宿屋の掟
ニコニコニコニコ。
伸びてきた腕の先をゆっくりと目で追ってみれば、そこにいるのはもちろん不気味なほど満面の笑みを浮かべたメルファ。
クライヴは一度向けた視線を再びゆっくりと戻すと、自分の手首にかかる手を空いている手で払いのける。そしてもう一度ドアノブを握る手に力を込めーーようとした。
ガシッ
「…………」
「クライヴ」
「…………」
「クライヴ、私さ、良い事思いついちゃっ、」
「やめろ。それ以上言うな」
ーーダメだ、言わせてはならない。
かすかに引きつった表情を浮かべるクライヴにはわかっていた。これからメルファが口に出すことが絶対にろくでもないことだということが。言わせたら終わり、この先絶対に後悔することになるだろうと彼の第六感が告げていた。しかしそんなことはメルファの知るところではない。彼女とて必死なのだ。ここで引くわけにはいかなかった。
「いいや、私が助かる唯一の方法だ!言わせてもらう!私はーー」
「やめろ。聞きたくないと言っているだろ」
「私は、」
「だからやめ、」
「クライヴの部屋に泊まることにした!」
「…………………………」
ピキッ
瞬間、そんな音が聞こえてきた気がした。
重すぎる沈黙と共にクライヴの体はピクリとも動かず硬直している。
しかし、どういうわけかメルファはその理由を気にするということを知らないらしい。
「おーい、クライヴ?聞こえてる?」
「…………」
「…なんとか言ってよ」
クライヴの顔の前で手をヒラヒラとさせてみるも依然として固まったままで動く気配はない。俯きがちの顔からはその表情を察することすらできず、メルファはため息をついて次の行動に移った。
「ったく。なに固まってんのか知らないけど、私は先に部屋に入らせてもらうぞー?」
そういって何故か当たり前のようにクライヴが掴んだままだったドアノブにメルファが手をかけた瞬間、やっと彼は覚醒した。
「待てこのド阿呆が!」
「ん?」
「ん?じゃねえよ!何当たり前の顔して部屋に入ろうとしてんだ!」
「なんでって、私もこの部屋に泊まるから」
それが何か?とでも言うような顔である。
額に手を当ててうなだれてみるも、あまりのことに思考が追いつかなかった。がしかし、その冗談とも思えないメルファの行動を放っておいては彼女の思う壺である。すぐに気を取り直してメルファをドアからひっぺがした。
「泊まるからじゃねえよ。誰がいつ了承したってんだ馬鹿」
「え、ダメなの」
「ったりまえだろが」
「なんで」
「さっきも言ったはずだろ。おまえと同室なんて真っ平ごめんだ!おまえだってそう言ってただろーが」
「まあそうなんだけども、状況が状況だからなあ…ってことで、ね?さっきはさっき、今は今だよ」
「変わったのはおまえの状況だけだ。俺を巻き込むな」
「まあまあまあ…」
「って普通に開けようとしてんじゃねーよドアノブ離せ!」
ベシッと頭をはたかれたメルファは涙目で隣を見上げた。
「いったー!!なにすんのっ」
「おまえが悪いんだろ」
「だーって仕方ないだろ!!いいから私をおとなしく泊めろっての!」
ガチャガチャガチャッ
ググググググググ…
なんとかドアノブを開こうとするメルファ。
その手を掴んで全力で阻止しようとするクライヴ。
どちらも今夜の安眠を得るため必死なのは違いなかった。
「…離れろっ」
「お断り!」
「てめー少しは人の迷惑ってもんを考えろ、んのバカ女…!」
「バカ女とはなんだ!考えてるから他の客じゃなくてクライヴのとこで寝ようとしてるんだろ!」
「どんな理屈だ!俺の迷惑を考えろ!」
ガチャガチャガチャッ
グググググッ…
「いーじゃん!私たちはこれから一緒に旅する、いわば運命共同体だぞ?」
「はあ?てめーと同じ運命なんて辿ってたら命がいくらあってもたりねーんだよ!」
「ッなんだとぉ!?」
