うん、うん、その上、成績優秀、スポーツ万能、品行方正で、美少女。」
「何か次元が違うよねー。」
「うん、うん、でもさー、ちょっとそこまで行くとちょっと怖くない?」
「あー、私も少し思う。」
「そうだよねー。」
あははは、と全員で笑い出す彼女たちの話は少し離れていた翼にばっちり聞こえていた。
もし、友達に見せる顔が本物なら彼女は固まっていただろうが、残念ながら彼女の本心は別に合った。
「あー、やっぱりね。」
翼は呆れ顔でその話を聞いていた。その顔は先程友達に見せていた穏やかで優しそうな少女の顔ではなく、意志が強そうでしっかりした少女の顔だった。
「まっ、仕方ないか。」
翼は無造作に前髪を掻き上げ、そこから見える瞳には感情がなかった。
「どうせ、昔からそうだったもの。」
そう言いながら翼は不意に、昔の事を思い出した。
昔は翼もこんなには捻くれてはいなかった、むしろ、今さっき友達と接していたような少女だった。
しかし、彼女が小学校高学年の頃、さっきと同じような内容を友達が話しているところを偶然立ち聞きしてしまった。
その時の彼女は傷付き、自分を追い込んだが、それを救ってくれたのは彼女の母親だった。
母は翼に「貴女は貴女らしくいればいいのよ。」と言ってくれ、そして、翼は変わった。
翼は人前では出来る限りその人の望んだ形を取りつつ、母の前では自分らしく振舞った。
翼はずっとそれでいいと思った、本当の自分を分かってくれるのは母親ただ一人でいいと、そして、母が死んでから、自分は閉じこもっていると分かっていた。
それでも、翼は他人に本来の自分を見せるより、演じ続ける方が楽だった……。
翼は暗くなった思考をやめるために軽く自分の頬を叩いた。
「よーし!」
翼の瞳に生気が宿るが、それは紛い物だった。その事実に実は翼自身も気付いていないでいる。
「今日はまず、家に帰って、バイトして、終ったら宿題して、寝る!」
翼は簡単に自分のすべき事を口に出し、自分に活を入れた。
翼は自分のアパートの近くに近付いた時、アパートの前に見かけない車が一台止まっている事に気付いた。
「何よあれ、邪魔だな…。」
翼は眉を顰め、車をじっと見た。
不意に、体全身に何かが走った、それは静電気のような、いやそれよりももっと何か激しいモノだった。
そして、車の中から、二人の男性が現れた。
翼は男たちがこっちに来ている事に気付き、後退りしようとしたが、体が言う事を聞かなかった。
あっという間に、距離を詰められ、翼は黙って二人を睨み付けた。
「貴女が、藤堂翼さんですか?」
男の一人が彼女に聞いた、彼は人当たりがよさそうな男性だったが、翼は警戒を解かなかった。
二人とも高そうなスーツを着込み、二人とも背が高い、片方はサングラスを掛ける、見た目からして二人とも二十代後半だと睨み付けた時に翼はそう判断した。
「そうですけど、何か私に御用ですか?」
翼は凛とした声を出し、全てを見透かすような澄んだ瞳を二人に向ける。
「ヨキ、見つけましたね。」
男はもう一人のサングラスを掛けた男性――ヨキに話しかけた。
翼はヨキと呼ばれた男性が先程から隙を全く与えていない事に気付いていた。
「ああ。」
「それでは、お嬢さん、私たちと一緒に来てくれますか?」
人のよさそうな男は丁寧な口調で翼にそう尋ねてきた。
翼は顔を上げ、彼らをじっと澄んだ瞳で見据えた。
「もし、お断りいたします、……と言ったらどうなりますか?」
「聡明なお嬢さんならお分かりでしょう。」
「……私を無理やりでも連れて行く。」
「当たりです。」
男は笑ったが、その目は本気では笑っていなかった。
「コウ、その辺にしとけ。」
ヨキは相方のコウを呆れた視線で見た。
「で、どうするんだ?藤堂翼。」
ヨキは翼に急速に答えを求めた。
「分かりました。ですけど、もう少しお時間は頂けませんか?」
「だめだ。」
ヨキは即答で答え、さすがの翼もムッとしたが、それでも表情と声には出さなかった。
「でも、今日は……。」
翼は何か言おうとしたが、ヨキの目を見て口を閉じる、彼の目には拒否を受け入れていなかった。
「分かりました、ついて行けばよろしいのですね。」
