2 「17歳になった日 その1」
朝、小鳥のチュンチュンというさえずりが外から聞こえてきて、俺は自分が目を覚ましたということに気付く。
しかし、普段俺を眠りから覚醒させるのは目覚まし時計のけたたましい騒音の筈。
不思議に思い時間を確認してみると、何とまだ6時半であった。
こんなに早く起きられるなんて珍しいこともあったものだな。
とにかく今日はドタバタせずに早めに学校に行くことができそうだ。
早々に支度を終え、余裕を持って家を出る。
「いってきまーす」
いってらっしゃい、と返す人のいない我が家へ向けて小さく呟いてから、俺は玄関のドアを開けた。
外はとてもいい天気である。まさしく春の陽気といった感じ。
眩しいとまではいかない程の日の光を浴びながら歩いていると、
「あっ……ひ、光さん」
隣の家の庭の綺麗な花畑の中からヒョイっと顔を出した女性に話しかけられた。
「ん? あ、アナさん」
「お、おはようございます……」
「おはようございます。今日も朝からお花の世話ですか?」
「は、はい……」
「毎日毎日ちゃんと世話して偉いですよね。俺が朝家出ると必ずそうやってそこで世話してますし」
「え、偉いだなんてそんな……ありがとうございます……」
うつむき顔で遠慮がちに話すこの女性は、隣人のアナさんだ。
白い髪に白い肌、まるで雪国に住む雪の妖精のような見た目のアナさんは、名前からしても日本の人ではないかもしれない。
「あれ、でも今日は俺いつもよりずっと早く家出たからまだアナさんは外にいないと思ったんだけど」
「あ……き、今日は……私……は、早起きしたので……」
「え、マジですか? 奇遇ですね。俺も今日は珍しく早起きしたんですよ」
「す……すごい……これは……運命……なんじゃ、ないですかね……」
「運命って……あはは。たまたまお互い早起きしただけで運命は大げさですよー」
「そ、そうですかね……あは」
なかなか面白い冗談を言う人だな。
しかし確かに俺とアナさんは、実はかなり縁がある。
元々初めての出会いは偶発的なもので、その時に色々お話はしたがそれっきりの関係の筈だった。
だがその後も何度か偶然顔を合わせてはお話する、という事態が続き、なんととうとうこの間。
たまたま空き家だった俺の家の隣に引っ越してきたのだった。
ここまで偶然が続くというのはある意味運命と呼べるかも知れないし、これが恋愛ゲームで俺が主人公ならば確実にフラグが立っているだろう。
しかし残念ながらこれは現実で、俺は主人公ではない。
「じゃあ俺そろそろ学校行きますね」
「い、行ってらっしゃい。光さん」
アナさんはわざわざ庭から体を乗り出して、手をふりふりさせて見送ってくれた。
俺なんかにそこまでしてくれて、いいお隣さんだなぁ。
家を出て数分歩くと、通学の際は毎回通り過ぎる公園の前にきた。
正式名称ではないと思うがアマゾン公園と呼ばれるここは、中央広場こそ綺麗に処理されているが公園の周りは伸び伸びと雑草が生い茂っており、まさしく密林のようになっている。
それでもここら一帯では一番の広さを誇っている為、近所の子ども達は皆こぞってここで遊ぶのだ。
しかし流石にこの時間帯に遊んでいる人はいないので、いつも通り朝の静かな公園を通過しようとした、その時。
公園の中から野球ボール程の大きさのボールが、俺の足元に転がってきた。
なんだろう、とそのボールを拾うと同時、ボールの飛んできた方向から騒がしい声が聞こえてきた。
「あははー! やべー! ボールとんでっちゃったー!」
見れば凄い勢いで小さな女の子がこちらに向かって走ってきていた。
正面衝突したら冗談で済まない怪我を負うんじゃないかと逃げ腰になったが、その子どもは俺の手前でしっかりブレーキをかけてくれた。
「ととと……あれ? おまえだれだー?」
「ん……? だ、誰って……神童光という者ですけど」
子ども相手にもしっかりフルネームで自己紹介をする俺。
「ふーん、そっかー! で、おまえなにしてんだー?」
名前聞いても結局お前って呼ぶんかい。
「何って……学校向かう途中だけど。君こそこんな朝っぱらから何してるの?」
「ワタシか? ワタシはなー、あっちのこうえんでボールつかってキャッチボールしようとしたんだけどなー。なんと、ひとりじゃキャッチボールできないってことにきづいたんだ! あたまいいだろ?」
「え……? あ、あぁ、うん」
「だからなー、どうしよっかなっておもって、とりあえずおもいきりボールをなげてみることにしたんだ!」
なんでだよ。
「そしたらこっちのほうにボールがとんでっちゃったから、さがしにきたんだー」
「ああ、そっかー。じゃあハイ、これ」
容姿はTVで活躍する人気子役にも劣らない可愛らしさだが、頭の方が少々残念そうに見える子どもに対し、俺は色々と言いたいことを我慢してボールを手渡した。
「おおー! そう、これ! このボール! ワタシもこれとおなじボールつかってあそんでたんだ! おまえももってたのか。すげーぐうぜんだな!」
「いやいや……あの……このボールが君のやつだから」
「え? なんでおまえワタシのボールもってるんだ? ぬ、ぬすんだのか?」
「なんでそうなるんだよ! たった今これが飛んできたから、たまたまここを歩いてた俺が拾ってあげただけだよ!」
我慢できずに思いきりつっこんでしまった。
「……そうか! いまワタシはすごいことにきがついたぞ!」
「ああもう、やっと分かってくれたの? ったく……」
「ここにふたりいるってことは、キャッチボールができるぞ! やったああああ!」
「ええええええ!」
何だこの子どもは。アホすぎるだろ!