お互いに譲歩する気が欠片もないためにこの不毛な攻防戦には一向に終わりが見えない。ドアノブを回そうとする手は、それを阻もうとするクライヴの力におされ気味だし、内心でメルファは少々焦りを覚えていた。
「……………こうなったら、もう仕方ないな…」
すーっと息を吸い込み、そして準備は整った。
「宿屋に止まっているみなさーーーん!!!今夜ここに泊まるこの男の本名はあ!!クライヴ=ディーガル=、ダーー」
「馬鹿か!」
べシンッ
言うなと言い聞かせたはずの自分の本名を高らかに叫ぼうとするメルファに、思わずクライヴはドアノブから手を放して彼女のの頭を思い切りはたいていた。そのとき待っていましたとばかりにメルファが目を光らせる。
「スキありッ」
ガチャっ
ーーかくして、クライヴは曰く、バカ女に部屋への侵入を許してしまったのだった。
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そして現在。
宿屋の一室では一組の男女がテーブルに向かい合って何事か言葉をかわしていた。ことさら男のほうはひどく険しい顔つきをしている。
いわずもがな、メルファとクライヴの2人だった。
「いいか、今から俺が言うことにお前が拒否する権利はない。わかったな」
「はいはーい。泊めてくれるんなら言うことの一つや二つ、ちゃーんと聞くって!」
結局クライヴは、あれからメルファが自分の部屋に寝泊まりすることを許可していた。というのも彼女が侵入した後もしばらくは攻防が続き、何度か部屋の外に放り出したのだが、いかんせんメルファは粘り強い。というか、しつこかった。もともと面倒なことは好まないクライヴだ。できればメルファを閉め出したいことに変わりはなかったが、あまりのしつこさに途中からどうでもよくなってしまったのである。
はぁ、と一つため息をついて正面を見る。
極力室内では気配を消せ。
睡眠妨害その他もろもろ邪魔だと感じたら一瞬で追い出す。
この部屋では俺が掟だ。
次々とクライヴが提示していく条件に、分かっているのかいないのかヘラヘラしながら適当に相槌を打つメルファを見ていて頭が痛くなった。
「いいか、お前にはこの部屋に入ることを許しただけだ。拡大解釈してくれるなよ」
最初はメルファを同行させる気など欠片もなかった。
食費を負担する気もなければ、ましてや自分の部屋で寝泊まりを許すなどなおさらのことである。今頃は自分一人で手がかりをもとに何の気苦労もなく道のりを進んでいた予定だったのだ。
それなのに。
ーーなんなんだ、この状況は。
自分のペースをここまで乱されたのは初めてのことだった。
それもこんな頭の軽そうなバカ女に、である。
「…下、降りて飯食うぞ」
もう後戻りなんてどうせできない。なるようになってしまえ。くしゃりと髪をかきあげたクライヴはすべてを諦めて立ち上がった。
「はぁーっ、やーっとご飯だ!クライヴ話長いんだもん~、待ちくだびれたよ!」
ガツンッ
前言撤回。多少面倒だろうとコイツには少々教育が必要らしい。とりあえずメルファの脳天に拳を直撃させたクライヴは颯爽と部屋を出た。
「っつ~~~!!」
さすがのメルファもこの時ばかりは自分の発言を後悔し、頭を押さえながらついていくのだった。
そしてその後、無事に食事を終えたメルファは部屋に戻り休む準備を整えたところでハタと気が付く。
(あれ…、私って、どこで寝ればいーの)
床に直接という手もあるが外套すらないメルファには少々酷である。彼女を空気のように扱うクライヴはすでにベッドを占領して剣の手入れをしているし、メルファに譲るという考え自体がそもそも彼の頭に存在しないらしい。
(いや、分かってたけど。分かってたけどね。譲るまでしなくてもせめて少しくらい気にかけるのが普通の人間って奴じゃないのかい)
ぷくっと頬を膨らませて、メルファは一歩踏み出した。