「ああ。」
「ご理解いただけてうれしいです。」
ヨキは小さく頷き、コウはニッコリ笑い、そして、翼の肩に手を回す。
翼はその手を払い除けたかったが、今下手に男たちの機嫌をそこねても自分が不利になる事が分かっていたので我慢した。
ヨキは車の後ろのドアを開け、翼に乗れと目で合図し、翼は大人しく乗った。
「ああ、忘れていました。」
コウはどこから取り出したのか知らないが、アイマスクを翼に着ける。
「……。」
翼は動じていなかったように見えたが、内心では理不尽な行いにかなり腹を立てていた。
そして、しばらくして、車は走り出した。
「……。」
翼は全神経を耳に集中させ始めた。
「…コウ、本当にこの娘があの人の娘なのか?」
「ええ、そうでしょう。」
「どうも似てない気がするんだが…。」
二人の会話はかなり小さく、しかも、二人とも声を低くしているので、もし、翼が意識を集中させていなかったのなら聞こえていなかっただろう。
「奥方似なのでしょう。」
「そうだろうか?」
二人の会話はここまでしかなかった、そして、翼は先程話していた内容で何か掴めないものかと考え始める。
(あの人の娘……それに、奥方って言うくらいだから、母さんの知り合いじゃないという事ね、つまり、……あの男の?)
急に翼の心が氷のように冷たく、刃のように鋭くなっていくような気がした。
そして、車に乗せられてから十分も経たないうちに目的の場所に着いた。
そこはどこかの洋館だった。
翼はアイマスクを外してもらったが、ヨキに肩を掴まれ、逃げるのは不可能だった。
「どうぞ。」
コウは扉を開き、翼たちを招き入れる。
中に入るとそこは意外に住み心地のよさそうな内装だった。
そして、翼たちを囲むように六人の男性が立っていた。
年は自分と近そうな者から、十は離れていそうな者もいた。
「……。」
男たちは全員翼を見ていた。その視線はまるで翼を品定めしているようなものだった。
翼は出来る限りそんな視線を気にせず、真直ぐに背筋を伸ばし、顔を上げ、凛とした態度をとった。
「私に何の用があってここまで連れて来たのでしょうか?」
コウは翼の堂々とした態度を気に入り、口の端を上げ笑い、ヨキは凛とした態度をとる翼を驚きの眼差しで見た。
「突然、連れて来られ、それで、泣かないなんてかなりの度胸があるのですね。」
「関係ありません。」
コウの言葉に対し、ピシャリと言い放ち、翼はその場にいる者たちを一人ひとり睨み付ける。
「話を進めてください、父に関する事なのですよね?」
翼の最後の言葉にその場にいた者は全員固まる。
彼らは翼が何も聞かされずにここに連れてこられて事を知っているからだ。
そして、一番初めに硬直が解けたのはコウだった。
「なぜ……分かったのですか?」
「さあ、どうしてでしょ?」
翼は曖昧に肩を竦ませてみせた。
「そんな事より、用件を。」
「……貴女は本当に不思議な方ですね。」
「褒め言葉として受けとらして頂きます。」
「こんなところで立ち話も失礼ですね、どうぞこちらへ。」
コウは翼の手を引き、ソファーに座らせ、自らも翼と向かい側に座る。
そして、他の男たちも腰掛けたり、立ったりして、翼とコウを囲む。
「では、お話します。」
「はい。」
翼の返事からコウは少し時間を置き、そして、その口を開く。
「単刀直入に申しますが、貴女のお父上は行方不明になりました。」
「おい!」
突然、話を聞いていた男の一人がコウの胸倉を掴む。男は翼と同じか少し年が上に見えた。
「おや、ハヤテ君なにか?」
「おや、じゃないだろ、もっと違う言葉があるだろうが!」
「ですが、彼女は驚いていませんよ?」
「えっ?」
ハヤテは驚き、翼を見た。翼はコウが言った通り全く驚いていなかった。
「何でだ。」
ハヤテはそう呟くと怒りの矛先を翼に変えた。
「何で心配しないんだ!」
「話の途中です、話を進めてください。」
「分かりました。」
翼は疾風を無視しコウも彼女の姿勢を真似し、話を進めようとしたが、ハヤテがそうさせなかった。
ハヤテはいきなり翼に向かって拳を振り下ろした。
「なっ……。」
その場にいた全員が突然のハヤテの行動に息を呑む。