誰がキャッチボールの相手なんかするものか。無視だ、無視。
ムシ……。
およそ30分後。
汗ばんだ首筋をタオルで拭いながら、すっかり時間的余裕を失い急ぎ足で学校へ向かっている俺がそこにいた。
ちくしょう。何故俺は結局あの子どもの相手をしてしまったのだろう。
しかもキャッチボールだけの約束だったのに、途中から鬼ごっことかくれんぼまでやらされたし。
あんなに嬉しそうにはしゃぐ子どもを見て、それでも「ノー!」と言える意思の強さは俺にはまだ備わってないようだ。
とはいえ、これ以上のタイムロスは出来ない。早く学校へ向かわないと……。
「あのー、すいませーん」
「……はい?」
まるで俺の焦った思考に反発するかのような間延びした声に呼び止められた。
「ちょっとお聞きしたいんですけどー」
このタイミングでか、と内心思ったが、スルーしていくことも出来ないので仕方なく話しかけてきた人に向き合う。
「えっとー、亜二丸大学ってどこにあるか分かりますかねー?」
そんな質問をしてきたのは、俺よりも少しだけ大人びた見た目の女性だった。
白黒フレームの眼鏡や、ぽわんとした笑顔など、一目見ただけでも特徴的な部分がいくつも見受けられたが、それらが霞む程の特徴を胸部に持っていた。
早い話が、ものすごい巨乳である。
「亜二丸大学ですか。ここからだとそう遠くはないですね。あっちに見える駅あるでしょ? あの駅の丁度向こう側にありますよ」
「あー、そうなんですかー」
「駅を目指していけばすぐ分かると思いますけど……一応そこまでの道順を細かく言いますね。まずそこの角を左に……」
俺は胸の方に目を向けないように注意しながら、女性に道を教えていく。
「わざわざご丁寧にありがとうございますー」
「いえいえ、それじゃ俺も学校があるのでこれで」
「はいー、お気をつけてー」
軽く会釈をしてからその場を去る。
なんだ、声をかけられた時は一瞬面倒なことになるんじゃないかと思ったが、意外とあっさり済んだな。
まぁ道を教えるだけなんだし問題なんかないよな。
そんなことを考えていると、我が高校の校門が見えてきた。
この分なら予定よりは遅れたけど、いつもよりは早く着くことができそうだ。
「あれー? おかしいなー。ここどこだろー」
……ん? んんん!?
「あー、また迷っちゃったよー」
何故だ。
何故あの巨乳のお姉さんがここにいる? 亜二丸大学に向かった筈じゃ? こっちは反対方向なんですけど!
「うーん……ん? あ、あなたはー」
げっ、見つかった。
「すごーい。また会いましたねえ」
いや……本当は会ったらおかしいんですが。
「あの……もしかしなくても、また迷っちゃったん……ですよね?」
「はい、そうなんですー、すみませーん」
あまり申し訳なくなさそうなテンションで答える巨乳のお姉さん。
「一応分かりやすく道順を教えたつもりだったんですけど……俺が教えたルート覚えてます?」
「え、えーっとぉ……まずは前進、でしたよね? スキップで、でしたっけ?」
いきなり違う! しかもスキップとか意味が分からない!
「んー、困ったなー。今日の一限の授業結構大事なのに……」
う……。
「でもそろそろ行ける気がする……よし、がんばろ! えっと、スキップしながら……」
「あ、あの」
「はい?」
「はぁー……えーと……もしよかったら、俺が一緒に大学までついて行きましょうか?」
ああ、言ってしまったな。俺よ。
「ええー? いやぁ、それは流石に悪いですよー」
「お気になさらず。こっちも乗りかかった船なんで……」
どう見ても大学にたどり着けなさそうな人を目の前にして、それを見殺しにするのはこっちの気分が悪いってだけです、はい。
もはや半分ヤケクソ気味になりながら、俺はお姉さんを大学まで案内した。
「はい、着きました。ここが亜二丸大学前です」
「わー、やったぁ! 本当何から何までありがとうございますー!」
「いえ……大丈夫ですよ」
「これだけしてもらって何もお返ししないのは悪いですから、何かご飯でもご馳走しますよー」
そう言うや否やフラフラと何処かへ行こうとするお姉さん。
「えーっと、確かこの辺に美味しい料理屋さんが……」
「あー、いいですいいです、そんなの! 俺も学校あるし!」
というか、また迷子になられては敵わない。
「それじゃ今度こそ俺行きますけど、もう迷ったりしないでくださいね」
「はいー、お気をつけてー」
さっきもそう言われたけど、お気をつけてほしいのはあなたの方なんですが。
不安が消えないまま大学をあとにした俺は、恐る恐るポケットからスマホを取り出した。
ただいまの時刻は……うん。
今日も遅刻けってーい。やったね。