「クライヴ」
「………」
「知ってた?この部屋ってソファもなければ絨毯もない。つまり横になれるのってクライヴが今いるそのベッドだけなんだよね」
「………」
「私、寝られる場所がないんだけども」
「あっそ」
「それだけか!あんたには柔らかいベッドがあるんだからせめてその上掛けだけでも貸してやろうとかないのか!」
今はそう寒い時期でもないしクライヴには外套もあるのだから。そう思って淡い期待をかけてみたが答えは案の定だった。チラリと一瞬だけ顔を上げてメルファを見た後、彼はそのまま剣の手入れをしながらだるそうに答えた。
「知らねーよ、拡大解釈するなと言ったはずだろ。断る」
「普通ベッドが一つの部屋に男と女がいれば、女に譲ってくれるもんだって村のみんなからは教わったけどなあ」
ぶーぶーと文句を垂れ流せば、クライヴがおもむろに視線をメルファに向けた。
「おまえ、男の部屋に一人でずかずか乗り込んできて思うことはそれだけか?」
「まあ押し掛けて悪いとは思わないこともないけど?」
申し訳ない気持ちは確かにあるがそれよりも重要なのは目先の寝床の問題なのだ。
クライヴはと言えば、そんなふうに何も考えていませんみたいな顔をしてへらへらしている彼女を見て疲れたような顔をした。
「おまえ、そんなんでよく今まで無事に生きてこられたよな」
「よくわからないけどありがとう」
「褒めてねえんだよバカ」
こんな危機感の欠片もない女が3年も傭兵として王国中を駆けずり回れるとは、この国もずいぶん平和になったもんだ。頭の中の花畑を半分でいいから焼き尽くしてやりたくなった。
「いいからもう諦めろ」
最後にそれだけ付け加えてクライヴはもはや何を言うのも面倒になって再び視線を落とす。もうメルファの相手をする気がないという空気がだだ漏れだった。
「……あーっそ…」
望みが断ち切られたことをしっかりと悟ったメルファは不服そうに頬を膨らませた。しかしここで食い下がって追い出されてもたまらないので、あまり強く出ることもできず彼女はため息と共に肩を落とす。まあ野宿することに比べれば室内にいられるだけ天国である。前向きに考えよう。
上掛けはあきらめるけどせめてベッドに寄りかかるくらいは許してくれるはず。
そう思ってメルファが床に腰を下ろし、背中をベッドにあずけてもクライヴから反応はない。それを勝手に了承の合図と受け取って、背中が痛くならないようにベッドとの間に自分の荷物を挟み込み、メルファはそのまま目を閉じた。
自分が思っていたより疲れていたのか、そのままスッと意識が遠のいていく感覚がする。こんな固い床に座ってるのに私って結構タフだな…--。そんなどうでもいいことを考えながら、メルファはこの長い一日を終えた。
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深夜。
クライヴはふと感じた違和感に目を覚ました。そして瞬時にその原因を把握し、人知れず小さなため息をつく。
「ぅう〜ん………」
ズルズルズル
眠りにつく前にはしっかりとかけていたはずの上掛けがどんどん下へひっぱられて行く。
「…スー…スー…」
その方向から規則正しく聞こえてくる寝息。
「………」
見つめる先で布団にくるまり心地よさそうに眠る女。それを見つめる紫紺の瞳からはなんの感情も読み取れなかった。ぎしりと小さな音を立ててベッドを出ても彼女が起きる様子は微塵もない。その無防備な様子を上から見下ろし、クライヴはわずかな声で呟いた。
「………睡眠妨害は掟破りだ、バカ女。」
何されたっておまえに言い返す権利はない…ーー。
クライヴは凍えるような視線を湛えたまま、メルファの正面に回り込んでゆっくりと片膝をついた。
「ーー……。」
呼吸音だけがわずかに響く暗い室内、上下するその頬にするりと手が伸ばされた。