だが、ハヤテの拳は翼には当たらなかった、翼はハヤテの拳が振り下ろされる前に立ち上がった。
そして、彼の横をすり抜け、足払いをする。
「何……。」
ハヤテはあっという間に床に倒れ、それを見ていたものは全員自分の目を信じられなかった。
「これで終わりですか?」
「くそっ……。」
ハヤテは翼を睨みつけるが、翼は涼しげな顔でそれを受け止める。
「私はあんな男を父とは認めていません。」
翼の瞳に怨みや憎しみ、悲しみが満ちる。
「私はあの男を赦す事なんてしません、…絶対に…。」
ハヤテは呆然と翼を見た、そこにパンパンと手を叩く音がして、皆の注意はそっちにいった。
「そこまでにしましょう、話はこれからなのですからね。」
「出来れば手短に。」
翼はソファーに腰掛けなおし、手を膝上に置いた。
その時、ハヤテは偶然見てしまった、翼の手から血が出ている事に、そして、今も爪を立ててもう片方の手を傷つけている事に……。
「はい、分かりました。貴女のお父上はわたしたちの恩人でして、そして、いなくなる前に言い付かっていた事がありまして。」
「それはどういう内容ですか?」
翼は話をさっさと済ませたいと思い先を促した。
「自分の娘、つまり、貴女をわたしたちの『マスター』として、貴女をここに迎え入れ、守る事です。」
「……。」
翼は急に立ち上がり、微笑んだ。
「お話は以上ですね、私は帰らせて頂きます。」
「貴女は話を聞いてなかったのですか?」
コウは驚き、慌てて翼の手を掴む。
「聴いていました、ですが、守ってもらう必要はありません。」
翼はその場にいる全員を睨み付ける。
「それに、いきなり『マスター』なんてよく分からないものになれ、というご冗談を言われても困ります。」
「冗談ではありません、言い方が悪かったですね、貴方の父上の代わりに社長として務めを果たしてほしいのです。お分かり頂けますか?」
「……本気なのですか。私はまだ十七の小娘ですよ、無理です、他の方を当たって下さい。」
翼はコウの手を振り払い、扉の方に歩いていったが、コウの一言で足を止めざるを得なくなった。
「どこに行くのですか?貴女の帰る家はもうここしかないのに。」
「何を……。」
翼は思わず振り返り、そして、嫌な予感がした。
「貴女の家はもう売り払いました、それに貴女が働いているところも全て辞めさせて頂きましたよ。」
「なっ!」
翼は怒りで言葉を詰まらす。
「ふふふ、貴女はもうここにしか家はないのです。」
コウは笑っていたが、それ以外の者は全員翼に同情したり、やり方の汚さに腹を立てたりした。
一方、当事者である翼は肩を震わせ押し寄せる感情をすべて怒りに変える。
「卑怯者!」
翼は言葉と共に床を蹴り、一気にコウとの間合いを詰める。
翼は制服を着ている事を忘れ、本気でコウに回し蹴りを綺麗に決める。
「ごほっ、ごほっ……。」
コウは腹を押さえ、苦悶の表情を見せた。
「ふんっ。」
翼は腕を組み、鼻で笑う、その姿はさっきまでの凛とした少女とは別の少女の顔だった。
「言っとくけど、私はね、武術は一通り習っているの、だから、もし、次変な事をすれば、これくらいじゃ済まないし、容赦しないわよ!」
それはコウ一人ではなく、その場にいる全員に対する言葉だった。
「貴方たちが何を考えているかは知らないけど、私は大人しく言う事を聞くようなたまじゃありませんから。」
翼は不意に不敵に笑った。
「でも、まあ、いいわ、ここに住むぐらいはしてやるわ。でも、社長やら、『マスター』だかよく分からないものになるなんて真っ平よ。」
「……。」
男たち全員翼を見たまま固まっている。
「部屋はどこ?どうせ、勝手に私の荷物を持ってきて、勝手に、部屋に置いているのでしょ?」
「……さすがですね。」
「褒めていただきありがとうございます。」
まだ痛みが残っている所為か、微かに顔を顰めている、痛みが治まった後コウは翼に部屋を案内した。
その時、翼の心に渦巻く感情を察する者はこの場におらず、男たちは逃げるようにその場を立去った。
大切な母との思い出の家を勝手に売られた翼は強がることでしか己を保てないでいた。